少女が祈るは誰がため
岩下の懸念は外れた。修道院には誰も尋ねてはこなかった。
まあ、修道院に雑誌記者等が訪れたとしても、ただ事務的に、無表情に追い返されるだけであろう。
ここは迷える子羊を救う場所であって、腐肉を漁るがごときハイエナに餌を与える場所ではない。
もっとも、ここまで来ても院長、その他の修道女もまた、今朝の事件のために後回しにした業務を行っているため、この修道院には私のほか誰もいない。そのため、私が通報する警備員につまみ出されるのが落ちだ。
私はあらかじめ用意されていた夕食をとる前に食堂で行う食前の祈りを、今日は思うところがあり、祈祷室で行った。
祈祷室は、十人ほどが入れるほどの大きさで、窓には聖書を元にしたステンドグラスが張られ、古びているがよく手入れされた扉の反対側には聖人が磔にされた十字架がかかり、その前には古びた机と蝋燭台が置かれている。その他には何も無い、ただ祈るための場所だった。
ここもまた他所と同じように塵ひとつ落ちておらず、ステンドグラスから入る極色彩の光が白い壁や、歳月のうちに磨り減り滑らかになった木の床に、鈍く写し出されている。
十字架に磔にされた聖人を見上げ、手を組み、跪き、俯き、目を瞑り、祈る。
幾度と無く繰り返されたこの行為は、最早私の中に染み付き離れはしない。
そしてその姿のまま私は潜思する。
聞こえるのは私の吐息のみ、見えるのは暗いまぶたの裏のみ、私の思考を邪魔する一切が無かった。
私は夕食後の予定について考えていた。考えるのは存在しない神でも、存在している神ごときモノでもなく、今私室に置かれている書物である。
そうである、あの博士に邪魔をされ読むことのできなかったあの本を翻訳することである。
北越葉子には悪いが、彼女の身はもう私ではどうしようもない。その身は案じてはいるが、現状一命をとりとめ、別状が無ければ後は回復を待つだけであり、できる事は無い。
彼女の、猫憑きのごとき所作について別状ではないのか、と問われればそれもまた疑問であり、あれで日常生活に戻れるかは大いに疑問である。
そうでなくとも、あの猫の目そのものであるかのような瞳孔は、どこでも好奇の目にさらされ、生活を快いものにはしないだろう。
周囲がどれほど理解するか、本人がどれほど自覚するか、その二つが今後の課題である。
だが、それを今ここで考えることは無意味とは言わぬまでも有益とは言いがたい。
閑話休題。
かの本について再び思考をめぐらせる。
表題のみ和訳が裏表紙に小さく訳してあった。『タントラ魔術』、それが本の表題であるが、かのルルイエの文字で書かれているもので、魔術と書かれているならば魔術書と明確に書かれている。これ以上の説明は要らないだろう。
偽書の類であっても、それはそれで良し、次の本を調べるだけである。
柏原院長に頼めば、あの区画の本はほぼ自由に閲覧できる。機会は無限であり、時間は私の味方だ。
なぜなら柏原はこの私を今は無き母に重ね、その隣を歩もうと考えているからだ。
そう、修道院を継がせるというのが柏原の目標で、私がその期待にこたえれば、仕事の合間になるであろうが図書館にも自由に出入りができる。
はじめて、この修道院を継ぐべき理由というものができた。今までは、自身の生まれを呪い、幼いながらも反抗を行いその罰を受け、それからは諦観に似た感情でもって、人形のごとく従順に生きてきた。
だが、これからは禁忌であろう魔術の知識を知るという目標が出来た。そのためにはいかなる努力も惜しまない。
しかし、懸念もある。……この本を読ませまいとする意思、シュリュズベリィ博士の動向である。
