59. 死闘 6
アービド二世の皮膚にこびりついた血を見ると、かなりの出血だったのが分かる。それなのに動きが鈍くなったようには見えなかった。
ピュークはその突撃をすんでのところで横に跳んでかわした。
「ガァァ!」
ピュークを通り過ぎたアービド二世は、ほぼ直角に曲がって追いすがってくる。その速度と機動力は危険だった。
接近戦を避けるため、ピュークは風魔法で空に逃げようとした。だが、アービド二世がさらに加速したことで、飛行体勢に入る前にしがみつかれてしまった。
「くっ!」
「ガルルルル!」
捕まった瞬間、アービド二世はその鋭い牙でピュークの肩口にかみついてくる。
ピュークの方も、やられっぱなしではいられない。懐から出したオリハルコンのダガーを、アービド二世の脇腹に突き刺した。それでもアービド二世はかみついた右肩を放そうとはしなかった。
「このっ!」
ピュークはダガーをえぐるように深く突き入れたが、そのお返しをするように、アービド二世の牙もさらに深くくいこんできた。お互いの命を削り合う攻防である。
しかし、ピュークは刺したダガーが押し返されそうになったことで、これはアービド二世に有利な形だと悟った。
初めはそれがなぜなのか分からなかった。骨にでも当たったのかと思ったのだが、アービド二世の脇腹にできた傷口を上から見下ろしたときに、その理由が分かった。傷が自動的に治っていたのだ。
――なんという回復力だ! 攻撃がこれほど効くということは、まだ魔王には成りきってはいないのだろう。しかし、この早さで傷が治ってしまうと今の私に倒しきれるかどうか……。
ピュークには、ダガーの剣身に刻まれた術式を再起動させるだけの魔力は残っていなかった。効果が大きいかわりに、大量の魔力が必要になる魔法だった。それに相手の魔力回路を破壊したとしても、超回復で治ってしまうのではあまり意味がない。
ピュークは、魔力感応力の高いオリハルコンの性質を違う形に使おうと考えた。
「ファイヤーボール」
ピュークが発動させたのは初級火魔法だった。パンッというはじける音が、アービド二世の体内から聞こえた。
「ファイヤーボール、ファイヤーボール、ファイヤーボール!」
ピュークは間髪いれずに無詠唱で連発する。
「グギャアァァァ!」
アービド二世が叫び声をあげた。それもそのはず、ピュークの放ったファイヤーボールはダガーの剣先から飛び出し、体の中を激しく焼いたのだ。オリハルコンは魔力をよく通す。普通の短剣だったら、こうも自在に魔法を放つことはできなかっただろう。
この攻撃がかなりきいたようで、アービド二世はかみついていた肩口からのけぞるように顔を離した。
「ストーンランス!」
初級魔法を放つ程度の魔力ならばまだ余裕がある。次にピュークが選んだのは土魔法だった。
アービド二世の体から幾本ものとがった土槍が飛び出して体を貫いた。
「グギャア!」
アービド二世は地面を転がって苦しんでいる。超回復は間に合っていないように見えた。
その隙にピュークは一旦距離を取ろうとする。空中ならば追ってこられないだろうと、飛行魔法の準備に入った。
そのときだった。アービド二世の目がカッと見開かれ、三つの目がピュークを見据えたのだ。
――なんだ?
なにがくるか分からず、ピュークは身構えて防御の姿勢をとった。
その間に、アービド二世の口の中に魔力がどんどんたまっていった。
「まさかっ!?」
「ガァァァァ!」
それは上位龍が得意とする咆哮に似ていた。いわゆるドラゴンブレスである。アービド二世の口内に集められ圧縮された魔力は、無属性のまま勢いよく放たれた。
この攻撃をそのまま受けたら致命傷になる、ピュークはそう直感した。だが、攻撃をかわすにはあまりに距離が近い。死を間近に感じたとき、ピュークの時間が突然ゆっくりになった。
――走馬灯、というものですか……。
目に見えるものの動きが遅くなっていき、その反対に、思考は過去から現在を一瞬で駆け抜けるほど速くなる。
奴隷の子だからと、蔑まれ続けた村での辛い日々があった。そこから母親と共に逃げ出して、やっと穏やかな生活が送れるようになった漁村。母が亡くなった後は、一匹狼を気どって大陸を旅した放浪時代もあった。
どういうわけか、カーマイン王国に流れ着き、王族や貴族とのつながりができて、魔道士として働き始めた。そして、いつのまにやら後輩や部下が多くなり、王国魔法士団の団長などという肩書がついてしまった。そうした記憶が泡のように次々に浮かんでは消えていった。
人の一生とは分からないものだ、とピュークは思った。
他人を信じられず、流れ者に過ぎなかった自分が、今や王国を守るために命を掛けて居るのだから。一人旅をしていたころ、もし同じ状況におちいったとしても、命をかけてまで魔王と戦おうとはしなかっただろう。
――ああ……この国で私は、いろいろな人たちと結びつきができたのですね。だから……。
見捨てて逃げ出すには、大事なものがあまりにも多くなってしまった。
この戦争では、魔法士団の部下で深い信頼を寄せていたグラシオラが命を落としている。ピュークにとっては予期せぬ悲しい別れであり、痛恨の出来事だった。そのような思いをもうしたくなかったから、アービド二世の足止めを一人で引き受けたのではなかったか。
――まだ、です……まだ私は死ねません!
それまでぼんやりしていた目の焦点が合ってくる。それと同時に、半ば受け入れていた死を拒絶する気持ちが出てきた。せめて王国軍が退却するまで、この魔王モドキを足止めしておくのが、自分の責任であり役割だったはずだ。
勇者パーティーが魔王に挑むとしても、なんの事前準備もなしに戦って、はたして勝つことができるだろうか。
アービド二世から変化したこの生物――魔王に成りきれていない中途半端な存在――は、動きも雑だし、攻撃も防御も魔力頼みのゴリ押しである。しかし、時折見せる反撃には目を見張るものがあった。そのちぐはぐな感じは、今現在、戦い方を覚えている真っ最中であるように思われる。
もしも勇者たちが、こんな強いのか弱いのか分からない相手に翻弄され、敗北してしまったら……。そのときは世界に暗黒の時代が到来してしまうだろう。
――ここで死ぬわけにはいかない!
その強い思いによって、ピュークはほとんど無意識に体をひねっていた。
止まっていた時間が元にもどり始める。音や色彩がよみがえった瞬間、アービド二世の口から放たれた咆哮がピュークの体を後方へ吹き飛ばした。
まるで突風に舞う枯葉のように、ピュークは数メートルの距離を軽々と飛ばされ、土煙をあげながら地面に落下した。それでも勢いは止まらずにごろごろと転がり、木の根元に体を打ちつけてやっと止まることができた。
「グワァァァオォォォ!」
アービド二世は勝利を確信したように空を見上げて雄叫びをあげる。
「勝利の、雄叫びは、まだ早いです、よ……」
ピュークは上半身だけ起こして木の根元に座り込んだ。それ以上は体が動かなかった。上から下まで土まみれでひどい有り様である。そして右腕は無惨にもちぎれて失われていた。だが、それでも自分にはまだやれることがある、とアービド二世をじっと見つめていた。




