第七章 「従うもの」
「香子、まあ落ち着け。顔色が悪いぞ。」
「え、ああそうね。ごめんなさい、だって血が出ないんだもの。私死ぬのかしら。」
香子は目に見えて動揺している。血を見て動揺するのは分かるけれど、血が出なくても動揺するものなのだろうか。僕らには好都合もいいところであるのに。
「むしろ、そのおかげで生きれそうじゃないか。本当ならここは血の海だろう。」
「有馬君は初めから知っていたの?この腕からは血が一滴も出ないということを。」
「まあそうだな。けれど、確信を持つことができたのは、検証中ボールペンを香子に刺した時だ。」
「そうよね。あの時は衝撃的な絵面に動転して気が付かなかったけれど」
そう言いながら香子は背中の腕を、顔の目の前へと持ってきた。その手の甲には依然として、傷跡が残っている。穴のような傷跡と、皮膚がパックリと開いた傷跡。
「ペンを抜いても血が出ることはなかったものね。」
二つの傷はどれも軽微とは言えないような傷だ。常人の腕ではとても考えられないようなことが今起きている。
「さっきも香子が言ったように僕がお前の腕を切り落とす筋書きを思いついたのは、血が出ないと踏んでいたからだ。血が出なくて、感覚がないときたら切ってしまっても何も問題はないだろ。」
「ちょっと極端な気はするけどね。悪い部分を切り落とすだなんて、そんなジャングルの奥地みたいな治療法は。でもなんでわかったの?私自身でも気づけなかったのに。」
「そうだな、このままじゃ気味が悪いよな。じゃあ今から解決編だ。といっても、トリックも何もないとても当たり前のことなんだけど。」
僕は香子をベットに座らせて、説明に移ることにした。実際狙い通りに事が運んでいるのだから、僕はすっかり気をよくして得意になっていた。いいかーよく聞くんだぞ。
まあ大した話はできないのだけれど。
結論から言うと、香子の背中の腕には血が通っていない、ということになる。血が通っていないのだから出てくる血もあるはずもない。
「まあ、そうよね。血が通っているのなら傷つければ出ているはずね。いやでも、ほんとに?」
「順を追って説明しようか。僕が初めに気になったのはその背中の腕の異常なまでの冷たさだな。」
僕は香子の背中の腕を指さした。それはさながら犯人を白日のもとへ晒す名探偵が如き指先であった。
「やっぱり異常なの?私も冷たいと思っていたけど冷え性のせいかと思って深くは考えなかったわ。だって、まさか腕に血が通ってないなんて思わないじゃない。」
「気持ちはよく分かる。僕も始めは冷え性で片づけていたよ。香子は夏でも手が冷たいからな。でも考えてみてくれ、背中だぞ?一番熱がこもっていると思わないか。言ってみれば室内で手袋をしているのに手が冷たいみたいな、そんな妙な感じがしたんだ。」
しかし、これも何となく程度の違和感だった。幸運だったのは連想できたことだ。背中の腕の冷たさから、冷え性ではなく、死人の腕を。
「まあそういうものなのかしら。確かにこの時期に手袋をしていたとしたら、さすがの私もぽかぽかね。」
と言って香子は自分の腕をさすさすと触っていた。上半身にタオルしか巻いていないのだから、今あの両腕はキンキンに冷えていることだろう。悪魔的である。
「冷え性ってのは血行が悪いことも大きな原因なんだ。血液は体温をならすのにも重要でな。体の冷たいところを熱くして、熱いところを冷たくするんだ。」
「ふーん、なるほどね。だから心臓が止まって血液が流れなくなると、人は冷たくなるのね。」
死人の腕などはあまりに不吉だから、僕がわざわざ口に出さないでいたのに平気そうに言われてしまった。どうやら余計な気遣いだったようだ。
「まあ、そうだな。だから変だ」
「なんだか根拠が弱くないかしら? これだけだと、私的には有馬君の筋書きはラッキーだった、で片づけてしまいそうなのだけれど。」
「そう慌てるなよ。さっきも言った通り腕の冷たさは違和感程度のものさ。考えるきっかけ的な。僕がこの背中の腕に血が流れていないと確信したのは、さっきの検証中だ。」
「もしかして、すごくいい表情をしていたあの時?私の背中の腕が、あんぱんを消しちゃったやつ。」
「そう、その通り。あれには驚いたよ。だけどな、あれは僕らにとってご都合主義もいいとこの結果だったんだ。」
この説明時の僕も本当にいい顔をしていたのだろう。なんていうか、ちょっと楽しかったからさ。そんな僕を香子が窘めた。
「んー、つまり (有馬君) は、背中の腕があんぱんを消した時に血が通ってないって確信したってこと?」
「そうだけど……↑はどういう意味だ?僕は正真正銘有馬君だぞ?」
「 (有馬君) 、さっきからまどろっこしいのよ。何だか格好つけているからその方が分かりやすいかと思って。この人は今かっこつけている人です、って。」
「悪かったな!頼むからやめてくれ急にかっこ悪くなっちゃっただろ!」
せっかくいいところだったのにー!
