少女が考えるより事態は深刻で。
私は私室の中で呆然と立ちつくし、その腕時計を凝視した。針は止まっており時計として機能していなかった。
アナログの小さな時計の文字盤にはアラビア数字が刻まれており、他には読めない幾多の奇妙な文字が大小様々に円状に配置されていて、その中心には何を指し示すかわからない針があり、その文字盤の全体像は、さながら魔術師の使う魔法陣のようであった。
この時計について、チクタクマンと名乗ることにした這い拠る混沌の一面が言うには、己と思って身につけてほしいといっていた。
これが恋人同士ならば洒落た台詞ではあるだろうが、混沌の化身に言われては恐ろしいを通り越して滑稽とさえいえる。
得体の知れない時計ではあるが貰ったものであるので、ありがたくはないが使うことにする。ただし動かせればではあるが……
しかしこの時計、まったくピクリとも動かない、電池切れであろうか? いや、冒涜的な邪神のことである、人間の血液が動力ということもありえる。
私は引き出しからカッターナイフを取り出し、指を少し傷つけ試しに血液を垂らしてみたが何の反応もない。腕からはずした時計がちょっと汚れただけである。
どうやら生き血をすするような時計ではなかったらしい。しょうがないので垂らした血液をふき取ろうと引き出しからティッシュを取り出そうとした。
しかしそのとき、時計が服に引っかかり、コトリと床に落ちてしまった。
あわてて時計と持ち上げる。まさかこの程度で壊れるわけは無いだろうが……
部品が壊れていないかどうか確かめるために時計を振ってみると、よくはわからないが内部の部品が外れたのか、カチャカチャと音が鳴る。思ったよりも脆いらしい。
どうしたものかと思案していると、さらに微かにチャ、チャ、と時計の駆動音がする。再び文字盤を見やると、驚くべきことに時計の針が動きだしていたのだ。
この時計は衝撃を与えると動くのだろうか? この被虐的な腕時計は私と同じとでも言いたいのか、それとも彼からのマゾヒストであるということのアピールなのか?
さすが混沌の神、私には何を考えているのかまったくわからない。
私は薄ら寒いものを感じながら腕時計の時間を合わせ、昨日の悪夢めいた現実をノートに書き記した。
図書館での這い拠る混沌を召喚せしめた輝ける偏四角多面体、ニャルラトホテプの新たなる側面、おぞましい機械仕掛けの神、チクタクマン。恐らくは同名の噂話は平行異世界のそこらかしこに存在するだろうが、それはたった昨日からこの混沌が冠する名となった。
銀の鍵と平行異世界、私たちの世界との相似性と特異点。そしてかの神より授かった銀鍵の魔術。
それら全てをノートに記す。
曇りで日差しが弱い薄暗い室内で、LEDの電球は古ぼけたスタンドの外見に似合わず白く強力な光は机を照らし、人間の知るちっぽけな世界に対し冒涜的な記録の数々を書き記す手助けをしていた。
書き終えノートを引き出しの二重底に用心深く仕舞い一息つく。息が白くなるほどではないが肌寒い室内で思案をめぐらせる。
しかしながら魔術、夢想の世界の戯言でしかなかったものであるが、実在した。
今にも試してみたくてしょうがないが、それを試すのは明日まで待ったほうがよい。
なぜなら、もし万が一不測の事態に陥った時、対処できないからだ。
十分に準備をしておくに越したことは無い。楽しみはあとに取っておく、恐らく今週の土曜日は私の人生の中で記念すべき日となるであろう。
浮き足立つ心を抑え宿題と予習を済ませながら、準備に必要なものを思案した。
ふと置き時計を見ると柏原が呼びに来る時間であったが今日は来なかった。
そこで私は昨日の夜、チクタクマンが修道院に外泊の電話を入れたことを思い出した。
そうなると誰も来ないはずなので、とりあえず制服を着替え入浴することにする、私は鍵の開いているドアから出て一階の更衣室から替えの制服をとると突き当たりの古びた階段から地下にある浴室へいく。
地下の浴室は去年改修したばかりで真新しく他の部屋と大きく異なっていた。
シャワーを浴び更衣室から持ってきた制服に着替えると修道女が脱衣所に入ってきた。
「おはようございます。みやこさん」簡素な寝間着を着た痩身の中年女性、古山だ。
この人物は修道院ではサブリーダー的な存在で柏原が不在の場合、彼女が修道院を仕切る。細かく几帳面な柏原と同じく、規律に厳しい人物である。
「おはようございます。古山さん」私も挨拶する。
「あら? 学園長先生の所に泊まってませんでしたっけ?」彼女が首をかしげる。
「早朝に戻ってきました」適当にあわせる。
「そう。でもなるべく連絡してから来てくださいね。昨日の夜にうちの学園の生徒が暴漢に襲われて大怪我して犯人がまだ捕まっていませんから。院長は来週まで居ませんので私が代理となります」
そうして事務的なことを継げた後、小声で内緒話をするように私に顔を近づけ、驚くべきことを口にする。
「それで怪我をした子は中学一年B組の北越さんって子ですって。同じクラスよね? みやこさんは知ってる?」
なに? あの猫少女が?