彼は確実に内容を知っている、つまりそれは現実に魔術が存在し、この本は魔術に対して記述されていることが確実であるということだ。
あるいは偽書の類であっても、あの禁断書庫のおぞましき知識を知るのは危険であると判断したのかもしれない。
だが、それだと三日前の図書館からの帰り道での出来事が説明つかない。あの時に記憶を改変し、あの区画に立ち入らなかったとしても良いだろうと思う。
しかし、それでは博士の著書の置き場所に矛盾が生じると思い直した。ならば部分的にいじらざるを得ない状況だったかもしれない。
どちらにせよ今日の夜に、その本から情報を引き出せずとも、いまだ記憶操作がかかっていると思い込んでるであろうから、再度の妨害は無かろうと結論付けた。
閲覧履歴を見れば一目瞭然だが、あれは偶発的だった。見られることはないとは言えないが、今回の騒動の合間ならば、それはないだろう。
私は祈りをやめ、食堂に向かいあらかじめ用意されている夕食を食べる。
私以外誰もいない食堂には、カチャカチャと食器の音が響き、それが返って静けさを強調した。
食事を終え食器を片付けると突然、それまでの静けさを引き裂くかの様に電話が鳴る。
片づけをを中断し、私は玄関にある古びた黒電話の受話器をとる。
「はい、柊修道院です」私は自身の苗字と同じ修道院名を告げる。同じなのは偶然ではない、すでに相続権はないらしいが、学園の付属になる前は私の祖父が運営していたものだ。
「もしもし、みやこさん? 柏原です」
院長からだった。
電話の内容は単純なもので仕事……今回の事件のPTAやら教職員やらの会議が長引き、今日は戻れないので施錠しておくようにとのことだった。
会議の内容は来週の授業をどうするのかにはじまり、不審者情報の連絡体制の強化、当時の現場状況の説明など生徒の安全にかかわるものが大半だったが、被害者生徒の無用心さを罵り、自分の子の学業への影響を懸念する親もいたそうだ。
それらの売り言葉と買い言葉の応酬が続いて、終わる様子がないらしい。受話器越しに罵声が聞こえる。
柏原は心なし疲れた様子で、私にそれらのあらましを伝えた。
「あと、明日の予定なのだけれど、ボランティア清掃は中止になりました。貴女は商店街のほうの教会に居て頂戴。明日も皆忙しくて、修道院を留守にしますから」
「はい、院長」
「それじゃあ、ちゃんと歯を磨いて寝なさいね。おやすみなさい」
その答えに満足な様子で就寝の挨拶をする。
「はい、院長。おやすみなさい」
そこで電話は終わり、私は片付けを再開した。
あとはいつもの様に入浴を済ませ、古いネグリジェに着替え、私室に戻る前に修道院の各所を見回り鍵をかける。
そして机に向かい、隠してあるノートを取り出し、今回の翻訳に必要なものをより分け残りを引き出しに仕舞うと翻訳作業を始めた。
必要なものはラテン語の辞書、ルルイエについて書かれたノート、魔術書の写本だ。
なぜか机の上にもう一冊ラテン語文法の本と古びた単語帳が増えているが、こちらはどうやら柏原が私のために用意してくれたようだった。
メモには『古い物ですがこれで文法が学べるでしょう。しっかりと勉強しなさい。 柏原』と書かれていた。
思わぬ援護に素直に喜びながら、翻訳の作業を始めることにする。
本を開き書かれている文字を眺める。それはあの夢で見た、海底に沈むルルイエの石柱に刻まれた文字と同じものであり、単語の意味もある程度ならば知っている。
夢の中の私がなぜそれを読めたのかはわからない。だがラテン語の訳文を見るに正確なものの様であった。
しかし、訳文が正確であるという保証も無く、辞書を引きながらでの作業では進捗状況は芳しくない。
