表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/19

少女の朝は予定通りにいかなくて

初投稿です。

 深い深い闇の底、沈み込む感覚が私を包む。その中では全ての意味が闇の中に飲み込まれ、意味を成さずにたゆたい、同化していた。

 私もまどろみ、闇と同化しかけた時、何者かに呼ばれる声がした。否、声では無い、音にならぬ空気の振動。

 振動は私の体を駆け巡り、精神を呼び起こした。意識のはっきりしてきた私を暗い闇の底へさらにいざない、足が地に触れた感覚と同時に振動がさらに大きくなり、全ての感覚が曖昧になる錯覚を起こした。

 気がつくと私は、奇妙な石碑の並ぶ薄暗い都市の只中に立っていた。

 空はどんよりと曇り、生臭い磯の香りがして、周囲には歪んだ石碑や石柱が私の両脇に立ち並び、地面もまた同じく、歪んだ石碑を無理やり組み合わせ、所々に空虚な隙間の開いた二十フィートほどの幅の石畳の道が続いている。

 石碑は一辺が四フィートから五フィートほどの物を四、五個で組まれ、石材自体のゆがみのせいで名状しがたき姿をしており、表面には奇妙で小さな象形文字がびっしりと刻まれていて、文字が表面に不安定な光の反射を生み出し、歪んだ石碑がさらに歪んでいるように錯覚させていた。

 石碑の継ぎ目からは所々半透明な緑色の液体が染み出し、石畳のくぼみの底に溜まっていて、私の目の前にも大きな水溜りがあった。磯の香りの正体はこれであった。

 足元の水面に映るのはゴシックに着飾った私だ。

 年の頃なら、十は越えているようには見えず身長も四フィートにも満たないが、齢は十四、、髪は烏の濡れ羽のように黒く真っ直ぐに長い、その肌は不健康といっていいほど白く、私が着ている黒くシックにまとめられた、古風な衣装に映えた。

 屈み水面に顔を近づけ、私が手を顔にかざすと、水面の中の人物は動き、まだ幼さの残る整った顔に手を当てた。

 何もかもが歪んだ世界で真っ直ぐであったのは所々にある水溜りの水面だけだった。

 私は水面から顔を上げ、左手を上げ、指を宙にかざした。

 指先からは炎が無音で揺らめき、離れ私の周囲を舞い、所々に空いている石畳の隙間を私に教えてくれる。

 乱暴に敷かれた石畳の道は気を許せば容易に私を暗い隙間へと吸い込みそうになる。

 ゆっくりと石畳を踏みしめる、時折避けられぬ緑色の水溜りを踏み、べちゃりと水音を立てる以外はコツコツと靴音だけが響いた。立ちふさがるように配置された石碑の隙間を抜けると広場に出た。

 その広場は縦百ヤード、横六十ヤード程度の二枚の巨大な石版が敷かれており、他の石碑とは象形文字の刻み方が異なっていた。

 その石版には象形文字が割り印のように一列刻まれているのみだった。

『ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるふ るるいえ うが=なぐる ふたぐん』

 私はその象形文字を声に出して詠み上げた。

 べちゃり。背後の遠くから水音が聞こえた。私以外無音であった世界で、それは何度も音を立てながら近づいてくる。

 私が振り返えると、三十ヤード先に尋常ならざる人影があった。

 それは全身が鱗で覆われ、ぬめりとした体液を纏い、手足には水かきがあった、顔は魚と蛙を足したようで、不気味に丸く白い目が怪しく光っている。

「…………」魚人は私が観察をしている間にも近づき五ヤードほど前に立っていた。呼吸の音が、ひゅう、ひゅう、と聞こえてくる。

 ……が魚人は何も語ろうとはしなかった。ただ立ち尽くし目の前に居るだけだ。

 そしてしばしの沈黙の後、私から語りかけようとしたその時――


……………………


 ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリリ

 けたたましい目覚ましの音が鳴り響く。

 私はベットの上に寝ていた。

「はぁ、また朝かぁ……。もう少し夢の時間が長ければなぁ」そうつぶやいた。

 四月を越えたあたりでまだ寒さが残っていて、起き上がるにはやや難儀なベットから起き上がり、机の上の目覚まし時計を止める。朝の四時半、丁度空が白みはじめた頃だ。

 その使い古された木の机の上には『数学Ⅰ:柊みやこ』と書かれたノートが鉛筆と共に無造作に置かれており、同じほどの年月を経た古びた電気スタンドのねじが緩み、LED電球のついた頭が下がっている様子は、まるで落ちぶれた姫に(こうべ)をたれる、やせぎすの執事のようであった。

