第3節『憂いの神皇』
お蓮の膝から頭をあげると、俺を守るようにお蓮は俺を抱きしめ、唯一の外界への扉である障子からその細い身体で俺を隠した。
お蓮の香りと温もりに包まれながら、息を殺す。
軟禁状態に不満があるのなら、大きな声を上げて助けを求めることもできよう。
しかし、俺は進んで外に出るつもりは毛頭ないのだ。
現状維持という名の仮初の安寧は、俺にとって居心地の良いものだった。
廊下を歩く足音は力強く、だが、不思議と品の良さを感じた。
「…ん?これは、隠し扉…かな?」
聞き覚えのない声だ。その声に俺とお蓮の心臓は協奏曲が如く激しい心音を奏でる。
息を殺そうにも、無意識に酸素を求めて過呼吸かのような激しい呼吸音となる。
お蓮越しに障子映る人影を見た。
おそらく170以上はあろう。現状160で長身と称されるらしいから、影の主はかなり大きい部類となる。
お蓮も気配を感じたのか、小刻みに体が震え始める。
子供だからといって、このままお蓮の影に隠れてていいのか?
そんな自問自答が脳裏を過る。
本来なら、たった一度の人生だ。それを俺は二度目の人生を送っている。
命に重さに違いはないだろう。しかし、俺には、自分の命が軽く思えて仕方がなかった。
そう思えば、行動は素早かった。
すぐさま、熱い抱擁を振りほどき、障子の前に体を躍らせた。
「俺が、お蓮を守…えっ!?」
後ろから襟首を掴まれ、釣りあげられる。
「私は、聖さまに守っていただくほど、弱くはありません」
首根っこを掴まれた宙ぶらりんな猫のような状態で、障子は開いた。
「失礼、お邪魔するよ……君たちは何をしているんだい?」
障子を開けたのは、やはり長身の男性だった。歳は30前ほどか。神主のような白い衣装で身を包み、長い黒髪を後ろで纏め、顔は恐ろしく整っている。鼻すじが通り、少し大きめの口には微笑みが浮かんでいる。優しさを称える瞳も黒く、まるでブラックホールかのように視線が吸い込まれ、目が離せなかった。
しかし、その目は、俺の顔をみるや否や、大きく開かれる。
「……姉上……?」
「俺、お前みたいな巨大な弟を持った覚えがない」
「いや、他人の空似…いや、あまりにも…」
俺の顔から眼を逸らさない来訪者。
俺の顔…あぁ。
「アマテラ…ぶっ!」
突然、来訪者が俺の口を手で塞いだ。
瞬間、俺の背後で殺気が溢れ出る。
「お嬢さん、安心してくれないか。僕は神皇だ。彼女に危害を加えるつもりはない」
彼女ではない。
そして、そろそろ下ろして欲しい。
「是が非でも彼女を守りたいんだね。その想いの強さ、素晴らしいと思う。日ノ本の守護神天照大神に誓って、彼女を傷つけることはないよ」
その言葉を辛うじて信用したのか、していないのか。殺気を抑えぬまま、俺の襟首を握る手を離した。
「へぶっ!?」
思い切り畳に背中を打ち付ける。
「ひ、聖さまっ!?」
「…僕が傷つける以前に、お嬢さんが危害を加えちゃダメだね」
「すみませんっ」
動揺したのか、お蓮から殺気が消えた。
「今頃、近衛が主自らお茶の準備をしているはずだよ。行ってきたらどうだい?僕と彼女を二人きりにして貰いたいな」
「お蓮、言う通りにしてくれるか?」
と、背中を摩り、畳の上で悶絶しながら『神皇』の言葉に追随する。
「……承知しました。では、しばし、お茶の準備をしてまいります」
お蓮はゆっくり神皇の横を通り、開け放たれたままの障子から廊下に出る。
最後に一際強い殺気を神皇に放ったのち、障子を閉めた。
「…神皇なんて偉そうな名前のわりに、威厳ないんだな。めっちゃ殺しそうな視線だったよ、お蓮」
「まぁ、『神代』が皇宮の仕事を取り仕切っているし、神皇はお飾りでしかないからね」
あはは、と他人事のように笑う。その笑いもすぐに消え、真面目な表情で俺の顔を見る。
「見れば見るほど、そっくりだ。君は僕の姉上なのかい?」
「応える前に確認だ。姉上というのは、アマテラス?」
無言で弟君は頷く。
「僕は天照大神の弟、素戔嗚尊だ」
「スサノオノミコト、ね。…知らないなぁ、有名なの?」
「う~ん…どうだろうね?」
「君の『姉上』は、知らないことを激しく残念がっていたけどな」
「まぁ、姉上は大人しそうに見えて自己顕示欲はあるからね。ということは、君は姉上を知っているんだね。本人ではないにしても」
俺は深く頷く。
「俺は、令和元年…2019年に死んだ者だ。アマテラスに魂を拾われ、『とある言語』を刻まれて転生した。神皇にまず会うよう言われていた」
「僕にか。…とある言語とは?」
「あぁ、アマテラスが言うには、この言語を知らなかった結果、日本は滅びるって」
「ふむ」
スサノオは唇に人差し指を当てた。少し薄い唇に触れる細い指先を当てるその所作に同性が認めてしまうほどの美しさを感じる。
「妙な話だね。違う言語圏に行けば言葉が通じないのは道理。それによって、日本が滅びるとは考えづらくないかな?」
「俺にはさっぱりだ。でも、ほら、日本って鎖国している間も特定の場所で海外とやり取りしてるんじゃなかったっけ?」
「長崎の出島だね」
「海外からそういった情報はないのか?」
「それがだね…寛政元年から交流が途絶えているんだよ」
