夢を持てば
大人気の歌番組に招待され、今流行の歌を気持ちよく歌うアイドル。
連続ドラマの主演をつとめ、心揺るがす演技をする俳優。
スポーツの話題を独占、今や海外でも活躍するスター選手。
いつしか自分もそんな存在になるだろうと、思っていたあの日。信じていたあのとき。
それでも、不安だったのだろうか……。
「おい、佐々木?」
「……あぁ、はいっ」
何をやっているんだ僕は。商品を急いで、コンビニのマークがプリントされているビニール袋に詰める。もうこの作業は手慣れたはずなのに、なぜかひっかかる。お客様の顔を見るのが怖かった。後でクレームでもされたら、クビに限りなく近づく。詰め終わった瞬間、すばやく、そして揺らさずに差し出す。もちろん、今までで一番の営業スマイルだ。
「お待たせいたしました!」
お客様の顔を見たとき、僕は無意識に自然な笑顔になった。見るからに人のよさそうなおばあさんが、こちらも自然体な笑顔で待っていてくれたからだ。おばあさんはビニール袋を受け取ると、
「学生さんかい? かわいいねぇ~」
と言ってくれた。
「ありがとうございました!」
軽く会釈まで返してくれて、僕の心はほくほくだった。おばあさんが見えなくなっても、僕は頬がゆるんだままだった。
「よかったなぁ、あんな人柄のいいおばあさんで」
バイトの先輩からの言葉なのに、頷くのも忘れてしまいそうだった。棚の整理に向かっても、先輩は不気味な笑顔でついてきた。
「それよりよぉ、お前、ロリコンなのか?」
心のボルテージが一気に下がった。
「なんなんですかいったい、しかも声大きいですよ」
「いいじゃねえかよ。なぁ、お前ロリコンなのか?」
僕の願いは聞いちゃいない。
「……なんでロリコンなんですか。僕がなにかしましたか?」
「なにか……って。ほら、あそこにいる女の子見てボーッとしてたじゃないか」
先輩の指差す先に見えるのは、小学4年くらいか、1人の少女がいる。
棚に陳列しているパンを、メガネ越しに半ば必死に見て選んでいる。
かわいいロゴの入った白い長袖シャツとチェック柄ブリーツミニスカートを着ている。
なるほど、子役としてドラマに出ていてもおかしくないくらいの容姿だ。だが……。
「僕はロリコンじゃないです」
「じゃあさっきのあの行為はなんだよ」
僕が小声で話しているのに、先輩は気にせず大きな声だ。
「あれは……昔の自分を思い出してたんです」
「嘘だろぉ? お前がロリコンってことは誰にも言わないからさ、正直に言えよ」
「ホントに僕はそんなんじゃないですから」
「またまた~。おっと、レジ行ってくるわ」
やっとうるさいのがいなくなった……。
「店員さん」
「はい?」
すぐに、僕は営業モードへ切り替える。さっきの少女だ。
「このパン、消費期限切れてたんですけど」
「本当ですか!? すぐに取り替えてきます」
おかしいな、パンはさっきあの先輩が整理したはずなのに。手抜きすぎだって。
走り出そうとした矢先、少女の小さな手が、僕の腕をがしっと掴んだ。
「いや、そういうことじゃないんですけど……」
じゃ、どういうことだろうか。困惑するばかりだ。
「これ……タダにしてもらえませんか?」
「え……?」
確かに、販売期限を過ぎたり、また直前のものは割引によって売ったりすることがある。だが、タダでください、という人は、見たことも聞いたこともない。しかも、子供だ。消費期限を少しくらい過ぎてたって……という油断が、体の不調を引き出すきっかけになるのだ。
「いや……それは、困ります」
「やっぱり……そうですか」
少女は、目にうっすらと涙を浮かべながら、こちらに背を向ける。あまりにもかわいそうだ。僕は放っておけないたちである。
「えと……お母さんは?」
「……あの、う~……。え、駅の前で待ってます」
あ、そうかそうか。
……いや?