「犯人の姿も全然わからないみたいで本当に怖いわ」心底怖いという風なしぐさをする古山。
「…………」私は無言で彼女の話を聞いていた。
快活な彼女が脳裏によぎると胸の奥が少し痛くなった。
昨日は私が居ない間に何があったというのだろうか?
……………………………
ネットカフェから出ると既に日は暮れていた。だがまだ門限には時間がある。
私は人通りの少ない道を選び路地裏に入る。そして商用ビルの間に入り込むと背負っていたリュックを下ろした。
リュックはもぞもぞと動き、中身が這い出てくる。出て来たのは銀灰色の猫だ。
「ふうむ、北越殿。貴殿はどう思う?」
彼は日が翳り暗闇となったビルの隙間を見ながら私のひざの上に載るとそういった。
「なんとも言えないにゃ~。そもそもネットゲーム自体初めてにゃ」
そう、私達はネットカフェで件のゲーム、幻夢郷をプレイしたのだった。
プレイするに当たって岩下さんから細かくやり方を聞いていたので、スムーズに登録することができた。
私は彼と一緒に学園を出てからの行動をつぶさに思い返した。
まずは駅前のコンビニでWEBマネーを買い、商店街の一角にある小奇麗なネットカフェで学生証を見せて会員証を作り、入店した。
そのどれもが実に簡単に行き過ぎて怖いくらいだ。
薄暗い店内は衝立で区切られ隣の様子は音で探るしかない。
区切りはブースと呼ばれ、そのブースのいたるところでパソコンのキーボードを叩く音やマウスをクリックする音が鳴っていたが、人の話し声は一切聞こえず、それがとても不気味だった。
ブースには様々な種類があるようで、パソコンと椅子だけのものや、二人で使用できるもの、パーティ用の数人入れるもの、今回私達が使う小上がりになっていて一畳分ほどの大きさの、寝転がることのできるものなど実に充実していた。
漫画の並べられた区画から奥に入ると、仕切りに区切られたブースが騒然と並ぶフロアになる。
私たちにあてがわれたブースに入ると既にパソコンが立ち上げられていて暗いブース内でディスプレイが明るく輝いていた。
画面右上には使用者である私の名前と入店時間、料金などか書かれており、食事の注文もそのアイコンをクリックすればできるようだった。
暗くて狭い、だけどなぜか落ち着かない。それはリュックから這い出たプロスペールも同じ様で他のブースの他人が動くときの布擦れの音や、カチャカチャというキーボードを叩く音が気になってしょうがないらしい。
「手早くすまそう。ここは居心地がわるい」
ささやき声でそういいながら私に早くゲームをするよう促す。私はフリーのメールアドレスを習得し、そのアドレスでゲームに登録する。
その際いちいちユーザー名とパスワードを設定することになり私はメモを取りながらその作業を行った。
「面倒な仕掛けだな。あの板では実に簡単にやっていたがあれはどういうことなのだ?」
仕組みがわからないプロスペールに、初めてゲームをする場合と、このパソコンと携帯端末の個人認証の違いとを説明するがイマイチわからない様子であくびをしながらあきれられた。
「同じものをさまざまな形で出来るようにしなくともよかろうに」彼は私のひざの上で丸くなる。
『The Silver Key』と書かれた鍵の形のアイコンをクリックすると、認証画面になりIDとパスワードを入力すると、不思議な模様のローディング画面が現れる。
「アラベスク模様か。文言は銀鍵の呪いであるな。作者は魔術師であろうか?」
画面を見ながらプロスペールは言う。
「にゃ? アラベスク? 銀鍵?」私の間抜けた問いに彼は硬い声で早口に言う。
「そうだ、同じ図柄装飾の様々な配置により異なる意味を持たせ、世界と生命を現す。これはカリグラフィーを組みアラベスク模様としておるな」
これ以上は知る必要は無いといい、真剣に画面を見つめる彼はそういうとさらに続けるように促した。
