少女は学ぶ、世界の禁忌を。
古ぼけた木の机に備えつかられた、ねじの緩んだ電気スタンドをつけ、私は心が震えるのを感じながら『夢の日記覚書:その他』を開く。
そこには前文としてこう書かれていた。
――前文 ノートのまとめ方について――
改稿にあたりそれまでの夢日記は焼却炉にて廃棄する。これは引き出しの容量の問題であり、また見る夢の種別がある程度分類できたためでもある。
ノートが限られているため内容に重複の内容細心の注意を払っている。その点で秘儀に分類されるものは、魔術の神と称されるヨグ=ソトースではなくニャルラトホテプの項目に分けた。なお、秘儀とは儀式めいた所作を含む魔術的神秘であり技術で、知識とは神話や地理、地名とその由来。人外の種族についてのことである。ただし守護的なものに関しては分量が多いためクトゥグアの項目に移動する。
また相対する場所がほぼ同じであるヨグ=ソトースとアザートスについても同じノートとする。ヨグ=ソトースの専門である門と鍵の秘儀についても同様に同じノートにまとめる。
補足ではあるが大部分の秘儀をナイ神父、黒きファラオ『ネフレン=カ』との対話により得ている。
一部、焔の洞窟のナシュとカマン=ターに聞くが彼等とは対話というより交渉であるためニャルラトホテプにまとめる。(かの神は夢の世界の支配者の一柱でもあるため)
黄衣の王との謁見の際も秘儀はニャルラトホテップであり知識の場合は星団ヒアデス内のセラエノ大図書館が主であるためそこにまとめる。
しかし、偉大なる大司祭クトゥルーに関しての秘儀、知識に関しては別ノート『クトゥルフ:ル・リエー』にまとめること。神ならぬ身で神の領域まで登りつめた者に畏敬の念を表す。
――前文終わり――
その前文は実務的な分類をするかのように書かれていた。本当に覚書であり他は細かい夢の覚書である。
はっきりと区別のつく神との夢は直接ノートに書いていたようで、それ以外のものは分類がはっきりするまでこのノートに書き、ある程度まとまると該当するノートに書き写していたようで、殆どの項目に横線が引かれ書き写したという証拠が几帳面に書かれていた。
断片的な知識では物足りない。しかし、クトゥルフというものは神ではないものが神になったようで随分と尊崇していた節がある。
私は神になりたかったのであろうか? 否、神を否定したかったのだ。信仰する唯一神がちっぽけな存在であり、そんなものごときで世界、宇宙はどうにもならないのだと罵りたかったのだ。空想の世界でいいから己の信仰させられているものを根本から破壊したかったのだ。
きっとその破壊衝動の表れが夢であり記憶からすっぽり抜け落ち、代わりの悪夢を見たのは己の心が背徳を認め、悔い改めるように罰を与えただけなのだろう。
そう無理やり納得させ、私は次のノートを開いた。
『千の無貌:ニャルラトホテップ:秘儀』
覚書によればこのノートには魔術的なものが書かれているという。かつて魔女狩りで消え去ったものと同一であるのかはわからないが、それでもいかなるものなのか知りたい。
ページをめくり中に書かれているものを読む。
そこに書かれていたものはナイ神父と呼ばれる人物との会話の内容であった。
黒ミサを行うために必要な物品の話から彼が経験した苦労話、信仰と秩序正しい街がいかにして堕落し、混沌の街へと変容したかを事細かに説明していた。そのほか様々な儀式、祈祷についても載っていたが、幾つかはクトゥルーやヨグ=ソトースのノートに書き記されていると注釈があった。
そして混沌の神ニャルラトホテプの悍ましい秘密が書き記されていた。
