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外伝短編|飲みに行くぞ。

作者: 安剛
掲載日:2026/05/30

 夜のフロアは、仕事の終わり方まで少し雑だった。


 蛍光灯の白さはまだそのまま残っているのに、電話の音だけが先に消えている。


 コピー機の低い音。

 引き出しを閉める音。

 紙を揃える手つき。

 誰かが小さく息をつく気配。


 昼間の張りつめた感じがほどけきる前に、みんな適当に片づけを始めている。


 私は自分の机の上をざっと整えながら、斜め前の席をちらりと見た。


 後輩はまだパソコンを閉じきれていなかった。


 画面を見て、

 手元のメモを見て、

 また画面を見ている。


 片づけ方が少し固い。


 急いでいるというより、どこまでやって終わりにするかをまだうまく決められていない感じだった。


 こういうところが、まだ若いなと思う。


 真面目なのはいい。

 でも、全部きっちり終わらせようとすると、終わりどころを逃す。


 私はネクタイを少しだけ緩めた。


 喉元に空気が入る。


 それだけで、今日はもういいか、という気分になる。


 後輩はまだ残っていた。

 今日もそれなりに詰めた。

 客先の段取りも、電話の返しも、資料の直しも、まだぎこちなかった。


 でも、悪くなかった。


 むしろ、前よりはだいぶよかった。


 私は鞄に手を伸ばしながら、そのまま声をかけた。


「おい、飲みに行くぞ」


 誘う、という感覚ではなかった。


 流れの一部だった。


 仕事が終わって、まだ少し話すことがあって、じゃあ行くか。

 それくらいの雑さで出る言葉だった。


 後輩は一瞬だけ顔を上げた。


 目が少し丸くなる。


 疲れていないわけじゃないのは見れば分かる。

 顔の下半分に、夕方からのくたびれ方が残っていた。


 でも、その驚きはすぐに消えた。


「はい!ありがとうございます!」


 声が少しだけ大きい。


 反射みたいに出た返事だった。


 私はそれを聞いて、

 ああ、まだこういうところが素直でいいな、と思う。


 別に礼を言われるほどのことでもない。

 でも、後輩にとっては、誘われること自体が1つの意味になっているのも分かっていた。


 認められたとか、入れてもらえたとか、そういう感じだ。


 実際、私だって昔はそうだった。


 面倒くさい日もあった。

 早く帰りたい日もあった。

 でも、先輩に声をかけられることには、それなりの温度があった。


 だから、後輩の「ありがとうございます!」を、私は特に重く受け止めない。


 ビルを出ると、外の空気は少しだけぬるかった。


 昼間の熱が、アスファルトの上にまだ薄く残っている。


 コンビニの明かり。

 道路の向こうの赤いテールランプ。

 風のない夜の重さ。


 後輩は私の半歩後ろを歩いていた。


 歩幅を合わせているわけじゃない。

 でも、勝手にそうなっている。


 私は片手でネクタイをもう少し緩める。


「今日、あそこ遅かったな」


 先に口から出たのは、やっぱり仕事の話だった。


 後輩はすぐに「すみません」と返す。


 その返しも早い。


 まだ、反射の方が先に出る。


「まあでも、前よりはよかった」


 そう言うと、後輩は少しだけ黙ってから、


「ほんとですか」と聞き返した。


「ほんと。前はもっと固まってた」


 コンビニの前を通る。

 ガラス越しの白い光が、歩道の端にこぼれている。


 後輩は小さく笑う。


「今日、途中で頭真っ白になりかけました」


「見てりゃ分かる」


「やっぱ分かります?」


「分かるよ。顔に出るから」