とすると、お母さんはこのかわいい娘に「あそこのコンビニで、消費期限切れのパンを探して、無料でもらってきなさい」と頼んだのか? もしそうだとしたら、それはあまりにも問題がある母親か、深い事情がある家庭なのだろう。無限の可能性を秘めていそうなこの少女の将来が、暗いものでないことを祈る。
少女は、何も買わずにそのままコンビニを出ていってしまった。「お金はないの?」と問いたかったが、それはあまりにもぶしつけである。
時計を見ると、もう9時半を過ぎていた。すっかり夜の街と化している外の風景を遠目で見ながら、僕はだんだん速くなっていく鼓動を抑える。あの子にはお母さんがいるのだ。必死に自分にそう言い聞かせながら、残りわずかとなった今日のアルバイトを最後までやり遂げた。
そこには、少女がいた。
さっきの、コンビニで会った少女だ。
時刻は、10時を少し過ぎたところだった。いつものように駅前のコンビニのアルバイトを終えると、またいつものように家まで直行するはずだった。だが、駅を少し出た大通りで、寒そうに縮こまっているあの子を発見した。
やはり、目立つ。人気が多いこの道が、誘拐を防いでいるのかは知らないが、警察を含めて、少女に声をかける者は誰もいなかった。
声をかけた瞬間、知らない人だと叫ばれたらどうしよう。誘拐犯だと思われて警察に通報されたらどうしよう。いろんな被害の可能性を考えに考えたが、やはり「見過ごす」という選択肢は選べなかった。
「ねえねえ……コンビニの店員さんだけど」
少女はこちらを振り向くと、一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに難しい顔をした。
「店員さん……?」
「うん。えと……お母さんはどこ?」
「え……ん~と…………」
もしや……いないのか?
いやいや、ありえない。こんなかわいい子を見捨てる親などどこにもいない。
でも、見当たらない。どこかへ行っているのか?
「あ、あの……」
「なに?」
「い、一緒に……歩きませんか?」
……は、はぁ?
一緒に歩くって、なに? どこへ?
「これから、おうちへ帰るんですよね?」
「あ、あぁ……ちょっと歩くけどね」
「そこまで、一緒に歩いて……くれ、ませんか?」
いったい、歩いてなんの意味がある?
お母さんとかが、いるんじゃないのか?
疑問が絶えなかったが、断る理由もなかった。
「あぁ……いいけど」
「ホントですか? やったぁ!」
一緒に歩くだけでこんなに喜んで……さらに疑問だ。
「じゃ、さっそく歩きましょうよ!」
この不思議少女に、腕を引っ張られて……。
僕も、まだまだ子供だ、と思った。
中2の冬。
先生が家庭訪問に来た、あの日。
あんなに暗く沈んだ母の顔を見たとき。
僕は、こっそり泣いた……。
「あ! 店員さんの家って、あれ?」
少女が指差す方向には、1つのマンションがある。
「そうだよ」
「わぁ! こうきゅ~なカンジ!」
「あぁ」
確かに高級だよ。否定はしない。ただ……。
「お金持ちじゃないからね」
「え、なんで?」
「だって、さっきまでコンビニの店員さんやってたでしょ」
「あ……そうか」
いつ、この住み家から追い出されるかわからない。
家賃は一応払えているが、それも時間の問題だ。
正直を言うと父さんのせいだが、そう思いたくない。
「店員さんのお父さんとかお母さんは、元気?」
「うん、元気だよ」嘘だ。
「一緒に暮らしてるの?」
「いや、一人暮らしだ」ここでも嘘をついた。
僕は、もう知っている。勘付いてしまった。だから嘘をついた。
この少女は、今夜の寝床がない。あくまで予測だが、たぶんそうだ。
どんな事情があるのか知らないが、とりあえず、声をかけてよかった。
「あ……もう、着いちゃったね……」
「うん」
改めてこのマンションを見上げてみる。さして階が多いわけでもないが、煌々と明かりが点いているあたりは、やはり高級な証だろう。
「えと……今晩泊めてくれたり、しませんよね」
ほら来た。
