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ORDER‐OFFICE 101 ―治安局101分署―  作者: キュノスーラ
第5章  「オールト・ビル」
22/30

彼と彼女はぴったりだった

 彼女の薄い青色の目に見つめられた者はおおむね、数秒も経たないうちに、奇妙な居心地の悪さを感じ始める。

 だが、対面しているあいだにその理由に気付く者は、驚くほど少ない。

 彼女の目は、瞬きをしないのだ。

 機械の身体は、瞬きという不随意運動によって眼球表面に水分を供給する必要性がない。

 今も、アスカは青い目を開いたまま、まっすぐに二人の男たちを見つめていた。


 だが、当の男たちは、アスカの視線をまったく意識していなかった。

 彼らは、目の前の相手――つまり互いから、たとえ一秒でも注意を離すことができるような状況ではなかったからだ。


『悪くないね』  


 視線は油断なく前方に据えながら、カースは呟いた。  

 すっぽりと頭部を覆っているヘルメットは、外見から想像されるよりも遥かに視野が広く、本来の持ち主のものと思われる整髪料のにおいがきついことを除けば非常に快適な代物だった。  

 昆虫の脚先のようにも見える、黒い装甲に包まれた指先を動かしてみる。

 何の抵抗も感じられない、スムーズな動き。

 今、この指の一本一本に人間の手首を――あるいは首でも――あっさりとへし折るだけの力が備わっているなどとは、とても信じられないようなスムーズさだ。


『このタイプのスーツを着たのは初めてだけど、なかなか着心地がいいよ。こんな代物を人数分あつらえるためなら、《特急》の予算案が毎年バカみたいに高い理由もよく分かる――』


『黙れ、へらへら野郎』


 侮蔑のこもった威嚇が、ヘルメット内部の小型スピーカーから聞こえた。

 目の前にいる相手の声が、前からではなく真横から聞こえてくるというのは奇妙なものだ。

 カースは、自分と同じくブラックスーツに身を包み、肉眼で見えかねない闘志を発散させている相手に笑顔を向けた。

 ヘルメットのバイザーのために、どうせ相手からは見えていないのだが。


『ああ、どうも。シュライツさん、だったかな? 僕の軽い準備運動に付き合ってくれて感謝するよ』 


『軽い準備運動で済むことを祈るんだな。現場に突入する前に、大怪我する破目になるかもしれねえぜ。ああ、だが、そのほうがいいな。俺にあっさり捻り潰されちまうようなチンケな野郎には、今回の現場は、荷が重すぎるからな!』


 周囲から、どっと同意の声が上がった。

 カースはディスプレイシステムの力を借りて、周囲の状況をクリアに認識していた。

 ほどよい弾性を持つ広大な床を備えた、直方体の空間――

《特急》専用の屋内訓練場。


 その壁際に、《特急》の男たちが人垣を作り、今にも始まろうとするカースとシュライツとの勝負を観戦していた。

 発散されているのは、敵意と、期待――

 もちろん、仲間であるシュライツが、署長命令を携えてひょいとやってきて、自分たちの出番を奪った挙句に装備品を貸せなどとぬかした図々しい若造を叩きのめしてくれることを期待しているのだ。

 まあ「せっかくだから、ギアが着替えているあいだに軽く肩慣らしをさせてもらおうかな」などとカースが自分から申し出たのだから、《特急》の男たちのボルテージが上がるのも無理はない。


