4
4
あれから数ヶ月が経った。
母親に連れていかれた後、美祢は診療所に戻ったらしい。本来の予定では翌日に発つはずだったが、あまりに衰弱が激しすぎて滞在を数日伸ばし、それから都会に帰ったと聞く。
美祢を連れ出し瀕死にさせた戦犯たる私は、その間は一歩も部屋の外から出られなかった。当然、彼女と別れの挨拶を交わすなんて許されるわけもなく。
両親は私の行動のせいで、元々偏見に晒されていたのに、ますます好奇の目を向けられるようになっただろう。だけど、何も訊かずにただそっと頭を撫で、抱きしめて、おいしいご飯を食べさせて、一緒に寝てくれた。
夏休みが終わっても、しばらくの間は行けていなかった学校。脱け殻のようになりながらもどうにか通えるようになったのは、両親のおかげだ。
だけど美祢がいなくなった世界は、やはり色褪せて見えて。出会う前はそれが普通だったくせに、以前どうやって世界を目に移していたのか想像できない。大して変化のない毎日を淡々と送った。
美祢がいなくなった以外に、ただひとつ大きな変化があったとすれば。都会で生活していたはずの桂弥が、この村の中学校に転校してきたことが挙げられると思う。
叔母さんのところ、つまり診療所で面倒を見てもらっているらしい。
なぜ、なんて分かり切っている。私を心配してくれているのだ。
分かっているくせに、桂弥と二人でいると美祢をより色濃く思い出して辛かった。彼と一緒にいるときは、つまり美祢と三人でいる時だったから。美祢という大切な存在を欠いてしまっていることを、思い知らせるから。
「咲月」
中学校の屋上でぼんやりとしていたら、聞き慣れた声が私の鼓膜を揺らした。
この学校で私に話しかけてくるなんて奇特な人間、一人しかいない。
「……何、桂弥」
空を見上げたまま、そちらを見もせずに返した。
「やっぱりここだった」
彼の呼ぶ私の名に、敬称が付かなくなって久しい。それほどの時が経っているのに、私たちの傍に美祢はいない。
私の隣に並んでフェンスに凭れ、桂弥は空を見上げる。彼は無言だったし、私も何も言わなかった。
あの雑居ビルの屋上には、美祢が小川で倒れた日以降一切行っていない。美祢を思い出して辛いから。だから、桂弥と会うのは最近では専らこの場所だった。
美祢に繋がるものを見るたびに胸が塞ぐのは、もう分かっている。これ以上空虚な思いに包まれて、無気力になって、その末に両親の顔を曇らせてしまうのは嫌だった。
どれぐらいそうしていただろうか。
「……渡したいものがあって来たんだ」
フェンスに額を預けていた私は、久方ぶりに口を開いた桂弥をようやく振り返る。
彼が私に渡すようなものに心当たりはない。ただ眉を顰めることで疑問を呈すると、桂弥は何かを差し出してきた。
「……美祢ちゃんから」
彼の手にあるのは、白色――美祢の色をした封筒だった。
「美祢っ……! 美祢、美祢はどうなったの……!?」
あの子が消えてからの数日間、私は幾度も問いを繰り返し続けた。でも誰も答えてはくれなくて、帰ったのだということを返されるだけだった。
そんなことは知っている。私が欲しいのはそういう答えじゃないのだ。
あの子が元気でいるのか、無事暮らしているのか、あの神々しい空気を纏ったままで生きていてくれているのか。それだけなのだ。
桂弥は私の問いに一瞬くしゃりと顔を歪ませて、唇を噛み締めた。何かを耐えるように深い呼吸をひとつ、ふたつ、みっつ。
芯が定まった雰囲気の彼を目の前にして、逆に揺らいでいく私。その瞳を捕らえ、ゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「…………亡くなったよ」
小さな声。だけど聞き逃しようがない距離。
「――……は……?」
この人は今、何と言った? 亡くなった、そう言ったの?
亡くなった、亡くなる、なくなる、いなくなる、死ぬ。
美祢ガ、死ンダ?
