彼を口説くのは命がけ
「ねえねえねえ、ところで君の名前は?」
「出身はどのへん?」
「いつからこの部屋にいたんだい?」
「それにしても、きったない部屋だよねえ! 僕たちをこんなとこに押し込めようなんて、上は、いったい何を考えてるんだか――」
うるさい。
あれから五分後、ギアはうんざりしながら男に背を向け、窓からむしり取ったカーテンで埃まみれの棚を拭いていた。
不意の襲撃の件については、最初の一分でカタがついた。
ギアを襲った男――カース・ブレイド捜査官は、すすめられた埃だらけの椅子に腰を下ろそうともせず、事情をまくし立てたのだった。
聞いてみれば、何のことはない。
彼は新たな職場に踏み込もうとした瞬間、ミラーシェードに覆面姿で荒れ果てた部屋を物色している(ように見えた)人物を発見し、
「窃盗犯かと思って……」
取り押さえようとしたのだという。
言われて、ギアは自分自身の姿を見下ろし、不覚にも一瞬納得してしまった。
だが、そうと認めるのが何となく面白くなく、とりあえずカースを無視して掃除を続けようとしたのだが――
この男、全身で不機嫌さを表明しているギアにも怯むことなく、一人でやかましいことこの上ない。
「ねえ名前! 君の名前を教えてよ! 名前ぇぇぇェ」
(ガキか、こいつは)
根負けしたギアは、とうとう溜め息をついて振り向いた。
「ギア・ロックだ」
思い切り嫌そうな顔でそう名乗っておいて、最後にびしと指を突きつけ、念を押す。
「ロック捜査官と呼べ」
「ギア・ロックだって?」
しかし、相手は呼び名などよりも、全く別のことが気になったようだった。
しばらく目を見開いたまま固まっていたかと思うと、やがて、信じられないといった表情でこちらを指差し、言ってくる。
「それじゃ、まさか、君が!? 君があの、因縁をつけてきたチンピラ八人を全員総入れ歯にしたとか、ストリートギャングの青竜刀を素手で叩き折ったとか、立てこもり誘拐犯を説得するふりをしてタックルで三階から突き落としたとかの覇業で『012分署の狂犬』と恐れられ、その存在は既に『バイオレントオフィサー』の名で都市伝説と化しているという――あの男なのかい!?」
「なぁんか、微妙に納得がいかねぇが……おおむねその通りだ」
「そうだったのか……」
何やら色々と感じるところがあったらしく、カースはしばし、真面目な顔つきでギアを眺めてきた。
しかし、次の瞬間にはころりと笑顔になって、
「これからよろしくね、ギ・ア!」
「おお」
こちらも笑顔で軽く頷き――
ギアは、がたん、と片手で椅子を持ち上げた。
「そうかそうか。転属早々、そんなに殉職したいとは職務熱心なこったぜ」
「な!?」
先程のことを思い出したか、さっとデスクの陰に隠れるカース。
「うう。噂に違わず、ほんとに凶暴なんだなぁ……」
「世の中にはな、言っちゃならねえ一言ってもんがあるんだ。長生きしたけりゃ、知っとけ」
適当に椅子を放り出し、言い捨てて、黙々とデスクの上を片付ける。
カースはそろそろとデスクの陰から出てくると、しばし、間を持て余すようにギアの背後をうろうろしていたが、
「あ」
不意にぱっと顔を輝かせ、ギアの視界に入るように回り込むと、にっこり笑って自分を指差した。
「そうそう。僕のことは、カースって呼んでくれていいよ!」
「ああそうかい、ブレイド捜査官」
冷淡極まりない反応に、さすがのカースも少々鼻白んだ様子だったが、すぐに立ち直って笑顔を取り戻す。
表面的には無視を決め込みながら、よく笑う男だな、と、ギアはぼんやり考えた。
これほど整った顔立ちの男に、邪気のない笑顔を向けられれば、どんな女性でもくらっとくるに違いない。
男でも、つい警戒を緩めてしまうところだろう。
だが、ギアはついさっき、こいつの笑顔の裏にどんな側面があるかを目撃したところだ。
同じ人間が見せる顔とは思えない、ぞっとするような無表情。
あれが、こいつのもう一つの顔なのだ。
同じオフィサーであるとわかった以上、警戒する必要はどこにもないはずだが、首筋に当てられたナイフの感触とあいまって、あの顔は、ギアの心に強烈な印象として刻み付けられていた。
「ねえ、それ、いい加減に外したら?」
突然、カースがそんなことを言って、顔に手を伸ばしてきた。