 カーテンも無く、まだ肌寒い春のくすんだ日差しを放つ窓を見た。窓ははめごろしであり、開けることは出来ないゆえに外側を拭くことが出来ず汚れたままで、年に二度夏と冬の季節の変わり目の大掃除の日から数日以外では部屋にまばゆい光を届けることはない。

「ああ、そうだ。今日の夢を書かなきゃ」

 私は日課である『日記』をつけるべく背もたれの無い木の丸椅子に座る。二重底に細工した引き出しを開け数冊のノートから『クトゥルフ:ル・リエー』と書かれた一冊を手に取り、開き、書き込んでいく。

 先ほどの光景…つまり自身の見た『夢』を綴るのは唯一といっていい私の娯楽だ。

 あの『夢』は、私が初等部三年のときから見続けているもので、先ほどの歪んだ都市…ルルイエ(もしくはル・リエー)のほかにも様々な世界を私は行き来した。

 それは私を快楽と自由に程遠い世界から抜け出し精神の自由を私に教えてくれる貴重な体験だった。

 そしてその貴重な体験を綴り、書き連ねるのは私が私であることを保つのに必要なことであった。

 書き連ねる動きはよどみなく、短くなり金属のキャップをつけている鉛筆が規則的で無機質な音を鳴らし続ける。

 あの歪な石碑群、刻まれた象形文字、覚えていることはつぶさに書き、解釈をいれる。

 ルルイエ、かの神殿都市は彼等の神と交信する大司祭クトゥルフの神殿であり墓所である。

 来るべき時に備え水底に封じられ復活を待つクトゥルフ、その寝所に刻まれる文言は……

「死せるクトゥルフ、ルルイエの館にて夢見るままに待ちいたり…っと」

 象形文字を訳し終えノートを閉じ、再び二重底の中に用心深くしまう。

 次に机の上に放り出したままの数学のノートと教科書を開き予習をする。

 勉強は嫌いではない、むしろ好きなほうではあるがやはり才能という点では、他人より見劣りをしていて平均以上を維持するだけでも中々至難である。

 一通り予習し終えると、左手に持った鉛筆を机の上に転がし私は、椅子に座ったまま天井を見上げた。古びて所々に染みのついた天井には、室内からは点灯することの出来ない蛍光灯が、一本だけ据え付けられ、静電気によって吸い付けられた埃で煤けていた。

 下を向き、裸足の指で定尺張のフローリングの板目をなぞる、冷たい床は何も変わらない。

 前を向き、指を宙にかざす、何も起こらず静寂は続く。

 自身の着古され、あちらこちらに繕われた跡のあるネグリジェを見る。

 夢は夢、現実では無い、ここには夢の中で着ていたゴシックな衣装も不可思議な魔術の技も無い。瀟洒な衣装は清貧の教えに反し、魔術は私を庇護する修道院の宗教が駆逐した。

 手に入れることは出来ない。とてもとてもほしいのに。

 そう思い幾度も繰り返した切望と落胆を味わっていると不意にカチリと鍵の開く音がした。あわてて時計を見るがまだ開く時間ではない、何か今日の予定に特別なことがあったか思案し始めたが、扉の開くほうが結論に思い至るよりも早かった。

「おはよう、みやこさん」

 朝の挨拶を告げるのは、修道服を着こなした、ふくよかで身長百七十センチよりやや低く、四十路越えの女修道院長であり、大学で神学を教える准教授でもある。

 体系と同じ丸顔で、目が悪くメガネをかけずに居で常に目を細め、睨みつけているように見えるため、他の者に厳しい印象を与え、また事実厳しい人物ではある。

 子供であろうと大人のルールで接するので子供からの評判は良くない。

「おはようございます、柏原院長」お辞儀をしつつ挨拶に答える。

 柏原はついさっきまで私が向かっていた、教材の残る机の上を一瞥し私のほうに向き直ると鋭い目つきを幾分柔和に緩めながら言った。

「予習ですか? 貴方は中々関心な子ですよ」そういいつつ、ため息をつき。

「今時の子はなんでしょうかね? これから神職につくというのに髪を金髪に染めたり、遊びほうけてたりするのは……ちょっと自覚が足りないとしか思えませんよ。規則を守らないで修道院を抜けて近道するのも最近特に酷いの」

