プロジェクトN21
「ねぇ、お母さん」
「どうしたの、優」
「ぼく、妹が欲しいんだ」
「妹?」
「うん。ちーちゃんのところのみたいなかわいい妹が欲しいんだ」
***
「おはよぉ〜」
朝七時ちょうどに、妹の優奈が起きてきた。
「おはよう」
僕はキッチンから背中越しに妹に向けて挨拶する。
同時に、菜箸を使って、長方形のフライパンの中で固まりつつあった卵を丸めていく。そうして出来上がった卵焼きをまな板に下ろし、一口サイズに切り分け、ピンク色の丸い弁当箱に、三つほど入れる。空いたスペースにレタスとトマト、ブロッコリーを盛り付ける。
今日も綺麗な彩りだ。余った分はお昼ごはんにしよう。僕は、出来栄えにある程度の満足と、昼ご飯の算段ををして、ピンク色の弁当箱の蓋を閉め、同じ形をした緑、青の弁当箱と一緒に保温パックに詰める。緑の弁当箱には、エビフライとササミフライを、青の弁当箱には、炊いておいた玄米を詰めている。
「はい、できたよ」
僕は、保温パックにいれた弁当箱をリビングにいる妹に手渡す。妹はもう着替えが済んでいて、制服姿で大好きなメロンパンを頬張っていた。もぐもぐ食べる姿は兄のひいき目を差し引いても愛らしい。
「ありが……もぐもぐもぐ……」
「こらこら食べながら喋るんじゃありませんー」
こつん、と僕は妹の頭を軽く拳骨する。妹は口の中のメロンパンを放り込むと、ありがとうと言い直すこともなくべーっと舌を出す。む、親の前ではそんな態度取らないくせにどうして僕にだけはそんなに生意気なんだ。反抗期かな、と思いつつも、そんな反応をどこか心地良く思っている自分がいることに僕は気付いていた。
「今日は帰りは遅い?」
「ん。いつも通りだよ」
「……じゃあ迎えに行かなくていいのな?」
「ん。いつも通りってことは迎えに来るんでしょ?」
「それは最近お前が遅かったからだろ……」
ウチの妹さまは人使いが荒い。しかも兄限定で。まぁ結局は迎えに行くのだが。あいつは、帰ろうと思えば一人でも帰れる。何があっても多分どうにかなる。でも、妹は敢えて兄の付き添いを要求してくる。つまり、兄としての存在意義は、まだある。それだけで理由としては充分だ。
「あ、そろそろ時間だ。お兄ちゃん、いってきます!」
「おう、いってらっしゃい。忘れ物はない?」
「ないよー!当たり前じゃん!」
忘れ物など万に一つもあり得ないだろうに、僕はそんな余計な一言を付け足している。一般人感覚というものが染み付いている自分に、少し嫌気が差す。
ぱたん。がちゃり。
妹が今しがた登校して行った玄関のドアを閉める。そしてスタスタと、リビングに戻る。壁の時計を見ると、七時半を回っていた。僕は、妹が食べなかった残りのメロンパンを食べる。といっても、五個入りのメロンパンのうち四つはもう食べられていた。朝なのに元気な子だ。普通なら、そう喜んでいいんだろう。
メロンパンを半分ほど食べ進めたところで、テレビを点ける。今日は土曜日だから、夜遅くまで残業していた両親は寝ている。ちなみに、妹は今日は学校でテストがあるため登校日だ。妹さまは今回も首席ねらうぞーと、畏れ多くも他の生徒全員を実力で蹴り落とす気でいることを僕は昨日知った。ゲームをしていさえしなければ説得力はあるのに。ただしゲームといっても将棋であるが。
『……今年で十九年目を迎えるプロジェクトN21は……』
テレビが明るくなると、映しだされたのは国営放送だった。集金の人がとても嫌いな僕はすぐに別のチャンネルへと切り替えた。微妙に嘘だが。『今日のにゃんこ』と題した猫特集だった。みゃあみゃあと、4匹の子猫たちが、母親のお乳を吸っている。三匹の猫は母親と同じ黒なのに、一匹だけは茶トラだった。先ほど、ちら、と耳にした言葉が、口からぽつり、とこぼれ出る。
