少女の教室は混迷を極める
御伽噺に出てくるような錬金術師の研究室のような部屋に私と彼は居た。
部屋の大きさは三百スクエアフィートはあろうかという大部屋で、真ん中には縦十フィート、横四フィートほどの頑丈な作業台があり、その上には所狭しとフラスコ、アルコールランプ、色とりどりの試薬の入った試験管類、一フィート四方の羊皮紙の束、ペンとインクがならんで、奇妙な臭いが立ち込めていた。
窓からは暗雲立ち込める不気味な森が見え、地面には瓦礫がいくつか点在し、かつて何かの建造物がそびえたち、そして朽ちていったことを物語っていた。
「なるほどな、敵対の意思は無い……か」
彼は銀色の顔をかしげながら、独り言のようにつぶやいた。
現代風の黒のスーツを身に纏い、銀色の機械仕掛けの人物はこの部屋にまったく似合わず、まるで映画の撮影中に、まったく違う舞台装置に迷い込んだかのようであった。
「かのゲームも名前の類似点は多いが、隠されたのはそこではないはずだ。何か裏があり、その裏でコソコソしているヤツラが居る。憶測はつくが今わかるのはそれだけだ」
彼は私のほうに向き直り、次の指示を私に与えた。
「次は夢の世界に行き、わが城、縞瑪瑙の城を探索しろ。それで憶測が杞憂かわかる」
「はい、仰せつかりました」
私は『門』を開きカダス高原より北の山脈にそびえる這い拠る混沌の居城へ向かう。
あの縞瑪瑙で出来た煌びやかな城は、周囲の決して晴れること無き暗雲も相まって、見ているだけで幻覚を見ているかのように錯覚する。
その内部も、縞瑪瑙の柱が無限に続く回廊と、有限の視覚では決して捕らえることの出来ない、騙し絵に似た玄室、一歩踏み出せば、真っ逆さまに落ちそうな渡り廊下などが訪れるものを狂気に陥らせようと、手薬煉を引いている。
常人では住まうことあたわぬ居城、それが彼の居城である。
しかし、彼の城には誰も居なかった。
隈なく探したわけではないが、神の使者を蔑ろにするものどもは彼の城には居ない。
いや、新たな玩具を弄ばぬものども、か……
それについて報告すると、這い拠る混沌は嘲笑する。
「くはははは、彼奴らはまた遊びほうけるか! こりぬやつらめが!」
ひときしり笑った後、静かに彼は言った。
「さて、状況を説明しようか。今、縞瑪瑙の城には、本来居るべき地球の神々が居ない。由々しき事態…………とまでは行かないが、よくは無い状況だな」
「彼らなどほうっておかれてもよろしいのでは? 何か出来るとも思えませんが」
出来たのなら、彼が庇護する必要も無いし、遊び好きの彼らならば放置しておけば混乱が増す、私はそう思い、彼に尋ねた。
しかし、チクタクマンから返ってきた答えはため息交じりの否定だった。
「彼奴らのもたらす混乱は、恐らく裏で人が糸を引く。人を利用するつもりが利用されるほど愚かものどもだ。しかも、それに気づきもしない。放置するのは厄介すぎる。その点ではノーデンスとも意見が合う」
作業台のほうを向き、彼はさらにこういった。
「こちらも準備を急ごうか、後手に回るのは不愉快だ」
きびきびとした様子で目の前の作業台で、準備を始めていくチクタクマン。
私はそれを手伝う。
準備はそこまで難しいものではなく、単純作業に近いものだった。
示された草木や、石を乳鉢で砕き混ぜ合わせたり、フラスコに入れたそれらを溶剤に溶かし込みながらアルコールランプで加熱、分留を行う。
薬剤のいくつかは、液のまま小瓶に詰めたり、あるいは粉になるまで煮詰め、同じく様々な小瓶に詰めていった。
チクタクマンは机に一インチほどの円盤状の小さな金属片を置くと、それは光を発しホログラムを映し出した。
ホログラムは様々な図形を描き、魔術的な印や太古の神話にさかのぼる古き文字を映し出した。
残りの薬液はインクに加工させ、ホログラムを手本に羊皮紙に、何か奇妙な図形や文字を私に書き込ませていく。
「私の力も随分と弱まってしまったものだ。この隠れ家を利用することになろうとは……。これで彼奴に敵意がない、事故であったというなら皮肉にしか聞こえんな」
作業を指示しながら、独り言のように彼は言った。
