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この世界において、人間なんてちっぽけだ。大抵の物事なんて、人間に全く関係のないところで進んでいく。
そんなことを当たり前のように考えていたあの頃の私は、とても冷めた――そして、たった十年やそこらを生きただけで世の中の総てを知った気になっている、生意気なガキだったのだ。
自分の住んでいた小さな村で一番大きな、雑居ビルの屋上。そこのふちギリギリに立ち、眼下に広がる風景を眺める。山、小川、畑、田んぼ。ここは笑ってしまうくらいに典型的な『田舎』だった。
「……くだらない」
はっ、と小さく鼻で笑う。
コノ世界ナンテ、何モカモ、クダラナイ。
私の両親は結婚する前の若い頃に一度この田舎を訪れて惚れ込み、それぞれが大学を卒業して結婚するのと同時にこちらに引っ越したという。就職先もこちらで見つけて。
両親は好きだし、この田舎の空気も大好きだった。一部の人種が嫌いだというだけで。
たとえば、噂好きなオバサンたち。西洋とのハーフの父や、日本人ながら色素が薄くて外国人のような顔立ちの母に奇異の目を向けては、何事かをこそこそと囁き合うのだ。引っ越してきた直後ならまだしも、ここで暮らすようになって何年が経っていると思っているのだろう。
そういう両親の元に生まれた私も、クォーターであるが故に銀髪や蒼い瞳という、日本においては特異な外見をしている。こんな田舎だと嫌でも目立ったし、同じように奇異の目の対象にされた。
それだけに限らず、幼く無邪気な男子たちに幾度もからかわれた。両親はやはり都会にいた頃に似たような目に遭ったらしいが。今では聞き流しながら鬱陶しいと一睨みするだけで追い払えるけれど、当時は傷ついた。
そのために、中学生頃にはだいぶひねくれた性格が形成されていたのである。
唯一安らげるのは、高いところから風景を眺めているとき。昔から高いところは大好きで、両親もそうだから、多分遺伝なのだろう。奇妙なところが似るものだ。
考え事をしながら、皮肉っぽく口角を持ち上げた瞬間だった。
「早まってはいけませんんー!」
そんな悲鳴に近い声が耳に届き、体に衝撃がやってきたのは。
は? と思った次の瞬間には真下の風景が見えて、本気で血の気が引いた。
「あああぁぁ!」
さっきと同じ声が響き、私の体を引っ張る。何とか体を捻って体勢を立て直し、その力にも助けてもらって、安全な方へとへたりこんだ。
心臓が今にも口から飛び出さんばかりに暴れている。それはそうだ、もう少しで真っ逆さまに落ちそうになったのだから。5階建てのビルの屋上である、ここから落ちたらいくらなんでも助からない。
「あっぶな! あんたいったい何やってんのよ、殺す気!? 危うく落ちるところだったじゃ、な……い……?」
「だだだだ駄目です! 飛び降りなんて早まられては! よければわたしがお話を聞きます、か……ら……?」
お互いに半ば悲鳴に近かった声が尻窄みの疑問形になったのは、相手の言葉のせいだと思う。
……ちょっと、待て。
今の言葉に鑑みるところによると、私は今にも飛び降りそうに見えていた、ってことか?