その神は幾多もの化身が同時に存在する。それぞれの姿は千差万別でナイ神父のように人間の姿をとることもあれば、まったく人間の想像の範疇を超える名状しがたき姿になることもある。
そのどれもが混沌と破滅を運ぶ使者であり、白痴の神アザートスの意思を汲み取り代弁する従者でもあるのだ。
そこに書かれたる異名こそ全て這い拠る混沌の一部でしかない。仔細に姿形が描写され、さながら冒涜的で悪夢めいた図鑑は、私の想像力がこんなにも豊かであったのかと感心するほどであった。これが空想の産物と仮定しての話だが。
そう、これが空想の産物ならば……だ。
私はまだ借りている、ラバン・シュリュズベリィ教授の著書である『海洋民族とその信仰』を取り出した。
この本には信仰に付随して現地住民の儀式や祈祷についてもある程度記載されている。その中にあったのだ、ナイ神父から拝聴した儀式と同じものが。
そう、この確かな物証が、私の夢が限りなく空想に近い何かであることを示唆している。
まったくすっぽりと抜け落ちた夢の内容。このノート全てに書かれているものが現実であるというならば、世界は、いや人間の世界は、なんとちっぽけで薄っぺらいモノなのかと思わずには居られない。
シュリュズベリィ教授の講義を思い出しながら次のノートを手にとった。
『クトゥルー:ル・リエー』
偉大なる大司祭と評したモノについてだ。
覚書の中にも幾つか記されていた。かの大司祭は外なる宇宙から眷属を連れ地球に舞い降り、今は沈むムー大陸の隅に神殿都市ル・リエーを作りあげていたそうだ。
ページをめくり、教授の本と内容の符号を確認していく。その中で奇妙なことに気がついた。
教授の本には幾つかおかしな点があるのだ。それは私の持つノートを参照しなければ間違いだとは気が付かない、それくらいの差異である。
海洋民族の古代文字、その幾つかの翻訳に私のノートと食い違いがあった。
教授の説にはクトゥルーなる司祭も、深きものどもといわれる種族も、全ては現地住民が先進国の文明を目の当たりにしたときに、文化の再解釈をした結果であり歪んだ伝承なのだと記されている。ポナペ島のナアカル語も、イースター島のロンゴロンゴように識者が途絶えたものを適当に記されているだけなのだ。
だから私のほうが間違っている。太古の昔から信仰され、秘匿された宗教などではないのだ。
私はほっとした。私のそれが空想であり恐らくどこかで見たものを夢の中で浮かび上がらせたのだろうと、教授の本に書かれているものが正しいのだ。
このどこかで観た何かを材料として組み上げられた、空想的夢想の集大成がこのノート達なのだ。
だから、これらはできの悪い小説となんら変わらないものだ。内容が悪夢と退廃に満ちたものなのは当然だろう、こんな生活をしているのだ、不平不満など山ほどある。
だから、何も不安がることはない。なんだかんだいって私も結構信心深いらしい、心の中で信仰する神様に必死に祈っている。どうか教授の書いたものが正解でありますように、と……
教授が虚偽を書くはずがない。虚偽を書けば捏造になるし、あんな突飛なものが現実なはずはない。そうであるなら人類史以前に多数の知的生命体がいて様々な闘争の果てに偶々人間が一時の栄華を誇っているという与太話が出来上がってしまう。
何よりも恐ろしいのはこの与太話を書いたのがほかならぬ自分ということである。
この部屋に何者かが出入りをし、私の筆跡を真似、そして丁寧に二重底の奥底に隠していたといわれても納得するほどに覚えがない。
何故こんなことを忘れてしまったのだろうか?
