リストランテ・ザッフィーロ
「ダメだ、くそっ! 全然繋がらねえよ!」
窓辺で携帯端末を振り回しながら、青いギャルソンエプロンをかけた若者は毒づいた。
「せっかく動画アップしようと思ったのに……」
奇しくもこのビルは、今、検事の家族を人質に取った犯人たちが立て籠もっているオールト・ビルの真向かいに位置している。
しかも彼らがいる場所、レストラン「サファイア」は、ちょうどクアン・デルトロがターニャ夫人とフアナを監禁している部屋とほぼ向かい合う位置にあったのだが、さすがに彼らは、そんなことまでは知る由もない。
立てこもり事件の舞台であるオールト・ビルの窓は、全面ミラー仕様になっており、中の様子は全く見えなかった。
だが、立ち入り禁止になったビルの周囲をオーダーオフィスの車両が固めていたり、そのあいだを縫って小走りに移動する関係者たちの人影があったりと、映画さながらの光景だ。
その様子をさっそく動画に撮影し、勇んでSNSにアップしようとした若者だが、どうしたことか、そのSNSにアクセスできない。
「何だよこれ。くそっ!」
俺と同じことを考えた奴らの投稿が殺到してるせいか? ちくしょう、出遅れた! と若者は思っていたが、それは間違いだった。
オーダーオフィスの要請によって、オールト・ビルを含む周辺区域に緊急の通信規制が敷かれているのである。
画像、動画、音声、文章――
放っておけば、にわかジャーナリストの使命感を燃え上がらせた近在の市民たちによる怒涛の情報発信で、車両の配備状況、捜査員たちの動きなど、現場の情報はダダ漏れに漏れまくる。
そして、それらの情報は当然、立て籠もり犯たちにも届くのである。
一時的にとはいえ民間人の通信の自由を制限するこの措置は、25年前に起こった「ジューディアちゃん事件」――10歳の少女を人質に立てこもった犯人がSNSに投稿される画像付きの「実況中継」から捜査当局の動きを察知し、人質の少女を殺害して逃走しようとした――をきっかけに、限定的な適用が認められるに至った。
当時、通信会社側とオフィス側が法廷を舞台に凄まじい闘いを繰り広げ、世論も真っ二つに割れての論争の末、幾度かの同じような悲劇を経て、ついに成立した。
そんな苦い経緯を経たにも関わらず、一定数の馬鹿者はあいかわらずジャーナリズムとセンセーショナリズムの区別をつけることができていなかった。
いや、そもそもそういう連中の頭の中にはジャーナリズムもセンセーショナリズムもなく、人質の命が危険にさらされる可能性もなく、ただ「自分の投稿がどれだけ跳ねるか」、その一点だけしかないのだった。
「くそ、くそ! こんな映画みてえな動画、滅多に撮れるもんじゃねえのに」
「黙れ、エンリコ!」
厨房から怒鳴りつけたのは、中からバルーンで膨らませたのかと思うような腹を突き出した中年の男だった。
真空パックを温めて盛りつける方式とは違う「本物の」料理を出すことにこだわる、この店のオーナーシェフだ。
「うろうろするな、座れ! 窓辺に寄るな! 銃撃戦にでもなりゃ、流れ弾を食らうぞ!」
「映画じゃねえんだよ」
エンリコは口の中でぶつぶつ言いながらも、窓辺から離れた。
納得したからではなく、雇い主の機嫌をこれ以上損ねないほうがいいと判断したからだ。
『ちょっと、ねえ! これって、ここの向かいじゃない?』
手持ちの端末でニュースサイトを見た客が声をあげ、この事件が発覚した瞬間から、オーナーの様子はおかしくなった。
普段はうるさすぎるほど「丁寧な接客」にこだわる彼が、突然、大声を上げて客たちを店から追い出し――まだ食事が途中の者さえもいたのに、全員を!――Closedの表示を出せ、皿を下げろ下げろと怒鳴り散らした。
エンリコは同僚のコスタスと目を見合わせ、オーナーは急にいかれちまったらしい、と目配せを交わしながら忙しく走り回るはめになった。
そのあいだ、オーナーは真っ蒼な顔をして自分の端末を睨みつけ、どうやらニュースサイトを観ているようだった。
日頃は、店で端末をいじるような人間ではないのだが。
もっとおかしなことになったのは、片付けとカトラリーのセットがやっと終わった、ついさっきのことだ。
腕章をつけた取材班がどやどやとやってきて、ぜひこの店から撮影したいから場所を貸してくれと言ってきたのだ。
オーナーのマスコミ嫌いは前から知っていたが、今回の反応は、ちょっと度を越していた。
彼は激しい言葉で取材班の連中を罵り、相手がそれでも引かないと、手近にあった重い傘立てを引っ掴んで振り上げたのだ。
常識人コスタスが慌ててあいだに飛び込まなかったら、本当にぶん殴っていたかもしれない。
まったくコスタスは気の利かない、面白くない男だ。
あいつが、あそこで止めさえしなけりゃ、それはそれで、相当面白い動画が撮れたのに――
エンリコが渋々端末をポケットに突っ込み、カトラリーを拭くふりをしていると、扉が開く音がした。
今度は何だ、と首を伸ばしたが、彼の位置からは、入口の様子は見えない。
「あの、オーナー」
入口のすぐ横で傘立ての下を掃除していたはずのコスタスが、戸惑い切った声を上げるのが聞こえた。
「また、記者どもか!? いい加減にしろ!」
厨房から首を突き出したオーナーが怒鳴った。
「追い出せ、追い出せ! さっさと失せなきゃ、オフィスに通報すると言ってやれ!」
「それは困るわね」
エンリコは、耳をそばだてた。聞こえてきたのは、女の声だったのだ。
「あの、すみません、お客様!? 当店はただ今」
「本日の営業は終了したらしいわね」
慌てるコスタスを後に従えて、女は、悠然と店内に入ってきた。
その姿を見て、エンリコも、さすがのオーナーさえも絶句した。
カーラーで残さず巻き上げられ、薬剤でてかてかに艶光りしている髪。
有名な高級ヘアサロンのロゴが入ったクロス。
手には、どでかい楽器ケース――だとエンリコは思った――を持っている。
まずいぞ。ヤバい女が来ちまった。
三人は、すばやく目を見交わした。
どうする。
さっきの連中みたいに、叩き出すか?