「ここは地下の城、とある信徒のかつての居城だ。その片隅に作り上げた部屋だ。すでに訪れるものも無く朽ちるに任せるならと、譲り受けたのだ。まあ、ここ最近は使うことも無く、そのままにしておいたが、手入れだけはしておいて正解だったな。彼には感謝せんとな」
その信徒は、今は幽鬼と戯れながら古代エジプトのファラオの一人、ネフレン=カの墓守をしているのだという。
彼は、ゆっくりと語り始めた。
「彼は己の姿を見たことなど無かった、いや気づかぬ振りをしたのだが、それも好奇心と孤独の前には無駄な努力であったな。その両方に耐え切れず街をめざしたのだがね……」
ゆっくりと薬品と図形の描かれた羊皮紙を確認しながら続けて言う。
「衆人の目にはただの怪物であったよ、彼は。だが深い知性があり、理性もあった。その心は紛れも無く人であったろうよ」
彼は私のほうを向き問いかける。
「私はここで一つの疑問が浮上した。もし人形のように美しくあれば、操り人形でも受け入れられたと思うかね? 何が人を人たらしめると思う?」
「さあ? 人形でも受け入れられないのでは? 『人という群集』とまったくの同種でなければ人と認められないでしょう。少しでも異物があれば、不純物があれば、偽者と判断される。大多数の人というイデアから外れればそれは人ではないと認識され、排除されるか、あるいは己より下等に見て憐憫の目で接するでしょう」
「ふむ、いくつか議論の余地はあるが、まあ正答だろう」
混沌の化身はつぶやく。そこに感情はないようで、ただ生徒の回答を吟味しただけのようだった。
そこからは、いくつかの指示と作業に関してのやり取りと、製作している物の説明が行われただけであるが、彼の饒舌さを垣間見るには十分であった。
いかほど時間が経ったのかは知らないが、うず高く積み上げられた羊皮紙の束と、兵隊のように並べられた小瓶の数から、かなりの時間が経っていたことがうかがい知れた。
私は前々から思っていた疑問を彼に投げかけた。
「なぜ貴方様は私を選んだのですか? 私よりも適任のものが居ると思われますが……」
何せ私は件のゲームを所持していないし、所持も出来ない。他の調べ事にしても深遠なる知恵を持つものには無用であろうし、外での調査にしても私には私的な時間などほぼ無いも同然である。
学園長に取り入るにしても、過去の因縁が彼らと彼の間にはあるようで、それもまた困難だ。
ますます私である必要性が薄い。私の魔術的素養に目をつけたといっても私が唯一無二では無いであろう。
彼はいたずらをする子供のような声色で私に語りかけた。
「君の血筋……素質といっても差し支えないが、まあそれ自体はさほどでもないな。だが環境は稀有だ。それこそ、ヤツに師事する前に私の側に引き込めたのは僥倖といって良いのさ」
そこで区切り、彼はしばし煤で薄汚れた天井を見上げ、己の指を折り数えながら歌い上げるかのように語った。
「一つは、幼少の頃よりの信仰的生活。このご時勢にめったに無い。神のご加護を受けるには十分で魔術の行使には非常に有利なものだ。二つ目は君は君が思っているよりも、霊的に強い存在だ。君の部屋は南向きで窓には遮蔽するものが無い。つまりは君が眠る間中、修道院の中という霊的な場所で、月光をその身に受けているわけだ。ほぼ生まれてから今までの間にね。そしてそれは、霊的な素質を高めている。無論、曇りや外泊もあるだろうが、ささいなことだよ。三つ目は銀の鍵。肌身離さず装具として身につけ、その魔力を身になじませている。銀の鍵はあらゆる霊的角度を投射する術具だ。その特性を利用すれば、どの世界へもいける。それは君以外には無い特徴だろう。まあ、いわゆる体質改善といったところだ」
そして私のほうを向き最後にこう締めくくった。
「つまり、君という存在は十分に価値があるのだよ。魔術的に足りぬ素質を時間をかけて改善されている。私は、まるで他人が苦労して実らせた果実を、何の労もせずにいただいたようなものさ」
私は彼の返答に礼を言うこともせずに絶句していた。
つまり、私という存在は、何らかの魔術を使わせるためだけに、作り出されたとでも言うのか?