思案するにしても材料が足りなすぎる。原因などまったくわからない。
そこで私は思考を変え別の糸口を探ることにした、柏原から借りたままのカードを使用して、ラバン・シュリュズベィ教授の著書を調べ上げ、私のノートと比較し、私のノートが与太話であることを徹底的に洗い出すのだ。
柏原のIDカードはフリーパスのようなものだ。これならば通常閲覧できない蔵書もいとも簡単に閲覧できる。
私は柏原に許可を得ようと執務室に向かい、忙しそうに電話をしている彼女の合間を見て話をすると彼女は、私の母の軌跡をなぞるような行動に、快く図書館に行くことを許可してくれた。
そして気前のいいことにIDカードは来週の月曜日まで借りていても良いことになった。
私はいそいそと自身のノートを持ち、図書館へ向かうことにした。それが更なる悪夢を呼び起こすことも知らずに……
……………………
実に簡単に目的は達せられた。司書は私のことを覚えていて、すぐに警備員に連絡をつけ、G区画への道を開いてくれた。
私は地下の資料室に通じるエレベーターの中でSの棚の位置を思い出しながら、八冊のノートが入った通学用の手提げ鞄を見やる。
私はこの鞄以外には、野外学習で使う登山用のリュック以外持っていない。
この学園では七月に登山遠足があり、学園の生徒は学校ごとに違う山々に登る。初等部のときよりも当然中等部のほうが、難易度の高い山に登る。
この学園の高等部では登山部も盛んで、その手の趣味人には結構有名だそうだ。
不意に電子音が鳴る。エレベータが音も無く静かにドアを開き深遠の淵のような闇をのぞかせる。
私は臆することなく中に入る。自動で蛍光灯がつき資料室内に光があふれる。
私は記憶を頼りにSの棚を探す。それは程なくして見つかった。
前に来たとおり書架には赤字で『replica』と判の押された新しくも古めかしい書や日本語や英語に翻訳された書が整然と並べられていた。
そして私は幾つかの教授の資料を抜き出し、部屋の隅に定期的に清掃されているのであろう埃一つないスチールの机に向かい自身の資料と照合を始めた。
……………………
照合を重ね、教授の著書だけではなく、その区画にある資料を調べ、矛盾点を突きあるいは真実と肯定する。
戻らねばならぬ時間まであと一時間を切り、得られた結果は教授の書いたモノには大きく分けて二種類の傾向が存在するということだ。
一つは真実の中に食い違う点を絶妙に入れ、重要な部分のみ虚構としたもの。
二つは真実をそのままに、知る人が見れば世界の核心について書かれたもの。
もう私には現実とはなんなのか、わからなくなっていた。
私はここに書かれた一切合財総てがペテンであることを望む。
あるいは他の神話のごとく、現実に存在せぬ虚構と、虚栄心と、あらゆる事象への恐怖の念、それらから逃避するための心理的なバリケードを築くための手段であることを望む。
あるいは狂人の作り上げた妄想を大げさに保管してあるだけだと望む。
その狂人が考え出したであろう虚構のあらましはこうだ。
かつて人類が存在しうる前、この地上の覇者は一般の歴史とは違うものであった。
古のものと呼ばれる知的生命体、大司祭クトゥルフとその眷属、超次元イスの彼方から来る偉大なる種族、ユゴスより来る粘菌生物ミ=ゴ。
これらの生き物が地球の覇権を争い、滅び去っていったのだ。
古のものは単純に闘争に負け、己の奴隷たるショゴスの反逆により滅んだ。
偉大なる種族は予定された滅びを避けるべく遥かなる未来へ駆け抜けた。
ミ=ゴは人類が生まれると人類から隠れるように隠遁した。
大司祭クトゥルフは星辰の変動により神々が滅ぶことを予見し、偉大なる呪文にて神々とともに深き眠りについた。
神々が復活すれば人間など塵芥に等しい存在で、木っ端微塵に吹き飛ぶだろう。
ははは、馬鹿らしい。
ここにある資料総てがこんな調子なのだ。
そう、G区画のそのすべてがある種共通性を持った神話群の資料の塊なのだ。
それらは現実に存在した不可解なOパーツを元に考察されていた。