 そして頭巾の上から頭をかき、ため息をつきつつ。

「風紀委員の子たちもだらしがないし……ほんと、嫌になるわ」

 向き直り苦笑しつつ。

「ま、こんな事、中学に入ったばかりの貴方に言ってもしょうが無いですけどね」

 そして彼女は両手で私の頬に優しく触れ、正面から見据える。

「貴女は本当にいい子ね……ゆみこさんの小さいころに本当にそっくりだわ」懐かしさを込めた声色で彼女は言う。ゆみことは私の母だ。私の両親は私が物心つく前に事故で他界したと柏原から聞いた。ゆえに私には修道院での生活の記憶しかない。

 彼女は私に母のようになってほしいのだろう。顔も見たことも無い、私がまったく知らない人物に……

 幾ばくかの沈黙の後、言葉を発したのは私だった。

「院長、今日は少し早かったですが、何か用事でもあったのですか?」

 はた、と彼女は気を取り直し、あわてて私から手を離すと。

「そうでした。学園長が朝をご一緒にしたいそうです。すぐに着替えていつもの場所に行ってください」

「はい、わかりました」

 無表情に私は言う。柏原はそのまま部屋を出て行き、私は部屋にひとりきりとなった。

 学園長……私の保護者ということになっている。なっていると言ったのは、法律上の後見人ではあるが、実質的には先の柏原が私の保護者をしているからだ。

 一応ここは大学付属施設の修道院であり、院長と私を含め五人の人間は生活している。

 その私学の長をしているのが淵田学園長。背の高さは私の頭一つ分高く、横は四倍は軽く越える。

 髪に未練があるのか、すだれ状に整え少ない頭髪を少しでも多く見せようと努力を惜しまない人物だ。

 学園長は多忙でめったに会うことは無く、時々こうして食事に誘われるか、新学期の挨拶程度しか会わない。

 私は部屋の隅にあるサンダルを履き、部屋を出る。

 私室には服は置いていない。私の服は廊下の突き当たり、階段を下りた向かいの更衣室にしまってある。私室に服が無いのは、ここの規則だからだ、修道院は規則が全てであり、それは修道女ではない私でも適用される。規則、就寝時間に外から鍵をかけるのも。私物を多く持ってもいけないのもだ。両親の遺言など破り捨ててしまいたいものだ。

 よほど慎重に歩かなければギシギシと鳴る廊下を通り、階段を降り、ギイ、と軋んだ音を立てながら扉を開ける。そこは幾つかのロッカーとベンチが置かれた部屋で、床は丹念に掃き清められ、塵一つなく、窓は他の部屋と同じくカーテンもなく開くことも無い。壁際に並んで設置されたロッカーたちと、中央に備えられた木製ベンチと古い革の匂いもあいまって古くなりくたびれた運動部系の部室のようにも見える。

 『柊みやこ』と書かれたタグのあるロッカーを開く。中には、真新しい制服と古着が数着、それに修道服と下着が数枚あるのみだった。人は清貧であればこれだけで足りる、柏原の言であり、神の教えだそうだ。見たこともない神の言うことが偉大なら、夢の中に()でる『彼ら』はどのくらい偉大なのだろうか?