「プロジェクトN21……」
プロジェクトN21。
事の発端は、二十年前……2020年に遡る。東京五輪が成功裏に終わり、戦後初の憲法改正がなされ「普通の国」へと回帰した日本は、加速する少子高齢化と人口減少、そして台頭する中国、インドなどの外交情勢を踏まえ、「人的資源開発の加速」「最先端知的産業のトップランナー」をスローガンに、ついに人間に対する遺伝子組み換え技術の応用の全面解禁を決めた。この計画は、翌年の2021年から実行に移され、「プロジェクトN21」と呼称された。「N」は、「新しい」を意味する「new」と、克服するべき「自然」を意味する「nature」の頭文字だ。
僕の両親は、両方とも、国立遺伝子工学研究所の研究員だった。いわゆる、職場結婚というやつだ。そして、当然ながらこの二人も、プロジェクトN21に参加していた。いや、正確に言えば、計画が表に出る以前から、ヒトに対する遺伝子改良に関わっていた節がある。最も、どちらもそのことについては余り口にしないので、あくまで僕の個人的推測だが。
僕の妹、優奈は、プロジェクトN21の第四次計画によって誕生した、遺伝子組み換えの「次世代人類」だ。その実力はまさに「次世代」の名に相応しかった。記憶力、応用力に優れ、学校の試験で常に首席の座を維持するのはもちろん、小学生の時点で既に国立大学レベルの知識を習得、その優れた見識によって新技術の開発などにも携わり、既に取得した特許の数は十を超える。今年で十五歳になるが、既に大学付属の研究機関や、大手企業、国立の研究所、さらには海外からも多数の就職オファーが来ている。
優奈の実力は、両親をして満足のいくものだったらしい。そして対照的に、平凡な僕に対する当たりは強くなった。両親の自分に向ける目線は、とても冷たかった。いずれこの家を追い出されることになるだろう。追い出されなくても自分から出て行くつもりだが。
しかし、そう言い続けて早二年が経過した。僕を引き留めているのは、他でもない──妹の存在だった。
***
それは、妹が今の中高一貫の難関私立に通い出す一年前ぐらいの頃の話だった。もうその時、既に妹は、次世代人類としての実力を存分に発揮していた。
高校一年生だった僕は、両親に遠回しに一人暮らしを勧められた。高校の徒歩五分圏内に新築の寮が完成したことから、両親に入寮を勧められたのだ。ただ、本音は、「この欠陥品を早くどこかに追いやって妹に投資したい」というのは流石の僕でも気付けたことだった。僕はその話を了承して、二学期から寮生活を始めた。
この寮生活は、僕にとって有意義な時間になった。寮には冷たい目を向けてくる親はいない。なにかと比較してしまう出来のいい妹もいない。張り詰めた緊張感から解放されて、僕は寮生活を満喫した。自炊洗濯掃除などの自活スキルが向上した。寮友を始めとする友達が出来た。そして彼らと夏はバーベキューをした。そして初めて異性と夜を過ごした。
それは紛れもなく──「青春」だった。
妹のことなど、頭から消し飛んでいた。
寮生活を始めてから四ヶ月後ぐらいのことだった。桜が舞い散る三月のある日、妹が寮にやってきたのだった。
マンション型の寮の三階にある、談話室の一室を借りる。丸いテーブルの上に、クッキーが二、三個、置かれている。僕は、妹と向かい合って、椅子に座る。いつもなら元気にクッキーを食べそうな妹だったが、今日はクッキーにも手を伸ばさず、じっと、僕を見つめている。
そのまま、二人して沈黙が続く。カラスがカァカァと鳴き、日の向きはどんどん斜めになっていく。
沈黙を破ったのは珍しく、妹だった。
「お兄ちゃん、寮生活は楽しい?」
「うん、楽しいよ」