そして相手は相手で、私には全くそんな気はなかった、と分かったわけで。
恐らく相当に間抜けな顔をしていただろう私は、一気に脱力した。
「……飛び降りようとなんてしてないわよ」
新たに吐き出した言葉にも、多分に呆れが混じっている。
確かにややこしい位置に立っていたかもしれないけれど、勘違いされて突き落されそうになった身としては、多少刺々しい言葉になってしまうのも無理からぬところがあると思うのだ。
「ご、ごご、ごめんなさい! あまりにもじっと下をご覧になっていたものですから……!」
そして、勘違いした張本人も当然ながらわたわたと慌てている。
止めに来たのに誤って逆に殺しそうになった上に、その止めようとしたこと自体が間違いだったと判明したのだ。慌てるのもまあ、やっぱり無理はないけれど。
というか、さっきから何なのだろうか、この言葉遣いは。無駄に丁寧な口調というか。
私はその時になって初めて、まじまじと目の前の人物を眺めた。
真っ直ぐに背中まで伸びた艶やかな黒髪。同じ色の濡れたような瞳に、華奢な体つき。大きな瞳や形のいい唇は、綺麗な輪郭をした顔の中にバランスよく収まっていた。
言い換えるなら、まるで日本人形のような美少女、というところだろうか。
年のほどは私と同じくらいだが、初めて見る顔だった。小学校も中学校もひとつずつしかないような田舎なのだから、年が近い人間は顔どころか名前までだいたい知っている。
じゃあ誰なのだろうか、この日本人形は。
訝しく思いつつ再び少女を見ると、当の彼女は思いっきりぼんやりしていた。
「……ちょっと」
どこに飛んでるのよ、とツッコミを入れようとしたら。
「きれい……」
まるで熱に浮かされたようにして、その少女は唐突に呟いた。
「…………はい?」
「綺麗です」
「いや、だから……はい?」
いったい何が綺麗だというのだろう。駄目だ、何だかもう先ほどからペースを乱されてばっかりだ。
思わずまた脱力しかけると、彼女はふわりと笑う。
「綺麗な蒼色です」
ようやく今まで何を言われていたのかを悟った。
「……よく言われるわ。どうもありがとう」
父と同じ色。私自体が大好きな色だから、誉められれば素直に嬉しい。
「あの、わたし、長瀬美祢です。貴女のお名前を教えてくださいっ」
何が嬉しかったのか私の答えに顔を輝かせながら、ナガセミネと名乗ったその少女は尋ねてくる。
何なんだろう、いったい。何度目かの疑問を心に浮べながら、少し少女を観察した。田舎者特有の気配がないというか、空気が洗練されているというか、とにかく得体は知れなかったけど。
「……咲月・ネシェリー」
別に悪意は感じなかったので、小さくながらそう名乗った。
「サツキ……さん?」
可愛らしく首を傾げて、にこりと笑う。よく似合う仕草を眺めつつ私は頷き、字を訊かれたので手のひらに書いて教えてあげた。
「咲月さん。咲月さんですね」
にこにこと笑うその顔がとても幸せそうだったことを、今でも鮮明に覚えている。
それが、美祢との出会いだった。
後々になって美祢から話を聞いて、なぜ彼女の顔を見慣れていなかったかはすぐに分かった。
彼女は生まれつき肺が少し悪く、普段は病院の都合から都会に住んでいた。だけど長期休みには、どこかしらの田舎で静養しているらしい。田舎の空気は、都会よりもずっと澄んでいるから。
今は夏真っ盛りの夏休み。この田舎に遠い親戚がいて、ご両親と共にやってきているということだった。
寝ていなくて大丈夫なの、と尋ねたら、美祢はふわふわと笑った。
「都会と違って、田舎はとても息がしやすいのです。寝てばかりではもったいないですし」
つまり、田舎に来れば体調もだいぶいいということか。私が納得して立ち上がり埃を払うと、美祢もそれに倣ってぱんぱんとこれまたふわふわなワンピースを叩いた。
