5-8.貧乏令息、婚約前契約書にサインする
5-8.
「断りません! 絶対で……っ!!」
バッと慌てて口元を隠すアレッサンドラが真っ赤になった。
――可愛い。
「それは良かった」
ラート公爵も、愛娘の回答に満足した様子で頷いた。
アレッサンドラがライハルトとの婚約に前向きなのだと今のひと幕だけでも伝わってきて、ライハルトは嬉しくなった。
「なにより、もう時間がない」
もう少し時間があったなら、ルチアーノとしてもエリハルトの説得に関してここまで強引な運び方をしなかっただろう。
場合によっては見合いの日を迎える前に、ブラン伯爵も含めて大人だけで顔合わせを行い、その席で合意書を書かせるくらいはした筈だ。
しかし今は悠長に手順を踏んでいる時間はないのだ。
「はい、そうですね。フリードリヒの誕生日まで二週間を切りましたから」
アレッサンドラも表情を引き締めて同意した。
「そうだな。ライハルト殿には負担を掛けてしまうことになるが、学園へは休みを取るよう申請して欲しい。お披露目で着る礼服も誂えなければならないし、お披露目の場に出る前に、公爵家と縁戚関係を結ぶにあたって知っていて欲しい知識を早急に詰め込んで貰わなければ」
ルチアーノの言葉に、時間が無いと聞かされてはいたものの、ライハルトは息を呑んだ。
「……お披露目まで、二週間、ですか」
確かに、弟君の誕生会までひと月もないとは言われていた。
エリハルトからの手紙を読んだのは昨日の夜のことだ。
そうして今日、突然の見合いの席に着き、二週間後にはお披露目されると言われて、そのスケジュールのタイトさに眩暈がしそうだった。
「すまない。この見合いを組むに当たって少々手間取ってね。時間が無くなってしまった」
ルチアーノが軽く謝罪を入れた。
それはそうだろう。
グリード伯爵家の男との婚約は最後の手段でしかなかった筈だ。条件に合わせて検討を重ねて他に相手が見つからなかったので仕方がなく、だろう。
勿論、それに異議も不満もない。これだけ条件の悪いグリード家との婚姻を渋るのは当然のことだ。
なにより、グリード家の内情を調べもせずに見合いを組むこともあり得ない。
先ほど突然開示された王宮から下された裁量についても、よく精査してからでなくてはいけないのだ。タイムリミットぎりぎりの瀬戸際まで時間を掛けて考えたに違いない。
そのまま、ライハルトは促されるまま公爵家の用意していた婚姻前契約書の内容を逐一細かく説明を受け、質問を繰り返した。途中で家族との顔合わせを兼ねた昼食会を挟み、ようやくお互いに納得のいく契約内容になった頃にはすでに空の色が変わり始めていた。
「どうする? このまま一旦持ち帰って、サインをしたものを明日届けて貰ってもいい」
ちゃんと納得してサインをして欲しいのだと公爵が促したが、ライハルトは目元を弛めて苦笑した。
「いいえ。元から私の中に拒否をするという選択肢はありませんから。それに、このお話を戴いたことを光栄に思う気持ちはあっても、忌避感は全く無いんです。できれば今すぐこの場で婚約誓約書にサインもしてしまいたいくらいです」
ゆるゆると首を振って伝えれば、「それは良かった」とラート公爵は家令に手を振って合図した。
「ではもし、その気持ちが変わらないという自信があるならば、ここにサインを」
差し出されたのは、先ほどの婚姻前契約書ともう一通、教会による正式な婚約誓約書だった。
婚約誓約書には、すでにラート公爵のサインが記入されていた。
震え出しそうになる手で、ライハルトは丁寧にサインを記入した。
勿論、父エリハルトのサインも一緒に書かせる。
そうして、ふたり分のサインを確認した後、その書類をアレッサンドラへと廻す。
ひとつ深呼吸をして姿勢を正したアレッサンドラが、綺麗な文字でサインを入れていくのを、ライハルトは夢見心地で見つめていた。
「では、このまま教会へ届けさせよう。いいね?」
ライハルトはしっかりと力強く、アレッサンドラは夢見る様にふわふわとした表情で、二人そろって頷く。
その二人の表情を確認したラート公爵は、嬉しそうに声を弾ませて、「これを今すぐ教会へ」と指示を出した。
「それと。この婚約については二週間後のお披露目まで秘密にしておいて欲しい。元婚約者の家に報告に行く前に世間に広まっては信義にもとるからね。エリハルト・グリード伯爵代行も、よろしいですね?」
その言葉を最後に、今日はお開きとなった。