その名はザ・ケイオス
それと、ほぼ同時刻。
オールト・ビル一階、正面玄関のちょうど反対側にあたる外壁と、そのすぐ北側に隣接する建物の塀との間、幅1mほどの空間で――
「はい、完了……」
「お!?」
「本当かっ!?」
「ゴーか!?」
「いや……まだ……」
「まだ!? まだ、だな? ゴーは、まだなんだなっ!?」
「そう……」
頼むからもっとちゃっちゃと喋ってくれよ時間ねえんだからまったく。
今にも通信端末を握り潰しそうな形相で詰め寄る組織犯罪対策課の捜査官――二の腕の太さが、掛け値なしにイグナシオのそれの3倍はある――に、当のイグナシオは、ますます相手を不安にさせるようなふわふわした頷きを返しただけだった。
今、ここにいる人員は、全員で5人。
イグナシオはその中央に陣取り、あぐらをかいた足の上にラップトップを載せ、オールト・ビルの外壁と向かい合うようにして座り込んでいた。
彼の目の前の外壁には、ちょうど人間がひとり何とかくぐり抜けられそうな大きさの穴が開いている。
およそ30分をかけ、ただでさえ狭いテントのようなものの内部を絶望的に狭くしている特殊な機材を駆使して、4人の捜査官たちが開けた穴だ。
彼らこそが、捜査官たちの中でも通称「モグラくん」と呼ばれる技術集団であり、現場への突入経路を確保することを主な任務としている。
穴の中からは、まるで巨大ネズミに食い荒らされたかのように大量の防音断熱素材が掻き出され、さらにその奥から、何本もの複雑な配線が引き出されていた。
イグナシオは、傍目にはランダムにとしか見えない素早さでそのうちの二本を選び出し、自らのラップトップと接続し、さらに数本のケーブルに素人目には何だか分からない様々な機器を繋げていった。
接続が完了してからこれまでに5分ほど、彼は例によって痙攣のような動きを見せながら、誰にも理解できない作業をしていたのだが――
「今……ビル内の……閉鎖ネットワークに……侵入を、完了したところ……」
組織犯罪課の男たちは目を見張った。
固く閉ざされていた蕾が花開くように、ラップトップの画面上で、ありとあらゆる情報が目まぐるしく展開していく。
「これより……目隠しに、入る……から、ちょっと……話しかけないで」
「お前は……」
組犯の男たちは、もはや不気味なものを見るような目でイグナシオを見ていた。
主としてネットワークに関わる任務につくオフィサーたちには、様々なタイプがある。
一日中ラップトップの前に座って「青少年の健全育成にとって不適切なサイト」をリストアップしていく役目の者たちもいれば、日夜を問わず攻撃を仕掛けてくるサイバーテロリストに対抗して防衛プログラムを構築することを専門にしている者たちもいる。
だが、その者たちの共通項は、オンラインになれる環境が用意されていて初めて、能力を発揮しうるということだ。
イグナシオのように、閉鎖されたネットワークに「物理的に」――それも、相手に気付かれることなく介入する技術を持つ者は、ほとんどいないと言ってよかった。
それができると聞いていたからこそ、彼らは今ここにこうしているのだが、実際にその様子を目にした今、イグナシオ・ファウの技術、いや、センスは、彼らの理解を遥かに超えたものであると知った。
「ん・んんん・んん……」
鼻唄なのか唸り声なのか判然としない音を喉の奥で鳴らしながら、イグナシオはビル内のネットワークセキュリティを次々と突破していく。
ゲームの達人が美しい連続技で敵を撃破するような滑らかさだ。
一瞬、画面の片隅に古めかしい時針タイプの時計の画像がちかちかと瞬き、消えた。
時計の針はくるくると乱数的に回転しており、カオティック振り子の動きを思わせた。
「今の」
捜査官のひとりが呟いた。
「時計のエンブレム? 嘘だろ? 《ザ・ケイオス》……?」
一年ほど前に死んだはずの伝説的なサイバーテロリストの名を耳にしても、イグナシオの表情は微動だにしなかった。
彼は長い前髪の下で瞬きもせずに目を見開き、もはや音声を発していなかった。
声帯を震わせ、空気を震わせ、相手の鼓膜を震わせ、その電気信号が意味として理解されるまで待つような真似をしていては、彼が戦場とする場所では、あまりにも遅すぎるのだ。
ラップトップの画面上にオールト・ビルのメインセキュリティシステムへのログイン画面が現れ、彼は0.2秒でログインした。
数秒後、イグナシオの右手が、百歳の老人のそれのようにのろのろと持ちあがるのを、男たちは吸い寄せられるように見つめた。
その手が、小指から順番にゆっくりと握られていき、やがて、親指だけが残った。
「………………ゴー」
「フォスター捜査官! こちらモグラくん1班! イグナシオ・ファウ捜査官より、突入のゴーサイン出ました!」