たとえばオーストラリア南部のとある川沿いにあった遺跡の、奥底深くに納められていた、人類の作り出すことができない頑丈な金属筒に入っていた、英文の資料。
書かれた紙の年代測定をすると紀元前を遥かに超える年代であったという。
時間の秘密を知るイスの偉大なる種族が現代の人間を呼び寄せ書かせたのだと資料には書かれていた。
こんな与太話どもが億単位の蔵書であるとは俄には信じられない。
まるで出来の悪い小説家が書いた作り話を、皆でこぞって真実のように書き立てたかのようだ。
そして、そんな非現実的なものを夢に見て、その内容を嬉々として書き連ねていたのが、この私なのだ。恐らく私は少々シュールな夢程度にしか思っていなかったのだろう。
夢であり、現実では無いと本気で思っていたのだろう。
素晴らしき夢であると思っていたものは、自分の頭の中の狂気を、そのまま表したかのような地獄で、それを嬉々として書き連ね、改稿し、清書し、秘密の宝の如く秘匿した。
恐らくはあの三年前の事件で私の精神は壊れてしまっていたのだろう。
その壊れた精神は偉大なる大司祭と交信してしまったのだ。でなければ偶然の一致とは言い切れぬほどの合致したノートの説明がつかないし、資料の中にそういった事例が多数報告されていた。
そして途方も無い神々の精神の前に心の痛覚が麻痺し、ただ感覚が、理性が鈍って『娯楽』であり『虚構』であると錯覚させていたのだ。
今の状態は何かのきっかけで一時的に正気を取り戻しただけに過ぎない。
そのわずかに呼び覚まされた正気も、あの忌まわしき過去を再現する悪夢に削られていくのだ。
完全に正気が削られればまた、神々との交信が始まり、世界の真実を書き連ねていくだろう。
ああ、私の非現実的な思考の果てに思い立った結論はやはり狂っているのだろうか?
私にはそれすらもわからない。
私の体は、空調が効き常に一定の室温と湿度に保たれた部屋に居るにもかかわらず、全身から汗が噴出し諤々と震えだしていた。
総てに絶望した。嘘であるといってほしい。ここにある資料はただの神話を集めたものに過ぎないといってほしい。
調査された史料、遺跡の数々は総て人類が作り上げたもので、それは空想を元に古代人が作り上げたものであるといってほしい。
この資料群すべてが論拠のない捏造されたものであるといってほしい。
だが誰も居ない。壁にかけられた時計は無常に時を刻み続けるのみだ。
無音で動き続けるアナログな壁掛け時計の針は私が帰らねばならぬ時間まで、あと二時間であると告げていた。
……はて? 先ほど見たときは一時間であった気がするが……
再び壁に架けられた時計を見やる。今度は一時間だ……私の見間違えであったようだが、いい気はしない。
しかし前に来たとき、この部屋に時計などあっただろうか?
私が時計を凝視していると不意に後ろからドサリ、と重いものが落ちる音がした。
ビクリと震えながら振り向くとそこには本棚から落ちた、十センチを超える分厚い一冊の本があった。
原書の文字をそのまま書き写した書物のようだ。その本はレプリカと内容を幾つかにわけ翻訳した版があったのでそちらを読んだのだが……
私はその本に歩み寄り手に取ると違和感を感じた。意外に軽い。
開けてみるとそれもそのはずで、中身は白紙で真ん中がくり抜かれて十センチ角ほどの正方形の空間が開いていた。
何かをしまっていたようだが肝心の中身が無い。
言い知れぬ不安がよぎる。私は本を閉じ、あたりを見回す。だが誰も居ない。
この場で動くものといえば壁にかけられた時計のみだろう。
私は白紙の本があったことを司書に告げるべくエレベータに向かう。
柏原のIDカードをパネルにかざし認証を受けるが反応しない。不安が増す。
もう一度認証を行うが結果は同じでエレベーターの電源が落ちているかのように反応しない。
私は更なる恐怖に駆られ幾度もパネルにかざし続けるが、それでも機械は沈黙を保ったままだ。
