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「咲月」
夏休みも終わりに近づいたある日。今日は体調があまりよくないらしく外に出してもらえなかった美祢を、私は見舞っていた。
最近、こういうことが増えた。
「ん。ほら、美祢が好きな飴」
駄菓子屋で購入した飴を渡してやると、いつものように表情を輝かせる。だけどその直後、エネルギーを枯らすような病的な咳を繰り返して漏らした。
「……大丈夫?」
それに背中をさするがなかなか治まらず、こちらの心臓がきゅうっと締め付けられるような感覚を抱いてしまう。
しばらくしてようやく落ち着いて、美祢が「大丈夫です」と微笑んだ。
だけど私は腑に落ちなくて少し眉を顰める。
彼女の病は、本当に『少し悪い』程度の病気なのだろうか。
ここのところずっと感じていた疑問。だがそれは口にせず――いいや、口に出せず、ただただ何度も背をさする。
「ありがとうございます」
「……ううん」
小さく笑みを返しながら、私の腕に抱きついてくる彼女の頭を撫でた。
ここ最近、美祢の体調は優れない。外には一切出られずただ寝ているしかないことに、退屈しているのは何となく分かった。この子は意外にアクティブな子だから。
美祢が肩に凭れてくるので、今度は肩をとんとんと繰り返して優しく叩く。心地よさそうに笑う彼女に小さく笑みを返して、ただぼんやりと窓の外の木漏れ日を眺めていた。
「……咲月」
呼び声に、黒曜石の色をした瞳を覗き込む。
美祢は笑おうとしたのか口角を持ち上げて、だがその試みは中途半端に終わった。笑みになり切れない奇妙な表情。それがあまりにも美祢に不似合いで、また心臓が痛みを発した気がする。
聞きたくないと心が叫び出したけれど、耳を塞ぐことは叶わなかった。
「私、明日で都会に帰ることになりました」
日の光が柔らかく入り込む、診療所の一室。そこに響く静かな声。
まだ夏休みは終わりじゃないよ、とか。何でこんな唐突に、とか。もっと一緒に行きたい場所があったのに、とか。いろいろな思いが頭の中をぐるぐる回る。嘘だ、と心のどこかで拒否していた。
「――そっか」
でも私はいい子ちゃんでいたくて。「行かないで」なんて縋りつくような台詞、吐き出すことができなかった。
別に今生の別れじゃなし、と考えて気分を切り替えようとするのに、上手くいかない。
美祢も美祢で、何か言葉を続けようとしては上手くいかずに、幾度も唇を開閉させている。だからこそ私が気の利いたことのひとつでも言うべきなのだろうに、大人ぶりたいだけのガキにはそれが叶わない。
沈黙をこれほど息苦しく感じるなんて、彼女との空間では初めてのことだった。
「咲月、」
美祢はやがて、抱きついていた腕の先にある手を弱々しく握ってくる。
「……ん?」
握り返しながらもう一度目を覗き込むと、儚げな外見に似つかわしくないほどの強い目で、真っ直ぐに射抜いた。
「わたしを連れ出してください」
予想だにしなかった発言に、さすがの私も呆気にとられる。
「は……?」
「明日の早朝、ここを発ちます。だから」
お願いです、最後の思い出に。すがりつく手を、彼女を思うのならば振り払うべきなのに、それができない。
「だって、来年も来られるんでしょう?」
何の根拠もなく尋ねる。
「来年の夏、また療養に来るんでしょ?」
だったら今無茶をしてまで外出する必要性などない。もっと身体がよくなってからだって構わないどころか、本来そうしなくてはならない。決して無理の利く身体ではないのだから。
「来られません」
だから、その言葉はいやにクリアに部屋の中に満ちた。
来られません、と美祢はただ繰り返す。やっぱり、ひたすら私にしがみつくようにして。
「今の時間なら、旦那さまも奥さまも診察中です。両親も夜にならなければ来ません。お願いです、お願い――咲月が連れていきたいと言っていた水辺に連れていってください」
服を掴む手が、震えていた。
どうして来られないの? どうしてそんなに泣きそうな表情をしているの?
