3-10.金持ち令嬢は呼び止められる
※ ちょっと時間が飛びます。約半年後、もうすぐ一年生も終わりです ※
3-10.
「ごきげんよう、ラート公爵令嬢」
「ごきげんよう、ボン伯爵令嬢」
突然、顔と名前は一致するもののただ同じ学園に在籍しているという以上の関係を持ったことのない上級生から話し掛けられて、アレッサンドラは少々の驚きをもって礼を返した。
話したことはないとはいえ、さすがにもう一年近く同じ学園内で過ごしているのだ。学年が違えども顔と名前が一致するくらいはできるつもりだが、咄嗟に思い出せて良かったとアレッサンドラはホッとした。名前を呼んで話し掛けてきた相手の名前を間違えては公爵家の人間としては不勉強を疑われる。笑顔で受け答えをしていたが、内心では胸を撫で下ろしていた。
問題はこの先だ。わざわざこれまで話をしたこともない上級生が、卒業式の前日というある意味特別な日に呼び掛けてくるその意味はどういうものだろうか。
名前つきで呼び止め話し掛けられたからには、ボン伯爵令嬢にはアレッサンドラに何か伝えたいことがあるに違いない。アレッサンドラ個人か、ラート公爵家に対することか。――それとも?
そこに興味を持ったからこそ公爵家の馬車を待たせることを決め足を止めたアレッサンドラだったが、肝心の上級生はなかなか話し出そうとしなかった。
跡取りではなくなっても、アレッサンドラがラート公爵家の一女であることには代わりがない。
学園内では自由にさせて貰っているが、放課後に何をするのか何時には家に帰っているのかなど幾つか決め事があり、それを勝手に変更することは許されていない。
もしもがあってはならないのである。
彼女の居場所は常に安全がしっかりと確保された場所でなくてはならない。ここで無為に時間を過ごしてしまい、護衛が学園内に探しに来る前に馬車まで移動しなくてはならない。
しかし、思いつめた硬い表情をした上級生は、アレッサンドラを呼び止めた今になっても覚悟が決まっていないのか、本題どころか会話の糸口すら見つけられない様子でいる。
くるくると愛らしいカールを描く赤毛は、アレッサンドラの記憶にあるよりどこか艶がなく、そばかすが浮かぶ顔も白というよりどこかげっそりしていてまるで土気色だ。
ドレスの裾にはちょうど手で掴み易い位置に大きな皺が何本も入り手汗が染みたのか、その辺りだけ少し色が変わっていた。きっと今もしているように、今日は何度もそうして手で握りしめては揉みしだいていたに違いない。
アレッサンドラの記憶の中のニーナ・ボン伯爵令嬢と違って、ありとあらゆる箇所の身嗜みが整えられていないようだ。
そういえば夏休み明けてしばらくの間、停学処分を受けていた筈だ。
問題ある生徒。ならばそのつもりで相対しなければ、どのような危害を加えられるかわかったものではない。
勿論アレッサンドラは知らない事だが、ニーナが処分を受けた理由はグリード家への名誉棄損の一件だった。
その毀損内容が悪辣すぎると判断されたことにより、ボン伯爵家へも謹慎処分が下されていた。あまりに不名誉な処罰に、ニーナは謹慎処分を受けていた間、ずっと修道院に行かされて修道女見習いをさせられていた。
井戸の水汲みや雑巾を洗う仕事をさせられながら、ニーナは反省しなかった。いや、反省した。何故もっと上手に奴を追い詰められなかったのかと散々考えた。
そうして出した結論は、ライハルト・グリードの願いを後ろから壊して回る事だった。
だから、今、ニーナ・ボンはこうしてアレッサンドラ・ラート公爵令嬢を呼び止めている。
けれど、これがバレた時の恐ろしさに舌が縺れるのだ。
『次になにか問題を起こしたら、卒業後のお前の嫁ぎ先は神の下だ』と父からは言われている。ニーナは、一生を修道女として過ごすのは嫌だった。
けれどニーナには、この胸を焦がす復讐心を他にどうやって鎮めたらいいのかもわからないのだ。
思いつめた表情で何度も手を握っては緩めるのを繰り返している上級生を前に、アレッサンドラは思案した。
何か悩みがあるの様子なのは見て取れるが、かといって交流の全くないアレッサンドラに相談されても困る。学園の生徒同士で協力しあえる事はするつもりでいるが個人的な事案について安請け合いをするつもりはなかった。
総合的にかなりくすんで見える様子の相手を観察しながら相手が話し出すのを待っていたアレッサンドラだったが、あまりにも時間が掛かり過ぎていい加減に焦れてきていた。
待っているのは自分一人だけではない。アレッサンドラを迎えに学園へ来ている侍女や御者や護衛、沢山の人を待たせているのだ。
「申し訳ありません、ボン伯爵令嬢。帰りの馬車を待たせておりますので、御用が無いようでしたら失礼します」
これで話が始まらないなら、また今度、覚悟が決まってからにして貰おうと最後通牒を突きつければ、ようやく決意が固まったのか、その閉じ続けていた重い唇を開いた。