「すいません、なかったことにしてください……」
僕の頭の中にたくさん謎を残しておいて、カンタンには帰らせないぞ。
「うちに来るか?」
「え……いいんですか?」
「おう。誰もいないし。贅沢はできないけど、いいか?」
「もちろんです! ありがとうございますっ!」
この子の満面な笑みを見ると、なにもかも許してしまいたくなるが、きっちり、謎を問いただしておかないといけない。腹の虫が収まらない。
これもなにかの縁だ。こういう出会いも悪くない。そう思える。
いつものように、カード・暗証番号・指紋など、いくつもの検査をクリアし、やっと自室までたどり着いた。いつもと違うのは、少女がキラキラしたまなざしで僕を見ながら後をついて来ていたことだ。
「まあ、とりあえず上がって」
扉を開き、中へ招く。靴をちゃんと揃えてから上がるという少女の動作に感心する。今日は、バスタブにお湯を入れなければならないな。あんな礼儀正しい少女に、風呂をシャワーで済ませるという貧乏くさいことは似合わない。浴室のリモコンの、湯を沸かすためのボタンをあらかじめ押しておく。
浴室から出るとちょうど、洗面所で手洗いうがいを済ませてきた少女と廊下で再会。
「夕飯、なに食う?」
「あ……なんでもいいですけど」
「じゃあ、なんか作るよ」
「手伝います、足手まといにはならない自信がありますよ」
「おっ、それは心強いな。風呂が沸くまで頼むよ」
「了解です!」
今日の献立は……と。
「鶏肉料理、セロリとレタスも使うこと……か」
「メモ書きですか?」
「うん」
母さんが一週間おきに食品を買っているので、冷蔵庫の中のものを何曜日にどのように使っていけばいいか、メモで残してくれる。
「いっそ、サラダ風にして……いや、もうご飯といっしょにしちゃおう」
「どんな料理ですか?」
「鶏肉入りサラダのどんぶりだな」
「おいしそうですね! さっそく作りましょ!」
「よし。ではまず鶏肉だ――」
そうして、僕と名前も知らない少女の料理が始まり……。
「混ぜようか。ん~、この作業は時間がかかりそうだな。風呂に入ってきていいよ」
「えっ、いや、いいですよ」
「もう終わりそうだから、風呂から出てくるときには作り終わるよ。入ってきな」
「じゃあ、遠慮なく……」
「うん」
気づくと、時刻は11時になりかけていた。
混ぜる作業を進めながら、謎の少女の真実を探っていた。
今まで考えてきた、いくつかの説をまとめる。
1つは「迷子説」だ。
その名の通り、迷子になって母親を待ち続けているのだ。パンをねだったのは単にお腹がすいたからであり、悪気はない。でも、この説には穴がいくつもある。たとえばなぜ「家まで歩こう」と誘ったのか。交番に行けばいい話である。よって、ほぼありえない。
2つめは「ナンパ説」。
ふいにもこんな説を考えてしまった自分が恥ずかしい。だが、一応は聞いていただきたい。今日、または明日、少女の学校は休みなのだ。そして親も今夜は帰ってこない。つまらなくなった少女は、駅前まで出歩き、かっこいい男を探していた。ナルシスト? はいはいそうですか。……この説にも抜けがある。パンを買うのはいいとしてもなぜ「タダ」にこだわったのか。財布を忘れたにしても店員に「タダでパンを……」と声をかけるのにはけっこうな勇気が必要だろう。だからこの説もありえない。
そして最後の説……。
「冒険説」だ。
実はこれが一番有力だ。しかし、あまりにも現実味がなさすぎる。つじつまが合うだけで、ただの夢物語かもしれないが、それでも僕は確信できる何かがあった。これはたぶん本当だ。そう思える何かがあった。
少女は、どこか遠くから来た。遥かかなた、僕の見たことのない地から。親なんて連れずに、たった1人で。
