3-3.その人の名は
3-3.
ほう。
壇上に上がった高貴な姫君に、周囲から感嘆のため息が漏れる。
美しい所作で動く手足はほっそりと長く、白皙の顔は周囲より確実に小さかった。 艶やかな黒髪。抜ける様に白い肌。
繁った森の緑を映し込んだ湖のような深みのある緑の瞳には高い知性が宿り、柔らかな椿の花弁のような唇が紡ぐ言葉は、まるで宝石が触れ合って奏でるような玲瓏の響きをもって会場にいる全ての人の耳へと届く。
ほっそりとした肢体。背筋がまっすぐに伸ばされているせいだろうか。全体的に、令嬢らしい柔らかさではなくもっと硬質でシャープな印象を与える。
周囲に立つ誰よりも、彼女のその色彩は、はっきりと濃い。
ひと目を惹かずにはいられない、特別なオーラというものを感じさせた。
この国でもっとも上位となる公爵家を継ぐ者とは、これほどまでに特別な存在であるのかと、誰もが見惚れ、聞き惚れ、魂の底から心を揺さぶられる思いがしていた。
「あ、れ…っ、アレ、あれっさ」
横に座るベントの指が、カタカタと震えて目の前を指さそうとしているのを、ライハルトは止めた。
「静かにしろ。入学式の最中だぞ」
耳元でさりげなく囁くと、ベントがあまり大きくないその瞳を目いっぱい見開き、顔中を驚愕の色で染めあげたまま、声のトーンを下げてライハルトに問い掛けた。
「なぁ、あれ……アレ」
「あぁ、アレッサンドラ様だ。お前が昨夜、あれほど会ってみたいと話していた、夢のおひめさまだ」
ライハルトも、声が震えないように努める。
繕った表情を取る事に慣れたつもりのライハルトだったが、今は懸命に努力しなければ、自分こそがこの場から駆け出し叫びたい気分だった。
――アレッサンドロ!
彼が剣を三度取り落としたのは、ライハルトが訓練所を休むことになった年の事。
つまりは祖父が亡くなった5年前だ。
5年前にはすでにアレッサンドラに弟フリードリヒが生まれていた筈だ。
長らく一人娘しかいなかったラート公爵家は男子に恵まれてた。男子が生まれたならば、その子が嫡男として家を継ぐ。それがこの国の法律だ。
いまだ正式に発表されてはいないものの、多分きっと、あの時、アレッサンドラは跡継ぎとしての役目から、解放される未来を提示されたのだろう。
だから、彼は剣を取り落としたのだ。
少年相手に組打ちするには力が足りなかったというだけではない。
心と頭が、身体について行けなかったのだろう。
――人生の目標を取り上げられて。
ぐっ。
横に座る、ベントの拳が膝の上で握りしめられていた。
唇も食い縛っている。多分、ライハルトと同じ推測に至ったのだ。
「想像よりずっと綺麗な人だったな、憧れのお姫様は」
「……あぁ。ものすごい、美人だ。ペンより重い物なんか、持ったことはないんじゃないか」
「馬鹿。それじゃ銀のナイフとフォークも使えないじゃないか」
「くくく。メシも喰えなくなっちゃうな」
「おひめさまは、メシは喰わないだろ。ひと口で食えちゃうようなちっこいケーキとかさ」
「おひめさまはトイレにもいかないからな」
「……だな」
く。くく。くくく、くくくくく。
ふたつの並んだ肩が、小刻みに震える。
ライハルト達の座る場所からは見えないが、きっとスイの肩も揺れているに違いない。いや、笑いではなく動揺からかもしれないが。
寮に戻ったら……いや、昼休憩になったら会いに行こう。
もしかしたら、あっちから会いに来るかもしれないが。
でもきっと。言葉なんか必要ない。
目を見て、仲間の無事を、喜び合いたいだけなんだから。