私は半ばパニックになりながら、部屋の隅にある監視カメラに向かって手を振り異常事態が発生したことを外部に知らせようと懸命な努力をした。
本来なら人の動きに合わせて動くはずのそれは己の仕事を放棄したかの様に動かない。現に先ほどまでは、私の動きに追従するようにカメラのレンズは動いていた。
停電ではないだろう。蛍光灯はその役目を果たしているし、スチールデスクに備えつけられた電気スタンドも同じくボイコットはしていない。
深呼吸をし、気持ちを落ち着けようとするが動悸が止まらないどころか、ますます酷くなっていく。
この部屋には出口はエレベーターの扉が一つだけで、私は他に出口がないか床を探りメンテナンス用ハッチを見つけるが、それは本棚にふさがれていた。天井にも同じくハッチがあったがこちらも堆く詰まれた本と本棚にふさがれている。
本を根気よく一冊づつ動かしても本棚自体が私の力では動かせないだろう。
閉じ込められた。荒い息を吐きながら絶望に打ち震える。
まるで私を帰さず更なる深遠に連れ込み、知りたくもない真実を脳に刻み込もうとするかのようだ。
壁にかけられた丸く白い時計はただ静かに時を刻んでいる。逆向きに。
私は目を疑い、再び時計を見るがやはり見間違えであったようで、正常に右回りで時を刻んでいる。
しばらく時計を見ていると動悸が落ち着いてきた。
門限の六時まで三十分を切った。このまま閉じ込められ続ければ、修道女たちが不審に思い、私を探し始めるだろう。あるいは監視カメラが故障しているので、確認のために警備員がこちらに来るだろう。
まだ希望はある。必ず出られる。助けは必ず来る。それまでの辛抱だ。
「いや、こないさ。なぜなら学園長が修道院に電話をかけて夕食の招待をしたのさ。それに監視カメラの異常に警備員は気づけない。なぜなら警備室のモニターは正常に映っているから」
その声がどこから来たのか、私にはわからなかった。
救援が来たのかとエレベーターのほうを向くがそれが動いた形跡はなく、その隣のパネルも沈黙したままだ。
「そっちじゃない。こっちだ」声は部屋全体に響き出所がわからず、あちこちを見回す。
「やれやれ、存外に鈍いな。上だ。上」あきれた声が存在をアピールするがその声の方角にあるのは安物の白い壁掛け時計だけだ。
「そうだ。私だよ」そういうと時計の針は時間を無視してくるくると回りだす。
ああ、ついに私は幻覚を見始めたのか。自覚がある分マシであろうが……
恐怖で足に力が入らずその場にへたり込むと、ぞるり、そう擬音が聞こえそうなくらい生々しく時計が這い出、ぼとりと床に落ちる。
床に落ちた時計の裏側から銀色の光沢を持つ流動体があふれ出し、不気味な動きをしながら体積を増していく。
やがてそれは人の容をとり始め、さながら鈍く光る全身タイツを着た人間が目の前に現れたようで滑稽な雰囲気を醸し出している。
そして時計は目玉ほどに縮み鈍く銀色の光沢がある、卵形の隻眼の右目に収まった。
全身タイツが黒くにじみ背広に変化すると、手や顔などの黒くならなかった部分の細部は機械を組み合わせたかのような継ぎ目や隙間が現れ、その隙間からは歯車やシャフトが垣間見えた。
カシャリと音をたて、黒い背広を着た機械人間めいたモノが私に大げさで芝居じみた礼をする。
悪夢的な機械仕掛けの紳士が演劇でもしているかのように両手を広げ、大仰に言い放つ。
「実に! 実に! 実に! 様々な、幸運と、不幸と、偶然と、必然と、希望と、絶望が重なって今、私はここに居る! 盲目博士は判断を誤った! ここにわが親愛なる友が再び入り込むことを予測できなかった! 銀鍵を持つ娘! 開かれたる門より流れ出る魔力は私が顕現するに十二分! かくて役者は出揃った! 遅かりし喜劇と悲劇の幕開けだ!」
私はその様子を観客のようにただ呆然と眺めていることしかできなかった。
そして黒服の紳士は私のほうを向き、わざとらしく首をかしげながらこう言ってきた。
「ふうむ? どうした? 久しぶりの再開ではないか、姿は違えどお前ならわかるはずだ」