「ふ……ざ、け……」
様々な感情がごっちゃになって、聞き取ることができないだろうというほどに声が震える。
「ふざけた嘘言ってんじゃないわよッ!!」
「んな嘘つくわけわけねぇだろうが!!」
掴みかかる私に、桂弥は初めて聞くような荒い語調で怒鳴った。
分かっている。本当は分かっている。そうだ、桂弥はそんな笑えない冗談なんて、言わない。
「……う……そ、よ……」
ばたばたと、涙が散っていく。日の光で雫が煌めいた。
受け入れたくないのに、分かりたくなんかないのに、どこかで納得する自分がいた。
――最後の思い出に。
儚げな雰囲気。
――来られません。
生命を枯らしていくような咳。
――……一生忘れません。
触れたら今にも壊れそうだった存在。
――わたしとは違う。
数々の言動、笑顔。その総てが示していた。
美祢はきっと余命幾ばくもなかった。そして最後の我儘として、大好きな田舎の空気感に触れたいとご両親にお願いしたのだろう。
そうして選ばれたのが、この村だったのだ。私が憎みながらも愛し、育ってきた村に、何の偶然か美祢はやってきてくれた。
嗚咽が込み上げる。
桂弥の存在があるのが分かっていても、止まりそうもなかった。胸が張り裂けそうで、痛くて痛くてたまらない。
「……読んであげてよ。美祢ちゃんが、ご両親の目を盗んで……どうにか君に遺した手紙なんだから」
封筒に私の涙が落ちて染みができる。
できれば永遠に読まないでおきたかった。読んだらきっと私は立ち直れない。
だ け ど
自分の中で囁きかける声があり、ゆっくりと封を解いた。
私はこれを読まなければいけない。美祢は最後まで逃げずに自分の生命と向き合ったのに、まだ生きている私が逃げ回るわけにはいかないのだ。
覚悟を決め、ふたつ折りにされた便箋を開く。
そこには、懐かしい美祢の字があった。
『咲月・ネシェリー様
この手紙が貴女に開かれた頃、季節はいったいいくつ巡っているのでしょう。
すぐに開いてくれたのなら秋でしょうか。それとも冬? はたまた、ずっとずっと後の夏でしょうか。
でも、たとえいつだったとしても、この手紙を開いてくれたこと、嬉しいです。
あの日、母が貴女にひどいことをしたそうですね。母の代わりに謝ります。本当にごめんなさい。
そしてもうひとつ、それ以上に何度も繰り返して謝らなくてはならないことがあります。
わたし、貴女にずっと嘘をついていました。
この病気は、本当はちっとも軽くなどなかったのです。
14歳を迎えた今年の春、わたしは余命宣告を受けました。
あと半年。それが私の命の期限でした。
ずっとこの身体で生きていて、人よりずっと短い間しか生きていられないだろうことは知っていました。年々思い通りに動かなくなっていっていることも、自分自身が一番よく分かっていました。
だからショックはあったけれど、驚きはしなかった。そして、それを聞いて決めたのです。
できる限り精一杯生きよう。したかったけれどできなかった好きなことを、生きていられる限りたくさんしていこう、と。
そのひとつが――というよりは、それそのものが、自然に囲まれて生きることでした。
最高の医療を受けられるようにと、名医のいらっしゃる病院の近くに両親が家を構えてくれていたことは、痛いぐらい分かっています。そのためには都会が一番いいのだということも。
だけど本当は、病院と家との往復の生活が嫌で嫌で仕方なかった。
私が本当に心から安らげるのは、植物や空、生き物たちという、あらゆる自然と近い場所にいる時だったのです。
だから両親に無理を言って、咲月の住んでいる村に滞在させてもらうことにしたのです。
貴女は知らなかったのでしょうけれど、私は余命宣告を受けてからずっとあの村にいたのですよ? もっと早く出会っていたかったと、それを一番後悔しています。
あの1ヶ月間は、私にとって夢のようだった……。
貴女に会って、貴女に色々なものを見せてもらって。この世界にはこんな美しく素晴らしいものがあるのかと、感動し通しでした。
幸せでした、とてもとても。
でも、分かります。私はもういくらも生きられない。
後悔はたくさんあります。したかったこと、見たかったもの、感じたかった世界、たくさんあります。
だけど咲月。私は、貴女に会えて幸せでした。後悔の数々を埋め合わせしても余るぐらい、とっても。
貴女へ向けた感情が友情なのか、はたまたそれとは遥かにかけ離れた何かであるのかは、正直分かりません。
けれど、大切です。大好きなのです。
そんな大切なあなたに、悲しい思いをさせてごめんなさい。辛い思いをさせてごめんなさい。
死ぬことが怖くないと言ったら、それは嘘です。怖くてたまりません。
だけどそれ以上に怖いのは、もしかすると私の死が貴女を縛りつけてしまうのではないのか、ということです。自惚れなんかじゃなく、貴女が私を大切にしてくれたと知っているから。
だから、お願いです。わたしからの最後のお願いです。聞いてくださいますか?