ロード画面の次はキャラクターの登録画面となり私は自身を模したキャラクターを作成しパラメータとスキル振りを適当に済ませた。岩下さんからスキル制のゲームなのでやり直しがいくらでも聞くと聞いていたからだ。ちなみに名前は私の葉子からとって『リーフ』とした。
出立の場所はどこにするかと聞かれたが、プロスペールが即座にこういった。
「ウルタール。無ければダイラス=リーン」ウルタールを選択した。
ローディングを経て出現した場所は小高い丘の上のようで眼下にはウルタールの町らしきものが広がっていた。
チュートリアルもそこそこに町に入ると、プロスペールは興味深げに画面を覗き込んでいる。
「聞いたとおりのようだな。しかし、なんと面妖な。これは昨日の会話と同じである」
私が適当にNPCに話しかけた会話の文面を読みつぶやく、銀灰色の猫。
その後、他の町の人々にも会話を行うが結果は同じ。
町の外も大体同じで違いといえば見たことの無い魔物がいるということ程度だそうだ。
「ゲームを面白くするのにいるんじゃないのかにゃ?」
「だろう、それと気になる場所がある。そこに行ってくれ」
彼に指示された場所はウルタール西の魔法の森の奥、洞窟のようだ。
「初期キャラじゃきついにゃ。無理してもいけないにゃ」率直な感想を述べる。
そういうと彼はなんだそんなことかと呆れながら言う。
「他のものもいるであろう? 適当に言いくるめて手伝ってもらえばよい。ここまで複雑な仕掛けにしたのはそのためであろう?」
確かにMMOを一人でやってもむなしいだけだ、とちょうどそのとき私のキャラクターが話しかけられた。
そのキャラの名前は『フランシーヌ』、事前に聞いた岩下さんのキャラのようだ。
なれないキーボードで会話を行うと、まさしく岩下さんが操るキャラで、これ幸いとばかりに魔法の森に連れて行ってもらうことにした。
彼女のキャラは弓戦士で片手に弓を持ち、傍らには味方表示のモンスターがいた。
テイマーのスキルももっているそうでペットを前衛にして後方から支援をするのが戦闘スタイルなのだそうだ。
そんな彼女と一緒に魔法の森を冒険したが、ズーク族というネズミに似た気味の悪いモンスターがうようよと居て、探索はうまくはいかなかった。
彼等は集団でこちらを攻めてくる。岩下さんがペットで攻撃しても、ペットにターゲットを移さないでプレーヤーばかり攻撃してくるのだ。
深部に行けば行くほどその行動は顕著で、上位モンスターが出てきたら逃げるしかなかった。まるで追い返さんとばかりの行動だった。
岩下さん曰く、通常のモンスターの動きではなく、いつもの戦法が使えないとのことでいったん態勢を整えるため安全圏に逃げるとのことだ。
「ふむ、なるほど。ならばこの方向に行け」
プロスペールの指示の元、地図の端のほうに逃げる。岩下さんのキャラがもと来た道のほうに逃げるように言うが、モンスターに追われているふりをして遠ざかる。
岩下さんは私を守るために追いかけてくる。
そしてモンスターが居なくなりやや森のひらけた場所に来た。
そこには何本もの木の枝が組み合わさってできた洞くつがあった。
「隠しダンジョン? こんなの知らなかったよ!」岩下さんのキャラが画面上で飛び跳ねる。
興奮した様子で中に入る準備をしている。
私はひざの上に居る銀灰色の猫に入るべきなのかと問いかけると、彼はすぐに入れと言った。
「その奥に神官が二人居る。かの者達は夢と現の境界を守る番人である」
中は石造りとなっていて階段を上る。
上り続けるが終わりが見えない。岩下さんは無限ループでは?と疑問を持ち始めているがプロスペールは違うと言い、この階段は非常に長く七百段あるといった。
岩下さんからもう戻ろうかと発言されたちょうどその時、焔に包まれた入り口が現れる。
岩下さんのキャラがペットを連れて焔に揺れる入り口に入る。私も中に入るがそこには何もなかった。
焔の壁に囲まれた少し広めの部屋で、オブジェクトの類はまったくなかった。
唯、部屋の隅のほうに死体が二つあるのみだった。
「つくりかけなのかな?」死体を調べた岩下さんがそう発言し、私のほうを振り向く。