香子からクレームが入ったのでもうざっと説明することにした。さっきから何だか独白が多い気がするが許してほしい。嗚呼、せっかくこの時を楽しみにしていたのに…。
背中の腕は、恐らくだが有機物を分解させる。僕がこう結論づけた検証結果を先に述べるとしよう。まず、香子があんぱんを分解させた後、お米とか、リンゴとかを背中の腕に持たせてみたが、同じように分解させた。そして、2つめのあんぱん (洸の分だったが仕方ない) にネジを入れて背中の腕に持たせたが、見事にネジだけを手のひらに残し、あんぱんのみを分解して見せた。ネジは燃やしたところで炭を発しない明確な無機物、というか金属だ。これらの結果から背中の腕は有機物を分解する、と言える。
しかしだ、有機物を分解するならば、何よりもまず「僕」がとっくに分解されているはずだ。だって、僕は背中の腕を何度も、それはもうニギニギと触っているし、何なら舐めている。それなのにも関わらず僕の腕や指、もちろん舌先には異変もなく、僕という有機物は分解されていない。だから僕は、次に「僕」と同じカテゴリーの有機物を探すことにした。「僕」と同じカテゴリー、つまり有機物でありながら背中の腕に分解されないもの。
これは案外簡単に見つかった。例を出すと、木材、鉛筆、紙、髪、煙草 (父親のもの)、庭の土、と探せばまだまだ出てきそうだった。初めは、これらはどういう共通点だろうと首をかしげたが、考えてみると至極普通だった。
香子の背中は有機物ではなく、「食料」を分解させるのだ。香子の中で「食欲」を持って、何らかの物体を背中の腕に触らせると分解される。つまり、背中の腕が分解するものは香子の一存で決まる、ということだ。
ちなみに、香子はキノコ類を心から嫌っていて、厭がっている。今回の検証では、ちょうど切らしていたためできなかったが、ひょっとすると背中の腕はキノコは分解できないかもしれない。その場合は、香子に代わって僕から、全国のキノコ農家に謝罪しようと思う。誠心誠意作っていただいたキノコを食べものじゃない、という方がどうかしているのだから。
話が逸れてしまった。えー、つまりこの「食料を分解する」という、背中の腕の特殊能力が、僕に血が通っていないと確信させる鍵となったわけだが。
「ふーん、なるほどね。あんぱんが消えたのは、私が食欲を持って、触ったからなのね。」
「正しくは、あんぱんが分解したのは、香子が食欲を持って、背中の腕で触ったからだ。」
「なによ、細かいわね。ちょっとした言葉選びの違いじゃない。」
「キーワードってのは、鍵なんだからさ。形が変わるだけで使えなくなってしまうんだよ。」
「そういうものかしら。それにしても、恐ろしいと思わない?」
香子はとてもいい表情でニヤリと笑って見せた。何となく彼女が言い出しかねないことが、僕には分かる気がする。
「だって私が食料と思えばどんなものでも背中の腕で分解できるってことでしょ?口から食べるわけじゃないのだから、どんな体積のものだって食べれるし、なんなら有馬君だってこの世から跡形もなく、肉片の一つさえ残さず、消せてしまうということでしょう?」
香子の言っていることが概ねその通りだと僕も感じている。人智を超えた恐ろしい能力だ。
「い、いやまだなんでもかんでも分解できると決まったわけじゃないぞ?いくら食欲を持って臨んでも、無機物なんかを取り込んだらどんな異変が起きるかわかったもんじゃないし、それに僕だって、いつも、カップ麺とか食べてるから、きっと美味しくないし、あの……。」
「ねえ、有馬君。あなたもう私の背中の腕に不用意に触らない方がいいわよ。私、有馬君のこと、食べちゃいたいってわりと本気で思うことあるから♡」
「こんなにも恐ろしい愛は初めてだ!」