訊きたいことは、山ほどあったくせに。
「……分かった」
意気地のない私にできたのは、震える小さな手を握り返すことだけだった。
まずは、靴を玄関からこっそりと持ち出す。それから美祢の小さな体を背負って、診療スペースからは死角になっている窓から出た。あとは人目につかない森を脇目も振らずに駆けるだけ。
美祢は想像していたよりもずっと軽くて、羽根のような重さの彼女を背負ったまま全力で走ることは簡単だった。何せ、私は昔から体育の成績だけは群を抜いてよかったから。
背中にいる美祢は、弱々しい力で私の服をぎゅっと掴む。そうしていなければ自分の存在を保っていられないと言うみたく。
「……ここ」
どれぐらい走ったのかは、追手がないかということにばかり気を配っていたので覚えていない。上がった息の隙間に声をかけて、岩場にそっと美祢を降ろした。
ビルの屋上と同じくらいに好きな場所であり、美祢をずっと連れてきたいと思っていたのは、村の外れの森の中に流れる小川だった。
澄み切った川の水は日の光を反射して煌めく。どれぐらい澄んでいるかというと、泳ぐ魚の姿を容易に目で追えるぐらいだ。
そして今の時期、そこには青々とした木々の色が映って、コントラストがとても美しい。
秘密基地のようなもので、今まで誰にも教えたことはなかった。
「きれい……」
いつかと同じように、感嘆の吐息を漏らす美祢。
眩しいけれど目が離せない風景や、優しく鼓膜を揺らす水の音を、彼女も気に入ってくれただろうか。
確認したくてちらりと窺うけれど、輝く水面をまるで刻み込むようにじっと眺めているので、私はただそんな美祢を見つめていた。
声をかけるのを躊躇わせるような雰囲気は、およそ美祢らしからぬものだ。
美祢のイメージといえば、ほわほわしていて、生クリームみたいに柔らかなものしかなかったのに。今はこんなにも硬質であるのと同時に、触れたらいとも簡単に割れてしまいそうだった。
「美祢……?」
不安になって小さく呼ぶと、美祢は「はい?」と顔を上げて私を見た。その時にはもう、美祢に見えた異常な雰囲気は消えている。
「……何でもない」
「そうですか?」
何となく口に出すのは憚られて小さく首を振ると、にこにことしながら逆に尋ねられる。それにはただ頷いたら、相変わらずのふわふわとした笑みを浮かべながら、またも抱き着いてくる。
「み、」
「綺麗です」
その行動を怪訝に思い、声をかけようとした。しかし当の本人の言葉で掻き消される。
美祢は変わらない様子で微笑むから、私はやっぱり訊けなくて。わけが分からない感情が込み上げて、ただただ弱く力を返す。
中2の夏休みという、人生全体で考えればほんの短い間だけ交わった人間だ。そのうち思い出なんて消えていく。そう考えて「もう来られない」という台詞を飲み下すには、彼女の存在は私の中で大きくなりすぎていた。
誰にも侵されたくなかった聖域への侵入を許した時点で、美祢が私にとって特別なのは明白だ。そんな『特別』な人から、もう自分からは会いに来られませんと突然言われて。それで容易に納得できるのなら、私はきっと人間じゃない。それを越えた何かだ。
「一生の思い出にします」
「そんな大袈裟な……」
いつだって連れてきてあげるよ、と笑うと、美祢はまたふと真顔になった。
「いいえ。一生の思い出にします。一生忘れません」
不意に紛れ込む真剣な色。何だか無性に恐ろしさが襲って、もう一度私は美祢をぎゅっと抱きしめようとした。
でも彼女はするりと私の腕を抜け出し、サンダルを脱いで水の中に入っていく。
「水がとても綺麗ですね」
「……うん」
私はただ目で追うことしかできなかったけれど、彼女がぱしゃぱしゃと飛沫を上げさせるので、こちらにも涼しい空気が流れてくる。水滴に反射する光が色素の薄い目を刺して、少し眉を顰めた。
「……最後にこんな美しい景色が見られてよかったです」
その瞬間、美祢が大きく両手を広げる。初めて一緒に星空を眺めた夜と同じ仕草だ。
美祢があの時以上に眩い。まるで自分で光を発しているかのよう。
「木も水も空も、皆が生き生きしている。素晴らしいですね」
わたしとは違う――。
「え?」
美祢は今、確かにそう言った。
「美祢?」
こちらを振り返った美祢は、煌めいているのに更なる儚さを纏っている気がした。
だけど、笑っていた。未だかつて見たこともないほど神々しい、満面の笑みを湛えている。
「美祢――」
一度呼ぼうとするのと同時、ばしゃん、と激しい水音が響いた。上がった大きな飛沫。
「美祢!?」
足を滑らせたのかと思い、私も急いで水の中に入る。