高々数時間の作業では、頁を飛ばし飛ばしにしか紐解くことは出来なかった。
それでも禁断の書物を翻訳し、ノートに書き留めていくにつれ彼が私にこの本を読ませたくない理由が判った。
『タントラ魔術』は性的な行為によって効果を得るという、卑猥で、背徳的で、性行為というからには二人以上で無ければならず、独り身で、仮にも修道女である私には、試すこと憚れるものであった。
その内容に不謹慎に思い、己が扱えぬことに怒りと失望したが、これを読むうちに、ことあるごとに行われる、セクシャルハラスメントの領域を超えた、学園長の行為が魔術に沿ったものであることが事実となって不気味に浮かび上がってきた。
私は引き出しを開け、中から月齢付のカレンダーを取り出し、彼との行為と日付を可能な限り思い出しそれと照らし合わせた。
私のカレンダーを指す指は小刻みに震えた。術書に書かれたものと一致したのだ。
偶然の一致などというには恐ろしいほどに日付が一致している。おそらくは学園長もまた魔術を使えるという可能性に、ただただ呆然としていたのだった。
そのまま、私は数分間であろう数十分であろうか、呆然と動きを止め魔道書をただ見つめていた。
ふと私は我に返り、再度可能な限り記憶の底からかき集め、魔術書とどの程度同じであるかを検証してみることにしてみた。
メモ帳を取り出し雑多に書き散らし照らし合わせると、大方五割程度がその所作に合っている。
だが今の私に解かるのはそこまでのようだった。さらに調べるには時間が圧倒的に足りなかった。
今解かったのは、彼が私をダシにして何らかの魔術……割合からして不完全であろう魔術を行使している可能性が高い。
何をしたのかは、今後の翻訳を行うことで判明するだろう、今日は就寝時間には時間があるが、すべてを片付け、何事も無かったように机の上を整理した。
自分の体に何かをされているその事実、それは言いようもない恐怖感を全身からにじみ出させ、すべてから逃げるように聖書を読みふけった。
旧約四十六書、新約二十七書のほとんどすべてを暗記していて、それに間違いがないか確認するような作業ではあったが、幾分心が落ち着き、机の上からロザリオと腕時計とを手に取り、軋むベットの中で丸くなって眠った。
小等部卒業とほぼ同時に正式に修道女となり、その記念に授かった銀の十字架と、チクタクマンから託された腕時計を胸に抱いて……
……………………………
月無き星空の下、私は佇んでいた。左腕を伸ばすと深い蒼の袖が見えた。自分の体を見下ろすと同じ色のスカートがあったが、それよりも興味を引くものが私の目に映った。
それは不自然なほど光沢に満ちた、黒い平らな地面で熱気を帯びており、額から汗が流れ出るほど熱い。
見上げると黒い大地のほか何もなく、少なくとも見渡せる半径数マイル周辺には地平線以外に空と地を分かつものは無い。
周囲には山岳も無く、些か異常ともいえるこの光景に立ち尽くしていると、背後から声をかけられる。
「ここはン・カイの森。かつての私の拠点のひとつだ」
振り向くとそこに居たのは黒い紳士服を着た機械人形……チクタクマンである。
腕を組み首をかしげながらこう続けた。
「ふむ、確かにここには何もない。しかし、かつては昼なお暗い深き森が存在していたのだよ。ここはその中心だ」
周囲をもう一度見回しても森が存在したとされる痕跡は何もなかった。
「燃やされたのだよ。怒れるクトゥグアによって、地すら溶け、平滑になるほどにな」
燃やされた当の本人は、すこぶる上機嫌に語っている。
いったいどれだけの熱量がこの地を覆ったのだろうか?