 そう言うと、また小さく笑う。


 こういう会話は、会社の中ではあまりしない。


 仕事中に言えば、ただの評価になる。

 帰り道だと、少し違う。


 ダメ出しみたいな言葉でも、そのまま関係の中に入っていく。


 誘い方は雑だし、今なら少し圧が強いのかもしれない。

 でも、この頃はまだ、それがそのまま私的な接続の入口になっていた。


 店は駅の裏にある、いつも会社の誰かが使っている居酒屋だった。


 引き戸を開けると、油と醤油の匂いが一気に出てくる。

 ジョッキのぶつかる音。

 笑い声。

 厨房の方から聞こえる短いやりとり。


 奥のテーブルに通される。


 後輩は座る時まで少し固い。


 鞄の置き方。

 上着の畳み方。

 メニューの開き方。


 どれもちゃんとしている。


 ちゃんとしているが、まだ力が抜けていない。


「とりあえずビールでいいか」


「はい、大丈夫です」


「大丈夫です、じゃなくて、嫌なら嫌って言えよ」


「あ、いや、大丈夫です。飲みます」


 私はそれでいいと思って頷く。


 最初の一杯が来る。


 ジョッキの表面には細かい水滴。

 テーブルの木目に落ちる輪っか。

 揚げ物の皿から立つ熱。

 キャベツの青い匂い。


「お疲れ」


 軽くジョッキを合わせる。


「お疲れ様です」


 ひと口飲んだあとで、ようやく少しだけ肩が落ちる。


「お前、今日あの客の電話、ちょっと長かったな」


「すみません。何回も聞き返しちゃって」


「聞き返すのは別にいいよ。分かったふりするよりは」


 後輩は黙って頷く。


「でも、最後にまとめるの遅い。ああいう人は、こっちが先に区切らないとずっと話すから」


「はい」


「あと、焦ると語尾が上がる」


「……あ、たしかに」


「たしかに、じゃない。直せ」


「はい」


 そういうやりとりをしながら、私は枝豆をつまむ。


 説教みたいなものは混ざる。

 今思えば、かなり混ざっている。


 でも、この頃はそれも含めて飲みに行く意味の中に入っていた。


 仕事中には言えないこと。

 仕事中には聞けないこと。

 そういうものが、ジョッキの泡と一緒に少しだけ緩くなる。


 2杯目に入る頃には、後輩の声も少し変わっていた。


「でも、あの客めんどいっすよね」


 それを聞いて、私は少し笑う。


「まあな」


「毎回、最後に話戻すじゃないですか」


「戻すな。戻す」


「なんか、さっき決まったじゃないですかって思いました」


「思うだけにしとけ」


 後輩が笑う。


 その笑い方は、昼間より自然だった。


 私はそれを見ながら、ああ、こうやって入ってくるんだよなと思う。


 上下はある。

 先輩後輩ははっきりしている。

 雑さもある。

 圧も、たぶんある。


 でも、その中で一度、同じ現場の人間としてつながる感じがあった。


 仕事だけしていると、相手は役割のままだ。


 飲みに来ると、少しだけ人間の輪郭が出る。


 後輩は唐揚げを食べながら、今日の客先のことでまた愚痴を言う。


 私はそれを聞いて、

「そんなもんだ」と言いながら、結局少しだけ付き合う。


 店を出る頃には、夜の空気がさっきより軽くなっていた。


 アルコールが少し回っているせいかもしれない。


 後輩は顔が少し赤い。


 歩き方が乱れるほどじゃない。

 でも、店に入る前よりは明らかに力が抜けている。


「今日は、ありがとうございました!」


 駅へ向かう途中で、後輩がそう言う。


 声が少しだけ大きい。


「まだ早いだろ。帰るまで気ぃ抜くな」


「はい!」


素直な返事が返ってくる。


 私は歩きながら、まあ、こうやって覚えていくんだよな、と思った。


