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蛇は箱から出た


 タイラー検察官夫人ターニャ・タイラーは、豪華な個室で、髪のカラーリングを受けているところだった。

《ブリジンガーメン》では、客を退屈させないことを接客の基本としている。

 客はカラーリングが定着するのを待つあいだ、専用の巨大なモニターで動画を鑑賞したり、ネットサーフィンを楽しむこともできた。

 数センチ四方のセンサーフィールドで指先を動かすだけで済むから、クロスをかぶったままでも、あらゆる情報に手を伸ばすことができる。


「ママ、まあだ?」


 背後から聴こえた、いくぶん舌足らずの幼い声に、ターニャは、それまで熱心に読んでいたアンチエイジングの美容法から視線を上げた。

 年齢よりも遥かに若々しく美しい顔で、微笑んでみせる。

 頭を動かすことはできなかったが、目の前の鏡に、さっぱりとした子ども用のドレスを着た彼女の娘の姿が映り込んでいるのが見えるのだ。

 娘は、トリートメントコースの施術を受けた髪をふわふわにカールさせてもらい、まるで天使のような愛らしさだった。

 だが、頬をぷっと膨らませ、眉をへの字に曲げて、いかにもご機嫌ななめといった様子だ。


「そんな顔しちゃだめよ、フアナ。せっかくの美人が台無しよ?」


「だって、ママ、遅いんだもん!」


「もうちょっとだから。もう少し待っててね」


「お嬢さん、これをお使いになりますか?」


 スタッフが素早く子ども用のラップトップを差し出すが、フアナは気難しげに小さな手を振ってそれを退ける。


「いらない! ママと、早くお買い物に行きたいんだもん」


「では、お菓子と飲み物を用意……」


「いらないもん! ママとお買い物に行って、アダムス・カフェで、スフレを食べるんだもん」


 フアナは、ぱたぱたと地団駄を踏んだ。

 さしもの《ブリジンガーメン》のサービススタッフにとっても、幼い子どもを30分以上退屈させないという芸当は、困難を極めるらしい。


「フアナ、おとなしく待ってなさい。ね、もう少しだから」


「やだ! もう行く。わたし、先に行っちゃうもん」


 小さな暴君は、軽い体重が許す限りの足音を立てて個室の出入り口へと向かった。

 スタッフが、慌てて追いかける。

 出入り口はセンサー式の自動ドアになっているから、もしも本気で出ていかれて、迷子にでもなられたら大変だ。


「フアナ、こら! 駄目よ」


 フアナは、いらいらしていたが、同時に小さな勝利感も覚えていた。

 大人なんて、動かすのは簡単。ちょっと泣いてみせるか、すごく怒ったふりをすればいいだけだわ。

 そうすれば、すぐにみんな、お砂糖みたいに甘くなっちゃうんだから。


「いいもん。わたし、一人で、お買い物に行っちゃうもん!」


 フアナが母親のほうを振り向き、勝利宣言のように叫んだとき、扉が開いた。


 そちらに目を戻したフアナは、凍りついた。

 まるで、鉄の壁のような、大人の男――

 黒ずくめの巨大な男が、巨大な銃を持って、そこに立っていた。

 その後ろにも何人かいたが、フアナの目には、ほとんど、先頭の一人の姿しか入らなかった。

 その太い指には、イミテーションにしか見えないほど大きなダイヤモンドがきらめいていた。


 室内に向けられた銃口が続けざまに火を噴き、フアナは金切り声を上げた。

 母親の悲鳴よりもきっかり1オクターブ高い、絹を裂くような声だった。

 部屋の中にいた数人のスタッフが、身体中から血を噴き出しながら、独楽のようにくるくると回って倒れ込む。

 人間から肉塊に変わったそれは弾みもせず、床にへばりつくように倒れ伏した。


 フアナは、そんなとんでもない現実そのものを打ち消そうとするかのように、甲高い声で叫び続けていた。

 銃撃が止み、駆け込んできた男たちが母親を席から引きずり出すときになって初めて、その叫びに意味が生じた。


「ママー!」


 母親の側に駆け戻ろうとしたフアナの襟首を、男の大きな手が掴み、子猫でも捕まえるようにぶら下げた。


「やめて! フアナ! 娘を放して!」


「坊ちゃん」