童心から生まれた、ちょっとした冒険心で、少女は見知らぬ土地を目指した。学校が終わり、日も暮れるころ、少女は出発を決意した。日本の首都「東京」を目的地に、子供料金「1560円」の切符を買った。少女自身、この切符では東京駅どころか、東京都内にも入れないことは知っていた。しかし、「大宮駅」に到着すれば、なんらかのめぐり合わせで、東京に入れると思っていた。そうして、おこづかいも使い切り、ただひたすら、東京方面まで続く電車に揺られていた……。大宮駅に着いた少女は、不意にお腹がすいた。だが食べ物を買うお金などない。それでも欲望に勝てなかった少女は、コンビニで消費期限が切れたパンを探し、もらおうとした。しかし僕はそれを断った。じゃあ、何をしよう。何もできない。どこに行こう。行き場もない。途方に暮れていたとき、僕が助けた……。
もしこの説が本当ならば、僕と彼女はなにか不思議な縁で結ばれているのかもしれない。
混ぜる作業を終え、盛り付け、完成。うん、上出来だ。
テーブルに出し、あとは少女が風呂から上がるのを待つだけとなった。ずっと一人っ子で、いとこもいない僕は、同じ子ども同士で楽しく食べることを夢見ていた。それだけに、とても先に食べ始めるようなことはできない。今日のこの機会に心から感謝した。
テレビをつける。一通りチャンネルを回し、おもしろい番組がないのがわかると、テレビ画面はさみしげにプツンと消えた。
時計の秒針の音が、部屋中の音を制圧する。こうやってソファに横になってみると、もう何もやる気がしない。少しだけ、と目を閉じた。深い眠りにつく直前で目を開ける。そんな動作を繰り返していた。
しまった、少女は長風呂か。いや、もうじきに出てくるだろう。案の定、風呂のドアが開く音がした。
「お、出てきたか。服……どうしよう。ごめん、さっき着てたのまた着てくれる? もう料理できてるからね」
言えなかった。言う体力も気力も残っていなかった。目を閉じる。もう、深い眠りにつく直前で目を開けることはできなかった……。
「……ん…………ん、」
どこからか、携帯の着信音が鳴っている。それが自分のズボンのポケットからであることに気づき、手に取る。顔の前まで持ってきて、開いた瞬間、切れた。不在着信1件。母親からだった。こっちからかけるまでもなかった。またかかってきたのだ。1コールで出る。
「どうしたの」
「大変なの大変! お父さんが……」
「父さん? 父さんがどうかしたのか」
胸の鼓動が速くなっていくのを感じた。
「とっ、とにかく大変なの! 来てくれない?」
「今から? ……わかった、すぐ行く」
携帯を閉じる。いったい、何があったって言うんだ。
時刻は午前3時。まだ補導される時間帯で、朝のアルバイトもあるし忙しいのだが、しかたない。
……あれ?
僕はソファで寝ている。パジャマにも着替えていない。毛布を掛けられていたからわからなかったが、帰ってすぐに寝てしまったのか?
……あ、あ~、そうだ。
少女に会ったんだった。ここまで連れてきたんだった。風呂から出てくる前に寝てしまったんだった。
少女を探すと、器用に体育座りの姿勢で寝ていた。かわいそうに、風呂から出た瞬間に僕が寝てたら、そりゃ戸惑うわな。
僕のベッドに少女を寝かし、毛布をかけてやる。思えばさっき僕が寝ていたときにかかっていたこの毛布も、少女がかけてくれたものだろう。な、なんという……優しすぎるっ!
持つものは全て持った。準備万端、僕は半ば急ぎ足でマンションを出た。まだまだ夜中だ。暗い夜道を走る。
大宮駅をまたぎ、向こう側にある病院まで、5分とそこそこで着いた。父の病室の前で、母は待っていた。僕の存在に気づくと、そんな深刻な顔も見せずにこう言った。
「あ、ありがとう。来てくれたのね」
いや、あんたが来いって言ったんだろうが。
「あらそう? ごめん、さっきは気が気じゃなかったから、あなたに助けを求めたのかもしれないわ」
はぁ? 何を言ってるのだ。
「いや、さっき重大な話があるって医者さんから言われて、気が動転してあなたに電話かけたのかも。かけた気はしなかったんだけどな。あ、発信履歴ある、やだわぁもう忘れちゃって」
なんなんだよもう。それより、重大な話って?
「お父さんの入院期間が長くなるって。たったそれだけなのに、呼んでごめんね」
……そ、それだけ?