 その人垣の中に、アスカ・ブルーシードもいた。

 彼女は以前に会ったときとは違い、ブラックスーツを身につけていなかった。

 簡素なトレーニングウエアを着たその姿を見て、彼女の真の戦闘能力を想像できる者はいないだろう。

 腕を組んでたたずむ彼女の表情は、博物館で興味深い品物を目に留めた人のように静かで、一片の興奮も覗かせてはいなかった。


「では」  


 ただそれだけを前置きに、アスカが片手をあげ、振り下ろす――


「始め」  


 その瞬間に、がっと音がした。

 特殊素材の床を抉りかねない強さでシュライツが床を蹴り、一瞬でカースに肉薄したのだ。


『おっ』  


 カースの目には、まるでシュライツが眼前に瞬間移動してきたように見えた。

 黒い装甲に包まれた手が、顔面を粉砕しそうな速度で迫る。

 カースはヘルメットの中で目を閉じることもせず、ふっと身を沈めて相手の懐に潜り込み、伸ばされた右腕の関節をとって極めようとした。  

 シュライツはカースの意図に気付いた。その瞬間、彼の腕は、まだ完全に伸び切ってはいなかった。

 右腕にカースの腕が巻きついてきたとき、シュライツは猛獣のような雄叫びを上げ、ブラックスーツの筋力補助機能を最大限に発揮した。

 極められかけた腕の関節を強引に曲げ、その勢いで、カースの全身を空中に降りとばすようにして持ち上げたのだ。


《特急》の男たちが歓声を上げた。  

 シュライツはにやりと笑い、自分よりも遥かに貧弱な体格をした優男を、思い切り床に叩きつけようとした。  

 まさにその瞬間に、カースが同じようににやりと笑ったことなど、彼は当然、知る由もなかった。  

 本当に瞬きするほどの間の出来事だったので、その場のほとんど誰も――カースとアスカ以外の、おそらくはシュライツ本人にさえ――何が起きたのか、正確に理解することはできなかった。