幸い深さはさほどなく、流れも緩やかなので、苦労せず辿り着くことができた。けれどその間も美祢は静かな水の流れの中に倒れたままで、起き上がらない。浅いのだから溺れるということもないだろうに。
「美祢、美祢!? ……っ美祢!?」
抱き上げたその身体は、燃えるように熱かった。揺さぶって顔を軽く叩いても目を覚まさないところを見ると気絶しているようなのに、いつものあの咳が止まらない。エネルギーを枯らし続けていくような、あの咳だ。
「美祢……っ」
途方に暮れそうになって、ぎゅっと美祢を抱きしめる。
急いで戻らなくては、と気持ちだけが急く。
私には何もできない。ただのガキで、何の力もなくて、私じゃ美祢を助けられない。
止まらぬ咳を宥めようと背中をさすりながら、さっき駆けてきた道を逆に辿る。無茶な走り方に草が私の肌を引っ掻いたけれど、構ってはいられなかった。
「……さ、つ……き……」
しばらくして意識を取り戻したのか、ぐったりしたままながら美祢が薄目を開けて私を見る。
「もうすぐ着く! もうすぐ診療所だから……大丈夫だから!」
こんな泣きそうな声、自身でも久しく聞いていなかった。それにますます泣きそうになる。
私が泣いてどうするの。私がしっかりしなきゃ。私しか美祢を助けられないんだから。そうやって心の中で言い聞かせながら、懸命に走る。
「……忘れて、いい……から。もう、いいから。忘れて――……」
美祢の目尻から涙が伝う。
誰が、何を、誰のことを忘れろっていうの。分からない、分かりたくもない。
「……縛られ……なくて、いいから……。いい、です、から……自由に……」
それなのに美祢は、咳の間にぜいぜいと息を漏らしながらも、絞り出すようにして言葉を紡ぐ。
「……じ、ゆうに……いきて……」
涙を浮かべたまま彼女はまた意識を失い、言葉尻が掻き消える。
美祢、やめて。何でそんなことを言うの。忘れない、忘れられない。忘れたくなんかない。
「忘れない……!」
走り続けて息が上手くできない中で、振り絞って叫ぶ。
聞こえていないのは知っていて、それでも伝えたかった。美祢はもう意識を取り戻しはしなかったけれど、そうだとしても届けたかった。
美祢の体が熱い。私の体も熱い。もう、どちらの熱かも分からない。
「……っ咲月ちゃん!」
体を引きずるようにして診療所近くに辿り着いた時、桂弥の声が聞こえた気がした。
「け、いや……」
よく見知った人とようやく会えたことで一気に涙腺が緩んで、声が震える。桂弥は焦ったような表情で駆け寄ってきた。
「咲月ちゃ――美祢ちゃん! やっぱり美祢ちゃんも一緒だったんだ! そんなびしょ濡れで……!」
桂弥の向こう側に村の人たちが見える。きっと美祢を探していたのだ。ずっと寝ていて、家を出ることもできないくらいだったはずの美祢が唐突にいなくなったのだから、当然だ。
「美祢、美祢が……っ」
ぼろぼろと涙が溢れる勢いに任せて桂弥にしがみつく。
「咲月ちゃ、」
「美祢!」
彼が何かを言おうとした瞬間、聞き慣れない声が聞こえた。駆け寄ってくる人は美祢とよく似た容貌をしていて、美祢の母親だと一瞬にして悟る。
「貴女が美祢を連れ出したのね!?」
私の腕から美祢を奪い取ったと思った次の瞬間、乾いた音が響いた。直後、私の頬が熱を持ってヒリヒリと痛み出す。頬を張られたのだ、と納得するか否かのうちに吹っ飛んで、桂弥のものらしき腕に受け止められた。
「長瀬さん!」
慌てたような桂弥の声。まだ続く痛みと、流れていく熱く赤い液体。そんな情報を五感で得ながら、ああ爪で切れたのか、とどこか他人事のように理解したが、何も言う気にはならなかった。
だって、私はそれだけのことをした。
「二度とこの子に近寄らないで!」
力の抜けた美祢の体を抱え、肩を怒らせて母親は診療所の中に消えていく。ヒステリックに怒鳴り散らすような声も聞こえた。
取り残された私は、血を拭うこともできず、ただ地面にへたり込む。呆然としていたのかもしれない。
何も言えない。何も言えるわけがない。美祢をあんなふうにしたのは、紛れもなく私なのだから。
「……め、ん」
殴られた衝撃で一度引っ込んでいた涙が、再び勢いよく溢れ出す。
「ごめん……!」
しゃくり上げるせいで息ができない。
いいや、このまま止まってしまえばいいんだ。呼吸なんて二度とできなくなって、この身も朽ち果ててしまえばいい。
「咲月ちゃん……」
近いはずの桂弥の声が、腕の力が、遠い。村の人たちが囁き合う陰口が、尾鰭の着いた噂が、遠い。
もう、それでいい。美祢がいなくなった世界なんて、何も見たくはなかったのだ。