2、妻・百合との生活
加藤拓郎の妻・百合は、その日、天気が良かったので、娘の友美をベビーカーに乗せ、近所の公園に行った。友美は他の赤ちゃんと比べると世話のかからない赤ちゃんだったが、時々、家では泣き止まないことがあった。だが、ベビーカーに乗せると不思議と泣き止むのだ。ベビーカーに載せられて、すっかり泣き止んだ友美を見ながら、百合がゆっくりと家に帰ると、そこにいたのが、拓郎だった。
「あれ?今日は早いのね」
百合の声に、拓郎は一瞬、驚いた表情を浮かべたが、百合が玄関を入ると、拓郎も無言で家に入って来た。
2人が住んでいるのは一間のアパート。九州の地主の大豪邸で育った百合には、そこは、実家の自分の部屋よりも狭いスペースだったが、百合は決して、そこが嫌いではなかった。
2人が初めて会ったのは、百合が大学生活を過ごした、この地方の女子大近くの公園だった。お金持ちのお嬢様ばかりが集まる全寮制の学校の雰囲気になじめず、公園で一人の時間を過ごしていた彼女に声をかけたのが、放浪の旅の途中の拓郎だった。
その後、拓郎は、何と百合の学生寮の近くにアパートを借りて住み、毎日のように百合の元を訪れるようになる。やがて、百合は2年間だけの学校生活を終え九州に戻り、拓郎も自分の実家に戻って大学に復学したのだが、もうその頃には、拓郎には百合のいない日々など考えられなかった。間もなく拓郎は九州の百合の元を訪ねて、百合に共に暮らすことを求めた。
裕福な家庭で育ち、地元・九州でそれなりの家に嫁ぐことを期待されていた百合だったが、彼女には、そんな将来が魅力的には思えず、意を決して拓郎に従い、2人は駆け落ちのような形で、こちらに移り住む。やがて、百合は妊娠。2人は入籍した。
「僕は何もできないけど、いつでも君と一緒にいるよ」
口数が決して多くない拓郎が、いつも百合に語ったのは、そんな言葉だった。だからなのか、生活は、百合が近所の飲食店でアルバイト、拓郎も大学は卒業したが、その後も、就職はせず、ほとんど家にいて、非正規のアルバイトを続ける日々だった。
そして、いよいよ出産が間近になった頃、拓郎は突然、家にこもって小説を書き始め、いろいろな文学賞に応募を始める。でも、友美が生まれ、しばらくすると、拓郎が応募した様々な文学賞、コンクールなどから、次々と「落選」「不採用」の通知が送られて来るようになった。
ある日、拓郎の母幸恵が、百合と友美2人だけの時に訪ねて来た。幸恵が来たのは、それが初めてではなかったが、3人の暮らしぶりを見た幸恵が、父親渡に相談し、渡が秘書の高杉を通じて拓郎に紹介したのが「藤谷印刷株式会社」だったのだ。