そして舞った埃に軽くとはいえ咳き込んでいるのを見て、この子は少しアホの子の気があるんじゃないか、とか私は無表情に考えていた。
「咲月さん」
「咲月でいいよ」
咳が治まったのを見届けてから歩き始めたところで呼びかけられたので、即座に返した。
『さん』付けだなんて、背中が無性にむず痒くなる。残念ながら私はそんなキャラじゃない。
「えぇと……」
しかし、どうやら美祢は呼び捨てに慣れていないのだろう。少し戸惑ったように瞳を揺らしている。
どんなお嬢様育ちなのだろう、とむしろ感動を覚えた。
中学生にして背が一般女性よりもかなり高かった私は、150と少ししかないと思われる美祢を、ひょいっと見下ろした。
不思議そうに元々大きな目をますます丸くして見上げてくる美祢も視線を合わせ、少しだけ笑う。
「じゃあ私は美祢って呼ぶ。だから美祢も咲月って呼んで。それでオーケー?」
こうすれば立場は同等だ、多少は呼びやすくなるだろう。
先ほどのように表情を輝かせた美祢は、予想通りに大きく頷いた。
「はいっ、咲月!」
現金なモノだ、と苦笑混じりながらまた笑う。
普段の私ならここでバイバイしていただろうけど、この美祢という少女はどこか危なっかしく、放ってはおけなかった。病弱だというこの子がもしも途中で倒れでもしたら、と考えたらなおさらだ。
「とりあえず送ってくから、そろそろ家に戻りなよ。時間からしてこれからどんどん気温上がってくるし、逆に体に悪いよ」
それに、日はもう中天に近い。すでに暑いは暑いけど、午後のピーク時には更に上がる。また今日も30度超えかな、と思うと少し憂鬱だ。
「そうですね……都会よりも虫が賑やかですから、より夏らしく感じますね」
私のそんな心情を知る由もないのか、美祢はほんわかした雰囲気でにこにこ笑っていた。
非常階段を使って屋上から下りていき、地面に立つ。その間も、私は好奇心旺盛な美祢に質問攻めにされていた。
いつもここにいるのですか、とか。名字が外国名なのはハーフさんだからですか、とか。もしそうならどこの国ですか、とか。いつもなら鬱陶しく感じるだけの、そんな問いかけたち。
でも、何故だろう。
ここが好きだから大抵はいるよ。ハーフじゃなくてクォーター。父親の母親が外国人だったらしいけど早くに亡くなったから分からない。ひとつひとつ、私は律儀に返事をしていた。
美祢の言葉には毒がなく、一切の興味本位で、却って清々しかったからだろうか。
「どっち? お世話になっている家」
訊けば、あっちです、と森の方向を指す。
「……あれ。あっちって、診療所の方?」
指の方向を目で追い、ふと気づいた。
「はい。奥さまが母の遠い親戚なのです」
微笑むその表情に「ふうん」と呟きつつ、診療所の主たちを思い浮かべる。
そこの医師といえば、阿賀野先生夫妻だった。夫婦共にとても腕のいい医師と評判だ。
そういえば、奥さんの方がそれはそれはたいそうなお嬢様だったらしい、ということは聞いたことがある。恵まれた立場を捨てて結婚し、夫の田舎についてきたという理想的な妻だと。
旦那さんの家は大変な貧乏で、相当に苦労しながらも都会の有名な大学で最高の教育を受け、首席で医学部を卒業したらしい。自分の育った医師不足の田舎へ、ただ恩返しをするために。
学生時代に奥さんは旦那さんに出会い、その目標を聞いて感銘を受け、全部捨ててまでついてきたんだとか何とか。
しかし、夫婦揃ってとても見習えない精神だ。そういう噂の『元お嬢さま』の奥さんの遠縁ということは、やはり間違いなく美祢もお嬢さまなのだろう。
得心がいった。美祢の親戚だと思われるようなお金持ちなんてこの辺にいたっけ、と思っていたところだったから。
「じゃ、ちょっと歩かなきゃね」
むしろ、よくもまあこの暑い中をあそこからここまで、と思う。
もしかして、ほぼ意識せずにほわほわ歩いていたのだろうか? 有り得なくもないから怖い。その状態が容易に目に浮かび、自らの想像にぐったりした。