 カースは空中でしなやかに両足を振り、あっという間に重心を移動して両足を地面に着けた。

 そして、次の瞬間、相手の腰の端と自分の腰の端をぶつけるような最小限の動きだけで、体格で圧倒的に上回る相手の身体を宙に浮かせ、床にうつ伏せに叩きつけた。


 バレット・カーが衝突事故を起こしたような音がした。

 普通ならば衝撃で全身の骨が折れているところだが、ブラックスーツの性能によって、着用者のダメージは最小限に抑えられている。


 シュライツは即座に跳ね起き、体勢を立て直そうとした。

 だが、彼が頭を数ミリ持ち上げるよりもはやく、首の後ろを硬いブーツの底が踏みつけ、それ以上の動きを阻んだ。

 抵抗する間もなく気密スイッチが解除され、ヘルメットが外されて、むき出しになった顔――正確には顎の真下に、冷たいナイフの刃が押しつけられる。


「動くと、床掃除の手間が増えることになるよ」  


 そう告げたカースの声には、悪戯っぽく笑っているような響きがあった。

 直前の激しい格闘の名残を思わせるような呼吸の乱れは、まったくなかった。


「もちろん、君じゃなく、君のお仲間のさ。まさか、隊長さんにモップ掛けなんかさせるわけにはいかないだろ?」


「くそったれ」


 シュライツは床に頬を押し付けた格好で呻き、ナイフの刃からできるだけ顎を遠ざけながら、全身の力を抜いた。

 逆転のチャンスは、その一瞬にあった。

 ブラックスーツの補助があれば、両腕の力だけで床を突き放し、そのまま立ち上がることができる。

 相手がつられて緊張を解き、力を抜きさえすれば、首の後ろを踏みつけるいまいましい足を跳ね飛ばし、それからたっぷりと「思い知らせてやる」ことは充分に可能だ――


 だが、そうはならなかった。

 力を抜いた瞬間に、ブーツにいっそうの圧力が込められ、シュライツはくぐもった呻き声を漏らした。

 脊椎がへし折れるという危険性がこれほどまでに真剣味を帯びたことは、《特急》の隊員四年目にして、初めての経験だった。


「そこまで」


 冷静極まりない審判のようにアスカが告げ、シュライツの脊椎は――プライドのほうはともかくとして――辛うじて、粉々になることを免れた。


 カースはゆったりと下がって、シュライツがよろよろと立ち上がり、駆け寄ってきた数人の仲間たちに支えられて訓練場から出ていくのを見守っていた。

 その口もとには、嘲笑とはまた違った、淡い笑みが浮かんでいた。

 だが、そんな表情は、アスカが歩み寄るとともに即座に消えた。


 カースは礼儀としてヘルメットを脱ぎ、アスカと向かい合った。

 あの、どことなく人を戸惑わせる瞬かない目でカースを見つめ、アスカは口を開いた。


「スーツ着用の経験はないと言っていたが見事なものだ。お前の『着こなし』は明らかに初心者の域を脱している。それに格闘の技術は――」  


 アスカはそこで、一瞬だけ言葉を切った。

 脳内で適切な表現を検索し、それを見つけたようだった。


「捜査官のものではない。お前が今披露した技術がアカデミーで習得したものであるとは考えられない」


「ぼくの保護者は、子供の教育に熱心なタイプだったんだ」


 カースは、大した事ではないというように肩をすくめた。


「就学前から、色々と習い事をさせられてね。エリア・エイジア発祥の武術とか、色々なことをさ」


「それにしても驚かされた。あの時とはまるで別人のようではないか?」


 まったく驚いているように聞こえないアスカの口調は、疑問ではなく、修辞的な強調をあらわしていた。

『あの時』というのが、《特急》の隊員たちと乱闘になったときだということは明白だった。

 あの時のカースは、わあわあ騒ぐだけでほとんど何もせず、最終的にはギアに蹴り倒されたルギンの巨体の下敷きになって潰れるという体たらくだった。

 だが、これだけの技量を持っているならば、スーツを着ていなかったあの時でも、相当の動きができたはずではないか?