おそらくは、生まれたときから道具として扱われる予定であったということだろう。
それはある種の脱力感があった。逃れられぬ何者かの手のひらで操り人形のごとく動かされていた気分だった。
そしてそれはこれからも続く、学園長と盲目博士の手から眼前の機械仕掛けの神の手に委ねられただけに過ぎぬからだ。
私の内心をよそに彼は満足げにうなずくと、私の腕を取りこう言った。
「さて、その腕時計に機能を追加しよう。『測定』の他に『貯蔵』も組み入れるとしよう。今の道具全てその中に入れておこうか」
そして時計を弄繰り回してから、次々に今作り上げた薬品、羊皮紙などを腕時計に触れさせる。
するとそれらは吸い込まれたように腕時計の中に消えた。
「それと君にこの場所を譲ろう。夢から至るなり、『門』を使い、現より入るなりすればよい。指南書もおいておく。書写するなりして使いやすいようにしたまえ。言うなれば魔術の学び舎だな。ああ、私の拠点は存分にあるから気にしなくて良い」
「ありがとうございます」
礼を言うとゆっくりと意識が遠のき、目覚めの世界へと誘われる。
……………………………
「おはよう、おねーさま」
「おはようございます、楓さん」
朝の挨拶のあと、彼女は私を人形のように抱きしめてくる。
「おねーさまぁ。ぎゅうう」
いじめからの解放の影響か、この一週間のうちにやや幼児退行の気が見受けられると、カウンセラーを業務としている古山は言っていた。
一年間のいじめは相当なものだった。
柏原たちには詳しく話さなかったが、彼女から聞いたいじめの内容は、最後のほうは拷問といって差し支えないものだろう。ここで話すのも憚られ、本当に楓と私との秘密である。
他人に言えず、家族に打ち明けられず、ひっそりと耐えるしかないという拷問は、心を壊すのに十分であったということだろう。
それがいじめの発覚か、不自然すぎる脅迫工作による恐怖かはわからないが、気丈に耐えた心が緩みきってしまったのだろう。
古山は、しばらく過ごせば落ち着くだろうとの見解で、このまま生活させることになっている。
一応普通に暮らしている分には問題が無い。言うことはちゃんと聞くしダダもこねない。
ある種の問題を除けば、だが。
私はいつものように、沐浴を行うべく浴室に行く。
すると楓も一緒に入ろうとする。
「おねーさま、一緒にはいろう」
「一人で入れるでしょう?」
このやり取りも、三回目だ。
「ううう、どうしてもだめ?」
「だめですよ」
おとなしく浴室から退出させる。
そう、問題があるとすれば、私への少々過剰な依存であろう。
「こーんなに可愛い、頼りになるおねーさまとずっと一緒にいたい」
このようなことを言いつつ抱きしめてくるのはもう慣れた。
普段から万事このような調子なので少々困ったものだが、自分が修道院に来るよう勧めた責任であるのであきらめている。
朝食も済ませ。学校へ行く。
玄関には楓がいつものように見送りに来ていた。
「おねーさま、いってらっしゃいませ」
笑顔で見送りをしてくれた楓に手を振り、中等部へ向かう。
楓はこの後、他の修道女から勉強を教えてもらったり、買い物へ行ったり、掃除をしたりと修道院の雑務をこなす。
彼女は休学中とはいえ決して、ダラダラと過ごしているわけではない。
私は、修道院を囲う壁の扉を開け、学校へ向かう道へと歩いていった。
早い時間であるため、私の他には誰も居ない。
普段通り、予習と復習をしながら過ごす。これは楓が来てからも変わらない習慣だ。
……………………………
「にゃにゃーん、復活にゃ!」
生徒たちも登校し始めたころ、元気な声で教室に現れたのは北越だった。
病院で見たときの猫目はそのままにして怪我のほとんどが治っており、顔の猫のひげのような傷も目立たないほどに薄れていた。
あの程度ならば化粧を施せばまったく傷跡は見えなくなるだろう。
「大丈夫なの?! 重症って聞いてたけど……」
「その目、ちゃんと見えてるの?」
心配そうに聞く級友たちに当人はいたって元気という様子でこういった。
「ほれ、この通り大丈夫にゃ!」
そしてその場で器用に宙返りをする北越。しかも鞄を持ったままだ。
「なっ!?」
皆が驚くのを尻目に、病み上がりとは思えないほどの身体能力を彼女は見せ付けた。
「にゃ! にゃ! にゃ!」
声に合せ机や椅子の背に、トントントンと軽い様子で飛び乗り、私の前の席にある椅子の背に爪先立ちをする。
「うおっ!? 何その身のこなし!?」
「にゃー」
隣の席のクラスメイトが驚いているが北越は答えになっていない鳴き声で答えていた。