「かんせいがんねん…?西暦でいうと?」
「えぇーっと…1789年…かな?」
「オランダも中国も?」
「オランダも清も」
「清?」
「おそらく、君が言う『中国』のことだよ」
そんな歴史あったっけ…?こんなことなら、歴史を勉強しておくべきだった…。
「今判断するには材料が少なすぎるね。で、だ。君の名前を聞いてもいいかな?」
考えるのを止めたのだろう、指先が唇から離れ、俺の姿を見やる。
「俺の名前は、近衛聖。死ぬ前は如月勇利という名前だった」
「あぁ。近衛家に白子が生まれたと言っていたね」
「聖と名付けてくれたのは、神皇と聞いたけどな」
「聖という漢字には、神の言葉を聞き伝える意味があるらしいよ。まさに天照大神の言葉を僕に伝えに来たのだから、僕の命名に間違いはなかったようだね」
「……俺がアマテラスの遣いだって知ってたような口ぶりだけど……」
「すみません、知ったかぶりをしていました。聖という字は、おそらく開いてた書物から適当に選んだものです。名前を付けたことすら覚えていませんでした」
神皇は膝を折り、大袈裟に頭を下げた。
「悪ふざけはやめろよ」
神皇に習い、俺も畳に腰を下ろした。
俺の言葉に頭を上げると満面の笑顔が張り付いていた。
「あはは、ごめんごめん。いやぁ、楽しいね。こうして気軽に話したのは久しく記憶にないよ。その顔が成せる業なのか、君本来の性質のものなのか」
「さあね。生前は心臓病を患ってて、あまり他人と話す機会はなかったな。そして、こちらでも、引きこもり」
「おそらくそれは、近衛に『白子はあまり日光に当てないほうがいい』と言ったのをいいことに、軟禁しちゃったんだろうね」
「まぁ、母親代わりのお蓮は見ての通り、優しくて可愛いから不満はないけどな」
「あぁ、中々の美しさと立派な乳房をお持ちだった…おっと、女性に失礼だったか」
「俺、男だよ」
「え?」
「お・と・こ!」
俺の言葉は神ですら時間を止める力があるらしい。
「あー…なんというか…姉がすまないことをしたな…男でその容姿は…」
「別に気にしてないし、いいよ。現にスサノオとも会えたわけだし」
そんなことよりも、だ。と、スサノオと距離を詰める。
「あの、姉上の顔でそんなににじり寄るのはやめてほしいだけどな」
スサノオはアマテラスが苦手なのだろうか?
「こう、俺にチートな能力をくれないか?アマテラスは『ルール違反だから』と、くれなかったんだよ」
「チート…?例えば?」
「こう、伝説の武器とか!エクスカリバー!みたいな」
「天叢雲剣があるけど…三種の神器として奉納されてて、僕には手が出せないな」
「じゃあ、ステータスが見れるとか!筋力12とか、数値化されたもの!」
「それは現実的じゃないね。基準となる数値を設定しないといけないし、人間っていうのはその日によって体調も違うだろ?時間によっても変わってくる。数値が安定しない。それは神の所業というより科学の世界だね」
それに、と言葉を繋ぎ、
「僕はもう神ではないんだよ。ただ、歳をとらず、死なないだけのハダカデバネズミと同じだ」
「俺と同じか!!」
「これは、結構ギリギリの、そう、姉上が君に授けることのできたチート能力だと思うよ」
確かに不老不死を求める英雄は確かに多い。
「そうか…あんな顔して…精一杯やってくれたんだな」
「いや、君も同じ顔してるからね?あはは」
「そうだった!!」
スサノオが屈託なく笑う。
「僕に会え、ということは僕に助力を求めたのだろうね」
「まぁ、そうだろうなぁ」
「だが、残念ながら、僕には何の権限も持ち合わせていない。政は将軍・徳川家定による江戸幕府が行っているし、公務もほとんど神代がやってくれている。となれば、僕ができることは……」
「聖くん、僕の子供にならないか?今日から君は…皇聖だ」
俺は言葉を飲んだ。
「これによって、君はなんの権利も得たわけじゃない。しかし、その身柄だけは保証される。お飾りではある僕だけど、それを可能とする威光だけは持ち合わせているつもりだ」
まるでプロポーズの返事を聞くのを恐れるかのように沈黙の時間を言葉で埋めようとする。
「えっと…ど、どうだろう?」
「いいよ。スサノオの息子になってやる」
「娘ではなく?」
「男だって」
スサノオは立ち上がるや否や俺を強く抱きしめた。
「あぁ、僕の息子だ」
顔を見れば、涙に濡れていた。寂しかったのか…。
「……がんばったね、スサノオ」
アマテラスの声をマネて『弟』の耳元に囁く。
「寂しかった!辛かった!姉上!姉上っ!!」
彼の涙腺は崩壊した。
彼はいつから日本で神皇となっていたのだろう。
きっと長い、それはそれは長い時間を過ごしたのだろう。
一人で日本を頑張って守っていたんだ。
俺は、そんな父親に何ができるだろうか?
「……スサノオ、俺、日本を守れるよう頑張ってみるよ」
「いつでも僕が抱きしめてあげるから戻ってくるんだよ」
「……こう、胸部を押し付けてくるのは何なんだ?」
「姉上、胸部が貧相になられて……」
「スサノオ、女扱いするなー!!!!」
お蓮がお茶を持って戻った時、逃げる神皇に拳を上げて追いかける俺の姿と遭遇することになる。