その言葉に私はノートの内容から直感的に悪夢的な神の名を思い至り、口から漏れ出た。
「這い拠る混沌……ニャルラトホッテプ……」顔から汗が伝う。
もはや言い逃れも、現実逃避もできない。この区画の資料、そのすべてが純然たる事実であり、薄皮一枚と隔てた現実の裏側の歴史の語り部なのだ。
この付属図書館のセキュリティの堅牢さは、悪夢的知識から世界を守る防波堤と同義であったのだろう。柏原は真実を知らない、知っていたなら絶対にIDカードを渡すなどという愚行はしないはずだ。
「なるほどな。記憶封鎖か、盲目博士め。よけいなことを」
私の恐怖と混乱に彩られた顔を見て、何かを感じ取った彼はそう言うと私の前に立ち、その鈍く光る銀色の手を私の顔にかざした。キィンという甲高い金属の共鳴音が鳴り響く。
私の脳内の奥底に眠る記憶が呼び覚まされる。そう、あの地獄めいた悪夢が鮮烈に蘇り私という自我を揺さぶる。
そうだ、私は中学の資料室で古地図を見つけ、ラバン・シュリュズベリィ教授に興味を持ち偶然にも図書館からの帰りに出会ったのだ。盲目博士の二つ名の通り、彼の両目は無かった。
そして、私が禁忌の図書を持つことに博士は気づき、私に記憶封鎖を処置したのだ。
全てを思い出した。思い出したくなかった。いや、思い出したかった。二律背反な思いが心の中に渦巻き、一つの疑問となって湧き上がってくる。
「あ、ああ……ああ、ああ……」しかし言葉にならない。
目の前の存在が私の知りたい答えを持っているのは確実であるが、心と体がついていかない。
「さあ、わが友よ。再び語り明かそうではないか。かの夢のときの問答、実に無垢なる心、無知なる喜劇を。めぐり合う幸運に恵まれたことを神に感謝しようではないか!」
そういうが否や私を抱きかかえると、ふわり宙を浮いた感覚が私を襲い、不意に目を閉じたが、その感覚は一瞬で終わった。
少し遅れて目を開けるとそこは機械油と蒸気の臭いに満ちた騒がしい空間だった。
部屋の広さは五十メートル四方程度の正方形で、壁はコンクリートで出来、窓一つ無く天井には体育館などで使われる水銀燈が吊り下げられていて、八つほどある円状に整然と並んだ何かの機械がガチャガチャと音を立てながら動いている。
一つの機械は大きさが直径三メートル高さ六メートルほどのガラスシリンダーに収められており、中にはクランクや歯車がぎっしりと絡み合い複雑に回転を行い、カチャリと動くたびに下段に取り付けられたスリットから幅三センチほどのたくさんの穴が開いた紙テープを吐き出していた。
その紙テープは五十センチ程度の大きさの箱に半分程度積もっていた。
「解析機関だ。どうやら砲弾の弾道計算を行っているようだな」
私を丁寧に降ろし、箱に入ったテープを調べながら銀色の紳士は言う。
するとけたたましいベルの音が当たり一帯に鳴り響き、それまでせわしなく動いていた解析機関と呼ばれた機械が一斉に止まる。
「心配しなくていい。計算終了の合図だ」
そういうと彼は私の手を引いて、部屋の隅にある所々錆びた鉄製の頑丈で重そうな扉を音も無く開け、部屋の外に連れ出した。
そこは五メートル四方の大きさの縦穴が上下に伸びていて鉄製の古臭い階段が設置されており、下は点々と非常灯らしきものがついているのにも関わらず底が見えなかった。
上も同じく階段と非常灯のみで天井が見えなかった。
「深さは五十メートルといったところか。階下は動力室だ。上の解析機関に動力を送るための物だ」
さらに彼は私の手を引き階段を上る。カツン、カツンと硬い足音が響くが誰かが来る気配は無い。
やがて出口にたどり着く、鉄の扉には鍵がかけられていて、つまみを回し解錠するとギィと音を立てながら扉は開いた。
やっと外に出られたが、もうあたりは真っ暗になっていて、何かの敷地内なのかレンガで舗装された小道が目の前を横切っている。こんな道は学園には無い。
振り返り出てきた建物を見ると元は白い壁であったろう灰色のとても地下にはあんな大きな設備があるとは思えない小さな建物だった。
