ミエルケシキ
真っ暗な部屋。扉を開ければ冷たい空気が流れてくる。独りを経験した者だったら、気温どうこうの話じゃないのは分かってくれることだろう。
こればかりは慣れることのない感覚。以前の賑やかな空間を知っているシフィにとって、より大きな喪失感を味わうことになる。
無意識の中でシフィの精神を削っているのは間違いなかった。
勿論、本人としては乗り越えたこと。気にもしていないことだと思っている。誰かにそれを指摘されたとしても、それを認められないくらいには。
「ただいま」
明かりを点けることもなく、ぽつと言葉を落とすだけ。そのまま、お風呂場へと直行するシフィ。
ズボンから脱いでいくのが、彼女のルーチン。洗濯をするからと無造作に脱ぎ散らかしていく。のちに気分を害するのは自分なのだが、そんなことはお構いなし。
昔はそれを直してくれて人もいたのだが。もしかしたら彼女は帰ってくるのを待っているのかもしれない。こうしていたら、また戻ってきてくれるかもしれない、と。
一度明かりを点け浴槽に湯を張るのだが、無駄に発達した技術がそれを容易にこなしていく。
十分な量が溜まるまでは、シャワーで身体を洗う。頭から始まり、顔、首、手、胸、お腹、背中、お尻、股、最後に足。長年繰り返してきた流れだ。
変わることのない、これからも変わることのないだろう洗い方だ。
一度明かりを消し、湯船へと入るシフィ。
「……あっつ」
父が好きだった熱めの湯船。あの頃の設定が、変わることなく残っている。もっとぬるくして欲しいと思っていたはずなのに、変えることのできない過去の名残りに縛られる。
大きく吐き出された息は緊張が解けた証拠。だがそれは、くつろいでいるのか。それとも、ただの大きなため息なのか。
小さく流れるものを隠すかのように、湯を手で掬って顔へとぶちまける。
目を閉じていれば、あの頃の光景が瞼の裏に張り付いてしまう。
目を開けていれば、真っ暗な景色が見えるだけ。
だからこそ明かりを消し、何も見えない状況を自ら作り出す。数少ない、お風呂に入る時に変化したことだった。
「……きったな」
タオルで身体を拭いた後、足元を見た時の言葉。散らかる自分の衣服をみて、そう声を漏らす。自分自身が綺麗になったあとだからこそ、余計に汚い物に見えてしまう不思議。
それらを踏みつけないようにして、その場を離れるシフィであった。
足元の見えない中、自身の部屋へと向かう。窓から月の明かりが入り込んでいるのが、実に幻想的である。
横目でその景色を確認するだけで、すぐに逃げるように背を向ける。直視できないほどに綺麗で、そして心に刺さるから。仮初の精神では、あまりにも耐えられない現実をそのままに伝えてくるから。
カーテンを閉め切ったままの自室。器用にもそのまま窓を開け、空気の循環を促す。
シフィはベットがあるはずの場所へと身体を落とす。少し前から匂いが気になってきたものの、洗濯をするタイミングを作ろうとはしない。
また今度でいいや、一度でもそう思ってしまったら二度とやらない。それくらいには、面倒くさがりであるのだ。この先も匂いが強くなる一方だろう。
虫の鳴く声が妙に気になる。
会話も無い。生活の音も無い。だからこそ、なにかしらの音を求めてしまっているのかもしれない。
一日が終わる。そして一日が始まる。
永遠に続く繰り返し。無限ループ。エラーでも起きない限り、抜けることはできない。
だが、エラーが入り込む余地などない。もしもあったのならば、世界など秒で崩壊しているはずだから。
あまりにも正しく作られた世界。あまりにも間違いだらけの世界。
「ほんと嫌になる」
シフィは逃げるように眠る。明日に希望なんて無いと分かってはいても、進まずにはいられない。
それ以外の選択肢を掴むには、それを邪魔するものが多すぎるから。
酔っぱらいの熱唱を子守歌にシフィは眠る。
「ほんと、嫌になる」