いや、それだけではこのような光沢のある岩石、黒曜石にはならない。 恐らくは人知を超えた攻防があったのであろう。その余波でこの大地が生まれたと考えるべきであろう。
「彼奴の炎は陽(ひ)の輝きと変わらん。近づくだけですべてを溶かす灼熱だ。鬱陶しいこと、この上ないが唆(そそのか)せば、使い道は山ほどある」
いまだ熱を吐く、かつての己の住処で意地悪く笑いながら言う。
しかし、彼は急にまじめな口調になり話を続けた。
「さて、予定では夢見る君に会うのは、もう少し先のことだったのだが少々事情が変わってね。今、君に会わねばならなくなった。本来なら君には、独学自力で魔術の秘儀を紐解いてもらいたかったのだがね」
「……」
何が起きたのか、その原因を思い返し沈黙していると彼がその疑問に答えてくれた。
「あの忌まわしき盲目博士の一派を知っているだろう? 奴等が大胆な手に出た。君の守護を解いたのだよ」
心底、悔しいといった仕草で言う。
「大方、神殺しの女あたりが君の事を私の眼鏡にかなったと直感したのだろう。呪いを解き、そうして私が君を守らねばならぬ状況に持ってきた。だが運がいいことに罠が張られる前に接触できた」
私にかけられた呪いはタントラとアトラ=ナクアの呪術を織り交ぜた蜘蛛の守護であり、全身に張り巡らされた蜘蛛の巣のようであるという。
過度に害を成すか、魔術師が干渉を行えば蜘蛛の巣にとらわれた獲物のごとく、呪に食われるという。
同門の者なら弾かれる程度で済むだろうがね、と付け加える。無差別ではないらしい。
しかし、蜘蛛の巣という言葉には心当たりがあるので、今日の出来事を私は話した。
病院でのあの猫憑きの奇異な行動を説明したとたん、彼は大笑いをした。
狂気の神が気がふれたかのように、一頻(ひとしき)り笑い、己を嘲笑すると私に向かい合い、こう言った。
「ぜひともその友人に会いたいものだ。呪いを見るだけでなく、手を振るだけで守護術を破るなど、その娘がウルタールの猫でもなければできるものではない」
含み笑いをしながらこう続けた。
「もしやもすると人でないかも知れぬな。だとすると随分下手な変装だ」
自分でもその可能性を信じてはいないが、そうだったら面白いというような口調だった。
私はひとつの単語が気になった。『ウルタール』これは聞き覚えがある。
幻夢境(ドリームランド)と言うゲームで存在し、先日の夢見で猫が名乗った土地でもある名であった。
ゲームをしない私が、ゲームについて知っていたのは先に話した通り、風紀委員への顔見せに行ったときに聞いた単語であるからだ。
私は彼に尋ねた。
「ウルタールとはどのような土地なのでしょうか? まだ彼の地には行ってはおりませんので」
「気になるかね? あの土地は面白い。玉石敷きの道にレンガの家、騙し易そうな純朴な住人だが、常に猫が目を光らせているので容易ではない。奇異な掟があり、あの町では猫を殺してはならない」
私に銀色の光沢ある顔を近づけ、言う。接吻ができるほど近づき、その表面には私の瞳が映る。
「殺せば世界中の猫が敵に回る。女神バテスト地だ。彼奴も忌々しい、私が夢の世界に出入りすれば即座にそれを知るだろう。入り込んだ刹那に匂いで感づく」
今はまだ顕現を秘密にしておきたい、と彼は言い私から顔を離す。
「そこで君の出番だ。ナシュとカマン=ターに会え。無事帰ってこれたら魔術を教えよう」
その言葉は厳で、何人も逆らえぬ神聖なもののように感じられ、神に対し私は跪き緊張した面持ちで言った。
「はい、謹んでお受けいたします」
「よろしい、ならば入り口まで送ろう。浅き夢の七十階段を下り、番人に会え。話す必要も深き夢の階段を上る必要もないが、様子を見て必要なら行え」
そして私は浮揚感と共に気づけば浅き夢の階段の前に居た。
おそらくは花崗岩であろう、白く平らな段に、所々黒い破片の見える階段を、ゆっくりと降りはじめた。
……………………………