「咲月?」
唐突に脱力した私が不思議だったのだろう、美祢は再びきょとんとしていた。
何でもない、と首を振り、歩幅を合わせて歩いていくと、美祢は不思議そうにしつつもついてくる。ワンピースの裾がふわふわと揺れていた。
「……そういえば。私、そんなに飛び降りそうに見えてたの?」
訊こうと思って訊きそびれていたので、美祢に視線を合わせて尋ねる。
「え、あ、えぇと! ……銀色が」
慌てながら言葉が紡ぎ出されるのは二度目だが、先ほどは「綺麗」で今度は「銀色」だ。全く噛み合っていない。再び「はい?」となったのは言うまでもなかった。
でも、銀色と言われて思い浮かぶものなど、私にはひとつしかない。
「銀色? ……これ?」
ショートヘアの一房を摘まんで示すと、美祢はこくこくと繰り返し頷いた。
「それが日の光に透けて光っていて……とても、綺麗だと思って」
どこか気恥ずかしそうにしながら呟くので、私はとりあえず口を挟まずに耳を傾けた。
少し興味深かったのだ。純真なこの子にはこの世界がどう見えているのか、ということが。
「見とれていたのですけれど、立っていらっしゃる場所に気づいて、一瞬で血の気が引いてしまって」
「いかにも飛び降りそうだったって? っていうか、それ以外の可能性が思い浮かばなくなっちゃった、と」
思わずくすくすと笑ってしまう。その台詞にこれ以上ないほどに慌て出す美祢が面白かった。
「い、いえ、あの、ええとっ……」
わたわた、わたわた。ひたすらに狼狽するその姿が可愛い。
こういう女の子が世界には愛されるのだろう。ひねくれ、世界を恨み、世界に愛されることを拒んでいる私とは違う。全然、違った。
「……あ、見えてきた」
診療所近くになると木陰が増え、過ごしやすさが変わる。日の光が直接は当たらない分、ずいぶんと温度が低いようにも思えた。
「やはり空気がおいしいです」
先ほどまでの慌てぶりはどこへやら、にこにこふわふわと笑っている美祢。くすっと笑って、歩を更に進めた。
「あ、美祢ちゃん! どこまで行っていたの?探したのよ」
間もなく、そう声をかけて駆け寄ってきたひとつの影がある。美祢がそちらを見、私もつられて視線を遣った。
「……あら? お友達、できたの?」
「奥さま」
美祢の言葉通り、声の主は奥さんだった。すらりと背が高い美女と評判で、涼やかな瞳は患者思いの優しげな目をしている。
「えと……はいっ! さっきお会いしたばかりですけれど」
華やいだ雰囲気でほわほわと笑ってみせている美祢に、私は「ん?」となった。
いつの間にか友達認定されていたのか。本人の言葉通り、さっき会ったばかりだというのに。まあ、いいけど。
自己解決している私の様子を見たらしい奥さんは、くすくすと上品な笑い声を上げていた。思考が読み取りにくい顔つきをしていると自分では思っているのだが、奥さんには容易く理解できてしまったらしい。さすがは腕利きの医者、といったところだろうか。
「あまり遠くに行っては駄目よ、と言ったでしょう。それにこれから暑い時間帯なのだから」
ひとしきりくすくす笑った後、奥さんは優しい声色で美祢を言いくるめた。
「ごめんなさい」
美祢はしおらしくしゅんとしている。
奥さんはそれに満足げに頷き、優しく彼女の頭を撫でた。
「分かってくれたのならいいの。さ、中に入りましょうか。散歩はまた夕方にしましょう」
奥さんに背中を軽く叩かれた美祢は、頷いて再びにこにこと笑う。
「咲月もいらっしゃいませんか?」
それを見届け、一礼して踵を返そうとしたところでそんなことを言われ、私はさすがに目が点になった。
「……はい?」
「あら、それはいいわね」
怪訝に思って尋ね返せば、奥さんまで同意する。
「美祢ちゃんの話し相手になってあげてくれないかしら? お茶を出すわ」
看護師ではないが、華やかに笑う白衣の天使。