カーソルを合わせても反応しなかったようだ。私も合わせるが何の反応もない。
どうやらこれ以上は何もなさそうだ。
「あっ! あたしこれからとっても大事な用事があるから今日はここで落ちるね。また明日!」
それを聞き私もその場でログアウトをするかプロスペールに尋ねる。
彼もこれ以上は得る物はないと思ったようで、尻尾をゆっくり振りながら同意する。
そして私達はネットカフェを出て路地裏に居る。
薄暗い路地裏は微かに表通りの喧騒が聞こえており、それが返ってこの場所の静けさを際立たせている。
ひざの上に居るシャルトリュー種の猫は、この周辺が己のテリトリであるかのごとくのんびりと構えている。
「しかしながら気になるのは焔の洞窟の二人だ。健在か調べておかねばならぬな」
銀灰色の猫はそういいながら独特の鳴声で鳴いた。
「うにゃ?」
その鳴き声に疑問を持ち声を上げると彼は、神妙な声色でこういった。
「ナシュとカマン=ター。あの洞窟に居るもの達だ。これまでがほぼ同じであるなら二人がもはやり死んでいるやもしれぬ。ゆえに仲間に伝令を送った」
私のほうを向き彼はさらに続けて言う。
「貴殿にはセレファイスに赴いてもらわねばならぬかも知れぬ。目覚め人たる貴殿にそこまでしてもらうのも気が引けるがな」
「セレファイス? 地の果てでもどこでも行くにゃ!」
昨日の何でもしてもらう、といった態度と打って変わり申し訳なさそうに言った彼に、私は自信をもってそういった。
恐らくは夢の世界とやらのどこかに行くということなのだろう。それはそれで貴重な体験だ。
「猫さん達の平和は私が守るにゃ!」さらに私は力強く宣言した。この言葉に嘘偽りは無い。
命を賭せるかどうかはわからないが、協力するといった以上絶対に反故にはしたくない。
「ふむ……そうか」私のひざから降り、私を正面から見据え、真剣な面持ちでそうつぶやくと、何かを思案するように目を瞑り沈黙が続いた。
薄暗く肌寒い路地裏の夕方はなんとも言いようのない静けさで、奥に進めば閑散したオフィス街に繋がるであろうビルの暗い隙間さえ、異界への扉と思えてしまいそうだった。
仮に私の傍らに居る銀灰色の毛皮と深緑の瞳を持つ彼が、それを事実というのならば私はそれを信じるだろう。それくらい奇妙な静けさだった。
そのまま沈黙は保たれたが不意に彼がひざから降り路地裏の奥、暗い闇のほうに振り向き警戒の姿勢をとった。
「んにゃ? どうしたにゃ?」
プロスペールはその問いに彼は答えず、慎重に奥へと歩いていった。
私も彼に習いなるべく音を立てないように歩き、ついていこうとしたが彼にもどるよう命じられた。
「悲鳴があがった。同胞の悲鳴だ。貴殿は急ぎ通りに戻れ」静かに彼は言った。
私には悲鳴は聞こえなかったが心当たりがある。最近噂になっている、この町よりやや離れた町で小動物をいたずらに殺す輩と同一犯に違いない。
獲物がいなくなったか、獲物に警戒されて狩れなくなったのか、それとも自身に捜査の手が延びたのか、あるいはそれら全てか、いずれにせよ許せない。
「私が見てくる!」
居ても立っても居られず私は路地裏の奥に駆け出していった。後ろから制止する声が聞こえるが構わずに、闇雲に走り出していた。
猫達を殺害するなんて私は決して許さない。許すものか。
犯人を捕まえ法の裁きを与えてやる。法が裁かないなら私が裁く。
迷路となんら変わらないビルの隙間を、縫うように私は走りぬけると猫の悲鳴は私にも微かに聞こえはじめていた。
……………………………
「私が見てくる!」
怒気を孕むその声の主は言うが否や、我が注目していた路地裏の奥へ駆け出した。
「もどれ! 我が行く!」
制止の声も一切聞かずに疾走する。我は後ろからそれを追う。
北越殿はむこうみずであるな。このプロスペール、彼女に事の次第を伝えたのを少し後悔した。
彼女は計画性なく建てられ、複雑に入り組んだビルの森の中を、悲鳴を頼りに走りぬける。
……しかし不思議に思うのは、北越殿は何故ここまで我等に協力的なのであろうか?
