ヤツは意外と凄かった
「ねえギア、待ってよ!」
「来るな! 邪魔だ」
「そんなこと言わないでさぁ」
「ついて来るなと言ってるだろうが! 失せろ! これ以上、俺につきまとうんじゃねえ!」
銃撃戦のごとく言い合いながら、どかどかと階段を駆け下りる。
普通なら、エレベータを使うところだ。
だが、たとえ一分以内であっても、カースと同じ密室に入るのは我慢ならなかったのだ。
階段をノン・ストップで一階まで駆け下り、そのまま競歩のようなスピードで廊下を突っ切ってゆく。
通行人たちは皆、驚いたように道をあけ、そろって振り向き、通り過ぎた二人をものめずらしそうに見送った。
「おい! なん……あ、いや。すみません」
「おう」
肩が触れた拍子に文句をつけてきた男を、ミラーグラス越しのひと睨みで黙らせて、ギアはずかずかと101分署本館の建物から踏み出していった。
勢いに任せて東玄関から出たため、目の前には、広大な屋外訓練場が広がっている。
手入れの行き届いた芝生と街路樹のあいだを、完璧に舗装された道が曲がりくねりながら続いていた。
高度な保安センサーを内蔵したフェンスに守られた、都会のオアシス。
だが、そこで日々行われている訓練の厳しさを知る者ならば、おそらく、そんな表現は使うまい。
その光景を見た途端、不意に、ギアの脳裏に名案がひらめいた。
「おい」
「え、何?」
急に振り向いたこちらに、いささか虚を突かれた様子で、カースが立ち止まる。
ギアはその場でたんたんと軽く足踏みをしながら、にやっと笑った。
「ロードワークだ」
いきなりの挑戦状を叩きつける。
「最後まで俺についてこられれば、付き合ってやってもいいぜ」
「ほんとっ!?」
「ついてこられるならな!」
言い捨てるが早いか、勝手にスタートを切る。
後ろから「フライングだ!」などと叫ぶ声が聞こえたが、気にも留めない。
さっさと並木道を駆け抜け、周回コースに入る。
オータム・シティの空はよく晴れていた。
降り注ぐ爽やかな光が、ここ数日のあいだ強まる一方だった苛立ちを溶かし、洗い流してくれるような気がする。
ギアは、大きく息を吐いた。
こうしたロードワークはギアの日課であり、ストレス解消法でもあった。
頬に当たる風や太陽の光を感じながら走っていると、怒りや焦りを、いつの間にか忘れることができる。
時間さえ許せば、一日に三十キロのメニューでも軽くこなした。
要するに、持久力には自信があるのだ。
あの優男が、自分についてこられるはずがない――
(体力増進、ストレス解消。ついでにうっとうしい奴も追っ払える。我ながら、完璧な作戦だな……)
「走ってる君の後ろ姿ってセクシーだね!」
気持ちよく走っていたところにいきなりそんな声が聞こえ、ギアは、もう少しで自分の足に蹴躓くところだった。
足は止めないまま、慌てて振り向けば、なんと真後ろにカースがいる。
足音も、気配すらも感じなかったというのに、だ。
「てめっ、いつの間に!?」
「え? さっきからずっと」
しゃあしゃあと答えたカースは、かなりのハイペースを保ちながらも涼しい顔をしている。
「いい眺めだなぁ。しなやかな筋肉のひとつひとつが躍動して、実に」
「それ以上喋ったら撃ち殺すぞ!」
怒鳴って、一気にペースアップする。
「あっ、ちょっと、待ってよ!」
(誰が待つか! どこまでもふざけた野郎だ! こうなったら、俺の本気の走り、見せてやろうじゃねえか!)
だが。
「待ってってば!」
ギアの予想に反して、カースとの距離は、10cmほども開かなかった。
信じられなかった。
何しろ、訓練校時代はクラス1の健脚かつ俊足を誇り、「貴様は前に立つな! 全体のペースが上がって、オチる者が増える!」と、持久走ではいつも列の最後尾に回されていたギアだ。
自分の本気の走りに、へらへらと笑いながらついてこられる者がいるなどとは、これまで、想像したことさえなかった。
(ちくしょう!)