「美味しい紅茶とクッキーがあるの。よかったら食べていって」
「咲月と一緒に食べたいです」
そんな言葉と共に、奥さんと美祢に背中を押された。よかったら、とか言われながらも結局は強制的に歩かされている。
何だかあれよあれよという間に連れていかれていないか? と頭の片隅で一瞬考えたが、すぐにやめた。暇だし、宿題はとっくに片付けていたし、別に構わないから。
玄関に辿り着こうとした時、右後方に何かが落ちる鈍い音がする。
「きゃあっ!?」
美祢が飛び上がってきょときょととしている様子に、怯えている小動物が重なる気がした。
一方の私は特に動じることはなく、ただそちらの方向を眺め、音源を探した。割と大きな物音だったため、それなりのサイズがあるものが落ちたのだと思うのだが。
ちらりと窺えば、奥さんは音の正体が分かっているらしい。小さくため息を吐き出している。
「桂弥。またなの?」
その言葉の数瞬後に響く、わさわさと草を掻き分ける音。
「すみません、叔母さん。落っこちました」
照れ臭そうに笑い、こちらに歩いてくる少年がいた。どうやら彼が『ケイヤ』と呼ばれた人間の正体らしい。
「け、桂弥さんっ……お、お怪我はっ」
また、というのだから、これはしばしば見られる光景なのだろう。それを分かっていないのか、わたわたし通しの美祢。病が悪化するんじゃないかと思い背中をさすって落ち着かせようと試みると、美祢は深呼吸していた。
「あ、大丈夫。受け身は完璧。あれ?」
笑いながら手をぶんぶんと振りつつも、見慣れない顔の私に目を留めたようだった。
当の私は残念ながら、そちらに構っている余裕はなかったが。何故なら深呼吸し過ぎてかえって美祢が噎せていたからである。
この子はやっぱりアホの子なのかもしれない、とか、背中を繰り返しさすりつつ思っていた。
「……とりあえず、全員入りましょう。話は後。ね?」
落ち着いた美祢を確認してから、諸々にかちょっと苦笑混じりに奥さんが言う。確かに、ぐちゃぐちゃになったこの状況を収拾させるにはそれしかないだろう。
少年を交えてようやく玄関から中に入った。
住居も兼ねているこの診療所は、一般家庭よりも大きめだ。お邪魔します、と挨拶をしつつ、健康体そのものであまり利用しない診療所を物珍しい思いで見渡す。
旦那さんの方は、往診中か何かで留守のようだった。
「秋歩。アイスティ淹れてちょうだい」
奥さんは一度足を止め、奥に向かってそう声をかける。
看護師の格好をしている女性がそれにひょっこりと顔を覗かせ、「はい」と返事をしてから更に奥に消えて行く。美祢と少年には「お帰りなさいませ」と、私に向かっては「いらっしゃいませ」と忘れずしっかりと声をかけてくれる辺り、もしかすると元々は奥さんの使用人さんなのかもしれないと思った。
「こっちよ」
それを見届けてから、奥さんは優しく笑いながら日当たりのいいテラスへと私たちを導いた。
通り抜けたリビングは、整頓されていながらも、生活感が感じよく染み付いたあたたかい空気に包まれていた。
「お待たせ致しました。どうぞ」
テラスのテーブルセットにそれぞれ着席して間もなく、さっきの女の人が現れた。先ほどの奥さんのように優しげな笑みを浮かべつつ、まずはクッキーの乗った大皿を中心に置き、それから私たち4人の前それぞれにグラスと置いてくれる。
長めのポニーテールがさらさらと揺れるのを眺めつつお礼を言うと、一礼を残して彼女はまた奥に消えていった。
「さてと。じゃあお互いに知らないその二人、まず自己紹介をしましょうか」
皆がアイスティを飲んで落ち着いた頃、奥さんが笑顔で提案してくれる。ちょうどタイミングを逃していたのでそれに有難く乗らせてもらうことにした。
「……咲月・ネシェリー。14歳、中学2年生」
無愛想な言い方だな、と自覚はある。
「咲月ちゃん? 宮苑桂弥といいます。僕も14歳で中2だから、同い年だね。よろしく」