 雑だな。

 今なら少し強すぎるかもしれない。


 でも、その夜には確かに、仕事の中だけではできない関係の深まりがあった。


 改札の前で、後輩がもう一度頭を下げる。


「ありがとうございました!」


 その声が、夜の駅前の空気の中に少しだけ残る。


「おう」


 私は片手を軽く上げて返す。


 それで十分だった。


 人と人の距離が、今よりもっと雑で、

 でも今よりもう少し自然に1歩先へ進んでいたのは、

 たぶん、こういう夜だったのだと思う。



 日中のフロアは、静かに回っていた。


 昔みたいに怒鳴り声が飛ぶわけでもない。

 誰かが机を叩くわけでもない。

 でも、必要なものは必要な速さで流れていく。


 会議室のガラス。

 共有モニターの淡い光。

 キーボードを打つ乾いた音。

 社内チャットの控えめな通知音。


 その全部が、角を丸くしたまま仕事だけを前へ進めている。


 私は後輩の席の横で立ち止まり、資料を1枚だけ差し出した。


「ここ、数字だけ差し替えてもらえる?」


「はい。先に会議版に反映しておきます」


 返事が早い。


 声も落ち着いている。


 昼前の打ち合わせでもそうだった。

 客先との電話でも、こちらが言いたいことを先回りして拾っていた。

 会議の進行で一瞬だけ詰まりかけたところも、資料のページを静かに出して流れを戻していた。


「そこ見てくれてたの、ありがたい」


 私がそう言うと、後輩は少しだけ笑って、

「先に気づけただけです」と返した。


 こういうやりとりは自然だった。


 仕事の中では、かなり噛み合っている。


 無駄な遠慮もない。

 かといって馴れすぎてもいない。

 外から見れば、たぶん良い先輩後輩に見えるのだと思う。


 それで充分なはずだった。


 午後の会議が終わる頃には、後輩の目の下に少しだけ疲れが出ていた。


 いつもより瞬きが多い。

 席に戻ってから肩を1度だけ軽く回している。

 画面を見ている顔も、朝より少しだけ平たい。


 今日はそこそこ負担をかけたかもしれない、と思う。


 自分では詰めたつもりはなかった。

 でも、細かい確認をいくつか投げたし、差し戻しもあった。

 客先対応も、最後はほとんど任せた。


 終業時間が近づく。


 誰かがパソコンを閉じる。

 遠くで椅子の脚が床を軽く擦る。

 コピー機の音が止まる。


 私は自分の席でメールを1通だけ返しながら、ふと、飲みに誘おうかなと思った。


 理由は深くない。


 たまには少し話してもいい。

 仕事のことでもいいし、どうでもいい雑談でもいい。

 今日くらいは、画面越しじゃない言葉を1つ2つ交わして帰ってもいい気がした。


 その瞬間から、配慮が始まる。


 いや、でも。


 予定あるんじゃないか。

 今日かなり疲れてたよな。

 そもそも、自分が原因で疲れさせた側かもしれない。

 そんな日に誘うのは違うか。

 しかも、先輩から言われたら断りにくいかもしれない。

 今の時代、こういう距離感そのものが面倒に見える可能性もある。


 飲みに行くか。


 たったそれだけの一言が、頭の中で急に重くなる。


 20年前なら、こんなに考えなかった気がする。


 考えなかったからよかった、とまでは言わない。

 でも、考える前に関係が1歩動いていた夜は確かにあった。


 今は、正しく迷う。


 正しく迷うほど、何も起きない。


 帰りのエレベーターが一緒になった。


 他の社員は先に乗っていて、途中の階でほとんど降りた。

 気づけば、箱の中には私と後輩だけが残っていた。


 鏡のついた壁。

 白い照明。

 階数表示の数字が、1つずつ静かに減っていく。


 飲みに行くか?