 なおも喚きながら必死に暴れるフアナを捕らえたまま、《ディアブロ・ロホス》はこともなげに通路を振り向き、言った。


「ガキはどうします。始末しますか?」


「へえ?」


 その人物が姿を現した瞬間、フアナは、ぴたりと叫ぶのをやめた。

 幼い本能が、察知したのだ。

 生命の危険を。


 血まみれのスーツを着た、男。

 まだ若いけれども、フアナにとっては、大人の男。

 その酷薄なみどりの目にじっと見据えられ、フアナは、金縛りに遭ったように身動きができなくなった。

 それは、人間の子どもを見る目ではなかった。

 まるで、トランプの札でも見るような目つきだった。

 大してよくもない手札を、捨てようかどうしようか迷っているときの目だ。


「ああ、お願い、お金ならあるの、どうか、子どもだけは」


「連れていけ」


 すすり泣き混じりのターニャ夫人のことばなど、まるで意に介した気配もなく、クアンは笑った。


「人質は多いほうが好都合さ。一人殺せば、二人目の価値が上がる」


 哀れな母子の口を強力な粘着テープで塞ぎ、男たちは、職員用の通路を駆け抜けていった。


「急げ!」


 壁面に埋め込まれたエレベータのボタンを殴りつけておいて、非常階段の扉をこじ開け、飛び込む。

 警備員は買収済みで、しばらくは通報される心配がないとはいえ、念には念を入れておくべきだ。

 万が一、途中でエレベータを止められたりしては、籠の鳥も同然になってしまうではないか?

 しかし、数十階分を階段で降りるというのは、時間的に効率が悪すぎる。


「暴れるなよ! 真っ逆さまに落っこちて、首の骨を折りたくなけりゃな!」


 ハーネスを手すりに固定し、強靭なアラミド二層繊維のロープを吹き抜けに投げ下ろす。

 男たちは、現場に突入する特別急襲部隊のように、次々とロープを降下しはじめた。

 皆、ウォール競技のプロも顔負けの動きを見せている。

 ロープが尽きる前に、次々と新しいロープを固定し、投げ下ろしては、デバイスを着け換えて降下を続けた。

 人質を抱えていても、その動きに鈍さはない。

 と、その時だ。


「動くんじゃないよ!」


 出し抜けに、鋭い警告の叫びが響き渡った。

 それは、男たちの、遥か頭上から聞こえてきたのだった。


「落ちるな、てめえらぁ!」  


 最後尾を降下していたデレクが、片手だけでマシンガンの銃口を真上に向け、フルオートの掃射を始めた。

 一歩間違えれば自分たちの命綱を撃ち抜きかねない危険な銃撃だったが、効果はあった。

 非常階段の遥か上で、何者かが、さっと身を隠す。


「先に降りてろ! 行け、行け、行け!」


 ったく、何モンだ、とデレクは内心で舌打ちをしていた。

 こちらの位置は既に掴まれている。

 だが、狭い非常階段の中という状況は、こちらに有利にも働いた。

 相手の位置も特定できるからだ。

 何者だかは知らないが、こうなれば弾数で相手を圧倒し、物陰に釘付けにしておくしかない。

 デレクが撃ちまくっている隙に、クアンたちはほとんど地上階に達しようとしていた。


「早く来い、デレク!」


 クアンが叫ぶ。

 駄目押しとばかりにマシンガンを撃ち尽くし、デレクはクアンたちに合流した。

 扉の電子ロックを撃ち抜き、彼らは外に飛び出した。

 そこに、バレット・カーが待機しているのだ。


 一方その頃、非常階段の上では。


「あンのクソドハゲ……なぁぁぁにが『相手は秘密裏に動くはず』よ!? ド派手にやってくれやがって! 危うく、全身穴だらけになるとこだったよ!」


 毒づきながら立ち上がったのは、ロッサーナだ。


「危険手当は出るんでしょうねぇ?」


 ぶつぶつ言いながら、サロンのロゴ入りのクロスをマントのようにひるがえし、通信端末を取り出す。

 着信履歴に山のような記録が残っていたが、それらには一切構わず、


「こちら《死神デス》よ!」


 相手が出たと見るや、怒鳴った。


「《スネーク》は箱から出た。《トンボドラゴンフライ》を飛ばしなさい!」



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