僕がそういうと、妹は黙った。僕は、そんな妹の姿を訝しみながらも、寮生活の話を、近況を、語った。
「ここに住んで四ヶ月くらいになるけど、ルームメイトもみんな優しいんだ。そうそう、この前は達也と美宏で三人でたこ焼きパーティーしたんだ。途中から香織と沙也加も混じって結局五人で部屋中ごった返してさ。たこ焼きの取り合いになっちまったよ。他にもさ……」
そうやって、僕は一方的に話し続けた。なんとなく、この話を途切れさせると気まずい気がした。思いつく限りの思い出を、四ヶ月の思い出を、僕は頭から絞り出していった。でも、妹はちっとも、嬉しそうな顔をしていなかった。それくらいは、兄だから分かる。そして、僕は、聞く。
「なぁ優奈、お前は──どうなんだ?」
次の瞬間、妹から放たれた言葉は今でも記憶に残っている。
「お兄ちゃん、私ね、受験──やめることにしたんだ」
「え?」
受験をやめる?それはつまり、両親の勧める中高一貫の難関私立ではなく、普通の公立中学に通うということだ。でも、何故なんだ。お前は完全無敵の妹さまじゃないか。僕は、大いに困惑した。そうしてひねり出したのは、「どうしたんだ?」という疑問の言葉だった。
「それはね──お兄ちゃんのせい」
「ぼ、僕の?」
妹の目から、ぽろぽろと涙が零れていく。それは、小さい頃、怪我をした時に見せた以来の、妹の涙だった。そして妹は、涙ながらに話した。
「お兄ちゃんがいなくて、優奈ね、とっても寂しかったの。胸がね、ぽかんって、穴が空いたの。気がつくと、家の中でいつもお兄ちゃんを探してたの。そんな状態で、勉強なんか──できるわけないよ。お父さんも、お母さんも、自分勝手。お兄ちゃんはいつも褒めてくれたのに、お父さんとお母さんはまだ足りないって言うの。98点も取った日でも、まだあと2点足りないって言うんだよ!私が求めてたのはそんな言葉じゃないもん!すごいね、って褒めて欲しかったの!いいや、別にお父さんもお母さんもどうでもいいんだ。お兄ちゃんに褒めて欲しいの!優奈頑張ったよ!褒めて褒めて!ってしたかったの!友達じゃ、満たされない。お父さんとお母さんじゃ、もっと満たされない。いくら点数を取れても、賞を取っても、お兄ちゃんが居なかったら、そんなの、意味ないの……」
「よしよし……よく、頑張ったな、優奈」
気がつくと、席を立って妹を、優奈を抱きしめていた。嬉しかった。愛おしかった。
「お兄ちゃん……?泣いてるの……?」
「違うよ……心の汗だよ……」
僕はそういった。頬を熱いものが滴り落ちて、妹の瞼で跳ねる。
「ありがとう、優奈。妹を泣かせる兄で、ごめんよ」
「ぐすっ……じゃあ、お兄ちゃん────責任取って?」
「おう、何でも言ってみろ」
「一緒に帰ろ、お兄ちゃん!」
***
ブウウウウ。と頬が揺れた。目を覚ますと、もう黄昏時だった。どうやら、あのまま寝落ちしてしまったようだ。どれだけ寝ても、こうやって寝てしまう癖は治したいのだが、一向に治る気配はない。
スマートフォンの通知を確認する。思った通り、妹からだった。今から迎えに来て欲しい、とのことだった。
僕は「これから家を出る。いつもの駅で待ってておくれ」と返信を打ち、自室から、頓服薬、と書かれた処方箋を取り出す。そして赤い錠剤を二つその袋から取り出して、入れっぱなしでぬるくなったコーヒーで飲み干す。
そして素早くジーンズにシャツ、カーディガンにコートを羽織り、そして家を出る。
今日は試験帰りだから、ごほうびにシュークリームを、奢ってやろう。そんなことを思いながら、黄昏の空の下を、歩いて行く。
季節は夏を、迎えようとしていた。
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