「姫様~。一週間さみしかったにゃ~」
そう言い、狭い机の上で、さながら猫のように四つんばいになり擦り寄ってくる。
「ちょ、ちょっと! パンツが見えてるって!!」
「レースの黒パンツ……意外な色気が……」
騒ぎは収まりそうになかった。
しばらくして数名の女子が、彼女をたしなめつつ机から降ろさせる。
そこでようやく騒ぎが収まるり北越は私から離れた。
あまりに素直に離れたので私がどうしたのか、と聞くと彼女は理由を口にした。
「うにゃ。鞄を置いてくるにゃ。姫様を愛でるのはそれからにゃ」
なるほど、まだ私に擦り寄るつもりなのか。
今度は走るのとそう変わらない速度で、机の下をくぐり抜けながら動き回り自身の机の横に鞄をかけた。
そして再び私の元へ駆け寄るその姿は、まさに猫そのものであった。
「にゃ~、姫様すりすり」
ひときしり擦り寄られると、いきなり素っ頓狂な声を上げた。
「やっぱりおもちかえりにゃ~」
何がやっぱりなのか、言うや否や彼女のすばやい動きに逃れることも出来ずに抱きしめられ、持ち上げられてしまう。
「ちょ! どこへ持っていく気なの!? っていうか机の上に立ったらだめ!!」
「机の上にゃ」
どうやら彼女は自分の机の上に獲物を置いてゆっくりと吟味する予定のようだ。
やられる獲物としては堪ったものではないので、抵抗の意味をこめて言う。
「大変申し訳ありませんが、降ろしていただけないでしょうか?」
「にゃ?」
首を傾げる北越に他の生徒たちも私を降ろすことを促した。
「柊さんが嫌がってるんだからやめなさいよ」
「にゃ~、しょうがないにゃ~」
少ししょんぼりとした様子で私を解放する北越。
今度はちゃんと床の上に立っている。
「しっかし、大怪我だったのに良く一週間で退院できたね」
生徒の一人が感心したように言う。
それに対し北越は、堂々ととんでもないことを言った。
「復活したのはこの巻物のおかげにゃ!」
そう言うと彼女は古びた巻物を開き掲げた。
そこにはヒエログリフが所狭しと描かれているが、それ以外には古いということ以上の特徴の無い巻物だった。
「『日の下に出ための書』!! それがこの復活の巻物にゃ!」
「ちゅ、中二病まで発症した?!」
生徒の一人が言う。
中二病とはなんであろうか? 精神疾患のようだが、一般的なものなのだろうか?
「猫の神様、バテスト様にもらったにゃ!!」
私の疑問などお構いなしに、巻物を丁寧に鞄にしまいつつ、ふんぞり返る北越。
さらに延々とウルタールと猫たちがいかに有能であるかを演説していた。
「猫たちは、密林の王の眷属にして知の女神スフィンクスより古き英知を誇るにゃ。その庇護者たる女神バテストはとっても力の強い神様にゃ!」
「せ、設定が細かい……」
「目が猫っぽくておかしいとかより、言動がすでにおかしい」
「ああ、頭やっちゃったんだね」
「どうしてこうなった」
その演説に皆が可哀相な者を見る目つきで北越を見た。
「にゃ~、信じてないにゃ~」
ちょっとむくれている北越。
呆れた口調で生徒の一人が言った。
「いや、信じるほうがおかしいって」
「にゃん? どうしてかにゃ?」
北越は、上目づかいで問いかけた生徒を見つめている。
先ほどの演説で興奮しているのか、顔が少し紅潮してひげのように見える傷が浮き出ている。
それはまさに擬人化された猫のようで、猫の耳や尾が幻視されるほど猫の動きに近似していた。
「うっ」
その姿に何を思ったのか戸惑う男子生徒たち。
「やっぱり、この目は気味が悪いかにゃ?」
それを恐怖にかられたと解釈したのだろう北越は、しなだれたしぐさをして質問をしたが、彼らは即座即答で答える。
「いや、エロさ満点、好みど真ん中です」
「我々の業界ではご褒美です」
「その猫科の仕草がセクシィです」
「ネコミミと尻尾が余裕で想像出来ました」
主に男子生徒たちのやや感想めいた回答に女子達は呆れ気味の様子である。
しかし、呆れている女子生徒たちもそう悪い印象はないようだった。
「こういうコンタクトもあるし、一種のファッションと思えばそうでもないかな」
「いや、目よりもまず、恥じらいを持ちなさいよ」
「ねえ北越さん? 病み上がりで悪いけど、新体操部に入らない?」
「いや、陸上部なんてどう?」
「えー、バトミントンに入ろうよー」
こちらはどちらかと言うと部活の勧誘が主である。
あの身体能力を見せ付けられればさもありなん、といったところである。
勧誘の雨あられに会い、少々困惑している北越であった。
「よし!、今日の放課後にでも体験入部ね!」
「にゃ?! にゅあ~!」