悲鳴を追いかけながら揺れる赤を基調としたタータンチェックのスカート姿を追いながら我は思索する。
ただ猫好きだからといっても、ここまで物分りが良く素直なのは不自然である。
わざと心証を悪くするように呪いというはったりをかけても、それを不快に思う様子もないが、かといって人の生に嫌気があり猫の生を望むわけでもない。
刹那主義で自暴自棄であるかと思えばそうでもない。誠に不思議な人物である。
今もそうだ、我等の同胞のためにここまで怒れる者など早々居ない。普通の娘なら恐れ、慎重に動く、悲鳴を上げているのは猫なのだ、人ではない。人の同胞ではないのだ。
それこそ襲撃者に気づかれぬよう猫のごとく物音立てず覗くだろう。
武器も、連絡手段も、逃走手段も何もない、蛮勇とさえ言っても過言ではない。
悲鳴がはっきりと聞こえてくると彼女はさらに走る速度を上げる。もやは周りが見えていないのか道端に置いてあるゴミ箱などを蹴倒しながら進んでいく。
我はこちらに転がってくるゴミ箱を避けたが、そのせいで彼女を見失ってしまった。
万が一を考え我は同胞達に呼びかける。その声は伝播し幾ばくか経てばこちらに集うだろう。
そうしてから我は彼女の匂いをたどることにする。何も匂いを嗅ぐのは犬の専売特許ではない、我等も犬に及ばぬとはいえ鼻が利く。彼女の匂いに血の匂いが混じり、同胞か誰かが怪我をしていることが伺える。激しい言い争いの喧騒が聞こえてきた。
我は可能なかぎり急いで向かうとビルに囲まれた小さな空き地に出た。
その土地は十メートル四方で隅にビルの隙間が開いていて、出入りが辛うじてできるだけの舗装も何もされていない場所であった。
どうやら乱雑に建てすぎために何も建てられず放置されたのだろう。粗大ゴミが幾つか無造作に打ち捨てられていた。
我は言い争いの声が聞こえる空き地を物陰から様子をうかがった。
古びて所々ひび割れができている無人であろうビルに囲まれた空き地は、土がむき出しで一昨日の雨のぬかるみがまだ残り、そこが殆ど日のあたらない水はけの悪い場所であることを物語っていた。
日は完全に沈み、目に映る光は空き地の中央に置かれた煌々と光るランタンからのみで、そこには北越殿と黒いコートを着た幾人かの人間とその囲いの中に居る血を流して倒れる我が同胞の姿があった。
「あんたたち、なんでここにいるのよ!!」
指をさし集団を責め立て怒れる声を上げるのは北越殿である。後ろ姿しか見えないが恐らく怒髪天を貫く鬼の形相であろう。
対して黒いコートの集団は無言である。その顔は感情を押し殺しているのか無表情で、顔立ちと背格好から北越殿とさほど変わらぬ年のころであろう。
手にはナイフのほか細いワイヤーに取っ手の付いた首絞め紐、小型の弩など様々な武器を持ち、同胞を襲ったのが彼等であることを証明している。彼等の中には細長い袋の中に重石の詰め棒状に絞った武器、ブラックジャックを構えたものも居る。
「うるさい」
集団の一人が無表情に抑揚もなく淡々と言う。
「あんたたちが猫やカラスを殺して回ってたのね。あきれた、他人の足を引っ張るだけじゃなくて、弱いものいじめもするようになったんだ」
武器を持つ彼等に一切ひるまず、さらに糾弾する北越殿とそれを無言無表情で聞き流す少年少女達はどうやら知り合いのようだった。
彼女の怒りは凄まじく、罵倒をしながら隙あらば襲い掛からんとする様子に、黒コートの彼等は武器を構え威嚇する。
弩を持つものは下がり、ナイフを持つものは射線に入らぬようにしながらジリジリと近づく。
北越殿は怒りで周囲が見えていないのか、囲まれるのもお構い無しに彼等を罵倒する。
我はいつでも飛びかかれるように構えながら事の成り行きをうかがう。
「ふん! 大人数で武器持たなきゃ何もできないの?」あざ笑うように挑発する少女に、不気味なほど無表情に見つめる集団。
ブラックジャックを構えた一人の少年が言う。
「高橋は自殺した」
なんら脈絡のない内容だ。だがその一言は北越殿には通じたようで一瞬たじろいたが、さらに怒気を強め怒鳴り散らす。
「だからなによ! 弔いとでも言いたいわけ?! ふざけないで!!」