だが、刺激して急に暴れ出したりされたら厄介だ。
ここは、誰かが話しかけて注意を引きつけているあいだに、一人がオフィスに連絡を――
「でも、こっちも仕事でね。どうしても、この場所を貸してもらうわ。令状ならあるわよ」
女はそう言いながら、ヘアサロンのロゴ入りクロスの下から、細長い紙片をぺらりと取り出した。
そこに印刷されたエンブレムを、男たちは揃って二度見した。
『裁きの剣』。それが何を意味するか、知らない者はいない。
「あんた……オフィサーなのか!?」
「そこらの店で売ってるコスプレ道具じゃないよ」
女は手近のテーブルの上に令状を投げ、同じ手を再びクロスの下に突っ込んで、治安官の身分を表すバッジを取り出した。
でかい楽器ケースは、決して床に置こうとしない。
「オーダーオフィス101分署、凶悪犯罪対策課のロッサーナ・ウェルズ捜査官。もうご存じかどうか知らないけど、今、あのビル内に、誘拐犯が立て籠もっているの。そいつを制圧するために、この店をちょっと使わせてもらいたいのね。私の身分が信用できないなら、オーダーオフィス101にコールして確かめてくれてもかまわないわ」
「誘拐されたのは、検察官の奥さんと、その娘だそうだな?」
オーナーは、静かにそう言った。
エンリコは、コスタスと目を見合わせた。
オーナーの奇妙な落ち着きは、さっきまでの興奮した態度と、ひどくちぐはぐに思えた。
それに、どうしてオフィサーがこんなおかしな格好をしているのか、まず突っ込むところはそこじゃないのか?
オーナーは、エンリコたちのことなど気にも留めていなかった。
彼は、じりじりと前に出て、女に詰め寄っていった。
「あんたがたオフィスは、わしの娘が、同じ目に遭ったときには、何もしてくれんかったじゃないかね?」
オーナーの目が見開かれ、声のトーンが跳ね上がった。
「わしの娘は、21年前に、誘拐されて、殺されたんだ! あのとき、あんたらは、何の助けにもなってくれなかった! おお、わしのマリア、わしの、可愛い娘……!」
オーナーが大きく両手を振り上げたとき、エンリコはとっさに飛びかかるべきかどうか迷った。
オーナーにそんな過去があったなんて知らなかった。
さっきまでのおかしな態度の理由も、娘のことを思い出してしまったせいだと納得がいった。
それでも、いくら興奮しているからといって、オフィサー相手に暴力を振るうのはまずすぎる――
だがエンリコが何らかの行動を起こすよりも早く、オーナーは振り上げた両手で自分の頭を掻きむしり、女に指を突きつけた。
「あんたらは覚えてもいないんだろう、わしの娘のことを! オフィスが、わしらに何をしてくれた? いいか、わしの店に、立ち入らないでくれ。出て行ってくれ! 今すぐにだ!」
だが、女は動かなかった。
大柄な男が目の前で喚いているのに、不敵な笑みを崩さず、その場に突っ立ったままだ。
「聞こえただろう、出ていけ!」
突き飛ばそうとしたのかもしれないし、そう思わせようとしただけかもしれない。
とにかく、オーナーは女に向かって両手を突き出し――
そのまま、硬直した。
「被害者が検察官の奥さんと娘だから私が今ここに来たと思ってるんなら、その風船みたいなドテッ腹に銃弾を叩き込むよ」
クロスの下から突き出された女の手に、銃が握られていた。
その顔には、貼りつけたような笑みが残ったままだ。
だが、その笑顔は、口調と同様に冷え切っていた。
いや、違う。
一見冷ややかに見えるのは、内心の激情を圧し殺す極度の緊張のためだ。
女は、激怒していた。
「正直な話、私はあんたの娘さんの事件を知らなかった。今さら、あんたの娘さんを助けてあげることもできない。……でもね。今、あそこに、確かに、助けを待ってる一人のお嬢ちゃんがいるんだよ。私は、その子を助けてやるために、ここに来たんだ。あんたが邪魔しさえしなけりゃ、犯罪者を一発で仕留めてやるよ、この私の指で!」
女の口調が跳ね上がった。さっきのオーナーと同じように。
「そこをどきな、おっさん。私の仕事を、邪魔するんじゃない!」
彼女が銃を激しく横に振ったので、エンリコの横でコスタスが飛び上がった。
オーナーは、ゆっくりと脇によけた。
脅されて従った、というふうではなかった。
