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第5章:触らぬ神に祟り無し

1:ひっくり返る世論


 全国ネットの画面が、放送事故を誤魔化すための環境映像と「しばらくお待ちください」のテロップに切り替わった直後。

 日本列島を包んでいたのは、かつてないほどの爆発的な「熱狂」だった。

 わずか一時間前まで、SNSのタイムラインは雷蔵を「凶悪テロリスト」「社会の敵」と非難する言葉で埋め尽くされていた。しかし、生放送での公開説教、そして黒田邸での前代未聞の「悪事のショーケース」が終わった今、世論の風向きはオセロの盤面をひっくり返すように、見事なまでに反転していた。

 息子の薬物パーティー、五億円もの脱税資金、そして政界を揺るがす裏金の名簿。黒田議員がこれまで隠し続けてきた真っ黒な本性が白日の下に晒されたことで、「雷蔵の言っていたことはすべて真実だった」と全国民が理解したのだ。


 だが、世論を最も大きく動かしたのは、裏金や薬物のスキャンダル以上に、雷蔵がテレビカメラの向こう側へ向けて放ったあの「説教」だった。

『お前らの言葉は、立派に人を殺してんじゃねえか』

『安全な場所から石を投げるのが、そんなに楽しいか?』


 その言葉は、現代社会で息を潜めていた「サイレント・マジョリティ(静かなる多数派)」の心に、雷のように深く突き刺さっていた。

 理不尽なクレームに土下座し、客の暴言にひたすら耐え続けてきた飲食店の店員。匿名のアカウントから言葉の刃を連日突きつけられ、心を病んでしまった若者。職場で権力者からのハラスメントに泣き寝入りするしかなかったサラリーマンたち。


 これまで「非暴力」や「お客様は神様」というルールの下で、絶対的な安全圏にいる卑怯者たちから一方的に殴られ続けてきた無数の人々が、スマートフォンを握りしめながら涙を流していた。

『よく言ってくれた! 私たちがずっと言いたかったことだ!』

『最高の鉄拳だよ。言葉で人を壊す奴は、物理で制裁されるべきだ』

『手を出した方が負けなんて、もうやめにしよう。あのジジイは現代の必殺仕事人だ!』

 SNSのトレンドは『#凶悪暴力ジジイ』から、瞬く間に『#雷蔵さんありがとう』『#現代の雷親父』へと塗り替えられた。


 前日まで雷蔵の自宅を特定し、正義面をして攻撃していたネットの「特定班」たちも、今や完全に矛先を変えていた。生放送で一瞬だけ映った「裏金の名簿」のスクリーンショットを高画質化し、そこに記されていた企業や別の大物政治家たちの名前を血眼になって割り出し始めたのだ。雷蔵の物理的なカチコミが生み出したうねりは、ネット社会のエネルギーすらも「巨悪への反撃」へと変換してしまった。


 一方、手のひらを返すように焦り始めたのは、マスコミやコメンテーターたちである。

 直前まで「いかなる理由があろうと暴力は何も生まない」と偉そうに語っていた彼らは、世間の猛烈な雷蔵支持の熱と、黒田議員の裏金発覚というメガトンス級のスキャンダルを前に、顔面蒼白で台本を書き換え始めていた。


「えー、黒田議員の数々の疑惑が事実となれば、雷蔵氏の行動は、ある種の義憤に駆られた結果と言えるかも……」「ええ、法治国家としては遺憾ですが、社会の鬱憤を代弁した側面は否めません」などと、苦しい言い訳を並べ立てて風見鶏のように態度を変えていく始末である。


 絶対安全だと思われていた「言葉の暴力」の使い手たちが、突如として現れた「理不尽なまでの物理力」の前に震え上がったのだ。ネットの匿名掲示板でも、これまで誹謗中傷を繰り返していた悪質なユーザーたちが「俺のところにもあのジジイが来るんじゃないか」という見えない恐怖に駆られ、次々とアカウントを削除して逃亡し始めていた。