こうなったら意地の戦いだ。
ギアは、だっと不意に周回コースを外れると、加減なしの全力疾走を始めた。
芝の上を走り抜け、短距離走用のコースを問答無用で横断し、さらには球技用のコートをも横断し、植え込みを三つ、連続で跳び越え――
「てッ! てめえ……ッ!」
とうとう完全に息が上がり、ギアは走るのをやめた。
さすがに、素人のようにその場に崩れ落ちることはしない。
息を荒らげ、それでも軽く足踏みを続けながら、背後で同じように足踏みをしている男をにらみつける。
「ばっ……化けモンか……ッ!?」
「失礼だなぁ。人間だよ、人間!」
言ってくるカースの顔には、ほとんど汗も浮かんでいなかった。
「約束だよ、ギア! 僕と、付き合ってくれるんだよね~」
「くっ!? し……仕方がねえな」
むやみに嬉しそうな顔を近づけてくるカースから1メートルの距離を保って後退しつつ、ギアは、苦渋に満ちた表情で頷いた。
「約束は、約束だ。明日から、毎日」
「毎日!?」
驚きと興奮が入り混じった複雑な表情で叫ぶカース。
「午前5時15分から」
「任せてくれ! 僕は、朝は凄いよ。ふっふっ」
「屋外訓練場で」
「外でっていうのも刺激的だよね!」
「訓練用ジャージ着用な」
事ここに至って、
「ジャージ?」
ようやく疑問符を浮かべたカースの腕をぽんぽんと叩き、ギアは、一転して、にやっと笑った。
「喜べよ、明日から毎日、付き合ってやるぜ。ロードワークにな」
「えええええええぇーっ!?」
「うるせえ」
子どものように不平の声をあげるカースに、そっけなく言い捨てる。
口調に反して、顔はにやついていたが。
「付き合えって言うから、付き合ってやるっつってんじゃねえか。文句でもあるのか?」
「ひどいよ! 詐欺だ! 期待させといて、あんまりだぁぁぁ」
叫んだかと思うと、その場にしゃがみこんでしくしくと泣き出す。
そんな同僚の姿を、15秒ほども黙って眺めた後、
「おい」
ギアは、相手の背中に向かって静かに声をかけた。
「お前、一体、何考えて生きてんだ?」
「今は君のことだけ」
一瞬、こちらがぎくりとするほど真剣な声でそう呟いたカースだが、次の瞬間には、大袈裟に身悶えながら声をあげてきた。
もちろん、その顔には、涙の跡など少しもない。
「だからさぁ、僕と付き合おうよ! 絶対に後悔させないから!」
「お前と出会ったこと自体、俺の人生で最大の痛恨事なんだが」
「そんなこと言わないで。君は、まったくひどい男だなぁ。そんな可愛い顔をして僕の前に現れておきながら、手も握らせてくれないなんて……う」
こちらの顔を間近からのぞき込んできた男の鼻先に《マチルダ》の銃口をぴったりとポイントして、ギアは心の底からうんざりとした息を吐いた。
何だか、この二日間というもの、こんなことばかりしているような気がする。
時間の無駄もはなはだしい。
これは本気で、抹殺の方法を考えるべきかもしれない。
意識して表情を消し、押し殺した声音で告げる。
「いいか? 今は、抑えに抑えて『黙れ』とだけ言っといてやる。だがな、あんまりガタガタうるせえと、そのうちおまえの口にこいつを突っ込んでトリガーを引いちまうかもしれねえぜ……」
「どうして、君はそんなに冷たいんだい?」
彼の動きは蛇のように滑らかで素早く、そのために、一瞬だけ反応が遅れた。
「まるで氷だね」
銃口をあっさりと指先で押しのけて一歩踏み出してきたカースは、その指先をこちらの顎にかけて、わずかに持ち上げるようにしてきた。
優しげな微笑みを湛えた黒い目に、見下ろされる。
「僕が、溶かしてあげようか?」
「殺す」
「あああああああぁ」
ぐわし、とサイバーアームで相手の顔面をわしづかみにし、少しずつ力を込めながら、ギアはふふふと笑った。
「そうかそうか……やっぱり、ドタマに一発ぶち込んで港にでも沈めとくしかねえらしいな、ええ? それとも、工業用硫酸の桶に浸けて下水に流したほうがいいか? どっちでも好きなほうを選ばせてやるぜ」
「ああああぁ……」
少し弱々しくなった呻き声を聞きながら、ギアは胸中で、真剣に決意を固めていた。
この二日間というもの、耐え難きを耐え、忍び難きを忍んできたが、さすがに、もはや忍耐力の限界だ。
これからすぐにジェイドに上申して、こいつとのバディを解消してもらおう。
あいつが首を縦に振らないなら、ジーズに直接掛け合ってもいい。
こんなふざけた男と組んでいたのでは、一分一秒が精神衛生上の害だ。
単に気分が悪いというだけの問題ではない。
このままでは、いざ仕事となったときに、任務効率も落ちかねないではないか。
(よし、善は急げだ! 今すぐに、待機室に戻って)
決然と顔を上げたギアは、そのときになって、周囲の状況の変化に気づいた。
こちらに向かって、黒ずくめの男たちの一団が近づいてくるのだ。
そいつらが現れた方向を確認して、ギアは思わず、胸中で舌打ちを漏らした。
カースを振り切るため、方向も確かめずにひたすら突っ走ってきたが、自分たちが、今、いる場所は――