ギアは、目を見開いた。
「触るんじゃねぇ!」
今までにない激しさで怒鳴り、カースの手を払い除ける。
左手は、反射的にミラーグラスをかばっていた。
カースは、驚いたように後退った。
腹を立てても不思議ではないところだったが、こちらの剣幕に気圧されたらしく、反射のように謝罪してくる。
「あ、ごめん」
「いや」
ギアは、苦い顔で片手を振った。
「こっちこそ、悪かった。ちょっとばかり……驚いちまってな」
こちらの語調の不自然さから、何やら事情がありそうだと察したのだろう。
カースは、取り繕うような笑みを浮かべて、
「その、ミラーグラスを取ろうとしたわけじゃないんだよ。 ただ、さすがに覆面くらいは、外してもらえないかと思ってさ」
「おお」
言われてみれば、今の今まで、ストレッチタオルでマスクをしたままだった。
あまり意識していなかったのだが、新しい同僚を覆面姿で迎えるというのは、確かにかなりのマナー破りだ。
ギアは、鼻と口とを覆っていたタオルを無造作に剥ぎ取った。
その途端――
カースの目が、真円に近いほど見開かれた。
「どうした?」
呼びかけても、カースは応えなかった。
ぽかんとこちらを眺めている。
さすがに不審に思い、ギアは眉をひそめた。
じろじろと眺められるのには慣れている。
季節も天候も時間帯も関係なくミラーグラスをかけてうろついている以上、場所によっては、多少の注目を集めてしまうのも仕方のないことだ。
だが、今のカースの目つきは、そういう時の人々の目つきとは違っていた。
そう、それは、まるで――
「君……けっこう、可愛い顔をしてるね」
「は?」
ギアは一瞬、カースが何と言ったのか聞き取れなかった。
脳が、理解することを拒否したのかもしれない。
口を半開きにして硬直している間に、カースはすっと近寄ってきて、なんと、肩に腕を回してきた。
ついでに手も握る。
「運命の女神も、なかなか粋な計らいをしてくれるじゃないか。転属してきた先で、君みたいに魅力的な相手に出会えるなんて」
全身の毛を逆立たせ、石像のように無言になっているギアには構わず、カースは甘い声音で囁いた。
「それにしても、君は素晴らしい反射神経をしているね! 数々の武勇伝の主だけのことはある。
僕はこう見えても近接戦闘には自信があるんだけど、君は、僕に触れさせもしなかった……
君みたいな人は初めてだ。もっとよく君のことを知りたい。どうだい、今夜、僕と二人で」
「死ねえええええぇっ!」
ギアは掴まれていない方の手でマチルダを引き抜き、発砲した。
装填していた弾丸はブルーライン・ジャケット。
徹甲炸裂弾よりも炸薬の量を抑え、破壊力をいくらか軽減させてある。
だが、壁のパネルに大穴を開ける程度の威力は充分にあった。
無論、神業のような素早さでカースが身をかわしていなければ、穴が開くのは彼の頭になっていたはずだ。
「ちょ、ちょっと待ってよ!? いくら何でも、撃つなんてっ!?」
「ちっ」
ギアは、静かに、心から無念そうに呟いた。
「外したか。俺の腕も落ちたもんだぜ」
「い、いや、あの」
「黙れ。そして聞け。いいか。俺は、法律に反しねえ限り、他人の思想信条性癖等に関して、とやかく口出しはしねえ主義だ。だが……だ・が! そのテの真似は、今後一切、俺とは関係ねえところでやってもらおう。今度、俺に対して妙な真似しやがったら、身の安全は一切保障しねえぜ……」
「そこまで……」
青黒いオーラを発するギアからじりじりと後退り、デスクの後ろまで下がったところで、不意に何かを思いついたように、カースはぽんと手を打った。
「あ、そうだ! じゃあ、まずは君の個人的なアドレスを教えてよ。メッセージの交換から、徐々に距離を縮めるってことで――あぁぁぁぁっ!?」
ブルーライン・ジャケットの凶悪な牙がデスクに載っていたもの全てを食い破り、吹き飛ばし、撒き散らしてその向こうにいる者を襲う。
ドカドカドカドカドカッ! ドカッ!
――カチッカチッ
「た、弾切れ!? そっ、それはちょうど良かった! ちょっと落ち着いて僕の話を――あああああぁっ!?」
椅子が飛んできた。
「ひぁあぁぁ~っ……!」
情けない悲鳴の後に、聞いている者がいれば通報必至の凄絶な物音が続く。