紅茶 ~キャンディ~
短編というには、少し長いかもしれません
静かな店内に子供の小さな泣き声だけが響いている。
その鳴き声はとても小さく、集中していなければ聞き取れないような、蚊の鳴くような声だった。
実際小ぢんまりした店内は客が数人いるだけでいっぱいになる。小さな泣き声に気づくこともなく接待をしていただろう。
しかし今、客は誰もいず、鳴き声は静かに反響して一人の男の元に届いた。
「どうしたの?」
しかし、声をかけたのはその男性ではなく男性の傍にいた男の子。
心配そうにその鳴き声の持ち主を覗き込んだ。
泣いていたのは目の前の男の子とそう歳の変わらぬ女の子。細かにしゃくり上げるたびに嗚咽が漏れている。
「…お母さん、いないの」
「迷子?」
首を傾げながら問う男の子に、女の子はしかし違うと首を横に振る。
「迷子、違う。でも、いないの。どこにも、いない。遠いところに、行っちゃった」
その言葉に大体の事を察した男の子は、待っていてと優しく言い置いて男性のところに走って行った。
暫く、女の子は不思議そうにその背中を見送っていたが、また、いつの間にか止まっていた涙が瞳を濡らす。しかし本格的に泣き出す前に、男の子は戻ってきた。小さなカップに温めの紅茶を入れて。
地べたに座っていた女の子を柔らかそうなソファに促した男の子は、カップをそっと女の子に差し出した。
差し出されたカップを不思議そうに見つめ、目線を上げると優しく微笑む男の子と目が合った。
目が合った途端、優しそうに眼を細めると、君のだよと女の子の手にカップを握らせた。
「あったかい…」
「それはね、キャンディっていう紅茶なんだ」
「キャンディ?…丸くないよ?」
キャンディという言葉に目をまん丸くさせて問う女の子に飴じゃないからね、と微笑みながら男の子は頷いた。
カップの中の紅茶を繁々と眺めるだけの女の子に苦笑しながら、飲んでみてと催促した。
「甘い…」
「キャンディはね、ほかの紅茶よりも渋みが少なくて飲みやすいんだ。甘みもコクももともとあるから、ストレートで飲んでもおいしいんだけど…お砂糖、入れてよかったかもね」
「なんで?」
「紅茶、飲んだの初めてでしょう?初めてだとおいしく飲めないことがあるから…ミルクも、入れる?」
「ううん、このままがいい」
「そっか」
男の子は嬉しそうに微笑んだ。女の子はその微笑みの意味は分からなかったが、その笑顔が女の子は安心できるから、好きだった。
落ち着いて店内を見回してみると、人は男の子のほかに成人した男性が一人だけ。カウンターの中にいることから、ここがあの男性の店なのだということが分かる。
店内の内装は雰囲気そのままに落ち着いた作りで、大きな木枠の窓は薄緑色のカーテンがかかっている。そのカーテンは白薔薇の装飾が施された紐で括ってある。今女の子が座っているソファは濃いブラウンで、そのソファの前には三脚の丸机が設置してある。上を見れば、鈴蘭の形をしたランプが仄かに光っている。
店内を見回した後、唐突に女の子は帰らなきゃと呟いた。
「まっすぐ帰れる?」
心配そうに見つめる。こくりと女の子は頷いた。
「また会える?」
これには少し考えるような沈黙の後女の子はやはり黙ったまま首を横に振った。
「引っ越すの。明日」
「明日?…早いね」
「うん。だから、帰らなきゃ」
「…そっか。じゃあ、またね」
もう会えない、と言ったにも関わらず男の子は笑って手を振った。
女の子も黙って手を振り返した。ふと窓から、先ほど女の子が持っていた空のカップが目に入った。
また会いたい。会えればいいな。そう思いながら、女の子は帰路に就く。
