アウト・オブ・オーダー
「さあ、どうする?」
クアンは勝ち誇ったように言った。
「オフィサーが、市民を危険に晒してもいいのかい? まずい対応はしないほうがいい」
「悪いが、俺はあんまり気が長くねえんだ」
ギアは肩を竦めた。
「いい加減、ドブネズミの御託は聞き飽きたぜ。とっととそのくそったれた銃を捨てて床に這いつくばらねえと、ケツにもうひとつ穴が増えるはめになるぞ」
「ライブ中継で放送禁止用語は困るな……ああ、カットしてあるんだから、関係ないか」
4人のうちの誰かの指が、ほんの少し動けば、全ての均衡が崩れ去る。
語彙はともかくトーンだけ聞けば穏やかにさえ聞こえる会話の、薄皮一枚下で、限界ぎりぎりの緊張が張り詰めていく。
「あと五分だよ。お前たちが引かなければ、僕たちのどちらかが、人質を撃つ。そうすれば、お前たちは僕たちを撃つだろうが、そんな成り行きが許されるものかどうか、落ち着いて考えてみるべきじゃないかな。君たちにも、今、聴こえているんだろう? 『市民の声』ってやつがさ……」
「ああ」
ギアは低く唸ったが、その声はクアンには聞こえていない。
ヘルメット内部の通信端末を通じて、カースと、本部のジェイドにだけ届いている。
「いい気なもんだぜ、外野のくせに。現場の外からあれこれ言うだけなら、ガキにでもできる……」
ジェイドからの声も、この場で彼らにだけは聞こえている。
他のチームの動きも。「世論」の動向も。
「クアン・デルトロ、一応忠告しといてやるが、お前は『市民の声』なんかより、俺の声をよく聞いた方がいい」
ギアは、静かに続けた。
耳元で聞こえる、カースからの警告がうるさい。
ギア、熱くなりすぎないで。落ち着いて、計画通りに。相手にプレッシャーをかけ過ぎちゃだめだ――
「もう一度言う。武器を捨てろ。お前らはもう詰んでるんだよ。俺に撃ち殺されたくねえだろ?」
「僕に脅しは効かない。パパを助けるためなら、何も怖くないさ」
「その歳でファザコンかよ。お前、大丈夫か?」
「黙れよ。お前たちこそ、終わりさ。お前たちは、僕たちを撃ち殺すことはできるだろうが、そうすれば人質も、少なくともどちらかは確実に死ぬ。その責任は、誰が取るんだい? 一番いいのは、このまま黙って引くことだ。無能呼ばわりされても、人質を死体にするよりはマシだろう?」
『いい加減に、しろよ。二人とも』
とうとう、カースが声を発して、割って入った。
ことさらにゆっくりと言ったのは、場の空気を変えたようとしてのことだったのだろうが、かえって逆効果だ。
変声器を通した重低音であっても、声に焦燥感が滲み出ている。
『君たち、どっちも、交渉人として0点だ……誰も、無駄に死ぬことはない。もう少し、落ち着いて話そう』
「お前の親父は、どう頑張っても、不起訴にはならねえぞ」
カースの言葉を無視し、ギアは続けた。
「お前がこんな真似をやらかしたからには、微妙にあったかもしれねえ可能性も全部パーだ。バカじゃねえの?
そもそも《特急》に取引現場を押さえられるような間抜けな野郎に、そこまで入れ込む必要もねえだろ? 助ける価値なんかねえよ。お前の親父は、大人しくブチ込まれて、これまでの報いを受けるのが当然さ」
「報いだって!?」
急にクアンの声のトーンが跳ね上がり、その場の全員が一瞬、肩を揺らした。
「報い? ははは! 報いだって!? おまえこそ、バカじゃないのか? この世界では、力を持つものこそが正義なのさ! パパには刑務所なんて似合わない。僕たちは、僕たちのやりたいようにやるんだ!」
人質を狙い続けている大男の目が、ちらりとクアンのほうを向く。
その視線に込められた、押し殺された警告と焦燥は、カースのものと実によく似ていた。
坊ちゃん、どっちかがキレたら、勝負は終いだ。冷静に。駆け引きで、感情的になっちゃいけねえ――
「お前たちは司法のイヌだが、僕たちは自由なんだ。武力で上回った者が、状況をコントロールする。暴力による支配ってやつさ! 虫けらどもは、みんな死ねばいい。僕たちのために血を流すことを感謝して死んでいけばいいんだ!」
「はは、ふざけやがって」
『ギア!』
ギアの声に、笑いが混じったことに気付いたのだろう。カースが鋭く警告を発する。
ヘルメット内のインカムではなく変声器を通して発されたその声に、クアンが反応した。
「ギア……?」
何かを思い出そうとするように繰り返した、その目が、一瞬にして見開かれる。
「君……バイオレントオフィサーかい? 機械の腕のオーダーオフィサー……自分の父親をやられた腹いせに、そこいらのチンピラを痛めつけて回ってるんだってね?」
ギアは、何も反応を見せなかった。
だが、その沈黙こそが肯定だ。
クアンの目が、獲物を捕らえた猫のそれのように細くなる。
