閑話 孤軍奮闘 4
「このクソガキ!」
屋根の上にいる男はコハクをにらんで吐き捨てるように言ったが、その手は縄を握ったままだ。
コハクはそんな悪口気にもしない。腰の剣を抜くと、迷いも見せずに跳び上がり縄を断ち切った。
「うわぁぁぁ!」
壁の向こう側から叫び声が聞こえ、ドスンと地面に落ちた音がした。このくらいの高さなら落ちても死にはしないだろう。
コハクは残った男に向き直る。
先ほどまで背負われていたマリカは屋根の上に立ち、コハクを驚いた顔で見つめていた。
「その装備は冒険者か!? 邪魔しやがって! 覚悟しやがれ!」
男は不要になった縄の切れ端を投げ捨てると、懐からダガーを取り出して構えた。
今にも屋根の上で戦闘が始まりそうな雰囲気だが、コハクの考えていた次の手は攻撃ではない。
「誰かぁー、誰か、来てぇー! 捕虜が逃げようとしているよぉー!」
コハクは大声で助けを呼び始めた。敵の一番嫌がることはこれだ、と思ったのだ。
「だ、黙れ、このガキ!」
男は慌てて前に出てきた。
それはコハクの読みどおりの動きだった。
コハクはするりと男の攻撃をかわすと、無防備な横腹を蹴り飛ばした。男は二、三度、態勢を立て直そうとしたが、屋根の傾斜にあらがうことができず、叫び声をあげながら下へと落ちていった。
屋根の上でそんな騒動を起こしていれば、近くの家に住む者たちもさすがに気がつく。コハクにとって幸運なことに、数軒の家から住人が外へ出てきた。
「そこに倒れているのは帝国の工作員よ! 捕虜を逃がすつもりなの! 誰か、騎士団のテントまで伝えに行って!」
何人かの村人が「俺が伝えてくる!」と叫んで駆け出していった。
屋根の下に落ちた男はよろよろと立ち上がったが、今から村人を追いかけても間に合いそうにない。コハクはそれを見届けた後、屋根の上で立ち尽くしているマリカへと向き直った。
「もう逃げられないよ」
「……賢い子ね。でも、そういうわけにはいかないのよ」
それは捕縛されることを拒絶する言葉だった。
だが、この状況から逃げおおせる手段があるとは思えない。
コハクは片手に剣を持ちながら、慎重な足取りでマリカに近づいていった。
彼女を斬るつもりはない。応援の騎士か兵士がここに来るまで、なにもできないように彼女の体を押さえつけておくつもりだった。
「恨んでくれていいわ……」
つぶやくようにそう言ったマリカの表情が険しいものに変わった。そして、彼女は手枷をはめられている手を器用に使い、懐から板切れを一枚取り出した。
それがなんであるのか、コハクは一瞬考えてしまい、動きが止まった。
「キキッ!」
「痛っ!?」
いつのまにか屋根の上にいたカーブが、マリカの手に噛みついていた。
「カーブ!」
マリカの手から板切れが落ちる。その直後、マリカは壁がある方へ飛び込んで伏せた。
その場所からできるだけ距離をとろうとする彼女の動きを見て、コハクの頭に板切れの正体がひらめいた。
――魔法陣だ! 爆発の!
起爆の術式が刻まれた魔法陣は帝国のお家芸ともいわれ、証拠はまだ固まっていないが、開戦の直前、交通の要路となっているフレデリーク大橋が爆破された際にも、それが使われたと考えられている。爆発の現場に居合わせたコハクは、その怖さを十分に分かっていた。
すでに魔法陣には魔力が込められていると見えて、板切れの表面は光を放ち始めている。魔封じの腕輪をつけていても、無理やり魔力を注入することぐらいは可能だったようだ。
「カーブ、こっちに来て!」
「キキッ!」
胸に跳び込んできたカーブを抱え、コハクも板切れから距離を取ろうと背中を向けた。だが、その瞬間に無情にも爆発が起きた。
「ぐぅ!」
爆風がコハクの体を襲う。
その直前、体の周囲に魔力を展開して壁をつくろうとしたが、エトウならばともかく、コハクにそこまで精細な魔力操作はできなかった。
「うわぁぁぁ!」
爆風はコハクの小さな体を屋根の上から吹き飛ばし、近くの壁にたたきつけた。その後、コハクはなすすべもなく壁をずり落ちていった。
爆発が思ったほど大きくなかったことと、その家が平屋で屋根まで高さがなかったことが幸いし、コハクは意識を保てていた。それでも無傷というわけにはいかず、体中が痛かった。
――わ、私、生きてる……。カーブは、どこ!?
コハクが目だけで左右を見渡すと、カーブはすぐ近くにいた。よろめきながら立ち上がり、こちらへ来ようとしている。怪我はしているようだが、動けてはいた。
――よかった。カーブも無事だ。
ほっとしたのも束の間、壁の向こう側から縄が投げ込まれたのが見えた。その縄は屋根の上に落ちたようである。
――ダ、ダメ! 逃げられちゃう!
コハクは立ち上がろうとしたが、どうしても体を動かすことができなかった。
そのうち視界にマリカの姿が入ってきた。縄で体をぐるぐる巻きにして、その端をしっかりと口にくわえている。向こう側から縄が引っ張られる度に、少しずつ壁を上がっていった。
縄はマリカのローブにきつく食い込んでいる。縄の端をくわえている口からは血が流れているが、マリカに気にした様子はない。真剣な表情で壁の上だけを見据えていた。その姿からは、どうあっても脱出するんだ、という彼女の強い意志が感じられた。
「おい、待ってくれ! 俺を置いていくな!」
屋根の下に落ちた男が足を引きずりながら叫んだが、マリカはそちらを振り向こうともしなかった。壁の頂点に達したときだけ、壁際に倒れているコハクの方をちらりと見て、なにも言わずに向こう側へ姿を消した。
コハクはそれを見ていることしかできなかった。
「くそっ! なにもかもお前のせいだ、このクソガキが! お前さえいなければ!」
一人残された男は、ダガーを手にコハクへと近づいてきた。その顔は怒りで真っ赤に染まっている。
命の危機を感じたコハクは体を動かそうとするが、いまだ爆発のダメージが残っていて、どうにも自由がきかない。それでも必死で魔力を練り上げ、小声で水魔法の詠唱を始めた。
「させるかよ!」
詠唱に気づいた男は一足飛びに距離を詰めようとした。
そこに立ちふさがったのは体から血を流しているカーブだった。
「ペット魔物が、俺の邪魔をするな!」
「ギューイー!」
男がカーブを蹴り飛ばそうとしたところ、透明の壁がそれをはばんだ。
「痛っ! なんだ、これは!? まさか、結界なのか!?」
コハクもそれには驚いた。カーブにそんな力があるとは知らなかったのだ。しかし、これで時間をかせぐことができた。コハクは呆気にとられている男を見据えて魔法名を唱えた。
「ウォーターアロー!」
コハクの周囲に生まれた水の矢が、男に向かって一気に降り注いだ。そのときにはカーブの出した結界はすっかり消えている。
「う、うわぁぁぁ!」
男が叫び声をあげて倒れるのを確認すると、とうとうコハクにも限界がきて、次第に意識がうすれていった。