自分と同じ年に見えるのに、自分よりも遥かに大人びた男の子の事を考えれば、遠くに行ってしまった母親のへの悲しみはなぜか薄れた。
ここに戻ってくるのはいつ振りだろう、今の自分の年から考えると10年くらいか。
自問自答しながら昔住んでいた町に思いを馳せる。
父親の都合上東京の都市に引っ越したが、少女が成人したことにより親元を離れ、ここに戻ってきたのだ。
借りたマンションに荷物を預け、自分がいない間に変わっているだろう街並みを散策する。
角を曲がったところで、既視感を覚える店に出会った。
妙に懐かしく、店の中に足を踏み入れる。カランコロンという鈴の音が少女を出迎える。
「いらっしゃいませ」
店内を見回していた少女の元に、落ち着いた優しげな声が少女の耳朶を打つ。
視線を声のした方に向けると、声と同じ優しそうな笑顔をたたえた青年がこちらを見ていた。
カウンター席に案内され、いまだ消えぬ既視感に疑問を抱きながら店内の内装を眺めていると、目の前に温かそうに湯気を立てるカップが目の前に置かれた。
「あ、あの…注文…」
それだけで少女の言いたいことを察したのだろう青年がサービスですと微笑んだ。
幸いいまは誰もいない。そのせいかもしれないな、と素直に好意に甘えてその紅茶を口にした。
「…キャンディ」
その紅茶は今でも忘れられない、子供のころある男の子が入れてくれたものだ。
それからは、少女の好きな飲み物はこれになったのだ。間違えるはずがない。
「なんで…」
「思い出せないみたいだったから、これを飲んだら、気づいてくれるかなって」
その言葉に視線を上げれば、優しそうに微笑む青年がいる。
少女はもう一度、店内を見回した。木枠の窓、濃いブラウンのソファに三脚テーブル、鈴蘭の形をした照明。すべてが見たことのあるものだと気づく。
「ここは…」
「そう、僕と君が初めて会った場所。あの頃は、君の名前も知らなかった…鈴」
「名前…」
驚きは鈴の顔に分かりやすく表れた。それを見て、青年は愛おしそうにもう一度鈴、と呼んだ。
「相当苦労したよ、君の名前を調べるのは。何せ君は相当な人見知りで、口下手で、友達もほとんどいなかったから。あ、ちなみにストーカーじゃないから。地元の…特にご年配の方たちは、君の事をよく知っていたんだ。同世代よりも、そっちの方が確かに君は落ち着いて話せそうだよね」
その当時の性格まで調べられていたことに、驚きとも恥ずかしさともとれる感情が沸く。
人見知りは前よりましになったが口下手なのは相変わらず。それは話していても分かったようで、口下手なのは相変わらず、と青年は爽やかに笑った。
「僕の名前は坂宮悠二。3年前から、この店を引き継いだんだ」
にこやかにカップを磨きながら話す姿はなるほど、板についている。
「あの、男の人…は?」
「男の人?」
ぱちくりと目を見開いて瞬きする。男の人、では抽象的過ぎて分かりにくいが、鈴はそれしか言えない。悠二は首を捻りながら考えている。
「…あ、もしかして鈴が初めてここにいた時、僕と一緒にいた人?」
鈴はそうだ、と何回も頷いた。そんな仕草も愛おしいと言わんばかりに微笑めば、鈴は笑顔に当てられ俯いた。
「あれは、前のここの店長であり、僕の父さんだよ。あ、でもあの時のキャンディはちゃんと僕が淹れたから」
照れ臭そうに微笑んだ悠二に、鈴は好感が持てた。あの時の少年だというのなら尚更。
そろそろ帰ろうという時になって、残りのキャンディを気管に詰まらせないようにゆっくり飲んでいると、両腕を組んでカウンターに寄りかかる悠二の言葉に、鈴は吹き出しそうになった。
「また来てね?…好きな子には、もっと会いたいから」
甘く微笑まれ、口の中にあったキャンディの甘みのある味も、匂いも、全て飛んで行ってしまった。