 手早く制服に着替えると私は、修道院を出て南門へと向かう。

 この学園は神学と音楽をメインにした総合大学で、付属学校での小中高の一貫教育が売りであり、地元ではエリート学校として有名である。意外と知られていないが考古学では世界有数で、かの有名なミスカトニック大学とも研究提携を結んでいる。

 この学園の敷地は広く、大学が出来る前から建っている私の住んでいる修道院を中心に、北に大学本部と付属学校、南に寮と運動場、西に付属研究施設と図書館が設置され、東は礼拝堂と時々野外活動を行う山林が広がっている。

 修道院は一般人の許可なき立ち入りは禁じられているので、外壁には迂回路が敷かれている。幅五メートルほどのアスファルトの迂回路には、早朝のためかランニングをしている集団が見受けられた。

 学生服姿の私が、何食わぬ顔で修道院の門から出てきたときにはその集団は皆、驚いた顔をしていた。しかし、それ以上のことは無くそのまま集団は走り去っていった。

 私は迂回路から離れ、寮のほうへ向かう。寮のほかに運動場と職員住宅がありそこには学園長の住宅もある。元は先代学園長の住宅で、これも学園が出来る前から存在していたということだが、学園長にはここ以外にも別宅が市内に存在するらしい。うらやましいことだ。

 アスファルトで舗装された道を歩く。昨夜は雨が降っていたようで道路脇のむき出しになった地面はかなり湿っていて、濃い草の匂いがした。

 学園長の住宅の前には、いくつものパイプとクランクを組み合わせ、風車を組み込まれた四本足の奇妙な蜘蛛型のオブジェ、その大きさは縦が私より大きく約二メートルほど横幅と奥行きは三メートルほどで、天辺に直径一メートルほどの風車が備え付けられている、卒業式前日に私を踏み潰した蜘蛛野郎が鎮座していた。その隣に居るスダレハゲ中年が学園長である。

「おお、来たか!おはよう!みやこくん」

 晴れ晴れとした表情で何かを達成しそれを分かち合える同士を出迎えるかのように両手を広げ挨拶をした学園長。

「おはようございます。学園長」無表情に一礼する私。

「さて、朝早く呼び出して悪かったね。どうだい、新学期の学生生活は?」

 学園長は恐らく蜘蛛型の機械を話題にしたいようだが、それは押さえて当たり障りの無い質問から進めてきた。

「いえ、特に何も変わりはありません。カリキュラムの名称が違うくらいでしょうか。ああ、学園長もお知りでしょうが、編入学生が今年は少ないそうですよ? これからもこのまま減らしていく方向なのですか?」

 意地でも話題にしない。『あれ』は個人的に好きではない。

「うんむ、いや、今年は合格率が低くてな……まあその、なんだ……」

 やや残念がる中年。その時、不意に突風が吹いた。びゅう、と吹く風で蜘蛛の風車は回る。風車の回転は蜘蛛のクランク機構に動力を与え、その節足動物のような足が動き出す。私に向かって。

「い、いかん!すぐに離れるんだ!!」ああ……今回もか……。

 幾度か見た光景と思いながら横によける。前回の反省を生かした行動である。この『蜘蛛』は前にしか歩めない、なれば横にそれれば問題ない。進行方向に逃げる愚かなことは一度行えば十分である。これで踏み潰されるということは無くなった。人類は進歩するのである。今回は私の勝ちのはず。

……はずだった。進歩するのは人類だけではなかったらしい。彼奴は如何様にしてかは知らないが、私のほうを向き歩みを進め、私を蹂躙した。蜘蛛の重さは、さほどでもないが小さな私にはかなりの衝撃である。

「むぎゅう。むぎゃあ」

 踏まれ、情けない声を上げ地面に沈む。学生服は一瞬にして泥だらけとなった。

 学園長はその体形に見合わぬ速さで蜘蛛の一部を掴み、何かを引き抜いた。蜘蛛の風車は相変わらずクルクル回っているが脚は動かない。

「風上に逃げちゃだめだよ!新型は風上に向かって歩くんだから!」

 振り返り私のほうに駆け寄る。そんなことは聞いていない、話題を振らなかったのは間違いだったか。

「怪我はないかい?」助け起こしながら学園長は言う。

「大丈夫です」そっけなく答える私。立ち上がり泥を払うが、雨で湿った泥はもう服に染み込んでしまっていた。

「すまない、服を汚してしまって……着替えはあるかい?」心配そうに言う。しかし、私は見逃さなかった。一瞬、彼の目が卑猥に光るのを。偶然のチャンスを捉えて放さないという意思を。