…………なんだよ、それ……。
「ほんと、ごめんね」
母さんは、やっぱりどこかネジが抜けている。僕は腰が抜けた。
「でもほんと、それだけでよかったよ」
とくに走ることもしない。朝の新聞配達のアルバイトまではまだ時間がある。余裕のある朝を迎えられそうだが、その分寝不足が心配だった。授業をちゃんと受けられるかどうか。そんなことを考えるだけでうんざりした。
ふと、前を向くと、1人の少女がこちらに向かって歩いてくる。見覚えのある服だ。
「あれは……」
間違いない、預かっている少女だ。
こんな夜中に、補導されるぞ。
やがて、少女も顔を上げ、僕がいることに気づいた。
「あ……」
「どこ行くの?」
僕の問いには、答えられないようだ。
「その前に、僕がどこに行ってたのか説明しないとな。僕は、病院に行ってた」
「な、なんでですか?」
「うん、それはまた後でな。君は、なんで出歩いてる?」
「えと……その、駅まで」
「帰るのか?」
「い……いや」
「それに、こんな時間に電車なんか走ってないぞ」
「そ、そうなんですか?」
「あぁ」
始発が走り出す時間を知らないのか、はたまた始発というものを知らないのか。どっちでもいいが。
「とにかく、家に戻ろう」
目的地には、たどりつけなかった。
捕まえられた。どこへ連れて行かれたのかは覚えていない。ただ、何も言わずに僕のことを連れて行く大きな手が怖かった。
母の顔を見た瞬間、自然と涙があふれた。母に頭をおさえつけられ、無理やり頭を下げられた。
なぜだろう、涙がぼろぼろとこぼれていく……。
白い、白い、真っ白な、白銀の世界を一目見たかった、それも叶わなかった……。
再び家へ戻ってきた僕たちは、特になにもすることがなかった。これが最後のチャンスだ。謎はきっちり明かさせる。さっき電車に乗ろうとしてたんだから、もうこの家にはあまりいないだろう。そう思うと、なんだかむしょうに寂しくなってくる。
「ゴメン、僕、今まで嘘ついてたんだ」
「え?」
相手から知りたいことを聞き出すには、自分から話し出すのが一番。いつぞやに読んだ小説の主人公がそう語っていた。
「僕、一人暮らしじゃないんだ」
そんなどうでもいい告白から、この話は始まった。
僕の推測「冒険説」が本当であることを信じて。
「僕の父さんは、そこそこな会社の社長で、今とても儲かってるんだ。だから有頂天になって、こんな高級マンションに移住したんだけど……それは甘かった。父さん、がんにかかっちゃったんだ。今も入院中で、母さんが必死に看病してる。だから、家賃払うために僕が働いてる。こんな高級マンションに住まなきゃよかったのになって今でも思うんだけど、住む家を替えた理由は、僕にもあるんだ」
小学校の頃の僕は、近所でも評判の「よくできた子」だった。
テストで100点は当たり前。テストの結果を親に隠し通すなどということは一切なかった。小4のときにあったたった1つの80点台のテストは、破ってゴミ箱に捨てていたが、母さんに見つかってしまった。
運動でも、困ったことはなかった。特に好きなスポーツというのはなかったが、走り、器械体操、球技、全てにおいて安定した活躍を見せていた。
僕は小学校生活を大いに満喫していた。僕のそれまでの人生に、笑顔が絶えたことはなかった。
そんな中、僕は1つの夢を抱いた。
「野球でエースになって、甲子園で優勝したい」
テレビの中で、甲子園を優勝したチームの投手が、輝く汗を流しながら質問に答える姿を見て、あこがれた。
特に中学受験することもせず、地元の公立中学に入り、野球部に入った。
そこの中学は野球部の名門校で、県大会優勝はもちろん、関東大会にも入賞するほどの腕前だった。
そのためか、野球部に入る人はほとんど経験者だった。僕は、一からの練習だった。
素質は見込まれたが、それはあくまで未経験者というくくりの中での話だった。
いつか、3年生になってこの中学の野球部のエースという存在で試合に出るという日を信じて猛練習の日々が続いた。
しかし、いつまでたっても変わらなかった。同学年の部員でさえ、抜けなかった。
それだけならまだよかった。猛練習の影響で、勉強にも手がつかなくなっていた。1年生最初の定期テストでとった学年1位から、気づけば2年の2学期末テストは、下から数えて40番目の210位まで下がっていた。
親には内緒だった。テストの調子はいつもまあまあと答える。それを聞いた母はなんの疑いもせず、いつも近所のおばさんやらに自慢する。