わたしに縛られないで。わたしを忘れてください。自由に生きてください。
貴女の声、貴女の姿、貴女の言葉、笑顔。
大好きでした。
大好き、でした。
だからどうか、気に病まないで。私の死は貴女のせいではないし、誰のせいでもないのです。
ただ、天がそう定めただけのこと。老いて生を満喫して消えていく命があるように、若くして道半ばで散る命があるだけのことなのですから。だけ、と言ったら語弊があるのかもしれませんが。
でも、そうしてこの世に未練があるのなら――きっと、また会えます。私じゃない私となって。
だからその日まで、さようなら。また、いつか会いましょう。
長瀬美祢
追伸 何だか今、貴女の銀色が見えた気がします』
「……ね、みね……っ!」
涙が止め処なく溢れては散っていく。
忘れない。忘れるはずがない。忘れられるわけがないじゃないか。
でもね、美祢。あなたがそう願うのなら、縛られずには生きたいと思う。
「………ふっ、ぅ……くッ……」
ごめんなさい、美祢。ごめんなさい。
「美祢……!」
私も好きだよ。大好きだよ。
あなたと同じように私だって、あなたへの感情が友情か恋かなんて、そんなこと分からない。きっと一生。
この気持ちに当てはまる言葉なんて、永遠に見つからないのだと思う。
だけど、大切だった。大好きだった。
あなたが今、この世界のどこにもいないなんて、全く信じられない。手を伸ばせば触れられる気がするのに。
そんなものは幻影でしかないこともまた、よく知っていたが。
フェンスにしがみつこうとしても叶わず、ずるずると座り込む。その隣に寄り添うようにしてくれる桂弥にすがるように、ぎゅっと袖を掴んだ。
「……け、や……」
顔を上げた彼に、小さく問う。
「……美祢……苦しんでた……?」
最期の瞬間、あの子は苦しんでいたの?
数拍置いて、桂弥は天を仰ぐ。
「……静かに、笑って逝ったって聞いてるよ」
笑っていた――。
救われやしない。本当は救われたわけではない。しかし、それを聞いて少しだけほっとした気がした。
美祢、美祢。呼びかけても届かない。知っていても呼びかけたい。
「…………ないても、いいのかな……?」
鼻を啜りながら、どうにかこらえようとしてもできなくて、どうにか笑みを作ろうとしながら尋ねる。
「……もう泣いてるじゃん」
彼はそれに微かに笑ってみせつつ、でも、と言葉が続いた。
「いいんだよ。泣いて。辛くて悲しいなら、いくらでも」
穏やかに発せられる言葉と、頭をぽんぽんと撫でられる感触。それらのせいで余計に涙が溢れて、フェンスの前にへたり込んでしがみついたまま、ひたすら泣いた。
桂弥はその隣で金網に凭れ、私の手を握ってくれていた。私が泣き止むまで、ずっとずっと。
視界の端に映った彼の頬にも、一筋だけ涙が伝っていた気がした。