 日本全体が狂喜乱舞し、社会の価値観そのものがひっくり返るほどの騒ぎになっているその頃。

 当の「現代の英雄」は、定食屋『まるや』のカウンターに座っていた。

「大将、生姜焼き定食。肉大盛りで頼む。すっかり遅くなっちまった」

「ら、雷蔵さん……あんた、テレビでとんでもないことを……っ! お代はいい、お代はいらねえから、腹いっぱい食ってくれ!」

「馬鹿野郎、タダ飯食うほど落ちぶれちゃいねえよ」

 大将が震える手で差し出した大盛りの生姜焼きを、雷蔵はただ黙々と、美味そうに掻き込んでいた。


 彼にとっては、世間の評価がテロリストから英雄に変わろうが知ったことではない。筋の通らない奴を少しばかり「躾」して、腹を満たす。それはタガの外れた男にとって、ただの日常の延長に過ぎなかった。


2:国家のパニックと白旗

 雷蔵が定食屋で大盛りの生姜焼きを平らげていた頃。

 日本の政治の中枢である総理大臣官邸の地下、危機管理センターの巨大な会議室は、お通夜のような重苦しい沈黙と絶望に包まれていた。

 円卓を囲むのは、総理大臣をはじめ、官房長官、防衛大臣、そして顔面を土気色に染めて脂汗を流す警察庁長官といった、国家権力のトップたちである。


 彼らの手元には、所轄の警察署から上がってきた『剛田雷蔵に関する被害・交戦報告書』という分厚いファイルが配られていた。

「……警察庁長官。私は疲れているのだろうか」

 総理大臣が、こめかみを揉みながら口を開いた。

「君の提出したこの報告書だがね。まるでハリウッドのSF映画か、B級アクションの脚本でも読まされている気分だ。……『留置所の純鋼鉄製の鉄格子を、素手で左右にひん曲げて脱走』? 『数十名の機動隊員をボウリングのピンのように滑走させ薙ぎ倒す』?」

 総理はファイルをバンと机に叩きつけた。

「極め付けはこれだ! 『暴動鎮圧用のゴム弾を筋肉で弾き返し、五万ボルトのテーザー銃を静電気が鬱陶しいと一蹴。さらには特殊合金のジュラルミン盾を画用紙のように握り潰す』……君たちは、私をからかっているのかね!?」


 怒鳴り声が響き渡るが、警察庁長官はハンカチで額の汗を拭い、悲痛な声で答えた。


「総理、信じがたいことですが……すべて紛れもない事実です。機動隊のボディカメラ、防犯カメラ、そして全国ネットの生放送の映像。それらすべてが、この老人が『物理法則を完全に無視した存在』であることを証明しております」

 長官はさらに手元の資料をめくった。

「テレビ局へ向かう道中では、若者が突き立てたナイフが彼の皮膚を1ミリも貫通せず、逆に素手で刃をロールケーキのように丸められたという報告まで上がっています。もはや、警察の持つ拳銃などの通常装備では、彼に傷一つ負わせることは不可能です」

 会議室に、絶望的な沈黙が落ちた。

 国家が独占しているはずの「暴力(武力)」が、たった一人の草臥れた老人に完全に敗北したという事実。

「……防衛大臣」

 総理が、すがるような目で防衛大臣を見た。

「自衛隊の治安出動という手は……」

「不可能です、総理」

 防衛大臣は即座に首を横に振った。

「歩兵の小火器アサルトライフル程度では、彼を怒らせるだけでしょう。確実に彼の足を止め、制圧するとなれば……装甲車による機関砲の一斉掃射か、対戦車ミサイル、あるいは戦闘機と攻撃ヘリによる空爆が必要になります」


「馬鹿なことを言うな!!」


 総理が机を叩いて叫んだ。

「たった一人の、老人を捕まえるために、首都のど真ん中にミサイルを撃ち込むと言うのか! 冗談ではない、何百人の一般市民が巻き込まれると思っている! 内閣が吹き飛ぶどころか、国家の恥だ!!」

 防衛大臣も渋い顔で頷いた。

「おっしゃる通りです。それに、万が一ミサイルを撃ち込んで……彼が無傷で煙の中から歩いてきた日には、我が国の国防システムは根本から崩壊します」

「……」

 会議室は再び、完全な沈黙に支配された。

 黒田議員の裏金や薬物問題は、特捜部を動かして「トカゲの尻尾切り」にすればいい。世論も黒田を叩くことに夢中だ。問題は、この『剛田雷蔵』という規格外の存在を、国家としてどう扱うかである。