「君は、オフィサーのくせに、自分の父親も守れなかったのかい? 僕は、パパを助けてみせる。むざむざ身内を殺された、間抜けなお前とは、違うんだよ」
ギアは答えない。
あと2分。
クアンは、蠅でも追うように、ギアの方に向けた銃口を振った。
「さあ、尻尾を巻いて帰れよ。でも、僕は君のこと、忘れないからな。父親の何倍も酷い死に方をさせてやるよ。この日、僕と出会ったことを、後悔させてやる!」
ギアは、答えない。
動きすらしない。
クアンの表情に、苛立ちが浮かんだ。
せっかく弄ってやったのに、ヘルメットのせいで相手の表情が見えないのだ。
「何を、ぼうっと突っ立ってるんだい? ……ああ、上司と相談中かな? もちろん、とっくに何か言ってきてるだろうからね……」
「カース」
『ん?』
不意に呼ばれ、カースは妙にくつろいだような調子で返事をした。
緊張を緩めようとしてのことか、それとも、緊張が限界を超えた反動だろうか。
「本部との通信回線を切れ」
『え?』
「聞こえなかったか?」
そこまで奇妙に穏やかだったギアの声が、変声器を通しても分かるほど異様にざらついた。
「本部との通信を、切れって言ったんだ。――さっさとしろ!」
「何の、真似だい」
クアンの表情から、笑みが消えている。
彼も、感じ取っているのだ。
目の前に立つ対人制圧用装甲服姿の男が発する、異様な雰囲気を。
「カース」
ゆっくりとかぶりを振りながら、ギアは呟いた。
その声は再び、笑っているように聞こえた。
「お前が正しかったよ。やっぱり、この世には、死んだほうがいい奴ってのが存在するんだなあ」
言葉には穏やかさが戻っているが、その直下に蠢くものは、狂気のような激情だ。
「なあ、奥さん」
彼はそのまま、至って気楽な口調で、初めてターニャに声をかけた。
「できれば、お嬢ちゃんの耳、しっかり塞いどいてやってくれねえか? 子供には聞かせたくない、大人の話ってやつがあるだろ? あんたも、良かったら、大音量でお祈りでもしといてくれねえかな」
ターニャは卒倒しそうな顔色で、自分の胸と太腿のあいだに啜り泣く娘の頭を挟み込み、ぶつぶつと何か呟き始めた。
本当に、祈っているのかもしれない。
「お前……」
『ギア』
クアンの呟きとカースの呼びかけは、ほぼ同時だった。
『どうしたんだい、ギア? ちょっと、落ち着こう』
「お前さあ」
ギアは、カースをまったく無視し、クアンに向かって、いっそ猫撫で声と呼べそうな声を出した。
「こういうもん、見たことねえか?」
言いながら彼がゆっくりと取り出したのは、腰の後ろの耐ショックケースに収められていた、ソフトボール大の球体だった。
クアンとデレク、そしてカースの表情が、全く同じように引きつった。
その中で、ギアだけが一人、泰然と言葉を続ける。
「ああ、そうだ。VOT‐200……焼夷榴弾だよ。見たことがあるはずだな? 何しろ、こいつは、お前の親父のとこからの押収品なんだから」
黒光りする球体は、黄色いランプを明滅させていた。
クアンたちの反応は、それが何を意味するかを正確に理解していたからだ。
デッドマンスイッチが作動している。
ギアが、押し込んだスイッチから指を放したら、その10秒後に、爆発が起こる。
「知っての通り、こいつは、なかなかの優れモンだ。密閉された室内で爆発させりゃ、何十人でも、あっという間に、いい感じのレアに焼き上げちまう」
『ギア』
カースの呼びかけは、もはや半笑いのように聞こえた。
今、ギアは、カースを見ていない。クアンを見ている。
この距離ならば、カースが素早く動きさえすれば、ギアの手からVOT‐200を奪い、確保できるかもしれない。
だが、デッドマンスイッチの解除には、直前に押されたのと同じ順序で複数のボタンを押さなくてはならない。
確保は、できるかもしれないが、解除が間に合うだろうか。
ギアが、それを、黙って見逃すだろうか。
「びびるなって。大丈夫だ。俺たちは、部屋を出ればいいんだ。こいつをドカンとやって、手っ取り早く焼き払っちまうんだよ、ゴキブリどもを……」
『待ってよ』
カースの口調は、柔らかい。
冗談なんだろ、と言うように。
『ギア、思い出して。それは、脅しに使うだけだって……そう言って、借りてきたんじゃないか! 君……まさか』
抑えに抑えていた感情が途中で溢れ出し、悲痛な叫びになった。
『まさか……? ここには、人質が、いるんだぞ。頭でもイカれたのかい?』
「何、言ってんだよ。俺は正常だ」
ギアは完全にカースの方に向き直り、確信を込めて頷いてみせた。
クアンの構える銃が、細かく震え始めている。
単なる疲労や、恐怖によるものではない。
極限の焦りと迷いが、筋肉の緊張となり、指先に表れているのだ。
飛び掛かるか? それとも――
「カース、お前が言った通りだった」
言いながら、何度も頷く彼は、笑っているのだろうか?