「あら、光栄ね。」
この時の香子は本当にいい顔をしていた。僕はこれから食べちゃいたい♡、なんて魅惑のワードを聞く度に、震えて逃げ出すことだろう。このままでは官能的なお姉さんにうつつを抜かすこともできない。
「あれ、いま思ったけど。」
香子が何かに気付いたという風に、目を開いた。
「さっき無機物を取り込んだらどうなるか分からない、って言ってたじゃない。ということは、やっぱりただ消しているわけじゃなくて私の体に取り込んでいるの?」
「おお、そういえば説明がまだだったな。」
僕は官能的なお姉さんのことを頭の隅に追いやって、気を取り直して説明を続けることにした。
先程、軽く喋ってしまったが僕は、背中の腕は触れた物を取り込んでいると考えている。取り込んでいる、のだからあんぱんは消えたのではなく、分解されたのだ。分解されて、その養分を取り込まれた。
僕がそう考える根拠も、真っ当なものを用意している。僕は理屈屋なのだ。
端的に言おう。香子の背中の腕は、そうする必要があったから、そうしたのだ。うーん……これじゃああまりに不親切だな。もう少し詳しく。
香子の背中の腕は、養分を取り込む必要があったから、食料を分解したのだ。
生物の体とは、恐ろしいほどに合理的である。例えば僕らの体内で起こっている反応は、効率的でよくできている。そりゃあ僕も専門的なことまでは詳しく知らないけれど、伊達に生物を受講していない。そしてこの合理性は、時にトンデモ能力でさえも体に宿すのだ。
例えば鳥。陸上生物では考えられないトンデモ能力、飛行を身につけている。次に、象やキリン。彼らもヒトやその他の生物とは一線を画している。あの鼻や首は、非常識だと思わないか。他にも魚にはエラがあるし、蛇には毒がある。
これらはひとえに必要というものに応じた結果に過ぎない。
鳥は外敵から身を守るために、空を飛ぶ必要があったから翼を手に入れた。象やキリンは食料を確保するために、鼻や首を伸ばす必要があったからあのような造形を手に入れた。魚は水中でも酸素を取り込むために、エラが必要だったのだ。
これらは生物の合理的なまでの進化の結果であると僕は考えている。香子の背中の腕も、恐らく同じ様なことが起きているのだ。
つまり、僕の考えで言うと、香子の背中の腕は栄養を自ら取り込む必要に迫られていた、という事になる。自分で栄養源を確保しなければいけなかった。そうでないと栄養不足になり、エネルギーを生成できず、壊死してしまうのだろう。
なぜか。
香子の両腕は健全である。その両腕は食べ物を分解することはしない。香子の両足は健全である。その両足は食べ物を分解することはしない。なぜそれでもやっていけるか、それは簡単だ。わざわざ直接取り込まなくても、香子が何か食べれば、その栄養は臓器の隅々にまで行き渡るからだ。
「血液」によって。
こうして、逆説的に答えは導かれた。背中の腕は、香子が口から食べたものは栄養として供給されない。消化された食べ物の栄養を、体の細胞の隅々にまで届けるもの、「血液」が流れていないのだから。
この事に気付いた瞬間、僕の書いた筋書きの全ての辻褄が合ったのだった。心から感動した、この快感は、数学者が憑りつかれ、生涯を捧げるそれに近いのかもしれないと勝手に思ったりもした。刹那の快感に、永い永い余韻。どこかの本で、数学者が体感する閃きを女神のキスと評していた。
僕はこの一瞬のキスのために、頼まれもしない筋書きを書いているのかもしれない。まったく僕という奴はとんだ浮気者だ。
「そっか、そういう事だったのね。よく考えたらおかしいものね。血液が流れていない腕、だなんて。いくら今の状況が超常的でSF的と言っても、サイエンスまで否定されてちゃお話にならないものね。」