 その一言が喉まで上がる。


 でも、声にはならない。


 後輩はまっすぐ前を見たまま、軽く息を吐いていた。

 ジャケットの肩に、1日分の疲れが少しだけ残っている。


 今言ったら、どう聞こえるだろう。


 急だと思うか。

 気を遣うか。

 断る理由を探させてしまうか。

 私が上だから、余計に返しづらくなるか。


 何も言えないまま、階数表示だけが減っていく。


 1階に着く。


 扉が開く。


「お疲れさまでした」


 後輩が先にそう言う。


「お疲れ」


 私も返す。


 それだけだった。


 ビルを出たところで、後輩は会釈をして駅の方へ歩いていった。

 私も逆方向へ少し歩く。


 夜の空気は昔よりやわらかいのに、どこか均一だった。


 コンビニの白い明かり。

 交差点の青信号。

 歩道を流れていく人の足音。


 全部が静かに整っている。


 帰りの電車の中で、私はスマートフォンを開いた。


 後輩とのトーク画面を出す。


 仕事の連絡なら、ここですぐ打てる。


 資料ありがとうございます。

 明日の件、先方確認お願いします。

 今日の会議、助かりました。


 そういう文なら、指は迷わない。


 でも今、送りたいのはそれじゃない。


『今日、軽く行く?』


 と打ってみる。


 画面の中では、それくらい短い文のはずなのに、妙に圧があるように見える。


 軽く、なんて言われても困るかもしれない。

 疲れてるのに、と思われるかもしれない。

 そもそも、仕事のあとまで付き合わせる感じになるかもしれない。


 全部消す。


 しばらく画面を見たまま、電車の揺れを受ける。


 次に、


『お疲れ。今日はありがとう』


 と打つ。


 それなら送れる気もする。


 でも、それを今送ると、逆に何を返せばいいか向こうが迷うかもしれない。

 仕事の範囲を少しだけはみ出した文は、それだけで急に重さを持つ。


 これも消す。


 仕事の連絡なら、何の迷いもなく送れる。

 私的な一言だけが、妙に重い。


 そこが、今の夜の変なところだった。


 家に帰っても、その画面を1度開いた。


 靴を脱ぐ。

 上着をかける。

 冷蔵庫を開けて、水を出す。


 その途中でも、頭の片隅には後輩の疲れた顔が残っている。


 今日、私が原因で負担をかけたかもしれない。


 責めたつもりはない。

 理不尽なことを言ったつもりもない。

 でも、負荷そのものは私の側から流した。


 そんな日に誘うのは違うかもしれない。


 こうして、先輩の善意は全部ブレーキへ変わる。


 無理させたくない。

 断らせたくない。

 疲れた時間を奪いたくない。

 面倒な先輩にもなりたくない。


 何も間違っていない。


 でも、何も起きない。


 翌日、後輩はまた普通に出社してきた。


 朝の挨拶。

 共有資料の更新。

 会議前の確認。

 客先へのメール文面。


「昨日の件、先方から返ってきてました」


「ありがとう」


「資料の図版、少し見やすく直しておきました」


「助かる」


 仕事では、また自然に噛み合う。


 無駄がない。

 ストレスもない。

 必要なところだけきちんと通る。


 チームワークは抜群だと思う。


 それでいい、と私は思おうとする。


 無理させていない。

 圧もかけていない。

 後輩の時間を勝手に使っていない。

 今は、そういう距離感の方が正しい。


 正しいはずだった。


 でも、どこかで、昔の雑な夜の方が、もう少し人間同士だった気もする。


 雑だった。

 圧もあった。

 今ならうまくいかないことも多かったと思う。


 それでも、仕事の外に1歩だけ出る流れが、もっと自然にあった。


 今は、その1歩だけがどうしても起きない。


 昼休み、私はスマートフォンを開いた。


 昨日のトーク画面は、何も送られないまま、仕事の連絡履歴の下に静かに残っている。


 未送信の文はもうない。

 消したからだ。


 でも、送らなかった一言の形だけは、まだ指先のどこかに残っている。


『今日、軽く行く?』


 あの短い文面は、送られなかったことで逆に消えずに残っていた。


 私は画面を閉じる。


 黒くなったスマートフォンの表面に、オフィスの白い光が鈍く映る。


 何も悪くない。


 後輩との関係も悪くない。

 仕事も回っている。

 空気もちゃんとしている。


 だからこそ、その関係は仕事の外へ1歩も出なかった。

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