七十階段の先、熱さを感じない炎に包まれた洞窟の中にある神殿に居た、だが二人は死んでいた。
浅黒い体に古代エジプトの神官服を纏う死体は、紛れもなくナシュとカマン=ターであった。
過去に幾度か会って会話も交わしている。間違えようもない。
死体のそばに屈み、調べる。
血はすでに乾き切り、どす黒く変色している。外傷はわき腹を大型の獣か何かに抉られたようだ。
ナシュは左を、カマンターは右を、それぞれ大きく抉られている。
うつ伏せに倒れ、何事かを見据え抵抗したのか、着衣は大きく乱れていた。
私にはこれ以上のことはわからない。これ以上得られないならば長居は無用だ。
このことを報告するため階段に向かおうとしたところで、何者かの視線を受けた。
その視線の先には幾匹かの猫が居た。警戒はしているが敵意はないようだ。
だが、それも私がチクタクマン……這い寄る混沌の使者であることを知られるまでだ。知れば容赦なく襲い掛かるだろう。
私の緊張をどう思ったのかは知らないが、彼らのほうから話しかけてきた。
「小さき魔術師よ、警戒なされるな。たとえ何人(なんぴと)であっても此処(ここ)では争わぬ」
「我等は女神バテストの命により、神官を確認しに此処に来た」
三毛の猫と白い長毛の猫が口々に言う。
私は疑問を口にする。
「なぜ、彼らの安否を? 此処で何が起きたか存じているようだが、どこでそれを?」
彼らの口ぶりでは、夢の入り口の番人に何かが起きていることを察知していたようだ。
このこと自体は、対立する二柱で共通する危機なのかもしれない。
しかし、猫は疑問には答えず、疑問を返してきた。
「小さき魔術師はネットゲームなる遊戯をなされるか?」
息を呑んだ。そして思い出したのだ、先日の携帯端末を奪ったのはこの猫達だ。
無言で首を振ると彼らは私に事のあらましを教えてくれた。
曰く、ここ最近、夢の世界に『目覚めの人』が幾人も迷い込んでいるという。
通常ならば夢の世界、ドリームランドに迷い込む人は極々稀のことである。
夢の世界へ行く事の出来る才能、『夢見る人』ならば自在に行くことも出来るのだが、この才も稀で大抵は幼年期に失ってしまう。
もしくは私のように、胸につけたピアス『銀の鍵』を使うでもなければ不可能なのである。
今はその数も少なく、さしたる害もないが何事かが起きる前に対処すべきだろう。
「目覚めの世界に遣わされた我等は、ある者の協力を得てその遊戯を調べたのだ」
「かの遊戯には銀鍵の呪いが仕組まれておる。しかし目覚めの人々が此処に順応出来るはずもない」
「長く留まれば、いずれ死に至る。原因を突き止めねば死者が増えるのみ」
「小さき魔術師よ。もし良ければ協力してくれまいか? 協力者は先に我等を守り、怪我を負うてしまった。無理はさせられぬ」
その要請には応えなかった。いや、応えなかったというより、師事している者の許可を得る必要があると思ったので、こたえを保留したのだ。
「相解った。色好い返事を期待する」
落胆の様子も怒りの様子もなく、淡々と言うと彼らは、音もなく消え去った。
そして炎の洞窟には私と二人の遺体だけが残った。
私はチクタクマンに報告するため階段を上り始めた。
……………………………
「ふむ、ご苦労であった」
私がすべてを報告すると、彼は芝居がかった仕草で腕を組み、何かを思案しているかのように首をかしげる。
「ふむ……。そうか、ではどうするかな?」
彼は幾ばくかの逡巡のあと私にこう告げてきた。
「私の城に行かせようかと思ったが、その前に可能な限りそのゲームとやらを調べてくれ。それと約束どおり魔術を教えよう」
そう言うと彼は、一つの魔術の秘儀について語ってくれた。
私が夢の世界で無意識の内に扱っていた『門』の魔術だ。
銀鍵を利用し、異界への扉を開く。応用で召喚、喚起の魔術を容易にするという。
その扱い方を丁寧に教えてくれた。さまざまな精霊の呼び出し方、使役法、退散の法を習った。