「あっ! ずるい! 他の部も体験をさせてあげて!」
どうやら強制的に様々な部の体験入部を行うことになったらしい。
北越は戸惑っているようだが、女子生徒たちは一向に勧誘をやめる気配が無い。
そのときであった、彼が教室に入ってきたのは。
「おはよう」
別段に特に特徴のあるわけではない吉原の挨拶だった。
生徒たちは当然のように挨拶をする。無論、私や北越もした。
「にゃ~、吉原おはようにゃ~……にゃ?」
ジッと吉原を見て首を傾げる北越。
「お前、誰だにゃ?」
北越の問いかけにびくりと震える吉原。
「は?」
「お前、吉原じゃないにゃ」
吉原を指差し、いきなり失礼なことをのたまう北越。
そしてさらに意味不明なことを叫んだ。
「吉原は魚顔にゃ~!! 魚じゃない吉原は吉原じゃないにゃ!!」
「ちょ! おま! 何言ってんの?! 何気にひどいよ!?」
ツッコミの声も待たず北越は吉原の腕に噛み付こうと襲い掛かった。
「にゃー!! 吉原をどこにやったにゃ~!!」
「おいこら!! やめろ!!」
「だめだこいつ、はやくなんとかしないと」
「北越さん!? 正気に戻って!!」
当然、教室は混迷を極めた。
叫ぶ生徒。
北越をなんとか取り押さえようとするが、猫のようにスルリとよける北越。
「この! うりゃ!!」
「にゃ!!」
応戦する吉原は北越に殴りかかろうとするが、これもまた北越に華麗によけられる
「吉原も落ち着け!!」
「離せ!! この!!」
委員長が吉原を取り押さえようとするが、どこにそれだけの力があったのか、振りほどかれてしまう。
そして次第に吉原と北越の一騎打ちの様相を呈してきた。
「にゃ~!」
「この野郎!!」
歯止めがきかない二人を他の生徒たちは遠巻きに眺めるしか出来なかった。
その二人の応酬はまさに子供の喧嘩であり、北越は噛み付きを主体に、吉原はそれを振りほどくため力任せに腕を振り回していた。
両者とも一進一退の攻防が続き、こう着状態に陥ってしまっていた。
だが、この騒ぎの中、のんびりとした声が教室に入ってきた。
「おーい、ホームルームをはじめるぞ」
やる気の無い様子の担任の金山だった。
「あぁ? なんだ喧嘩か?」
すぐさま教室の騒ぎに気づき、近くに居た生徒に話を聞くと頭をポリポリかきながら言った。
「まったくしょうがないなぁ。うるさいぞ、北越、吉原」
そして金山はすばやく、暴れる北越に近づき、左腕を首に回す。
それと同時に、右腕が吉原の腕に絡みつくように蠢き、吉原のあごに右手で、ペチンと触れたように見えた。
「きゅ」
「くぽ」
変な声を上げて、クタンと北越と吉原の力が抜ける。
金山は二人に絡みつかせていた腕で、二人が倒れこまないように抱え込んだ。
「保健室つれてくわ、お前らは静かにしてろ」
三十台半ばの冴えないと思われていた、中肉中背の化学の教師は、暴れる二人をこともなげに無力化し、気絶した二人を抱え、教室を出て行く。
教室は騒然となり、生徒たちが、ささやきあっている。
「え? なにあれこわい」
「金山先生……だよね? 動きが別人みたい」
「ねぇ、今何したの?」
「あの人、二人抱えて行ったよ。マジつええ」
様々であったが、概ね金山先生には逆らわないでおこうという認識だった。
私もそう思う。
「おーっす、ホームルームはじめるぞ」
しばらくして、何事も無く戻ってきた金山先生。
「んで、居ないのは岩下か? まあ、北越は退院したし、吉原は病気が治ったというわけなんだが…………まあ、ちょっと体調悪くて保健室に行ってるから。多分、数時間くらいで目が覚めると思うから、二時限目か三時限目くらいには出てくると思うぞ」
その原因を作った張本人であるのに、どこかやる気の無い風な口調でそういうと、注意事項の伝達に入った。
先週までは隠れて携帯端末をいじっていた生徒たちだが、今は誰もいじらず真面目に話を聞いている。
そんなことを知ってか知らずか、金山先生は淡々と話している。
「あとは、まあ、近々電気の業者さん入るから、迷惑をかけないように」
電設関係の調査ということらしい。
「ま、こんなところかな? ホームルームはこれで終わり」
ホームルームの終わりを告げるとそのまま教室から立ち去る金山先生。
私は一時限目の授業の準備をしはじめた。
そのときに弁当を忘れたことに気づき、今日は購買でパンを購入することになると思うと、少し残念な気持ちになった。
……………………………
今日の昼食について、ささやかな落胆とともに三時限目の準備をしていると、扉が開き不意に教室が静まり返った。
「おねーさま、お弁当忘れてますぅ」