「替えの服はクリーニング中です」知っているくせにと、つむぎそうになるが抑える。

「そうか困ったな……」あごを手でもみながら、わざとらしく思案する学園長。

 私は、泥抜きの算段をしていたが乾かす時間が無かった。しかし淵田には何か案があるらしい。

「ああそうだ、私のうちに制服の見本がある。みやこくんに貸すよ。ついでにシャワーも浴びるといい。時間はまだたっぷりあるだろう?」うまい案を見つけたとばかりに、にんまり顔で提案する。確かにまだ時間がある、彼の下心を実行する時間も十分に。そして止めとばかりに。

「いや、わしのせいでこんな事になったんだ、それぐらいはさせてくれ」念を押す。

「……ありがとうございます」残る選択肢は、泥だらけで授業を受けるだが、それも選びたくない。ゆえに仕方なくだった。

「そうかい、じゃあ早速上がってくれ。今服を用意するよ!」明るい顔つきで、自宅に入る学園長。私も後からそれについていく。

 学園長宅はモダンで広く、玄関には高級な絵画や調度品などが置かれているが、その中に一つだけ場違いなものが置いてある。先ほどの私を蹂躙した蜘蛛の機械に似ている大きさ十センチほどの模型だ。

 なんでもこの機械蜘蛛はオランダの物理学者が開発した芸術品だそうで、彼の姪っ子も大好きなのだそうだ。風を食べ動く機械(いきもの)、実にグロテスクだ。

 私はそんな蜘蛛を尻目に私はシャワールームへ向かう。既に何度か足を運びかっては知っている。それは埃一つ無く板鳴りもしない綺麗なフローリングを通り、階段下のトイレを通り過ぎ、突き当たりを右へ曲がり真っ直ぐ進んだ脱衣所の奥にある。

 脱衣所で服を脱ぐ。一糸纏わぬ姿となり壁の姿見をみる。身長百二十センチもない発育の遅い体躯、白い肌、そして右の胸にある『お仕置き』の痕……思い出したくない初等部三年の時だ……

 私が嫌な思いを振り切るようにシャワールームに入ろうとすると、タイミングを見計らったのか学園長も入ってきた。

「おっと失礼。服を持ってきたんだ」わざとらしく言う。だが脱衣所から出て行かない。

「ねぇ、みやこくん……」じりじりと近づく中年親父、私がそれを振り切ろうと曇りガラスで出来た扉を開けようとすると、素早い彼はその手を掴み……その後は端的に言えば、私は『奉仕』をした。……思い出したくも無いことが一つ増えただけだ。

 そして、朝食は始終無言で味気ないものであったことと、着替えはサイズが大きすぎであったが無理やり着込んだことを付け加えておく。これ以上この場について語りたくない。


………………………


 汚れた制服の入った紙袋を手に、一度修道院に戻る。寮から迂回路に続く道を歩くが、すでに幾人かは部活か所用のために、早い登校をしているところであった。私もいつもなら彼等よりずっと早く登校しているのだが……

 修道院の南門を開け、中に入ろうとしたそのとき、声をかけられた。

「ちょっと!そこの貴女!そこは一般人立ち入り禁止よ!」ヒステリックに叫ぶ同じ制服を着た少女が言う。恐らくは数少ない編入生で、私のことを知らないのだろう。彼女を見ると赤い縁の分厚いメガネをかけ、腕に『風紀委員』の腕章をつけ、校則どおりの二本の三つ編みの髪型に制服を着こなした。如何にも風紀委員といった風情であった。

「それと貴女、初等部でしょ!? 何で中等部の制服を着てるのよ?」ぶかぶかな制服と私の小さな体を見てコスプレとでも思ったのだろう。もしこれが体にぴったりの服であるならば、中学生であることにある程度は、説得力があったかもしれないがこの状況では説明が面倒だ。学生証も私室の中だ。

「今年入った一年です。それと柏原院長には許可を得ています。それでは失礼します」正直に全てを話し、素早く門に入ろうとするが手をつかまれる。

「ちょっと待った!許可なんて下りるわけないでしょ!どうせショートカットするつもりでしょうが!だから私たちが見張ってるのよ!!見逃したら私が怒られるじゃない!!」青筋を立てながらがなりたてる。