なお、彼からもらった腕時計は機械式自動巻きの時計で、様々なものを『計測』出来るらしい。
彼らしく何が『測定』出来るのかは教えてはくれなかった。自分で試せということで宿題だそうだ。
「ふむ、それだけでは『ひねり』が無いな。もう一つ宿題だ。何か一つ魔術を編み出してみよ。出来たならばもう一つ魔術を授けよう」
「ありがとうございます」
私が一礼し、顔を上げると彼の姿は影も形も消え去り、後には熱気を帯びた、平滑な黒い岩石と月無き星空のみであった。
私は目覚めの世界に帰ることにした。
明日は、商店街にある教会で過ごすことになる。
おとなしくしておこう。そう思いながら意識が目覚めへと向かって行く。
……………………………
目が覚めました。すすけた木の天井には古い蛍光灯がかかってます。
いつもならベットなんですが、今日は実家に泊まっているので、ボロい煎餅布団から起き上がって伸びをします。
非番の土曜日の朝というのは、まったく困ったもんです。
仕事があれば刑事ですからのんびりは出来ません。ずっと仕事詰めです。
最近は休んでいなかったので、強制的にとらされました。まったく困ったもんです。
あ、私はこのまえ学園長と話をしていた刑事です。どうかよろしく。
それで、ちょうど非番になっても、やることがないんですよ。独身ですからアパート暮らしですし、おまけに無趣味なんですよ。
一日テレビを見てぼうっとしてたりしますと、事件のニュースが入ってくる。そうするといけない。
職業病というのでしょうか、とても気になりますので、まったく困ったもんです。
目覚めたとはいえ、まどろんでいますと、トタトタトタとフローリングの廊下を走る音がします。
「おじさん、おきたー?」
スタン!とふすまの開く音とともに、姪っ子が私を起こしにきました。
元気いっぱいな姪っ子ですが、中学二年です。
所謂年頃の娘ってやつなはずなんですが、お転婆でまったく困ったもんです。
「おいおい、ノックしないで開けるのは良くないよ」
やんわりと嗜(たしな)めますが、あんまり伝わりません。
兄はあれで甘いところがあるので、姪っ子はちょっと我侭間なんです。まったく困ったもんです。
「ふっふっふっ、我が漆黒の魂に常識など通用しないのだ!」
よくわからないポーズを決めて言いました。
この意味不明な言動は、どうやらアニメに影響されているみたいです。
中二病って言うらしいと少年課の人から聞きました。
精神疾患とはちょっと違うようですが、心配です。
なにせ病名がついてるんですよ? 生活に支障が出たり、後遺症が残ると大変じゃないですかって少年課の人に言ったら、なぜか笑われました。詳しく教えてくれないなんてまったく困ったもんです。
「おじさん! 今日は敵情視察の日なの! 聖天使の住処へスパイに行くんだよ。一緒に行くっていったでしょ!」
「ああ、わかってますよ」
のんびりといいました。
彼女は敵情視察とか、スパイとか、物騒なこと言ってますが、ご近所の教会にボランティア清掃に行くって意味です。
どうやら、中二病とやらの症状でいろんなものが独自の解釈になるようです。まったく困ったもんです。
まあ、私は信者じゃないです。兄の嫁が信者なのです。
この子も信者なわけですが、どーも敵視してる所がありますね。反抗期には気をつけたいもので、まったく困ったもんです。
「それじゃ、ご飯食べたら出撃準備!」
「はいはい」
どうやら中二病とは、言語に齟齬が出る病気のようですね。単語変換が大変です。
朝ごはんを食べます。一人暮らしだとコンビニ弁当主体で栄養が偏りがちなので、こういう目玉焼きと味噌汁、ご飯、野菜炒めは、とってもおいしく感じられます。
おいしい朝ごはんの後は、出かける準備をいたします。
「弟よ、俺の娘を頼んだぞ」
「はいはい、わかってますよ兄さん」
「最近ちょっと物騒でねぇ」
兄と兄嫁から姪っ子を預かります。
姪っ子と一緒に商店街の教会に出発いたしました。