修道服姿で教室に入ってきたのは、楓だった。
その一言に全員の注目があつまり静まり返ったのだ。
彼女は、室内の全員から注目されるという事態に萎縮して戸口で身を隠した。
「あううう……」
やはり、年下相手でも人の視線が怖いのだろう。
私のほうから彼女に近づき、弁当を受け取った。
「ありがとうございます」
「いえ、おねーさま」
ざわり、とまた騒がれる。楓は恥ずかしいのか、そのまま立ち去ろうとしていた。
「えっと、ちょっとまって君はだれ?」
クラスメイトの一人、周囲からオタクと認識されているメガネ小太りが楓に近寄りそう言った。
「ひぃ?!」
楓は怖がり、短い悲鳴を上げた。心の堰が壊れた彼女にはこの程度のことでも十分に恐怖の対象となりえてしまうのだろう。
これは彼には悪いが姉として守らねばならない。
そう思い私は楓に詰め寄る彼の股間めがけ、足を振り上げた。
「げふぅ!?」
「佐藤!! 大丈夫かっ!?」
「しっかりしろっ! 傷は浅いぞ!」
側でうずくまる小太り野郎に、私は努めて冷たい声で言った。
「おさわりは厳禁です」
「…………」
沈黙に支配された教室で私は楓に自己紹介を促す。
「楓さん、自己紹介をお願いします」
「あうう……私は市立中学二年の古馬楓っていいます。今は休学して、先週から柊修道院にお世話になってます」
羞恥に顔を朱に染め、自己紹介をした楓。
身長差三十センチで、どうにか届く手を伸ばし頭を撫でてやる。
「えへへ。おねーさま、ぎゅううう」
はにかむ楓が私に抱きつき、ざわつく教室。
ぼそぼそとした声が耳ざとく聞こえる。
「ゆ、ユリかユリなのか?」
「年上なのか……」
「か、かわいい。姫様とツーショットはマジパネェ」
「シスター萌る! シスターと制服ロリ萌!!」
「先週からの弁当はこういうことだったのか……」
口々に勝手なことを言う彼らを無視して、楓に帰るように促した。
彼女はうなずき、足早に帰ろうとするが入り口から誰かが入ってきた。
「うおっ!? シスターさん!? 初めて見たよ!」
驚きの声を上げたのは吉原であった。
「彼女は古馬さんっていって、修道院の新しいシスターさんだって」
生徒の一人が吉原に彼女の説明をする。
これに興奮した様子でさらに説明を求めようとする吉原に、私はそれをさえぎりながら言った。
「これ以上の彼女についての詮索は、直接柏原院長に聞いてみては?」
それは普段よりも冷たく、はっきりと拒絶の態度で言いきると、弁当を手に自分の席に戻った。
私の態度に彼らも彼女の事情に感づいたようで、それ以降その話題をするものは居なかった。
「そ、それでは失礼しますっ」
楓もこれ以上ここに留まるのはよくないと判断したようで、逃げるように足早に帰っていった。
彼女が立ち去った後、しばらくして北越が教室に入ってきた。
「にゃ~、今度こそ復活にゃ~」
心なしか疲れたような顔をして、自身の席に座る。吉原のことは無視しているようだ。
吉原もまた北越を無視している。
しばらくは鞄から教科書を出して、次の授業の準備をしていたが、飽きたのかこちらに近づいて匂いを嗅いでくる。
「にゃ~、姫様、くんかくんか……うにゃ?」
何を疑問に思ったのかさらにあちこちの匂いを嗅ぎまわり、何も無い宙を見ては、また別な場所を見るということを繰り返していた。
これには周囲の生徒も不審に思っているようで、すこし距離をとって遠巻きに見ている。
「う~、誰か知らない女がここに居たにゃ~。姫様にごはん持って来てたのかにゃ~?」
この猫の嗅覚がどうなっているのか知りたい。あるいはハッタリであると思いたい。
「見ていたのですか?」
「見てないけど制服じゃない服のにおいと、このクラスじゃない女のにおいが朝よりも濃くなってて、朝には無かった食べ物のにおいが姫様からしてるにゃ」
目を細めて私のほうを見ている北越の表情は、にんまりと笑っていて、全てわかっているとでも言いたげな表情であった。
「どんだけ鼻が利くんだよ……」
彼女の言い分を聞いていた男子生徒がぼそりとつぶやいた。
周囲の生徒誰もが彼女に恐れおののいて、遠巻きに私と北越を観察していた。
いや、一人の女子生徒が北越に質問を投げかけに来た。
彼女は恐る恐るといった表情で言う。
「ねえ? あなた北越さん……だよね?」
「そうにゃ、どうしてそんなことを聞くにゃ?」
首をかしげる北越には質問の意味が理解できていないのだろう。
