第一章 「大規模な脱臼」
「…おはよう」
僕の挨拶を返した香子はどこか様子がおかしかった。新年度の始まりと共に高校3年生となった僕らだが、付き合ってからはまだ1年しか経っていない。けれど、誰もがスピード違反を余儀なくされる青春時代の1年間だ。香子とはもう随分と一緒にいるような感覚がある。香子のことは大体分かるし、香子も僕のことは大体分かっている。要するに僕らは今、とても楽しい関係の真っただ中にいた。
しかし、共に過ごした年月からは、たかだか4文字の挨拶から香子の様子を推し測ることはできても、その理由までも察することはできない。
「香子、どうかしたのか?」
迷ったような、はっとしたようなよく分からない表情のあと、彼女は答えた。
「なに、有馬くん。どうかしたのかだなんて。まるで朝のお決まりの定型文から私の様子を推し測ったかのようなもの言いね。」
「ああ、その通りだよハニー。そして未熟なダーリンはまだその理由までは分からないのも知っているだろ。」
「…やるじゃない。褒めてあげるわ。ストーカーやろう。」
「ストーカーは褒め言葉じゃないし、彼氏にかけていい言葉でもない!」
いつものやり取りだ。くだらない朝のかけあい。しかし、いつもはこの後、香子の少しだけ満足げな表情を見れるものなのだが彼女はうつむいて黙っているままだった。
「…なにかあったのか?」
思わず繰り返してしまった。しかし、香子は何も言わない。強情で頑固者の彼女の口を開かせるのはそう簡単ではない。先にしびれを切らしたのは、割り込むように入ってきたチャイムだった。
「昼休み時間あるか?そうだなー、屋上でごはんでも食べながら話さないか。」
彼女は無言でうなずくと、振り返って自分の席へと向かっていった。
うん?あいつ少し太ったか?
午前中は大した授業もないせいか、香子のことが頭から離れなかった。授業中も香子の横顔は思いつめたように沈んでいて、僕だけでなく僕の友達、兼香子の知人であるところの燈木吉野 (あかりぎよしの)も同じように気にしていた。
「京くん、京くん。なんだか御縁さん変じゃありませんか?喧嘩でもしちゃいましたか?」
なぜか吉野は僕らに敬語を使う。敬語と言っても、敬意などは微塵も感じさせないところがあるから僕もあまり気にならない。恐らく喋りやすいからだろう、そう考えるともはや小馬鹿にされている気さえしてくる。
「喧嘩なんてしてねーよ。僕もよく分からないんだ。昼休みにまた話すことになっているけど、今のところは何もわかってない。」
吉野とは高校1年の頃から結局3年間同じクラスとなった。付き合いだけで言うと、香子より長いことになる。香子と吉野が知り合ったのは2年のクラス替えの時だから現時点で1年。彼女らはまだ友人と呼ぶのさえ、お互いためらってしまうような難儀な関係だ。そんな吉野でさえ香子の様子が気にかかるくらいだから今回の香子はよっぽどなのだろう。
「ふーん、京くんでもわからないのですか。アレですかね、例の日とか。」
吉野がにやりと楽しそうに笑った。
「例の日?今日は何か重大な日ってことか?何かあったか?」
「いやですよ、京くん。私にこれを言わせるんですか。君はとんだ変態なのだから困ってしまいます。ガールズデーですよ。女の子の日というやつです。またはプール見学病とかそういうとこです。」
「ああ、それなら違う。たぶん2週間後くらいじゃないかな。」
「…君はとんだ変態なのだから困ってしまいます。」
「どうもありがとう。お察しの通り冗談ですよ。」
結局、吉野との話からはなにも分からなかった。まあもともと期待はしていない。しかし、いったいぜんたい香子はどうしたのだろう。あれこれ理由を考えてみたけれど、どれもしっくりこない。返ってきた小テストも満点だったみたいだし、香子が嫌いな国語の授業も今日はない。
それに本当に2週間後ぐらいのはずだ。
分からない。分からない。
と、こんな感じで考え出すと発端がどうであれ僕の場合は止まらなくなってしまう。無意味な妄想がブラジルあたりに不時着したぐらいで昼休みになってしまった。
ちなみに最後に考えていた可能性は「香子が登校中おばあさんに道を聞かれたが、颯爽と現れた見た目DQN風の男がああ、そこなら俺が知っていますよと割り込んできて、しまいにはおばあさんの荷物を持って上げちゃったりして、ポツンと何もできずに取り残された香子が嗚呼、私は何のために生まれたのだろう、と社会の理不尽な攻撃をきっかけに自分の存在を問いただすはめにあったゆえの不機嫌」について真面目に考えていた。
しかしまあ、これはアマゾン川に流してくれてかまわない。
昼休み、朝の約束通り香子を連れて屋上までいった。香子は朝と同じ様子だ。
屋上のドアを開くと春の陽光が惜しげもなく僕らに降り注いできた。無造作に置かれた屋上のベンチに座っても、しっかりと体を芯から温めてくれる。幸い、僕らの他に生徒は見えず香子の警戒心も少し緩んだように見えた。
「それで…どうしたんだ?やっぱり朝から変だぞ。」
話は僕から切り出すことにした。さもないと、いつまでも屋上にいそうな気さえする。
「どうもしない、なんて言えないわ。正直、正気でいるのさえ難しいもの。狂いそうなの、いくらなんでも。」
僕は素直に驚いた。今まで香子がこんな風にまっすぐ弱音を吐いたことは極めて稀である。
僕はようやく事態の緊急性を自覚した。もしかしたらこの町にゴジラでも来るのかもしれないと、真剣にそんなことを考えていた。彼女の悩みは、弱気は、本物である。ということはゴジラだろうが、恐怖の大王だろうがそれは僕の世界の本物になるのだ。僕は香子の、恋人の助けになりたい。
香子は開けてもいない弁当箱をベンチに置いて、席を立った。そのままふらふらと僕の後ろへ進み、金網に手をかけた。 僕もつられて席を立ったが、その場から動けずにいた。
「…なにがあったんだ?教えてくれ。」
長い沈黙。僕らが、世界が、沈んで、黙る。
「…う……はえ……の」
「え?」
香子は顔を耳まで赤くしている。振り返った彼女の目は少し潤んでいるように見えた。その目に浮かんだ涙が絶望感からなのか、恥ずかしさからなのか、僕にはわからない。うつむく彼女を下から覗くように頭を近づけようとした瞬間、何かを取り戻した香子がまっすぐ僕の目を見ていった。
「背中から腕が生えたの」
彼女は恥ずかしそうに、苦しそうに、困った笑顔でそう言った。
この時の僕は、かの有名な悲劇になぞらえたかったわけではない。それでも頭で、目で、耳で。
鼻で、腹で、心臓で、理解してしまった。閃いてしまった。
どうやら僕らの世界の関節は外れてしまったらしい―。