2-5.ブル侯爵のため息
ライハルト16歳・春
2-5.
「ようやくこの日を迎えられて、本当にほっとしているよ」
「侯爵には大変お世話になりました。感謝しています」
「本当だよ。君にはかなり苦労させられた。あぁ、礼なら出世払いでいい」
ライハルトがブル侯爵家へ働きに出て、4年の月日が経っていた。
昨年15歳になった時にはこっそり王都へ出てデビュタントも済ませている。本来ならそのままグリード家へ帰す筈だったが、ライハルトが学園入学ぎりぎりまで働くことを強く希望したので、ブル侯爵が折れた。
ニーナ・ボン伯爵令嬢の一件は、ほんの皮切りでしかなかった。
ブル侯爵家に訪れた一行で、ライハルトに目を向けなかった者は誰もいなかったというのも大きい。
幼い身体に美しい顔、大人びた表情と礼節を持った態度。そこに時折混じる憂いを帯びた表情。それ等を兼ね揃えたライハルトは老若男女、あらゆる人間を惹きつけた。
勿論、ただ鑑賞用として愛でるだけの者や幼くして働きに出ることになった境遇に心を寄せ労いの言葉を告げるだけの者、一歩進んで老婆心からなのか跡取りのない家への養子の口利きをほのめかすような者がほとんどだ。
だが、酔いに任せてたかが使用人とばかりに物置の陰に連れ込もうとする不埒な慮外者まで出る始末で、ブル侯爵は頭の痛い思いを何度もすることになった。
仕事の打ち合わせや食事会などその理由も目的も様々だったが、招かれた侯爵家で不埒な真似をする者が出るなどとは思わなかったし、なにより普段の様子は品行方正の者ばかりだったというのに。
一体ライハルトの何がそんなに惹きつけるのかと考えたこともあったが、分からない者にはまったく分からない、それが性癖というものなのだろう。
これで家に帰して、借金まみれで頭の緩い実親の庇護下におかれたならば、金額を積み上げられでもしたなら、あっさりと金銭に変えられてしまうのではないか。そう思うと引き受けるしか選択肢はなかった。
ブル侯爵は安易にブラン伯爵からの頼みを聞き入れた過去の自分を恨んだ。
だがあの時はまさかと笑い飛ばしはしたが、あの息子の給金すら実家へ送れと手紙を書いてくる恥知らずで強欲な両親の手元においておいたなら、あの少年が売り飛ばされてしまっていただろうこともあり得そうだと理解できるようになってしまった。
多分、大して悩みもしないで了承しそうだと苦い想像が頭を過る。
「簡単に頷きそうな金貨を積み上げられそうだということもな」
実際に、そう告げてくる人間がいたのだ。疑いが入る隙間もない。
しかもそんな不埒者を避ける為であろうとも、ライハルトが伯爵家の嫡男だと公表する訳にもいかなかったのだから苦労した。
「絶対に、ライハルトから目を離すな」当主の言葉に使用人たちは引き攣った顔で頷いたのだった。
「はい。必ず大願を成就して、恩を返せる人間になります」
姿勢を正して腰まで深く折って、ライハルトは恩人に向けて頭を下げた。
「冗談だ。礼ならブランからもう貰ってる。君はブランにだけ返せばいい。それと、その礼は使用人としてのものだ。もう君はブル侯爵家で預かった行儀見習いの使用人ではない。以降は誰に対しても、きちんと貴族としての礼を取るのだぞ」
恩人は笑って手を振り、そのライハルトの誓いを一蹴した。
来週にはファーン王国の貴族の子弟がデビュタントの翌年から二年間通うことになっているラキサ学園へライハルトも入学することになっている。
このラキサ学園を卒業しなければ、王宮や騎士団で働くこともできなくなる。そんなことにでもなったら、ライハルトの人生設計はすべてが台無しだ。計画を一からやり直すことになる。それだけではない。取り返しがつかない事態となることは間違いなかった。
だから、この生活も、もう終わりなのだ。
このブル侯爵家の使用人寮での生活は、ライハルトにとって祖父が生きていた頃と同じ位、幸せで充実したものであった。
信頼できる大人に囲まれる安心感。教えを請えば誰もが丁寧に教えてくれる。決して邪険にされないし、ライハルトを蔑み睨みつける者は、この家にはいない。
たとえ外部から入ってきた者が腐臭漂う汚泥じみた視線をライハルトにぶつけようとも、助けを求めれば、すぐにその手は差し出される。
ブラン伯爵の厚意により差し出されたものではあったけれど、ライハルトの中に人の善意というものを信じる気持ちを育ててくれたのは、間違いなくこのブル侯爵家の人々だ。
けれどそんな優しい時間はもう終わりなのだ。
寮に入る前に、祖父と祖母の墓参りに行こうとそのまま王都へは行かず、グリード伯爵領へ戻る。
グリード伯爵領へ足を踏み入れるのは奉公に出て以来、初めての事だった。
グリード伯爵家を継ぐ者として、デビュタントだけはきちんと済ませなければと、領地が隣で母同士が仲が良かった関係で、ハーバル子爵家の同じ歳の二女と王都で待ち合わせて一緒に夜会へ出向き、国王陛下への挨拶を済ませた。その際に父と母とも顔は合わせた。
けれど、どちらともそれきりだ。
手紙のやり取りもしなかった。あちらからはライハルトの給金を当てにしている様子の母からの手紙が舞い込むことはあったが、「一度渡したら最後、一生強請られ続けることになる」と使用人頭から言われて「自分の生活費と、借金の返済に全額使っているので自分の小遣いもない」と無心の便りが届く度に正直に書いて送れば、その内手紙代も惜しくなったのかそれもまったく来なくなった。
長い休みも短い休みも、ライハルトはブル侯爵から使用を許された図書室へ籠って勉強するか、ブル侯爵家が有する私兵団の訓練に混ぜて貰い剣を振って過ごしていた。