でも、隠し通せなかった。いつかはこんな時がくるとわかっていた。
家庭訪問。担任の先生が、家にくる。これほど怖いと思ったことはない。後には引けなくなっていた。
先生がリビングにあがる。僕は、見えないところで盗み聞きしていた。
「それで、成績のことなんですが……」
先生の声。胸がはち切れそうだった。
「成績ですか? うちの子はなんの問題もないでしょう」
「どこを受けるつもりなんですか?」
「一応、この埼玉県で一番優秀な、香星学園に受けさせようと思ってるんですけど」
「……それは、少しきついんじゃないでしょうか」
「どういう、ことでしょう?」
「あ、いや、今から勉強すればもしかしたら行けるかもしれませんが、大変な猛勉強を強いられると思います」
「勉強面では、何の問題もないと思うんですけど」
「失礼ですが、お子さんのテストは見ていらっしゃいますか」
「見ていませんが、あの子がいつも『よくできた』と言っているので、ずっと成績がよいのでしょう?」
「いや……大変失礼ですが、前回のテストの順位は……学年で210位、なんですよ」
「えっ……? なんですか、その順位。県の順位ということですか」
「いえ、学校の中で……です」
「そんな…………まさか、ありえ、ない……」
しばらくして、母さんの嗚咽が聞こえた。思わず顔を出して、見てしまった……。
母の、こんなにも悲しんでいる顔を。
僕は、今すぐにでも母さんに謝りたかった。でもそれ以前に、僕はこの家にいちゃいけないような気がした。父さんは社長である。母さんは自慢の息子を育て、近所からあがめられている人間である。そんな家族に、僕のような人間はいらないような気がした。
テレビに出たかった。一度でいいから、テレビに出る人気者になってみたかった。しかし、無理だった。今となってはもう何もかも失った。勉強できない。部活で活躍できない。そんな人間、テレビに出れるわけがなかった。
僕は、気づかれないようにそぉっと家を出た。行ってみたいところがある。今の季節がちょうどよかった。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった……」
川端康成の名作「雪国」。その雪景色を、一度でいいから見たかった。
家を出てしばらくして、財布を持ってきていないことに気づいた。だが、すぐに解決できた。
「100円があれば、大丈夫かな」
なにかあったらすぐにこれで公衆電話をかけなさい。でかけるときはいつも100円を持たされ、この時も持っていた。子どもの切符であれば、買えるだろう。無賃乗車になるが、それもいい。
電車に乗り、ひたすら北を目指した。土樽駅まで。
「ありがとう、みんな。僕は、もう解放されてもいいんでしょ?」
気が狂うほどに冷静だった。無断で遠くへでかけることに恐怖もなかった。
窓の外の風景が瞬く間に移り変わってゆく。聞いたこともない駅名。見たこともない景色。まるで地球を縦断しているようだった。
やがて、湯檜曽という駅に着いた。土樽駅までもうすぐだった。
そのとき、思いがけないことに遭遇した。
車掌が、こちらまで歩いてくるのだ。たぶん、切符の点検だ。
でも、逃げられなかった。金縛りにあったように動けなかった。切符を出すこともせずただ静かに、
「ごめんなさい」
と言った……。
僕は捕まった。無賃乗車で、捕まった。母さんが迎えに来た。その瞬間、なぜか涙があふれた。無理やり謝らせられた。僕はただ泣きじゃくりながら、車に乗って家まで帰った。
何も話してくれなかった。それが逆に怖かった。
雪景色を見れなかったことがむしょうに悔しかった。
僕は、なにをやっているんだろう……。
1つの問題が浮き彫りになった。近所では、もう僕がお世辞にも頭がいいといえないということが噂になっている。母さんの立場はもうない。僕のせいでそうなってしまったのがすごく悔しかった。でもどうしようもなかった。
そのときちょうど父さんの会社が軌道に乗り、この際駅に近い高級マンションに引っ越そうという話になり、あきれるほどにあっさりと引っ越した。
「僕はというと、あの後から猛勉強したけど、取り返しがつかなかったよ。今通っている高校は、偏差値50以下の普通のとこなんだ」
ふと、少女を見ると、目をそらされてしまった。
「でも、あの電車事件で、人生が大きく変わった気がする。大人になったって言うかな、背が伸びた、って言ったらおかしいかな……」
「知ってたんですか」
「え?」
まさか、本当に、冒険説なのか?
