七人の小人
午後六時。
神田シンヤはまだ少し活気のあるオフィスで、「やれやれ、今日は終わりにするか」といった風情で力いっぱい伸びをした。どちらかというと背が高いので、ことさらつま先立ちをしたその伸びは目立つ。午後六時半。まわりも一気に仕事を続ける気力が失せたかのように緊張の糸が切れていた。
「よお、神田君。今夜一杯どうかね?」
先輩社員に声を掛けられたが、断った。「まだ木曜日ですよ」というのがシンヤの言い分だ。
「金曜日だと、カノジョとデートでもするだろ? だから今日誘ってんだよ」
さらに別の先輩社員から追い討ちされる。「カノジョはいませんよ」と、変わらずシンヤは首を振る。
「せっかく山瀬君も来るって言うのになぁ」
前の先輩社員はそう言って、近くに座る山瀬ハルカの肩をたたいた。ハルカは驚いたように身を縮める。「あ……」と思わず声を出すが、「ね、来るよね」と先輩社員二人に念を押されると、「あ、はい」と消え入りそうな声で答えた。
山瀬ハルカ。
ぱっとしない女性である。
目じりのたれた顔つきが示すように、何事にも控えめでおっとりしている。性格はいいのだがあまりにも地味な印象があり、同性と並べるとまず目立つことはないだろう。彼氏がいるような気配もなく、強く頼まれると嫌といえない性格もあり、何事においても貧乏くじばかりを引いている。
シンヤから見れば、今の場面だって「セクハラです」と一刀両断すればいいのにと思うし、明らかに嫌なんだけど「強く頼まれると断れないから」という対応にも苛立ちを覚える。
もっとも、シンヤがハルカを毛嫌いしているということもある。以前、タバコのパッケージを開けながら喫煙所に向かうシンヤに、珍しくハルカの方から声を掛けてきたことがあり、その内容が「シンヤさん、タバコですか? うふふっ。人の中には『七人の小人』が住んでいて、その小人が欲しがるから、人はタバコがやめられないそうです。ちゃんとしつけてくださいね」というもの。シンヤがハルカを敬遠し始めた瞬間だった。喫煙をいさめられたのもさることながら、そのいさめられ方が生理的に受け付けられなかったのが要因だ。
ただし、「七人の小人」については、割と売れている書籍で紹介してある自己啓発法のひとつだ。自分のやる気を高めるためには、自分だけではなく自分の中にいる「小人」のやる気も高めなければいけない、酒やタバコがやめられないのは自分以外にそれらを欲しがる「小人」もいさめないからだ、人の頼みを断りきれないのは、断りきれない自分をいさめてくれる「小人」がいないからか「小人」自体が断りきれない性格で自分もそうなっているかだ、など書かれている。白雪姫の挿絵に出てきそうな小人や背中に羽根のある小さな妖精のイラストが満載で、女性をターゲットにしたビジネス書といった体裁だ。一見、責任逃れ体質を作りそうだが、「女性は結婚すれば、男性や子どもが日々快適に過ごせるように家事を仕切らねばならないことが少なからずある。そういう意味で、自分の中に扶養家族的な存在を意識するという考え方は理にかなっている」と評判は良いらしい。
理屈はともかく、ハルカが一緒だろうがシンヤにとってはどうでもいい話で、「そりゃ、良かったですね。楽しんでください。私は上がりますので」とすっぱり断った。
次の日、シンヤが喫煙所に向かっていると、給湯室付近でハルカと顔を合わせた。昨晩、断ったとはいえ先輩社員に本当に付きあって飲みに行ったのか気になって声を掛けた。
「よ。昨日、どうだった。どうせばかみたいな話ばっかりしてたんだろう?」
先輩の誘いを断って全部ハルカに任せてしまったような後ろめたさもあったので、にこやかなものだ。しかしその笑顔は次の瞬間、鳩が豆鉄砲を食らったような表情に変わった。
「そんなことはないですよ。鍵崎先輩とかといろいろ楽しい話をしたし」
ハルカの返事は、いつもと違って歯切れのいいものだった。「強く頼まれれば嫌とは言えない」彼女のこと、あまり酒も飲めないのにいやいや付き合わされてさぞや大変だったろうと思いきや、意外な反応。
「楽しい話って……」
「いろいろ、先輩に感化されたんですよ」
顔をしかめるシンヤ。口にはしないが、それはよした方がいいと顔をしかめる。
何せ、手癖が悪い。
何でもかんでも自分のものにしたがるのだ。
シンヤが机の消しゴムがなくなったと探していれば、いつの間にか自分のものとして使っている。そればかりか、抗議してもうまいこと言いくるめてちゃっかり自分のものにしてしまう。今朝はなぜか顔を合わせても何もなかったが、普通なら「すまんが一本」とタバコを強引に取られるのだ。もちろん、シンヤはタバコ一本程度でぐちゃぐちゃ言うつもりはない。これが1日に2回も3回もあり、年中繰り返されるのだ。もはや、シンヤのタバコの半数は鍵崎先輩のものと言っても過言ではない。いつ「俺のものは俺のもの。シンヤのものも俺のもの」などと言いだしてもおかしくない状況だ。