女の言葉から、何かを感じ取ったのかもしれなかった。
どうも、とそっけなく呟いて、女はずかずかと店に踏み込み、ホールの真ん中に立って、窓の方を見渡した。
「ちょっと、そこの兄さんたち、手を貸して!」
急に手招きされ、コスタスがまた飛び上がった。落ち着きのない男だ。
「悪いけど、手伝って。あのテーブル、あのまま窓のほうにガーッと押していって、窓の下にぴったりくっつけて。カトラリーとかテーブルクロスは、全部どかして!」
「行くぞ」
エンリコは、コスタスに声をかけ、率先して作業にかかった。
二人が力を合わせてどでかい長方形のテーブルを窓の下に押し付け、上に乗っていたものを全部取り払うと、女は遠慮もなく土足でテーブルの上に乗り、そこで初めて楽器ケースを置いた。
「店の入口はロックしておいて。事が終わるまでは、誰か来ても、全部無視して」
彼女がクロスを脱ぎ捨てると、その下は肉感的な曲線を包む黒いボディスーツに覆われていた。
彼女は腰のポーチから変わった形のコンパスのようなものを取り出すと、それを窓ガラスに押し当て、ぐるりと動かして、あっという間に小さな円形の穴を切り抜いた。
「後で保険がおりるわ」
ぶつぶつと独り言を呟きながらテーブルの上に座り込み、ケースを引き寄せ、指紋認証式のロックを解除して蓋を開けた。
そこから出てきたのは、ほとんど光らない漆黒のライフルだった。
彼女が機械のような手際の良さで照準器や二脚を取り付け、銃口を窓ガラスの穴に向けて設置した。
狙撃手の仕事を、男たちは魅入られたように見つめていた。
だが、オールト・ビルの窓は全面ミラー仕様だ。
彼女の腕がどれほどのものかは知らないが、この場所に陣取ったところで、どこに狙いをつければいいかも分からないのではないか?
ロッサーナはケースの中からカメラ付きのゴーグルを取り出してかけ、それを慎重にライフルの照準器と接続した。
彼女はさらにイヤホンと小型マイクを装備し、テーブルの上に腹這いになり、ちょっとごそごそして豊かな胸のおさまり具合を調節すると、マイクに向かって囁いた。
「こちらロス。課長、聞こえる? 準備できた。画像を回してちょうだい」
『こちらジェイド。了解』
ゴーグルに覆われたロッサーナの視界の中で、オールト・ビルの実際の壁面が溶けるように消え失せた。
代わりに浮かび上がったのは、オレンジ色のラインによって構成された建物の骨格だ。
スケルトン映像はあっという間にズームインし、オールト・ビル31階南面の一室の様子を映し出した。
ドアや窓の位置、調度類の配置までが詳細に再現されている。
そこには、人質の位置も映し出されていた。
人質は青、犯人は赤の人形としてだ。
大昔の赤外線映像など比べ物にならないシャープな輪郭で、体格の違いどころか、それぞれの鼻の高さまで、はっきりと見て取れた。付属情報として、各人の名前まで入力されている。
「ビルの壁が全部ガラスでできてるみたいに、奴らの姿がよく見えるわ」
映像の中で、犯人のひとりの頭部をロックオンし、ロッサーナはにやりと笑った。
「ゼファもイグナシオも、仕事が速いね」
今、彼女の目に映る映像は、ゼファの小型カメラが撮影し続けている現場室内の動画データと、イグナシオが手に入れたビルの設計図のデータを、オフィスの画像処理チームがリアルタイムで融合させて送ってくるものだ。
この技術が、無視界狙撃を可能にする。
今、周辺のあらゆる情報がデータ化され、ロッサーナの視界に映し出されていた。
風向、風速……直線距離は、たったの51.356メートル。
あちらの窓の素材は……おやおや、特注の高靭性グラス3層構造。
レストランの窓ガラスとはわけが違う。軍用機のコックピットの風防に使われるやつだ。
至近距離から機関銃のフルオート射撃でも食らわせれば別だが、ライフル弾丸の1発で撃ち抜ける強度ではない。
「ええ、ええ……了解。あの窓が、開くんだね?」
設計図のデータによれば、あれは嵌め殺しの窓のはずなのだが。
イヤホンから流れ出る課長の言葉に耳を傾けながら、ロッサーナは微笑み、指先を除いて全身をリラックスさせた。
「いつまででも待つわ。優秀な狙撃手は、待つことを苦にはしないもんよ」