「少ない魔力では跳躍には不十分だったな、まあいいだろう」私のほうを振り返り。
「それでは食事にでも行こうか。質問もあるだろう? ゆっくりと語らおうじゃないか」
あまりにも突飛なものを見せられて、恐怖心がどこかにいってしまったようで冷静に私はうなずく。
その答えに満足した機械仕掛けの男はゆっくりと私を伴って小道を歩き始めた。
……………………
なんといえばいいのであろうか。
小道を出てからの私は驚きの連続であった。そこは私の知る世界ではなかった。
彼が言うには私が所持しているという銀の鍵の力の一端で私達を異界に飛ばしたという。
詳しい理屈はわからないが、もと居た世界の同じ場所に移動したために、地下のあの奇妙な機械の部屋に飛んだのだ。正直よくわからない。
あそこは総合大学ではあったが、私の学園のような私学ではなく国立で軍事研究を主に研鑽しているらしい。
そしてこの世界は科学技術が既知の進化とは違う方向性を保っていて、シリコンを素子とした電子機械ではなく、歯車とクランクを組み合わせた計算装置が用いられている。
私たちが初めに見た機械がそれである。解析機関と呼ばれるそれはこの世界では重要な地位を占め特に軍需産業、科学分野で目覚しい活躍をしているという。
電機分野はそれほど発達していないようで真空管は超高級品であるという。需要があまりに少なすぎ、使う用途が電信という軍事に関わる分野ではおいそれと技術が民間に渡せないようだ。
そのようなことをまるで大正時代にタイムスリップしたかのような街並みの、小洒落た疑洋風のレストランの個室でフランス料理のフルコースを食べながら教わった。
皆の浮かんでいる疑問はよくわかる。小さな丸い時計のような目玉しかないのっぺりした銀色の顔の彼が街中を歩く、あるいは店に何の問題もなく入れたのか? といいたいだろう。
石畳の幅三十メートルほどの大きな道路の端にガス燈が等間隔に設置されている。人通りは少なく、行きかう人の姿は和服が多く私のような制服の人間は見られず、逆に何者であるのか隣の紳士共々奇異な目で見られた。ブレザーやぎりぎり膝上のスカートが珍しいようだが、それより目立つのは黒い背広を着た銀色の顔の紳士である。
機械人間が歩けば官憲に当たる。紺色の角袖に紺色のズボンで短く刈り込んだ髪の中年男。
「警察だ」と彼は短く言うと私達に対して職務質問を行ってきた。
彼は実に堂々としていた。官憲に問いただされ、素顔を出すように言われれば素直に銀色の外装をはずし歯車と細いシリンダだらけの『素顔』を見せた。
官憲は「チクタクマンがでたぞぉ!」と叫びながら腰を抜かして治安維持者とは思えないほど情けない醜態を晒したが、それは彼の名誉のため詳しくは言わぬことにする。
ちなみにお咎めはなしである。なぜなら中年の官憲は彼に何もせず、逃げるように立ち去ったからだ。
なお、レストランではウェイターは見てみぬふりをして普通に個室に案内してもらえた。
私は前菜が来る前にチクタクマンとは何か? と彼に聞いたが、彼はやや浮かれたような声でただの都市伝説だといった。似たようなものをどこかで聞いた覚えがある。
所謂、子供が言うことを聞かなくなったら「チクタクマンに連れてかれるよ!」という脅し文句で怒るのだ。姿は機械じかけで黒い服を着ているという以外は謎の人物である。
何が面白かったのか彼は今後チクタクマンと名乗ることに決めたようだ。
その機械仕掛けの紳士姿は輝く偏方多面体から這い出る時の環境によって決まったのだという。
そういえば付属図書館はハイテクの塊であるのと同時に古めかしい物も大量に保管されていたことを思い出した。
そのような雑談を、初めて飲んだ口当たりの良い芳醇な香りのするワインに酔いながら彼とともにした。
その際銀の鍵とはなんなのかと彼に問うた。彼は芝居がかった台詞で、あらゆる場所の繋がる鍵で、人間の作り出した神秘の魔術だという。
私はそのようなものを持っている覚えはなかった。いやもしや右胸のこれがそうなのであろうか?