「昔の俺のやり方は、間違っちゃいなかったんだ。こいつらを生かしておいたって、何の意味もねえ。ムショにぶち込みゃ、ごたごたした挙句に、この有様だ。メシ代で税金が無駄になる以上に悪い。社会に害悪を垂れ流しにするようなもんだ!」
『やめろ!』
VOT‐200を握った手を激しく振り立て、床を踏み鳴らしながら叫ぶギアを、カースは、とうとう怒鳴りつけた。
『ギア、戻ってきてよ。お願いだ! 君がしようとしてることは――それは――それは、駄目だ!』
「裏切るのか?」
ギアの声が、冷えた。
「なあ、おい。相棒だって言ったじゃねえか? ……裏切るのかよ、俺を」
カースは口を開け、閉め、また開けた。
だが、言葉は出てこない。
それを自分への同意ととったか、ギアは、満足げに呟いた。
「さっさと、片をつけようぜ。俺はなあ、これ以上、こんなクソ虫どもと同じ部屋でグダグダ喋ってなきゃならねえってだけで、胸糞悪くてゲロが出そうになるんだ。これまでは我慢してきたが、もう、限界だ。
こいつらは社会のゴミだ。抹殺するに値する。存在そのものが害悪で、生きてる価値なんか、これっぽっちもありゃしねえんだ!」
乱高下する口調は『かなりの興奮状態にあり危険』と表現される状態そのものだ。
だが、かつての彼を知る者なら、驚きはしないだろう。
――なぜ、殺した? そんな必要は、なかったはずだ……
――必要だって? あるさ!
どうせ、更正する可能性もねえクソどもだ。
税金で飯を食わせてやるだけ無駄さ。
あんた、ゴキブリが出たらどうする? 虫かごに入れて餌をやるのか?
馬鹿馬鹿しい! 害虫は駆除するもんなんだよ!
犯罪者どもは皆、ぶっ殺しちまえばいいんだ!
「害虫駆除だよ、害虫駆除! シティの治安の維持のためなんだよ。分かってくれるよな?」
『狂ってる。……君は、狂ってるよ!』
「違う! いいか、こういう害虫どもはな、一匹でも逃がすとどんどん増えやがる。見かけたらその時に完全に叩き潰しておかねえと、逃がせば、またいつか必ず同じような真似をするんだ。その時になって後悔しても、役には立たねえ。今、ここで殺すしかねえんだよ!」
『そうじゃ、ない!』
クアンとデレクの瞳が、二人のオフィサーの激しいやり取りを追って左右に行き来する。
『僕は、人質の話をしているんだ! 彼女たちの命はどうなる!? ギア、お願いだ、冷静になってくれ! ここに、今、守るべき市民がいるんだ。どうして、オフィサーが、市民を焼き殺して許されるんだ!? そんな真似をしたら……君は、こいつらと同じになる!』
「分かってる」
カースが激昂すれば、それに応じるように、ギアの口調は平静になった。
必要があれば互いに正反対のベクトルで振る舞うことにより、均衡を保つ。
バディ・システムの根幹がそれだ。
彼らは、最高のバディだった――
「俺は、こいつらとは違う。報いは受けるさ」
『報い……?』
「お前は部屋を出ろ、カース。そうすりゃ、助かる」
対人制圧用装甲服は、無敵とも思えるほどの素晴らしい耐衝撃性能を有するが、VOT‐200の爆発と共に発生する高温には耐えられない。
ギアの声は、静かだ。
覚悟を決め、既にあちら側を見ている人間特有の、狂信的な静けさ。
「全部、俺の独断だ。課長がきっと、お前を守ってくれる」
『何を、言ってるんだ……』
「俺が始末をつけるって言ってるんだ。こいつらも、俺自身もな。お前は巻き込まねえよ。行け!」
『何を、言ってるんだ!? そんなのっ、君こそ――!』
ついに、カースが動いた。
訓練に裏打ちされた、流れるような動き。
迷いはある。
だが動作には反映しない。
デレクに向けていた銃口を外し、カースは真正面から、自分のバディを狙った。
『君こそ、犯罪者だ! それは、自爆テロだ。人殺しじゃないか!』
絶叫と同時。
銃声。