ブラックジャックを持つ黒いコートの少年の胸倉をつかむ、白いブレザーの少女。
しかし、胸倉をつかまれた少年はさほども気にした様子は無く、ただ無表情に見つめつぶやくように話す。
「チクタクマンって知ってるよな。小三のとき流行った都市伝説だ。高橋が好きだったやつだ」
また脈絡の無い発言。今度は北越殿も困惑した。
彼奴等は何を言いたいのだ? ただならぬ雰囲気で武器を構える集団。小動物を狩るにはいささか難しいが、背後から人間を狙うならば問題の無い首絞め紐を持つ少女が北越殿の背後に回る。
「……知ってる。話をそらさないで」
つかむ手を緩めずに睨み付ける北越殿。
「さっき、弱いものいじめっていってたよな。自分が強者の自覚はあったのか。あんときは絶望した顔してたくせに」
さらに関係があるとは思えない過去の話を持ち出す黒衣の少年。背後の少女は動かない。
「机いっぱいに呪いの魔法陣書かれてたやつ。あれ、雪野がやったんだぜ。お前の親友だったよな?」
北越殿の過去話を言っているのか? 明らかに北越殿は動揺し少年をつかむ手を緩めた。
「鞄が糞溜めになってたときもあったろ。あれ、三角がやったんだ」
びくり、と目に見えて震える少女。その表情は驚きに満ちている。
「あの子が? な、何を言ってるの?」
「なんでここに居るか、知りたいんだろ?」
無表情にさらに続けて言う。
「しっかし、あんだけやって根をあげなかったのはすげぇな。二年……正確に言いや一年と七ヶ月だっけかな? 十一月までやってたっけ?」
指折り数える少年に対し睨み付ける様に言う北越殿。
「一月の悪戯電話を忘れてるわよ。あれが一番最悪だったわ。ずっと続いてた無視は勘定にいれないのね」
「ああ、あれか。あれは俺たちじゃない。セントホリィ学園の中学にお前の入学辞退の電話かけたの、俺等の担任だぜ?」
そこでようやく黒衣の少年は意地の悪い笑みを浮かべる。目を見開き驚く白と赤の制服を着た少女。
「学校ぐるみだって気づけよ。おまえの親が銀行のすっげぇ偉い人だからこんだけで済んでたんだよ。じゃ無きゃ家族ごと酷ぇ目にあってたぜ? お前のせいでな」
少年がケラケラと笑うとそれにつられてか周囲の少年少女達も笑い出す。
立ち尽くす北越殿。
極上の獲物を前に舌なめずりをするように耳元でささやく黒衣。
「それでな……俺たちがなんでこんなことしてるかってのはな……」
一呼吸おいて彼女から離れ両手を広げ言う。
「『魔法』を手に入れたのさ!! その下準備だ!」
そしていきなり手に持ったブラックジャックを振り上げ足元の同胞めがけ振り下ろす!
我は物陰から飛び出し、黒衣の少年に飛び掛るが間に合わない!
ぐしゃり
肉と骨を砕く嫌な音が聞こえた。一足遅かった。
我は少年の顔に喰らいつく、彼は叫び声をあげブラックジャックから手を離し、我を引き剥がそうとしたが、それより早く飛び退き体をつかませなかった。
目標を失った少年は手放した武器を探したが、ちょうど先の呼びかけに応じた我等の援軍到着し武器を何処かへ持ち去った。
そして少年の足元には北越殿が、泥だらけになりながらうずくまるようにして倒れていた。
北越殿はいち早く動き、我が同胞をかばい、その背にブラックジャックの一撃を受け倒れこんでいたのだ。
うめき、顔をゆがめ、必死に痛みに耐えている。そこまで我等のことを思う、その行動に我は敬意と愛情の入り混じった感情で見つめていた。
そこに七匹の勇猛果敢なる戦士たちが北越殿を囲むように守った。
さらに二匹の猫が路地裏から現れ、北越殿に駆け寄り、下にいる同胞を引き出すと素早く路地裏に消える。
突然のことにあっけにとられる黒衣のものども。しかしその顔は笑みに取って代わる。
「あはは! 贄だ!! 贄がたくさんだ。あははは!!」
戯言をぬかす。我ら軍猫をなめるな。貴様等ごときに殺られるなど笑止千万。
黒衣の敵は総勢七名。弩を持つものは三名、ナイフが二名、絞首具が一名、素手が一名。
ナイフの男二人が我に向かい襲い来る。一人目がナイフを繰り出すが単調な大振りで、それが囮であることが実によくわかる。