彼は神妙にうなずきそうだと答える。元の形とは随分と違うがそれは紛れもなく銀鍵、腕の良い魔術師が形を変えたものだと断言した。
このピアス、元は学園長のものである。もしや学園長が? いや、あのエロ親父にそのようなことが出来るわけがない。
出自は不明だが、あるものは存分に使おうという話になり彼は使い方を懇切丁寧に教えてくれた。あまりにも親切にしてくれるので何故と聞いてみたが、彼は一言だけ。
「そのうち仕事を頼む。少々厄介なことが起きているのさ。私の仕事の一つがトラブルを起こしてるのさ」
彼の仕事は世界を恐るべき混沌の渦に叩きこむために理性的で合理的に計画を進めることであるはずだ。
その彼の仕事が捗らぬならそれはいいことだろうと笑ったが、彼は意地悪く自信満々にこういった。
「なに、絶対に君は受けてくれるさ。絶対にね」
そして食事の終わったあと手渡されたのは小さな革ベルトのアナログ時計であった。
「私だと思って大切に身につけていてくれたまえ」
酔った私は微笑みながらそれを受け取る。もはや夢か現かなどどうでも良い。
狂いきった世界で私が狂わずにいて何が面白いのか。ああ、意識がぼやける。
彼の腕の中でまどろみ、今度こそあの悪夢を見ずに済むようにと願いながら意識が閉じていった。
……………………
ジリリリリリリリリリリ
目覚まし時計のけたたましい音で目が覚めた。
そこは修道院の私室であった。制服を着たままで眠っていたようで、私にはやや大きすぎるベットの上で制服が所々がシワになっていた。
夢だったのか……けだるい体を無理やり起こし、ベットから降りながらひとりごちる。
不意にギィとドアが音を立て、あわてて振り向くと半開きになっていたドアが動いただけのようだった。どうやら柏原が珍しく鍵をかけ忘れたようだ。
しかし、珍妙な夢だった。やはりあの過去の再生は実に精神の負担になっていたようであんな荒唐無稽なとりとめの無い夢を見たのだ。ホラーではあったが最後は滑稽なものであった。
混沌たる神と仲良く食事をする夢など、笑い話にもならない。
ああそうだ、夢ならばノートに書き写さねばなるまい。
私は机に向かい、見るとそこにはノートが丁寧に並べられていた。
どうやら二重底から見つけ出し、夢の内容を思い出したはいいがそのままベットの上で眠りについてしまったようだ。やや無用心な過去の私に呆れながらも書くべく準備をする。
ふと、その時私の腕に違和感があった。そこには見慣れぬ小さな革ベルトの腕時計が巻かれていた。
血の気が一気に引き、目が完全に覚める。
あれは夢ではなかった。
あれは現実だった。現実だったのだ。
描写を追記