「あたしが土樽から来てたの、知ってたんですか……?」
つ、土樽から、来たのか……?
少女の話は、こちらの想像を絶した。
「あたしは、土樽から来たんです。新潟から」
「き、君は、新潟から……?」
ということは、僕のあのときと全く上下逆に通ったということか?
「あたしの場合は、無賃電車じゃないんですけど、……親に無断で」
「だ、大丈夫? 今日も平日だけど」
「大丈夫です。なんだか、同じ体験をした人が近くにいるので、安心します」
「……それにしてもなぁ」
確かに、予測していた。冒険説という形で、予測していた。しかし、土樽から来たということや、なによりもこうして目の当りにしてみると、やっぱり信じられない。
……でも。
最初は、小さな出会いだった。
コンビニ。あまりにもしっかりしていて、子役みたいな容姿で、いつの間にか、僕が小さいころ憧れてた「テレビに出る人気者」というイメージがした。
こんなかわいい子、僕がかかわってはいけないと思った。そう思ったのは、少なからずあの「電車事件」があったからだった。僕はこれから平々凡々に生きていくんだという意識がついてしまっていた。
そんな子が、ひょんなことから家に招いて、いっしょに夕飯も作って、いっしょに胸の内も明かした。
雲の上の存在に見えた少女も、かつての僕と同じ体験を今、している。今すぐ注意して止めるべきなのだろうが、それでは悲しい。
「おっと、もうこんな時間だ」
気づいたら、新聞配達の時間になっていた。でも、この少女ともっと話したかった。
……休もう。
バイト先に電話する。
「あの、すいません、佐々木ですが……」
休む理由、休む理由……。
「父の入院期間が……」
長くなった。だめだ、今の僕には正直なことしか言えない。
「すいません、なんでもありません、今から行きます」
ふぅ……休めなかった。
「じゃ、僕は今からバイト行ってくるから」
「もう、行っちゃうんですか」
「東京、見ていきたいんだろ?」
少女に、3000円と、大宮から東京へ行く場合の時刻表やらを書いた紙を渡す。
「ゆっくりと旅してこい。楽しめよ?」
「え、でも、これは……」
「いいんだよ、僕と君の友情の証だ。……あぁ、それから」
ペンを走らせる。いよいよ……別れか。
「これが、この家の住所だ。いつでもいいから、手紙ちょうだいな」
急いでバイトに行く準備をして、玄関に向かう。
「もう……行っちゃうの?」
「……僕だって、別れはつらい。けどな」
靴を履き、立ち上がる。かすかに足が震えている。
「いつかきっと、雪降る季節、君に会いに行く」
「約束、してくれる?」
「あぁ、もちろんだ」
指切り。何年かぶりにしたそれは、僕と少女の最後の言葉だった。
少女の視線を背に、家を出る。マンションを出て、日の光をいっせいに浴びる。
「夢、今の僕にも持てるかな……」
持てるさ、きっと。
そう自分に言い聞かせる。
僕は、生まれ変わった気持ちで、新たな一歩を踏み出した。
これは、作者がいろいろな小説などに影響を受けて、こんなに感慨深い小説を書きたいと思ったのが始まりです。
その中には、話の中に出てくる川端康成「雪国」も入っています。
この物語を読んで、少しでも夢を持つきっかけになってくれたら、感無量です。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。