確かにこの近所で傷害事件がありましたが、人気の多い場所ですので大丈夫でしょう。
犯人の行動から見ると、コソコソするのが好きみたいですし、相当な準備をして計画的に行動しているので、通り魔的犯行は多分無いでしょう、というのが私ども警察の見解です。
事件の軽視じゃないですよ、プロファイリングです。
そういうわけで商店街はいつもどおりの営業ですが、警官が何人か警備してます。
私服もいますので、見かけると自分がサボってる感じがして、まったく困ったもんです。
「さあ、早く行って皆が来る前に敵情視察を終わらせないと!」
良くわからないテンションの姪っ子です。
元気が有り余ってるのか、引かれている手がちょっと痛いです。この元気を勉強に使えば、お小遣いが少ないと嘆く必要もありませんのに……。
まったく困ったもんです。
まあ、そんな感じで姪っ子に手を引かれながら商店街を歩きまして、教会にたどり着いたわけであります。
木のしっかりした扉を開けますと、テレビとかでよく見かけるたくさん並んだ木の椅子が両脇にありまして、その中央の奥に、小さいシスターさんが大きい十字架の前でお祈りをしているではありませんか。
その神秘的な様子に姪っ子と二人で見とれておりますと、シスターさんがこちらに気づきまして、挨拶をしてきます。
「おはようございます。ボランティアの方ですね? ありがとうございます」
小学校低学年でしょうか? その割には声は大人びてますね。ものすごく可愛いです。将来美人さんになりそう、では無くて確定的になるでしょうね。
隣の姪っ子はものずごく驚いてます。どうやら初めて会ったようですね。
まるで人形のように可愛いシスターさんは、目を見開いて口をパクパクさせてる姪っ子と私に対して自己紹介をしてくれました。
「柊みやこです。セントホリィ学園付属中等部の生徒です」
近所の有名私立学校の方のようですね。
飛び級でもしたんでしょうか? 小学校低学年に見えますが、中等部の生徒さんとは、優秀な子ですね。
「な、なんでシスターの格好してるの? もしや、聖典守護天使の回し者……?」
恐る恐るといった感じで姪っ子が尋ねます。
それに対して明らかに戸惑いの表情で答えるみやこさん。
「当学園の付属施設柊修道院の修道女ですので……」
「なん……だと……」
オーバーリアクションの姪っ子は頭に手を当てふらつきました。
修道女が良くわかりませんが、部活動なのでしょうか?
「修道女というのはボランティア部とかですか?」
私は質問しました。
好奇心は猫を殺すと申しますが、気になるものはしょうがありません。自分にはまったく困ったもんです。
「いえ、修道女というのは修道会に属し、規律に従って生活する修道士会員のことを言います。当学園は教育修道を発端としており、勉学、教育を中心に活動を行っております。」
彼女はスラスラと喋っています。
「会員って誰でもなれるんですか?」
「いえ、適正を見る修練期というものがあり、それを経て認められると誓願を立て、会員に認められます。私は、小等部卒業とほぼ同時に会員になりました」
「なるほど、説明ありがとうございます」
私はお礼を言いました。彼女も礼で返してきます。礼儀正しい子ですね。
「質問! 修道女って修道院から出ちゃいけないんじゃなかったけ?」
元気良く手を上げて姪っ子が質問をしました。
「それは 観想修道会ですね、基本、修道院内で祈り等を行いすごします。柊修道院は活動修道会ですので社会に対して貢献活動を行います」
「ほほう」
うんうんと、頷く姪っ子です。
「なるほど、そうして活動することによって、黙示録の翼が更なる高みに……」
またなにやら怪しげな、アニメからの受け売りでしょうか、天使やら黙示録のなんちゃらがどうとか、良くわからないことをいってます。
要約すると黙示録なる書物の予言で世界の終わりが天使ナントカによってもたらされるから、天使ナントカを倒すとなかんとか。本業の人に聞かせて大丈夫なんでしょうか?