「三度目は流石に無いわよ!!院長の説教、聞いたことある? もうたくさんよ!」どうやら柏原の被害者のようだ。ならばこれだけ必死なのも解る。

 先の説明の通り修道院は学校と寮の間に挟まれていて、迂回路を使わず修道院を抜け、南の寮から北の学校へ行けばそれだけで二十分近く違う。それゆえ『近道』をする学生が多いが無関係な人物が入るのは規則違反だ。ならば門に鍵をかければよいが、規則によって修道院の各門は開けておかなければならない(駆け込み寺が閉じていては話にならない)ので、用の無い生徒が出入りした場合、厳重注意されるわけなのだが、最悪なことに柏原は連帯責任の名の下に風紀委員にも厳重注意したらしい。今年からだろう、去年までは無かったはずだ。

 かくて風紀委員は必死になって通行を阻止し、楽をしたい学生とのいたちごっことなっているわけだ、いつもなら彼等に会わず登校できるので問題がなかっただけなのだ。

「だからアンタはちょっと来なさい!学生証もないんでしょ? っていうかあんた学校なめてる? かばんも持たずに登校するって非常識じゃないの? 生徒指導の先生にこってり絞られてきなさい!」早口でまくし立て、復讐果たせり、と言いたげな自信満々の顔で私を掴んで離さない。

 これは困った、生徒指導の先生とは面識が無い、そこでもまた説明に手間取ることになる。手間取った結果、勉強道具を取りに戻る時間が遅くなれば確実に遅刻して、今度は私が柏原に説教をされてしまう。

 彼女は融通が効かない、無実だろうがなんだろうが遅刻は遅刻とばかりにあれこれと言い、休日のボランティア活動も増やされるだろう。

「さあ!こっちへ来なさい!」 結局、私は引きずられるまま、中等部ではなく初等部の生徒指導室に連行される。中等部なら道すがら顔見知りにあえるのに……

 一応抵抗を試みたのだが、そうはさせまいと屈強な男二名が増員され両側から持ち上げられる。さながら、捕まえられた宇宙人の様相で道行く人に奇異な目で見られ、見世物になったかのような気分だ。

「説教はがらじゃねぇけどよぉ。小さいうちからズル覚えると碌なことになんねぇぞ?」連行している一人、頭を短く刈り込んだ筋肉質の高校生が言う。

「確かに修道院って邪魔でアレが無きゃすんなり学校に行けるけどよ、この学園はアレがあるから出来たんだよ。そいつに対しちゃ敬意をはらわなきゃなんねぇんだぜ?」私のほうを向いてさわやかに笑う。だが、それは私にとって滑稽以外の何者でもない。

「無理して難しい言葉使うなよ。お前から敬意なんて出ても似合わないし低学年には難しいんじゃない?」もう一人の長身で細身だが筋肉はしっかりとついている高校生が苦笑しながら言う。

「私は……」中学生だ、と言おうとしたが遮られ。

「あー、あー解ってるって。お姉ちゃんあたりから服を拝借してきたんだろ? 見りゃ解るって」ニコニコと勝手に納得される。

「僕らもあんまりこういうことしたくないけど、柏原院長の説教はご遠慮したいところでね」と細身は言葉を続け、私を掴む力を強め。

「ちょっとした悪戯のつもりかも知れないけど迷惑がかかるってことは覚えておいたほうがいいよ?」無表情にさらに力を込め、さらにこう続ける。

「自分が偉いと思ってるのか知らないけど、院長か修道院の人を呼び出せとかをって言うのは流石に無茶だよ? ほんとう、僕らは君に反省をしてもらいたいんだけど、あの態度はよくないよ? わかるかい? 僕らの責任でもない、僕らだって頑張ってるんだよ。それでもなくならないのを僕らのせいにされても困る。だから…」その続きは筋肉質が遮り叫んだ。

