「嫌いじゃなかったよ」
《ブリジンガーメン》は、アトランティックビルの50階ワンフロアを丸ごと店舗空間として営業する一流のヘアサロンである。
客は女性ばかり。
それも、富裕層の女性ばかりだった。
贅を尽くした内装と、完璧に行き届いたスタッフの対応、そしてカットやカラーリングの高い技術は、贅沢に慣れた女性たちの厳しい目をも充分に満足させ得るものだ。
かっちりとしたスーツを着込んだ女社長が、スタッフの最敬礼に送られながら、秘書を従えて颯爽と店の奥から出てくる。
構築的なデザインの黒いスーツは、地味だが最高級のものだ。
彼女の短い黒髪には、硬質な雰囲気によく似合う絶妙なカットがほどこされていた。
この髪形を保つために、彼女は半月に1度、大金をかけてこの店にやってくるのだ。
同時、エントランスから、身体の曲線をあますところなく見せつけるような大胆な服装の美女が姿をあらわし、見事なスーパーロングのストレートヘアを揺らしながら歩いてきた。
猫のような足取りに、挑戦的な眼差し。
夜の世界に生きる女性――それもとびきりの高嶺の花だと、いくら女を見る目のない男でも気付くだろう。
すれ違いざま、ふたりの女性のあいだに、小さな火花が散る。
視線すら合わさることはないが、確かに、それは敵愾心の火花。
誰よりも美しくありたい、誰よりも高級な女でありたい。
それは、どんな女性の心の中にも眠る、最も原始的な本能だ。
金のある女たちは、その本能を充分に満たすために、この《ブリジンガーメン》にやってくる。
「女もなかなか大変だね」
華やかなエントランスとは反対側、スタッフ専用の高速エレベータ。
無機質な直方体の空間に、白と黒の制服を身につけた六人の男たちが、銀色のカートを囲んで立っていた。
「僕たちの添え物にふさわしい見栄えを保たなきゃならない」
撫で付けた褐色の髪の下で、凶暴な光をたたえたみどりの目がぎらついている。
クアン・デルトロは、腰に下げたホルダーを指先で撫でた。
そこに納まっているのは鋏やコームではなく、ハンドガンだ。
白いクロスをかけられたカートに載っているのは、サブマシンガン。
「馬鹿な奴だよ、タイラー検察官……大人しく僕の言うことを聞いて、さっさと不起訴の決定をしていれば、奥さんがまずいことにならずに済んだのにさ」
「タイラー検察官は、これまではファミリーとの取り引きに応じてきました」
独り言のように呟いたクアンに返答したのは、アントンだ。
背後に控える四人は皆、彼の部下だった。
《赤い悪魔》デレクと彼の部下は、クアンたちが仕事を終えて出てくるのを下で待つ手筈になっている。
「そうさ、アントン。あいつの奥さんがこんな馬鹿みたいに高級なサロンに通えるのも、僕たちとの取り引きのおかげなんだ」
「正確にはドン・デルトロとの取り引きですが……」
制服の胸に散ったわずかな血痕を気にしながら、アントンは言った。
ここに来るまでに、三人の警備員を始末してきている。
死体は隠したが、あまり時間をかけてはいられない。
「ああ、そうだね。あいつが今回、僕よりもクソジジイの機嫌を取るほうを選んだのも無理はないよ。だけどね、もう、これからはそうじゃいけないってことを、教えておいてやる必要がある」
扉の上のパネルが「50」を表示し、六人の男たちを乗せたエレベータはほとんど反動もなく静止した。
クアンは、背筋を静かな興奮が這い上がるのを感じた。
そして、扉が開く――
それよりも一瞬早く、つやのあるドアパネルの素材に、すっと影が流れた。
クアンの横手から伸ばされた女のようにほっそりとした指が、クローズ・ボタンに触れる。
振り向きざま、クアンの右手がホルダーに走ったが、グリップを掴むよりも先に手首を捕らえられた。
しなやかで、華奢に見えても、アントンの手はとても力強かった。
クアンの口元が吊りあがり、猛禽のような笑みになった。
「何の真似だい、アントン」
「ここまでです、坊ちゃん」
彼の声がくぐもり、手首を掴んだ手がかすかに震えている。
「ドンの命令に背くことはできません」
クアンの目に本物の殺意が燃えた。
「そう言うように、命令されたのかい? それとも、自分からクソジジイの機嫌を取る犬に成り下がったのかい?」
「私は最初からあの方の忠実な猟犬ですよ、最初からね。ドンは、あなたを試せと仰せになりました。あなたが自ら思い留まるならばよし……そうでないときは、おまえが止めるようにと」
「お前たち、何してるんだ」
クアンは振り向かないまま、後ろに控える四人の男たちに命じた。
表情にはまだ笑みが残っている。
口調は、いっそそっけないと呼べそうなほどに平静だ。
「さっさとこいつを撃ち殺せよ」
男たちが、一斉に銃口を掲げる。
どの銃も、背中から心臓を狙う位置を正確にポイントしていた――
クアンの心臓を。
「そう……それが、お前たちの答えかい」
気配からそれを察したクアンの表情から、笑みが消える。
彼は振り向かないまま、静かに呟いた。
「ねえ、今なら許してやるよ。考え直せよ」
「ファミリーのためなのです。ご一緒においでください」
耳元でささやくアントンの声には、複雑な感情が入り混じっているようだった。
クアンへの親愛、ドン・デルトロへの畏怖。
興奮、緊張。権力への渇望――
醜悪。
「嫌だ、と言ったら?」
「どんな手段を使っても連れ帰るように、と、ドンのご命令です。しかし、私はあなたのことが好きですよ、坊ちゃん。あなたを殺したくはない。大人しくおいでください」
クアンは笑った。
「嫌だね」
クアンが倒れ込むように床に伏せると同時、凄まじい轟音が響き、エレベータのドアが外から乱射される弾丸によってずたずたに撃ち抜かれた。
四人の男たちが壊れた操り人形のように血を噴き出して倒れ、アントンもまた、腹に一発を受けてエレベータの内壁に叩きつけられる。
身を起こしたクアンが拳でボタンを叩くと、ドアが開き、マシンガンを構えた巨漢と彼の部下たちの姿が現れた。
巨漢がトリガーにかけた人差し指には、ひときわ巨大なダイヤが嵌まった指輪がきらめいている。
「これぞ《赤い悪魔》の仕事だ。行け、デレク」
デレクは頷き、部下を引き連れて通路を駆け抜けていった。
一瞬にしてスローター・ハウスと化したエレベータ内を振り返って、クアンは銃を抜いた。
「分かるかい、アントン?」
アントンは、腹に急速に広がっていく血の染みを両手で押さえ、クアンを見上げていた。
「クソジジイが僕を泳がせたように、僕もまた、お前を泳がせていたのさ。おまえが思い留まるならそれでよし、もしも、そうでないなら――」
「いつからです?」
自分に向けられた銃口の奥の闇を見つめるアントンの目には、奇妙に魅入られたような光があった。
「最初からさ。僕がパパに教わったことは二つあった。最も重用する部下は、常に二人置け。 そして……腹心といえども、決して、信用はするな」
発射音はほとんどなく、頭蓋骨の欠片と脳漿が壁面に飛び散る湿った音が響いた。
「お別れだ、アントン。僕も、おまえのことは嫌いじゃなかったよ」
通路の奥から派手な銃撃の音が響くのを耳にして、クアンはにやりとくちびるを吊り上げた。
賽は投げられた。
もはや、時計を止めることはできない。