想い出の味、お取り寄せ
「いらっしゃい。今日は少し涼しいから、“帰り道”がよく出るよ」
商店街の外れにあるその店は、うっかりすると見落としてしまいそうなくらい地味だった。古びた木の引き戸に、小さなランプ。店先には看板もなく、窓越しに見える棚に、色のついた小瓶が並んでいるだけだ。
私は吸い寄せられるように中へ入った。
「初めてのお客さんだね」
カウンターの向こうにいた老人が、湯呑を置きながら言った。
メニューを探したが見当たらない。代わりに棚の瓶には、妙な名前のラベルが貼られていた。
『雨の日の駅』『運動会の朝』『初恋のほろ苦さ』『夕暮れの帰り道』
「……これ、何ですか?」
老人は「まあ座って」と向かいの椅子を指した。
「記憶だよ。他人のね」
冗談かと思ったが、老人は真顔だった。
「飲むと、五分だけその人の記憶を追体験できる。その代わり、あんたの記憶も一つもらう」
「どんな記憶でも?」
「どうでもいいやつで構わない」
私は少し考えてから笑った。
「じゃあ昨日の晩飯で」
「何を食べた?」
「コンビニのパスタです。たぶん明太子」
「たぶん?」
「……あれ、違ったかな」
老人は小さく肩を揺らして笑い、棚から『夕暮れの帰り道』を取った。
瓶の蓋を開けると、古いラムネみたいな匂いがした。
液体を飲んだ瞬間、目の奥が熱くなる。
次に気づいた時、私は小学生だった。
ランドセルが重い。靴の中に砂が入っている。遠くでカラスが鳴いていて、誰かの家から夕飯の匂いが流れてくる。
隣では男の子がくだらない話をしていた。
昨日見たテレビのこと。クラスの先生の変な癖。明日の図工が嫌だって話。
私は笑っていた。
別に特別な日じゃない。ただ家に帰っているだけだ。
でも、その時間が終わらない気がしていた。
明日も、来週も、ずっと同じ毎日が続くと、本気で思っていた。
胸の奥が、変に苦しくなった。
そこで急に視界が白くなった。
「……お客さん」
気づくと、私は店の椅子に座っていた。
老人が湯気の立つ湯呑をこちらへ押してくる。
「終わりだよ」
私はしばらく何も言えなかった。
涙が出ていることにも、少し遅れて気づいた。
「今の、誰の記憶なんですか」
老人は空瓶に新しいラベルを貼りながら言った。
「さあね」
そのラベルには、こう書かれていた。
『コンビニの明太子パスタ』
私は思わず笑った。
「そんなもの、欲しがる人います?」
「いるかもしれないよ」
老人は瓶を棚へ戻した。
「遠い国で生まれた誰かが、“コンビニ”を知らずに懐かしがるかもしれない」
店を出ると、外はもう暗くなり始めていた。
商店街の惣菜屋から揚げ物の匂いがする。
私はポケットのスマホを取り出した。
そこでふと、違和感に気づいた。
昨日、何をしながらあのパスタを食べたんだっけ。
家だったか。会社だったか。誰かと電話していた気もする。
思い出そうとしても、うまく引っかからない。
私は急いで店へ戻った。
引き戸を開けると、老人はさっきと同じように瓶を磨いていた。
「記憶が変なんです」
老人は「ああ」とだけ言った。
「味だけじゃないんです。昨日の夜のこと、その周りまで曖昧になってる」
「そりゃそうだ」
老人は当然みたいに言った。
「記憶は一個ずつ切り離せるようには出来てない」
棚の瓶を指先で軽く叩く。
「匂いがあれば場所を思い出す。場所があれば、その時いた人間を思い出す。そういうもんだ」
乾いた音が、小さく店に響いた。
「じゃあ戻らないんですか」
老人は少し黙った。
「全部は無理だろうね」
その言い方が妙に静かで、私は急に怖くなった。
「……あの『夕暮れの帰り道』も?」
「私の記憶だよ」
私は老人の顔を見た。
けれど、その表情からは何も読み取れなかった。
「長く店をやってるとね、自分の記憶を売らないと足りなくなる」
「足りない?」
「自分が薄くなるんだ」
老人は笑ったが、その笑い方はどこかぎこちなかった。
「だから客が置いていった細かい記憶を飲んで、穴埋めしてる。今日なら、コンビニのパスタだ」
私は言葉を失った。
店の棚には、無数の瓶が並んでいる。
あれを全部、この人は飲んできたのだろうか。
他人の人生の切れ端ばかりを。
スマホが震えた。
画面には『母さん』と表示されている。
その文字を見た瞬間、胸の奥がざわついた。
昨日、母と電話した気がする。
でも内容が思い出せない。
私は少し迷ってから通話ボタンを押した。
「もしもし?」
聞き慣れた声が耳に届く。
それだけで、なぜか少し安心した。
私は店の戸を背にしたまま、小さく目を閉じた