「朝にもいったにゃ、死ぬところを猫の神様に助けてもらったにゃ。バテスト神さまは豊穣の女神であり、知恵ある猫の庇護者にゃ。いかに、神様とて準備も何も無い状態で己が職掌の範疇外の奇跡は起こせないにゃ。巻物の力と猫の九魂術で魂魄を縛らねば人の蘇生など出来なかったにゃ。もし、時間と用意があれば伝統に従い『日の下に出ための書』でも確実な蘇生が出来たかもしれないにゃ。あるいは塩と魔道書の蘇生術にゃらば人の身でも可能にゃが、その書、『キタブ・アル=アジフ』の完全なものは世界に五部しかにゃいし、バテスト神さまは持ってないにゃ」
もはや妄想以外の何物でもないことを平然と、当たり前であるかのように語る北越に、皆は無言で彼女を見つめるより他なかった。
しかし、その妄言が空想の産物では無いことを私は知っている。
チクタクマンから知らされた事実、ウルタールに住まう猫たちとその神についての伝承、恐らく彼女は女神の加護を得たのであろう。
猫好きの範疇を逸脱しているが、それはそれで彼女は幸せなのであろう。
そしてこの沈黙を破ったのは私だった。
「いいえ、完全版キタブ・アル=アジフは全部で六部です。ここの付属図書館に写本とその翻訳版が所蔵されています」
「突っ込みどころはそこじゃない」
生徒の一人が私の言葉に反応して言う。
それを皮切りに彼らはざわつき、蘇生の話はうやむやになったが、いくつかの質問が私に飛んできた。
「つか、その本、実在すんのかよ?」
「一冊、一億ドルですが存在しますよ」
「ちょ!? なにそれこわい」
委員長が驚いているが、実際この価格は最低価格であり、最高額がいくらであるかは不明である。
「あの図書館のどこにそんなのがあるの?」
「G区画ですが、学園長の許可か、修道院長の許可、あるいは教授会の許可が無いと見られませんよ。基本的に持ち出しは許可制です。入退室も記録がとられます」
セキュリティが甘いと誤解しないでほしいが、私が自由に持ち出し出来たのは院長のカードを使用したためである。
彼女や学園長のID以外だと、あのようにすんなり入ることは出来ない。
なお、件の本、キタブ・アル=アジフには持ち出し禁止のマークが貼られていため、手をつけずにいたがかなり有用な書のようだ。
アラビア語であったため、そうそう重要なものではないと思い込んだのがいけなかった。
次にあの書庫に入る機会があれば、閲覧の候補に入れておこう。
「なぜ、この駄猫は知っているんだ?」
もっともな疑問を委員長は独り言のようにつぶやいた。実際独り言だったのだろう。
だが、耳ざとい北越は律儀に答えた。
「知恵ある猫に教えてもらったにゃ。ここにもあるとは知らなかったにゃ~」
「設定が徹底してますな。中二病全開……いや、全壊ですなぁ」
いつのまに復活したのか、佐藤がウンウンとうなずきながら腕を組んで傍に立っていた。
「この一週間で何があったのか、猫度が急上昇してるな」
「いや、独自の猫ワールドを展開していますな」
「しかし、百合シスターとの姫様の三角関係が発生して……」
「それは我々の業界ではご褒美です」
「ですな。しかし三人で、というのもありでは?」
佐藤とその友人達がなにやら談義をしているが、誰も聞いては居ない。
いや、私が聞いていたか。随分と勝手なことを言っているが、男の性なのであろうから大目に見ることにする。
予鈴が鳴り先生が来きて授業が始まる。いつも通りの授業、これだけは変わらなかった。
……………………………
全ての授業と補習が終わり、誰も居なくなった教室に一人佇んでいた。
補講が終り、たまたま私が最後になっただけだ。
他の教室も皆帰宅しているのか、物音ひとつせず静寂に包まれていた。いつもなら運動部系の生徒が幾人か残っているが、全員が体育館に出払っている。
あれから北越は暴れこそしなかったが吉原とは目も合わせず、一言も喋らなかった。
吉原もせっかく見舞いに行ったのにあの仕打ちでは、相当に気分を害したようでむっつりと黙ったままで、近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。
休憩時間中の話題は北越の変わり様が主なものであったが、二人に話しかけるものは皆無でった。
そして放課後、件の北越は運動部系の女子生徒たちに運動場と体育館に連れて行かれ、今頃その身体能力を遺憾なく発揮しているだろう。
言動は怪しいが、その能力を捨てるのは惜しいといったところのようである。
「おや、柊さん? どうしたの?」
吉原がいつのまにか教室に入ってきて声をかけてくる。
「鞄を取りに戻っただけです。これから帰るとこですよ」
「ふうん、そうなんだ。僕もやっと補講が終ったところだよ。いやあ参ったよ、休んでた分の勉強の量がとんでもなく多くてさ」