人のよさそうな笑みを浮かべる桂弥という少年は、私の無愛想さを気にした様子もなかったが。
「私の兄の三男坊で、田舎で遊びたいって言うから、長期休みにはよく来てるのよ」
奥さんが補足説明をして、私は納得して頷いた。そういえば『叔母さん』って呼んでいたっけ、と思って。
「よく木登りを失敗なさるのです……」
一方、さっきの騒ぎを思い出して、一人でぷるぷると震えている小動物がいる。私はまた落ち着かせるために頭を撫でなくてはならなかった。
「うん、高いところから眺めたくて……でも下手なのかも」
ばつが悪そうに笑う桂弥の気持ちは分からないでもない。私も高い眺めは好きだから。
「……それで落ちてたら元も子もないわね」
思ったことを口にすれば、ますます桂弥はばつが悪そうに笑った。
「けーやのアホー、あそべーっ」
診療時間が始まるから、と言って奥さんが去って、少ししてからだ。幼い影が桂弥にまとわりついた。3歳くらい男の子。恐らく先生方の子供だろう。
「え、ちょっと待った……! 桂弥お兄ちゃんまだ二人とお話ししてる……えー……」
ちびっこの力は意外に強いものだ。桂弥はあっという間に連れ去られていってしまう。
「小さい子は、元気ですし可愛らしいですね」
一連の光景を眺めていた美祢はにこにこしている。
桂弥は、少し離れた木々が避けて広くなっているところまで連れていかれたようだった。文句を言っていたくせに、結局ちびっこと元気にじゃれ合っている。
「そうだね」
そんな彼をちらっと見てから、美祢に視線を戻した。アイスティの残りを美味しそうに飲んでいる彼女が首を傾げる。
「夜、星見に行く? もし体調も天気もよければ、だけど」
「行きたいです!」
提案を聞くや否や一気に表情を明るくするので、即答、と笑った。
「先生とかご両親の許可はちゃんととらなくちゃね」
お忙しいだろうしどうしようか、と思案しながら頬杖をつく。そんな私にほわほわと笑い返しつつ美祢は頷いた。
「あ、でも、両親は仕事で一度帰ったので、奥さまの許可さえいただければきっと大丈夫だと思います」
「そっか。でもあんまりはしゃいじゃ駄目だよ」
念を押すように覗き込む。この小動物、騒いで体調を悪くしかねない、と思って。
美祢自身も否定できないと思ったのか、先ほどの桂弥のように照れ臭そうに笑っていた。
私がそれに吹き出し、彼女はますます居心地が悪そうに笑って、そんな様子に更に笑いが湧いて。二人してしばらく笑い転げていた。先生方の子供と遊んでいた桂弥が不思議そうにこちらを見たほどである。
その後、診療時間を終えた奥さん先生に確認すると、はしゃがないことと遅くならないことを条件に許可が出た。美祢は嬉しそうだったけれど、私も同じくらい嬉しかった。
美味しいご飯、抜けるような青空、そして眩いばかりの星空。この田舎にずっと住んできた私が誇れると思うもの。初めて来た美祢にも、私の大好きな部分を見せたかったのだ。
「ほわぁ……すごいですっ」
奇声を発しながら空を見上げている美祢に、私は思わず吹き出した。美祢はきょとんとしているけれど。
夜。午前中に私が落ちかけたというか美祢に落とされかけたというか、とにかくそのような出来事があった屋上に私たちはいた。
星空も完全に晴れ渡っていて、まるで私たちに気を遣ってくれたかのようだった。
持ってきたシートを敷いて、その上に二人で並んで座る。360度、どこを見渡しても星、星、星。ひとつくらい手の中に落ちてきてもおかしくはない、なんて思えてしまうほどの数だ。
「咲月、あの星は何という名前なのでしょう……」
「さあ? 私、星は好きだけど、名前は特に気にしてないから」
正面に見える明るい星に目を留めて美祢が呟くので、折った膝に頬杖をつきつつ返した。
「そうなのですか?」
美祢は予想通り不思議そうにして首を傾げる。
