1、突然の退社
あなたには今、一緒にいたい人がいますか。
どれだけ一緒にいても離れたくない。
少しでも離れると、会いたくて、いても立ってもいられない。
何故、それほど一緒にいたいのか、理由が自分でも分からない。
もし、あなたに、そんな人がいるとしたら、ひょっとしたら、この世界で、あなたがその人といられる時間が、限られているから。そうなのかもしれません。
~拓郎
この地方でも中堅クラスの印刷会社「藤谷印刷株式会社」。そこの創業2代目社長・藤谷保孝が心の師と仰ぐのが、経営コンサルタントの加藤渉だ。加藤から「息子を鍛えてほしい」と頼まれた時、藤谷は「これで恩返しができる」と喜んだ。ところが、息子・拓郎は入社して10日目の朝、突然、社長室に現れた。
特に表情も浮かべず、社長室に入って来た加藤拓郎は、ペコリと一度、頭を下げたかと思うと、藤谷の目の前に、封筒を差し出した。封筒には「辞表」と書いてあった。それを見ると藤谷は、突如、声を漏らした。
「辞表?えっ?ウソでしょ!何か仕事に問題があった?」
藤谷が狼狽して尋ねると、そうした反応を予想をしてなかったのか、その声に拓郎の方も驚いた。
「あ、あの、別に、そういう訳では・・・」
「だったら、どうしたの?」
しばらく黙り込んだ拓郎は、やがて重そうに口を開いた。
「あの・・・、実は、妻の体調が芳しくなくて・・・」
藤谷は拓郎をじっと眺めると、少しの間の後、何かを閃いたような表情を浮かべ、拓郎に言葉を返した。
「ならば、奥さんの体調が良くなるまで、育休。そう、育児休暇というのはどう?」
すると、拓郎の顔が、真っ赤に変わっていく。明らかに困った様子を見せた拓郎は、絞り出すように言葉を発した。
「そんな、子供も生まれてないのに、育休なんて。・・実は私、ある文学賞に入選しまして、そこから作家としてデビューすることになりました。だから、これからは、家で妻の様子も見ながら、作品を書いて暮らそうと思いまして・・・」
拓郎の挙動は、どこか信じ難い。そこで藤谷はしばらく拓郎を凝視していたが、やがて、目を一度閉じると、あきらめたように話し出した。
「あなたのお父上から昔、言われました。仕事は、好きな仕事だけしてていいって。でも、その好きな仕事をものにするためには、人の10倍働かなければいけないって。・・・分かりました。あなたは、作家を仕事にされるんですね。ならば、辞表は受け取りましょう。ただ、私も加藤渉氏からあなたを預かった責任があります。だから、辞められるのであれば、今回のこと、あなたからもお父上にご報告していただけますか?」
すると、拓郎は体を小刻みに動かしながら、
「無論、私の方からも父親に報告をします」
と振り絞るように答えて、社長室を後にした。藤谷は、拓郎の出て行ったドアを見ながら、
「恩返しというのも、なかなか難しいものですね」
と、つぶやいた。