「あの先輩に感化されても、いいことなんかないぞ」
顔をしかめたままそう助言しようとしたところハルカに肩を叩かれ、「そんなしかめっ面ばかりしてると、顔中しわだらけになりますよ」と笑われた。それでも何か言い返そうとしたが、シンヤの口からはなぜか言葉が出ない。
もどかしい思いをしていると、突然ハルカはつま先立ちして思いっきり伸びをした。白いブラウスに胸のラインが浮かび上がる。
「じゃっ、私は行きますから」
明るく言い残すと、快活な脚運びでオフィスへと戻っていった。
シンヤは悩ましく揺らぐ引き締まったヒップラインと見送りながら、あいつ結構胸あったんだと真が抜けたようにあんぐり口を開けていた。
その日の仕事はいつもより早く片付いた。実はカノジョがいないシンヤは、おとなしく一人暮らすワンルームマンションにとまっすぐ帰宅する。彼自身、いつもならたとえ財布の中身が乏しかろうとパチンコにでも寄って帰るのにと思わなくもなかったが、気分が乗らなかった。
まっすぐ帰ったツケは、夕食に表れた。
カップラーメンとサラミしか食べるものがないのだ。
普段から自炊などしないため、コンビニエンスストアにも寄らずに帰ればこうなることは明白なのに、なぜか買い物すらせずに帰宅した。思い返せば、「何か作ってみようかな」という気分が少しあったのも確かだ。
仕方なく、カップラーメンで済ませるが、当然食べたりない。ビールは山と冷えているので、後はサラミをつまみに酒を飲むことにした。
「ぶ。何だ、こりゃ」
ぷしっ、と開けた缶に口を付けたのだが、どうしたものかひどく苦い。いや、苦いというより飲料水ですらないだろうという風情だ。
念のためにグラスにそそぐ。別に変色もしてないし、泡立ちもこんなもの。さては味が落ちたかと別の銘柄も飲むが、同じく飲めたものではない。もしかして自分の問題かと思ったところで、携帯電話が鳴った。
出ると、山瀬ハルカからだった。
「あなたの『酒好きの妖精』を預かってるから。もしも返して欲しかったら『バー・ミリオン』まで来てね」
「酒好きの妖精〜?」
彼女の酔っているような口調と、酔っているような取りとめのない話にシンヤは思わず間の抜けた返事をした。
「あ。困ってないのなら特にいいの。ただね、最近の本で、人が突然変わったようになる理由は、変わりたいなと思う人の『いいところ』を担う妖精を手なずけて、自分のものにすればいいって書いてあったからそうしただけの話だから。永遠にお酒をおいしく飲めなくていいのなら、ね。私が今後、代わりにおいしくお酒を飲んであげますからね〜。きゃははははは」
電話は、切れた。
人が変わったとはまさにこのことか。シンヤはハルカの変わりっぷりに呆れた。
それはともかく、少しためらったがシンヤは「バー・ミリオン」へと向かった。ハルカの変貌に尻込みはしたが、何となく彼女の言葉に「お願いだから、来て」と頼んでいるようなニュアンスがあったからだ。
「いやいや。これから旨い酒が飲めんってのは困るし、何より人のものを勝手に取っているのがゆるせん!」
自分にそう言い聞かせる。鍵崎先輩でもあるまいにと毒づきもする。もともと、誰でも人の中には七人の小人がいるなどと紹介している書籍など眉唾モノだと思っていたが、なぜか今は否定できない心境だった。もちろん、実際に「ビールをおいしく飲めなかった」という事実があることも一因だが。
しかし、その七人の小人。自分の七人の小人を預かっているということは、ハルカの中には今八人の小人が入る計算になるが、問題はないのだろうかなどとシンヤは思いを巡らせる。以前のシンヤなら、生理的に受け付けずまじめに思い巡らせることすらなかったろう。
そうこうする内、「バー・ミリオン」に到着した。
「あ。シンヤさん。こっちこっち」
小洒落たバーのカウンター席で、上品に着飾った山瀬ハルカがシンヤに手を振った。呼び出された形のシンヤは、怒りの念と共に隣の席に座る。
さて、どうやって叱りつけようかと逡巡していたところ、ハルカの方が先にすがるような勢いで言った。
「お願い。シンヤさん。お願いだから、私と結婚を前提としたお付き合いをして!」
もちろん、なぜか「強く頼まれれば嫌とは言えない」状態になっているシンヤに断りようもなかった。まるで立場が逆になったように。
おしまい
ふらっと、瀬川です。
こういう作品が出てきたので。
3つくらいの縛りがあった(単語を入れるとかいう軽い縛りではなく、シチュエーション縛り)中で書いたはずですが、それが何であったかはすでに記憶なし。
楽しんでいただければ幸いです。