「おい!脅しすぎだろうが! こいつだってそこまで考えが回らなかっただけだぞ? そいつにそこまで言うのは酷じゃねぇか!」その勢いに細身は気おされ。

「あ、ああ、すまなかった」細身は筋肉質に謝る、だが私には謝らない、力も緩まない。

 それ以降は無言で連れて行かれる。

 ついこないだまで通っていた初等部の校舎前に着くが、ここでやっと幸運に恵まれた。

「柊か? どうしたんだ、捕獲された宇宙人ごっこか?」とのんびりした聞き慣れた口調で問いかけるのは私の元の担任だった男、藤谷だ。

「がはははは。やっぱ普通の制服はぶかぶかじゃないか。だから言ったろ? 特注なら五、六着買えって、二着で順番っつーのは無理があるって。それをお前、柏原と一緒になって、二着でいいって、けち臭くてありゃしねぇ」豪快に笑う無精ひげをはやした初老の男は、真顔に戻り。

「んで、そのリトル・中学生を両脇から抱えてるメン・イン・高校生は何モンだ? あ?」二人を睨みつけ、凄む。

「え、えと、か、彼女は修道院に勝手に、は、入ろうとしたので、こ、こないだの柏原院長の指示通りに各校の生徒指導部に…」しどろもどろになりながら説明する細身。

「で?」短く問いかける藤谷

「え? 指示通りですよね?」質問の意味が解らず問いかける細身。

「あ? 来てるよ。会議でも話出たし。で?」さらに問い直す。不機嫌であることを隠そうともしていない。この男にしては珍しい。

「で、とはどういう意味でしょうか?」聞き返されていることが、なんなのか解らず困惑する二人。痺れを切らし藤谷は静かに言う。

「おう、中学生を何でこっちに連れてきてんだって言ってんの」細身をにらみつけさらに。

「そんでよぉ、そいつ修道院に入る許可もらってんぞ。柏原か修道院の人に確認しなかったのか? 普通、確認するだろうが。しなかったのか!」段々と声が荒くなり最後は怒鳴り声になった。

「い、いえ。打ち合わせに無かったので…」怒鳴り声に気迫負けしたようだが、藤谷は追い討ちをかける。

「あぁ? 柊から連絡してくれって言われなかったのか? あぁ?」頼もしい男だ。もっと言ってくれ。

「う、嘘だと思って…前に同じことがあって。せ、先生も聞いてませんか?」うろたえる二人。

「ああ、聞いてるよ。だから確認しとけっつてんだよ!馬鹿!おら!とっとと掴んでる手離して戻れ!この馬鹿共!」急きたてる藤谷に圧倒され、走って戻る二人。私はほっとして礼を言う。

「ありがとうございました。先生」それに対して藤谷は私の腕をさすり。

「んなこた気にすんな、腕、痛くないか? 結構強くつかまれてたみてぇだが」心配そうに言う。

「大丈夫です、痛くありません」痛みを我慢して言う。すると藤谷は悲しそうな、さびしそうな顔になって。

「そうか、修道院まで送ってく。また、いざこざがあるとマズイしな」私の手を取り、歩み始める。その手は私にとって一番大きく、そして一番暖かかった。

 親子のように歩み、北門まで行くと先ほどとは違う風紀委員がいたが、難なく通り抜け、無事に修道院にたどり着き、必要なものを持ち出すことが出来た。北門を出たときにはもう風紀委員は居なくなっていた。

「ほれ、急がんと遅刻だぞ?」急かすように藤谷は言い、私も急いで駆け出すが、いかんせん運動は苦手で、なかなか前へは進まない。それを藤谷に笑われながら、それでも何とか遅刻せずに済んだ。

 中学の校門前で別れるが、別れ際の小さな一言が私の耳から離れなかった。

「すまない。俺が弱いばっかりに」その一言は先の騒動のことではないことは解っている。だが彼が謝ることではない。彼のせいでも無い、傍観者に成り果てても、私のことを思ってくれているのは今のことでも十分解る。

 不意に予鈴が鳴る。もう時間だ教室に急ごう、ホームルーム開始まであと五分だ。

 いつもはもう教室に座っていて、予習をしていたり復習をしていたりするが、切羽詰って教室に駆け込むのは初めてのことだった。何か歯車を掛け間違えたようで奇妙な感覚だった。廊下は隅っこに掃き残しがあり綿ゴミが転がっていて、階段脇のゴミ箱はいつものように蓋がちゃんと閉まってなくて、何も変わらないが何か雰囲気が違う。そんな感覚だったが、ドアを開けたとき、クラスの騒々しさにかき消され、その感覚も消えていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