「黙示録? 天使打倒?」
彼女が聞き返します。片方の眉がつりあがってます。ちょっと怒ったようですね。
「むっふっふっ。黙示録というのは…………」
姪っ子はなにやら自慢げに柊さんに言っておりますが、大丈夫でしょうか?
相手はたぶんプロですよ? 小さくてもたぶん貴方より知識あるんじゃないでしょうか?
というか有名私立中学の生徒さんですよ? 市立の勉強サボり気味の姪っ子とは、頭の出来は雲泥の差ですよ?
アニメなんて見てなさそうなので、きっと黙示録とか架空の書物なんて知りませんよ?
「…………ちょっといいですか?」
「なに? なんでも聞いてよ!」
黙って説明を聞いていた柊さんが質問をしてきました。
姪っ子のテンションは非常に高いです。嫌な予感がいたします。
少し離れましょう。巻き込まれるのはよろしくないです。
「先ほどの天使打倒と黙示録の関係についてですが、エノク書では……」
内容が高度すぎます、そこから先は姪っ子の高説とは別の意味で、私には理解できませんでした。
黙示録って漫画の創作じゃなかったんですね。聖書の一部だそうです、驚きです。
流石はシスターというところでしょうか。なんだか良くわかりませんが、聖書の引用が半端無いです。
「え? え? エノク?」
もう、混乱してますね、姪っ子は。
ここからさらに柊さんにたたみかけられました。
「先ほどの説明では、グノーシス主義が主体のご様子ですが、これらは……」
「う……グノー……シス?」
ええ、プロは違いますね。彼女が喋るごとに、姪っ子がぐうの音も出ないほど論破されております。
聖書を全部暗記しているとは、ちょっと驚きですし、というか聖書って沢山あったんですね。
勉強になりました。
でも宗教哲学とか姪っ子にわかるんでしょうか?
「ぎゃふん……」
まさかギャフンと言うとはさすが姪っ子、ちゃんとオチをつけてくれます。
対して柊さんは、聖書について解説を始めてくれています。姪っ子は気づいてないようですが……
姪っ子の高説の論破が終わったら、体系立ててキチンと宗教の話をしてくれてますね。
なかなか教え上手です。さすが本職、その年で正式シスターさんになれるだけの実力はあるようです。
なんか私も信者になりそうな感じです。
「……わかりましたか?」
「ふえぇぇ……」
一時間くらい経ちました。まさに説教というやつです。
姪っ子は涙目でなさけない声をだしてます。
周りを見てみますと姪っ子の学友でしょうか? 人だかりが出来てます。神父さんやシスターさんもいらっしゃいますね。
姪っ子の学友さんらしき子もいますね。商店街の方も少人数ですが来てます。
「なかなかわかりやすい説教ですね。柊さん、修練を積んでいますね」
神父さんです。この場合の説教は叱るほうじゃなくて神の教えを伝える方ですね。
「ありがとうございます」
一礼する柊さんは、ちょっと戸惑ってるみたいですね。
周りの皆さんも、ほめてます。柊さん、照れてますね。顔がちょっと赤いです。
柊さんが腕時計で時間を確認すると、照れ隠しのようにこういいました。
「掃除の時間です。説教はここまでにしましょう」
「うううう……まけた……」
なんだかがっくりしてる姪っ子です。勝ち負けじゃないんですが、まったく困ったもんです。
まあ、こんな感じでしょうか? 掃除は和やかに、進みましたよ。
ええ、平和なもんでした。