「確かに名前も美しいとは思うけど。結局それは、人間が勝手に付けたものだから」
覚えることを最重要にはしていない。見ているうちに、聞いているうちに、自然に頭に刻み込まれる。星の名前はそんな程度でいいのだ、私にとって。
星が好きなのに名前は知らないと言うとだいたい妙な顔をされるのでそう説明するのだが、未だかつて納得してもらったことはない。両親にも「変わった子だね」と笑われてしまう始末だ。だから、分かってもらえなくても特に気にはしない。
だから、素直に驚いた。
「そうなのですか……でも、分かる気がします」
じっと真剣に聞いていた美祢が、ゆっくりと頷いたことに。
「え?」
同意されたのは初めての経験なので少なからず驚いて、目を瞬かせた。好きなら普通は名前も覚えたいものじゃない? と怪訝な表情をされるのが、私にとって常だから。
「だって、咲月」
美祢は裾をふわりと揺らして立ち上がり、弾けるような笑みを浮かべながら大きく両手を広げた。
「名前がある星もない星も、有名な星も知られていない星も皆、自分を燃やして一生懸命に輝いているのでしょう?」
太陽と同じように、自らのエネルギーを燃やして輝き続けている。それだけが彼ら星の生きる目的。
「誰もが平等です。それを名前の有無や有名性で決められてしまうのは、かなしいです」
かなしい、かなしい、とてもかなしい。
「どの星も尊さに差はないのですから。人間と同じように」
広げた手や、風に翻る白いワンピース、舞い上がる髪。無数の星が煌めく空を背景にしたその姿は、何だかとても神々しく見えて。思わず眩しく感じて目を細める。
私にはひどく目に痛かった。そんなふうに考えられてしまう彼女の真っ直ぐさが。彼女の何にも汚されない白色が。髪を掻き上げて耳にかける彼女の、柔らかく微笑む姿そのものが。
この時からだったかもしれない。美祢に対して、言葉では表現しようがない感情を私が持ち始めたのは。
友情というひとくくりでは足りない。かといって、他の言葉を当てはめようもない。
彼女への自分の感情は何なのかを考えるたび、彼女が私を見る視線の意図に悩むたび、奇妙な気分になるのは否めなかった。だって、分からないのだから。何と表現したらよいのか。
それから夏休み中、ときには桂弥を交えるなどして、ほぼ毎日私たちは遊んだ。
あのビルの屋上ならば、わざわざ木に登らずとも高いところの景色が見られる。それを知った桂弥がすぐに入り浸るようになったのだ。必然、よくそこにいた私や美祢との行動が増え、三人組で行動することも増えていった。
手持ち花火をしたり、寂れているけれど田舎の子にとっては大きな娯楽である村立のプールに行ったり、駄菓子屋でアイスキャンディーを買って食べたり。孤立しがちであまり友達のいなかった私にとって、誰かと一緒にそういうことをする毎日が新鮮だった。
小さな村立図書館に行って、一緒になって外国の大昔の画家の画集を眺めたこともあった。何でも桂弥は小さなころから何度も賞をもらっているぐらい絵が上手くて、そういうことについても詳しかったのである。おかげで、星よりも画家や作品の名前を多く覚えたかもしれない。
そんな桂弥に請われて、美祢と二人でモデルになった日もあった。私は照れ臭くて嫌だったのだが、美祢がぜひ引き受けましょう、とあの白い雰囲気でにこにこ笑うものだから断りづらくて。
桂弥も桂弥で、私がそういう彼女に弱いことを半ば分かっていたのだろう。目が合った私ににやりと笑ってみせたあの表情が、殴ってやりたくなるぐらいとても憎らしかった。
今までは長くて長くて仕方がなかった毎日が、目まぐるしくて。夜が明けたと思ったら、あっという間に日が沈んでいく。楽しくてたまらなくて、時間がもったいなくて。そう感じる自分に驚いた。
そして、そういう日々が永遠に続くものだと勘違いしていた。
そんなはずは、なかったのに。