我はナイフを斬撃をよけ男の懐に入り込み体を駆け上がると顔面に張り付き爪で切り裂く。
予測しなかった反撃に驚き、叫び声をあげ振りほどこうと暴れるが、次々に殺到する猫に倒れ伏す。
追撃を担当していたであろうもう一人の男はその惨状に恐れおののき我等を近づけさせぬようナイフをやたらめったらに振り回す。
絞首具を持つ少女は、己の武器がこの状況に合わぬのを見て取ると、懐から金槌を取り出し目の前の三毛の猫めがけ振り下ろす。
三毛の猫は我等の中でも数々の武勇で知られる歴戦の戦士である、その程度の一撃など簡単によけると、持ち手に鋭い爪をくれてやった。
「ギャ!」短い悲鳴をあげ金槌を手放す。
三毛の戦士がさらに一撃を食らわせるとあっけなく倒れる。
戦況は我等の有利である。
弩を持つものは素早く動く我等に狙いを定められず矢を放てずにいた。倒れるのも時間の問題だ。
素手の少年はその場にへたり込み俯いている。戦意喪失か……情けない。
「大丈夫であるか? それにしても無茶をする」小さな声で北越殿に声をかけると彼女は震える声で小さく。
「大丈夫にゃ、それより襲われてた猫さんは大丈夫かにゃ?」と健気にいう。
我が同胞は安全な場所に居ることを告げると笑みを浮かべゆっくりと立ち上がる。
そしてほぼ勝敗が決し、猫たちに囲まれうつむいている黒衣のものたちに向かい、静かな怒りに満ちた声で言い放つ。
「あんた達は警察に引き渡す」
彼女は地に落ちた武器に目をやり、さらに言う。
「どこで手に入れたか知らないけど。こんな物騒な武器まで持って、言い訳できると思ってないわよね? 志田?」
へたり込んでいた志田と呼ばれた少年は顔を上げた。その顔に映っているのはにやけた不気味な笑顔でとても敗北者の顔ではない。
他の者たちもうつむいてはいるが、皆同じにやけ顔であった。
「な、なによ? そ、その顔、何か言いたいことでもあるの?」
その一様に不気味な顔の集団にやや怯みつつ問いかける北越殿。
それに対し不敵な笑みを浮かべ、志田は一言。
「インパクトクラッシュ」ただ一言、なんら変哲もない、呪文でもない一言。
しかし、ありえぬ奇跡は起こった。
ゴッと音にならぬ衝撃が我等を包み、吹き飛ばす。
「がはっ!」壁にたたきつけられ短い悲鳴を上げる北越殿。
我も吹き飛び、地面を転がるが受身でどうにか衝撃を和らげる。
「ごほっ! ごほっ!」倒れ咳き込む北越殿。
他の猫たちも予期せぬ一撃に驚き、負傷をしている。今、無傷に近いのは我と屈強な三毛の戦士グリゴリーと、はち割れ顔の靴下猫、駿足のフェルナンデスの三匹だけだ。
ゆらり、と黒衣のものたち全員が立ち上がる。
「フィジカルエンハンスメント」立ち上がった少女の一人が言を発する。
我等は次なる攻撃に対して身構えるが、北越殿は立ち上がるので精一杯だった。
まずい、北越殿が真っ先に狙われてしまう!
だがしかし、予想した一撃は来ず、唱えた者の体が薄白く光るのみ。
他の者も同様に唱え同じように光るのみで、表面上何かが起きた様子はないが何かよからぬことになっているに違いない。
我等三匹は身構え次ぎの攻勢に備える。
じっ、とにらみ合いながら対峙するが、彼等の体がふっ、と霞みのごとく揺らいだかと思うと、我は横っ腹を思い切り蹴られて壁に叩きつけられた。
意識が飛びそうになるが必死にこらえ、壁を背にせぬように身を翻し、その場から離れると、壁が鈍い音とともに抉られていた。
何が起きたのかわからぬ。必死に状況を把握しようと努めるが、恐るべき速さで動き、さながら揺らぐ影のごとき、黒衣の者たちに翻弄されそれも儘ならぬ。
グレゴリーは彼等の連撃をよけ、あるいは耐えている。
フェルナンデスも防戦一方で攻撃を避けてはいるが、攻撃のチャンスはまったくない。
防戦はさほど長く続かなかった。異様なほど身体能力の高くなった黒衣のものの攻勢に耐え切れず我等三匹とも情けなく地に倒れ付した。
北越殿は双眸を見開き、この事態をただ呆然と立ちすくんでいた。
「な、なにをやったの?」
かすれた声で問いかけるが、最初に奇妙な技をつかった志田と呼ばれた少年はニタニタと笑っているのみだ。