香子は僕の説明をひとしきり聞いた後に、クスリと笑ってみせた。香子は僕の考えに納得し、信用してくれるみたいだ。しかし、すぐに香子の顔に一抹の緊張が戻った。
「じ、じゃあこの腕は切り落としても問題は起こらないのね?」
香子は顔を強張らせている。無理もない、他人の見解だけを頼りに腕を切り落とすという状況なのだから。
「そうだ、問題ない。」
恐らくは。そう付け加えたかったが、僕はその言葉をぐっと飲み込み、なんとか喉元に抑えることができた。
正直、ここまではご都合主義と言えるような、ラッキーの連続だった。僕が書いた筋書きからあまり逸れることなく、それどころが都合がいいことばかりが発覚している。勢いに乗ってここまで来たが、いざゴールしようというと足がすくんでしまう。勢いだけでここまでたどり着いてしまったのではないか、必死に組み立てた論理も、その実は愚にもつかない詭弁だったのではないか。
一度でも考えてしまうと、途端に嫌な感情に巻き込まれる。僕のしたことが香子を傷つけることになったら、僕はきっと立ち直れない。僕は僕のためにも、この筋書きを書き間違えるわけにはいかないのだ。
やらない後悔よりやった後悔、なんて言うがあれは酷い言葉だ。本当の後悔を知らない、そんな無責任さを感じずにはいられない。やらない後悔だろうがやった後悔だろうが、取り返しのつかない後悔は深々と心に突き刺さる。悔いは杭となり、そう簡単には抜けてくれない。
あ、やばい。このままでは負の精神に押されてしまう。僕の頭の隅に隠していた負の感情が一気に僕の体を支配しようとしていた。
すっかり勢いを失くしてしまった僕の心情を、知ってか知らずか、香子は僕に語りかけた。
「あら、格好つけの有馬君はここまできて私を助けてくれないの?残念、私すごく残念だわ。私は有馬君を王子様だと思っていたけれど、有馬君は私をお姫様だとは思ってくれていないのかしら。」
「…どういうことだ?」
「だって王子様はお姫様のために、何をしてくれると思う?」
「それぐらい分かっているよ。お姫様を助けるんだろ、そりゃあもう格好よくさ。」
香子は意地悪そうな笑みでふふっと笑い、違うわと続けた。
「お姫様が望むことはただ一つよ。王子様に助けに来てもらうこと、助けられることじゃないわ。結果より過程だなんていかにも陳腐だけど、そういうものなの。もし私がお姫様なら、ただ王子様の足音ばかりを気にしているでしょうね。そして私の部屋をノックする音がエピローグへのファンファーレかしら。」
香子はベットに座ったままで、正面の僕の顔をその冷えた両手で包み込むようにして、続けた。
「結末がどんなものであろうと私は後悔しないわ。私の後悔は、有馬君が助けに来てくれないこと。王子様の足音が去って、私がお姫様じゃなくなった時が私にとってこの上ないバットエンドよ。」
「香子……。」
「だから有馬君、早く私を助けに来て?」
なんてずるいお姫様だろうか。僕は笑ってしまいそうになった。
ああ分かった、よく分かった。運命だとかが嫌いで、そんなものには決して屈しなかった僕が従うもの。従わずにはいられないもの。
「いいよ。」
それは君の願いだ。
僕は立ち上がり、部屋の隅に置いてあった鉈を手に取った。聖剣なんかには程遠い、庭の倉庫にあったものだ。僕は香子に近づいた。白馬なんかには乗っていない、震える足を奮い立たせた。
香子をベットに横向きで寝かせ、背中の腕を見下ろす形で僕は立った。これで腕だけを切り落とせる。
「いくぞ、香子。僕に任せろ。」
「はい…!」
香子は目をギュッと閉じている。それでいい、いま僕はきっとかっこいい顔なんてできていないから。
僕は背中の腕を全ての元凶となった悪魔のように見据え、全力で鉈を振り下ろした。