1-10.ブラン伯爵
1-10.
王宮から戻ってきたエリハルトは、すっかりやせ細り白髪が増えて見えた。
連行されていった時と同じ、ブラン伯爵が連れて帰ってきてくれた。
本来なら騎士団を引退した筈の元騎士団長が出てくる場面ではないが、亡くなった祖父ロイハルトと親友だったということもあり、話を通しやすいだろうと手を挙げてくれたらしい。
そうしてブラン伯爵は、父と、祖母と母だけを応接室へと連れて行き、長々と話をしていた。
見送る際、玄関先で端の方に並んでいたライハルトは、どうしても伯爵にむけて顔を上げることができずに、自分の靴の爪先をずっと見ていた。
それでも、どうしても耳に入ってくる父の謝罪を繰り返す声やペコペコと忙しなく何度も頭を下げているような衣擦れの音が辛くて、目を閉じた。
本当は、耳を塞いで部屋に逃げ込みたかった。
けれど次代のグリード伯爵として此処まで育てられてきたのだ。
不甲斐ない真似をするわけにはいかなかった。
とはいっても、ライハルトが継ぐ日まで、グリード伯爵家が存在しているかどうか──。
恐ろしすぎる考えが頭に浮かび、スーっと血が下がって身体が冷えていく。気が遠くなりかけたライハルトだったが、ここで倒れたら伯爵にも失礼だし父母へ迷惑を掛けると堪えた。
その、容赦なく昏くなっていく視線の先にある、ライハルトの靴先に、もっとずっと黒い影が映り込んだ。
「ライハルト」
その声から、自分の名前を呼ばれて身体が怯んだ。みっともなくビクッと飛び跳ねてしまった身体が、ライハルトは悔しくて恥ずかしかった。
顔を上げるどころか返事をすることすらできずに、そのまま自分の視界の中央を占める爪先のすぐ近くに、ゴツい軍用ブーツが近づいてくるのをただ見つめていた。
「もうひと月も訓練所をサボっているな。休んだ日数分、外周を走らせるからな。早く出てこないと一日中走っても終わらない回数を走ることになるぞ?」
そう言って、ぽん、と大きな手が、ライハルトの頭の上に置かれた。
大きなその手はとても温かくて。
そこからじわじわと広がっていく熱が、ライハルトの身体と、心を温めていく。
緊張が解けたのか、涙が出てきて視界が歪んでみえた。
「……もう、訓練所には」
いけません、そう続けようとしたライハルトの言葉を遮って騎士は少しだけ声を張り上げた。
「待っている。あんまり休んで弱くなってたら外周回数を増やすぞ?」
ぐりぐりっとそのまま大きな手で髪を掻き混ぜる様に乱暴に撫でられて、思わず視線が上がる。
目線が合うと、ブラン伯爵はニカッと笑った。
ちょっとわざとらしいほど明るい笑顔だった。
「大丈夫だ。仲間たちも待っている。通う方法も心配しなくていい」
「……」
まさかというような訓練所の師匠としての言葉に、ライハルトは胸が詰まるような気がした。
目の奥も、胸の奥も、咽喉も熱くなって、そこら中に何かが詰まっているようで、言葉にならない。ただ、視界を晴らそうと何度も手で涙をぬぐうけれど、あとからあとから涙がこみあげてきてブラン伯爵の顔は見えないままだ。
「伯爵、そろそろ時間が」
呼びに来た騎士へ顔を向けて「わかった」と返事をした後、「待ってる。訓練所の奴等もな」そう片手を上げて去っていった。