痛みにふらつく足で北越殿は我等に駆け寄ろうとするが、黒衣の二人に捕まり壁に押さえつけられると、弩の矢でまるで採集された昆虫のごとく手足を壁に打ち付けられ、磔にされた。
当然、痛みに悲鳴を上げるはずであるが、何ら声がしなかった。
北越殿が口を開け叫んでいるように見えるが声を封じられているらしく、声は声になっていなかった。
我等は一箇所に集められ光の檻に閉じ込められた。勝敗は決した。我等の敗北である。
「ったくMP回復させるつもりが、収支マイナスじゃんか。サイレンスやバインディングまで使わせやがって」我等を拘束した黒衣の少年が忌々しげに言う。
どうやらこれも彼等の不可思議な技らしい。
「まあまあ、杉山。そう怒るなって。つかこの猫、おかしくね? なんでこんなに獰猛なんだよ?」もう一人の少年が言う。
「こいつに聞けばわかるわよ。それと逃がしたやつは追っかけてるの?」弩を拾いながら少女が言う。
「ああ、景山が追ってる。すぐに見つかるさ」杉山と呼ばれた少年が言う。
「それでよぉ、北越。聞きてぇことあるんだけど?」志田がいう。
その問いかけに、ぜぇ、ぜぇと短い呼吸を繰り返しながら磔にされた少女はいう。
「あんたたち、悪魔に魂でも売ったの?」血を流し顔面は蒼白となっていたが、彼等をいまだに屹然した表情でにらみつける。
ドスッと鈍い音がした。
「ん~~っ!! ん~~~!」喉輪をされ声を上げられぬようにされた北越殿の腹部に拳がめり込む。
「聞いてんのはこっち。お前に質問は許してない。この妙な猫どもはなんだ? 答えろ」
ゴホゴホと咳き込む北越殿を尻目にさらに問いかけを行う志田。
「それと、あんまり意地になったら、大事な猫ちゃんが悲惨な目にあっちゃうよ?」
弩を我等に向けながら、残酷な笑みを浮かべる黒衣の少女はいう。
「さ、答えなさい」今度は北越殿に弩を向けながらいう。
「…………」何もいわず蒼白な顔で必死に睨みつける北越殿。
不気味な沈黙が舞い降りる。
「…………」両者ともに一歩も引かぬ。
それを打ち破ったのは路地から聞こえた声だった。
「やぁぁぁあっと捕まえたよ。ったく手間かけさせやがって!」
同じ黒衣をきた少年がズカズカと大足で歩きながらやってくる。恐らく景山という者だろう。
「んじゃ、こいつ等もいれてっと」無造作に三匹の猫を光の檻に放り込む。
「景山、誰かに見られてないでしょうね?」弩を持つ少女が尋ねると飄々とした風に景山は言う。
「おう、首尾は上々だぜ。福田」
「そうじゃ、北越? こいつらは何者なの? あんたが訓練した猫なの?」
彼等に対し弱々しい声色で北越殿が驚くべき懇願をする。
「……あんたたち、私を好きにしていいから……猫達を逃がして……」
「あ? 何してもいいのかよ?」怪訝な顔で聞き返す志田。
「そうよ」即答する。
「ばかじゃねぇの? もう、そんな交渉意味ねーぞ。全部殺す。チクタクマンの生贄にする」
悪意に満ちた笑顔で両手を広げ宣下する黒衣の少年。
「チクタク……マン?」聞き返す北越殿
「そうチクタクマン!! 新世界の秩序たる神だ!! いずれ本物の幻夢郷を統べる神になるんだ」
「都市伝説が……存在する……わけないじゃ……ない」息も浅く途切れ途切れに言う北越殿。
磔にされ両手足から血を流す少女の白いブレザーは所々赤く染まり流された血の量を物語っている。
このままでは命が無い。だが黒衣の邪教徒どもは意に介さず彼女をいたぶる。
「うるさい! あいつが残したのは幻なんかじゃない! チクタクマンは存在するんだ!!」
邪教徒に腹部を殴られた北越殿は、うめき声を上げもがくがさらに傷を深くしたのみだった。
その光景に我は憤り、この光の檻から脱出を試みるが、負傷した身ではいかんともしがたく、ただもがくのみだった。
「あ~もう! うるさい糞猫だな! 気絶させっぞ! パラライズ!」景山と呼ばれた少年がそういうと、体に衝撃が走り我は意識を失う。
無念、もやはこれまでか。チクタクマンとやらが何者かはしらぬが、邪悪なるものの信徒めが……末代まで祟ってくれようぞ。