愚痴る彼を見ながら私は一ついいことを思いついた。
私は彼にお願いをすることにした。
「あの、お願いがあるのですが、
すると彼は快く了解の返事と共にとんでもないことを口走った。
「柊さんも買ってもらえば良いのに、『親』だって今時携帯くらい買ってもらえるよ」
ここで彼が偽者であることが判明した。私に親など居ない、どちらも死んだ。
「月額五百円だけだし、オーケー出してくれるよ」
そう言いながら、ゲームを起動した携帯端末を手渡してくる。
吉原の戯言はほうっておいて、その端末に移る画面を見てつぶやいた。
「銀鍵のアラベスク……」
「なにそれ? 知ってるの?」
ゲームの起動画面には、チクタクマンより教授された、魔術の一端が描かれていた。
カリグラフィーをアラベスクのように並べた魔法円、銀鍵の魔術。
「ほー、それが『幻夢境』なのか?」
突如、後ろから声をかけられた。
慌てて振り向くと、そこには金山先生が居た。
私の持っている携帯端末を覗き込む。
「ふうん、カリグラフィーか、随分と本格的だな。ええと、全てにして……一つの……六角の……座して……鍵の……門の……窮極…………開けて……迎えられし………………銀の鍵にて? わからんな」
「え? 先生、知ってるの?」
「いや、アラビア語を読んだだけだ。まあ、アラビア版へのへのもへじ見たいなもんだ」
頭をポリポリとかきながら面倒くさそうに言う金山先生。
「へぇ~。そういう意味があったんだ、これ」
感心したように言う吉原。
金山先生は私のほうに向き直り、少し真面目な様子でこういった。
「柊、ちょっとお前に話があるんだが、談話室までいいか?」
「いえ、その前に吉原君と少し話がしたいのですが……」
先生の申し出に断りを入れる。
「ん? ああ、問題ない。俺は職員室に居るから、終ったら呼んでくれ」
先生はあまり興味なさそうに頭をかきながら了承した。
……………………………
「な、なんだい話って」
金山先生が立ち去り、二人きりになった教室で、明らかに顔を赤らめながら話を聞いてくる吉原モドキ。
「別に、いくつか質問があるだけです」
「う、うん」
私は、彼が偽者であるかを判別するための質問を繰り出した。
「私の住所を知っていますか?」
「へ?」
間の抜けた声をだし次に、照れた表情でこういってきた。
「君の家がどこにあるか知らないし、教えてほしいな」
「知らないはず無いですよ。学園の敷地内です」
「え? 寮住まいだっけ? もしかして誰かの教員の子だったけ? 忘れちゃっててごめんよ」
どちらもはずれ。こいつは偽者だった。
「私が修道院に住んでいることを忘れるのは、どうかと思いますよ?」
「へ?」
ぽかん、と再度間抜けな表情をする吉原に、私はさらに責める様に問い詰めていく。
「私は孤児です。それをあなたが知らないはずが無い。六年間同じクラスだったではありませんか」
「い、いや。君とはあんまり話さないし……」
うろたえ、言い訳をする吉原。
「先週一緒に北越さんのお見舞いに行ったときにも、修道院代表と説明したはずですが?」
それに対し追い詰めていく私。
「そ、それに修道院ったってどこにあるかは、知らなくても当然だろ?」
彼はこの学園の生徒ではない、そう確信した私はとどめの一言を放った。
「それは無いでしょう、学園の中心にありますよ? 学園の生徒なら誰でも知っています。あの高い壁に囲まれた場所がそうですよ? 別に看板はありませんがね。今日が来学の初日でもなければ知っているはずです」
私が居るということまでは、生徒の大半は知らないが、少なくとも同じクラスの彼らは知っている。
そうでなくとも、通学の際に必ず目にする修道院を、知らないと言うのはおかしい。
「…………」
吉原モドキは沈黙したままだ。
さらに畳み掛けるように言う。
「あなたは誰です?」
吉原モドキの表情が無くなる。
「……クイックリング!」
突然、何事かを叫ぶとその姿がかすみ、同時に身体に衝撃が走った。
ドン、と壁に背中が叩きつけられ息が詰まる。
「かはっ!」
ズルリと床にへたり込む。
すぐそばに吉原モドキは居た。
「チッ、やっぱり『あいつ』を逃したのは失敗だったな。一週間ならまだ大丈夫だって言ったのに強行するからこうなるんだ」
私の胸倉を掴んで持ち上げ、不機嫌な声で言う吉原モドキ。
「あんまり、こう言うふうに強制的には使いたくないんだけどな~」
そう言いながら、もう片方の手で携帯端末をいじくり私に画面を見せつけようとする。
私はこの状況を打開する方策を考えながら、両の目を硬く瞑った。