 カースは肩をすくめた。


「あのときは、ほら……せっかく、ギアが楽しそうだったから」  


 彼はそこまでで、不意に言葉を切った。

 ちょうどそのとき、今まさに話題の中心となっていた男が姿を現したからだ。


「俺がいねえ間に、ひと騒ぎあったらしいな?」  


 壁際ですっかりひっそりとなっている《特急》の男たちの姿を横目に見ながら、ギアは屋内練習場に踏み込んできた。

 こちらも《特急》のブラックスーツに身を包み、ヘルメットを小脇に抱えた姿が、ひどく板についている。

 それもそのはず、彼は101に配属になるまで、012分署の《特急》に所属していたのだ。

 ブラックスーツを着用しての行動は慣れたものだ。  

 では、なぜギアのほうが着替えが遅くなり、あまつさえカースが待ち時間に「軽い準備運動」を済ますことができるほどのタイムラグが生まれていたのかというと――


「よく似合っているではないか」  


 アスカが淡々と頷き、ギアの胸部の装甲にある漆黒のエンブレム――装甲の黒と一体化して目立たないが、鱗を逆立てた蛇――を指差した。  

 それは、特別急襲部隊の隊長の証。

 アスカのスーツだ。  

 ジェイド・フォスター課長が言い放った「アスカ・ブルーシード隊長を脱がせてこい」の一言は、これを意味していたのである。  


 最初、ギアは猛反発し、男性隊員のスーツを借りると言い張って聞かなかったのだが、試着してみたらサイズが合わなかった。  

 スーツの身体へのフィット性は、筋力補助システムの反応を大きく左右する。

 仕方なく、当初の予定通り、アスカのスーツを借りることになったのだった。


「お前と私の体格が同程度で幸運だった。《特急》の隊員にお前ほど小柄な者はいない。それは私のための特注品だ。それ以上小さいサイズのスーツを我々は保有していない」


「ああ、確かに幸運だ」  


 もともと渋かったギアの表情が、さらに苦り切ったものになる。


「黙って聞いてりゃ、小せえ小せえって、人が気にしてることをずけずけ言いやがって……もしも、こういう状況じゃなけりゃ、半殺しじゃ済まさねえところだぜ」


 目の前の女性が身に着けていたものを、今、自分が着ているという事実だけでも屈辱的なのである。

 しかも、それを当の本人から重々しく解説されるなど、もはや羞恥プレイ以外の何物でもない。  


 アスカの片眉が大きく上がった。

 生身の人間であれば、意外さと挑発をあらわす表情だ。

 おそらくその意図は、フル・サイバードであっても変わるまい。


「この私が相手でもか?」  


 淡々と問い返されて、ギアは言葉に詰まった。

 彼にとっては懐かしい、ブラックスーツの感触が全身を包んでいる。

 身体が軽く、何でもできそうな気がした。

 まるで、物語に登場するヒーローにでもなったような気分だ。


 実際、今なら、両足でジャンプすれば軽々と天井に手をつくことができるし、片手のひと突きでベンチやデスクを壁まで吹っ飛ばすこともできる。

 アスカの腕を掴んで捻り上げ、この鼻もちならない機械女の金属骨格を肘のところでねじ切ることだってできるかもしれない――


 だが、成功の確率は、どんなに高く見積もっても十%というところだろう。

 ブラックスーツは人間の身体能力を補助し、生身の限界を軽々と超えさせてくれる。

 だがアスカの身体能力は、そもそもが人間の肉体のくびきから解き放たれたものだ。

 スーツを身に着けていない今でさえも、彼女は目の前十五センチから放たれた銃弾を表情ひとつ変えずに素手で止め、そのまま銃身を鷲掴みにし、相手の手もろとも捻り潰すことができるのだ。


「あんたとやり合う気はねえよ……今は、な。俺たちの相手は、他にいる」  


 ギアはそう唸った。

 暗に負けを認めたようなものだが、アスカはそれ以上、そのことについては言及せず、


「クアン・デルトロか」  


 言って、大きく頷いた。


「出動命令は我々ではなくお前たちに下された。我々が貸与した物品を有効に活用してお前たちが犯罪者を殲滅することを期待する」


「で、例の物は?」  


 これ以上の会話を切り上げるようにギアが問い掛けると、アスカは壁際に控えた男たちのひとりに合図を送った。  

 進み出てきた隊員が、銀色の耐衝撃ケースを差し出す。

 アスカはそれを受け取り、ギアたちの目の前でケースを開けてみせた。


「貸与要請を受けた物品はこれで全てだ。確認を」


「よし」  


 中のものを手に取ってあらためたギアは、それを慎重にケースに戻し、蓋を閉めてケースごと受け取った。


「あんたには、借りができちまったな」


 この物品こそが、今回の作戦の要となるはずだ。

 これを借り受けることを発案したのは、ギア自身だった。

 そこで初めて、隣から、カースが物言いたげに見つめていることに気付き、


「何だよ?」  


 そっけなく問い掛ける。


「え、いや、別に。でも、どうしてこんなものが《特急》にあるんだい?」


「訓練用だ」  


 即座に答えたアスカに、


「デルトロ・ファミリーからの押収品、本当に、こいつで間違いなかったんだろうな?」  


 ギアが念を押す。


「ああ」  


 アスカの口調は変化が乏しいので、あまり熱意や真実味といったものが感じられない。  

 だが、この際、信用するしかなかった。  

 この女性は犯罪者を決して許さないが、自ら断罪の剣を振るうチャンスをギアたちに奪われたからといって、腹いせに紛いものを掴ませるような種類の人間ではないはずだ。

 あの青い目が、瞬きもせずにギアを見据えている。


「余計なことかもしれないが忠告しておく。これは私の判断基準に照らせば『火力が充分』とは称しがたい――」


「いいや、充分だ」  


 アスカが言った言葉を、ギアは真っ向から打ち消した。


「これで充分だ」


「ギア……」  


 今度はカースがぶつぶつ言い始め、ギアは今度こそ、隠そうともせずにうんざりした表情になった。


「何だよ、まだ何か文句があんのか? ハゲ坊主の許可は、課長を通じて、きっちり取り付けただろうが」


「でも、これは」


「カース」  


 ギアの口調には、これ以上、口論に時間を割くつもりはないという鋼のような意志が透けていた。  

 ただでさえ随分と――まあ主にギアの着替えに手間取ったせいだが――時を無駄にしてしまったのだ。  

 時間にすれば、現場を出発してからたった三十分ほどの間だったのだが、現状を知る者なら、決してこの三十分を「たった」とは表現するまい。

 これ以上、一秒たりとも余計な時間を使うわけにはいかなかった。  

 挨拶もそこそこに踵を返したギアとカースが、ちょうど訓練場から出ようとしたとき、


「良い戦闘を」


 背後から、そう、アスカの声が聞こえた。


「戦闘じゃねえ」  


 ギアは振り向かずに答えた。

 その顔には、カースでさえぎょっとするほどの、獰猛な笑みが浮かんでいた。


「狩りに行くのさ」




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