「……つまり、我々は」

 総理大臣は深く息を吐き出し、天井を仰ぎ見た。

「あの老人に、白旗を揚げるしかないということか」

「……彼を『人間』や『犯罪者』という枠組みで捉え、法律で縛ろうとしたこと自体が間違っていたのです」

 官房長官が、ポツリと漏らした。

「総理。これはもう、治安維持の問題ではありません。災害対策です」

 国家の中枢が、一介の老人に対して完全なる敗北を悟り、膝を屈した瞬間だった。


3:災害指定「剛田雷蔵」

 大物政治家・黒田の生放送での破滅から数日後。

 日本中が裏金問題と雷蔵の話題で沸き返る中、当の雷蔵の自宅周辺は、不気味なほどの静けさを取り戻していた。警察のパトカーも、野次馬も、マスコミの姿すらそこにはない。政府が極秘裏に情報統制を敷き、彼に一切近づかないよう各機関に厳命を下したからだ。

 そんな木造平屋の前に、一台の黒塗りのハイヤーが音もなく停まった。

 後部座席から降り立ったのは、内閣危機管理監を務める政府高官である。彼に随伴する数名のSPたちは、先日のテレビ局での惨劇を知っているため、顔を青ざめさせて遠巻きに周囲を警戒するばかりで、決して敷地内へ入ろうとはしなかった。


 高官はごくりと生唾を飲み込み、ハンカチで額の汗を拭いながら、錆びた門扉をくぐった。

 彼が目にしたのは、ミサイルすら効かないと恐れられる「国家の脅威」の姿ではない。縁側で気持ちよさそうにあぐらをかき、ズズッと音を立てて熱い緑茶を啜っている、ごく普通の初老の男の姿だった。

「……あの。剛田雷蔵、殿でいらっしゃいますか」

 高官が恐る恐る声をかけると、雷蔵は湯呑みを置き、面倒くさそうに片目を開けた。

「あぁ? なんだお前。スーツなんて着込んで。訪問販売なら間に合ってるぞ」

「い、いえ! 決して怪しい者ではございません! 私は政府の使いでして……本日は、あなた様の『ご意向』を伺いに参りました」

 高官は深々と頭を下げた。国家の重鎮が、一介の市民に対して完全にへりくだっている。彼の目的はただ一つ。雷蔵が国家に対して牙を剥く意思があるのかどうか、その腹積もりを探ることだった。

「ご意向だぁ?」

 雷蔵は呆れたように鼻を鳴らした。

「俺は、メシ食って、昼寝して、メダカに餌やって……静かに暮らしてえだけだ。天下国家がどうのこうのなんて、これっぽっちも興味はねえよ」

「ほ、本当ですか……!? では、これ以上の破壊活動や、政府への報復などは……」

「俺はな」

 雷蔵が低くドスを効かせた声で遮ると、高官はビクッと肩を震わせた。

「人様に迷惑をかける奴と、安全な場所からコソコソ石を投げてくる卑怯者が大嫌いなだけだ。俺や俺の周りに、筋の通らねぇちょっかいを出してこなきゃ、何もしねぇよ」

 雷蔵は「ほらよ」と、庭のプラスチック製の水槽に向かってパラパラとメダカの餌を撒き始めた。

「だが、もしまた俺のメシの邪魔をしたり、筋の通らねぇ嫌がらせをしてくる奴がいたら……相手が政治家だろうが警察だろうが、問答無用でしつけをしてやる。それだけだ」

 高官は、雷蔵のその揺るぎない言葉と、メダカに餌をやる平和な横顔を交互に見つめ、ハッと息を呑んだ。

 理解したのだ。目の前にいるこの男は、思想犯でもテロリストでもない。ただ己の絶対的なルール(筋)に従って存在する、大自然の摂理そのものなのだと。

 地震や台風に対して、法律で裁こうとする者などいない。刺激せず、ただ通り過ぎるのを待つのが正解なのだ。

 一時間後。

 官邸に戻った高官は、総理大臣の前で青ざめた顔のままこう報告した。

「総理。彼は人間という枠組みを超越しています。刺激しなければ完全に無害ですが、一度逆鱗に触れれば国家が滅びます。……剛田雷蔵は今後、『逮捕不可能な歩く自然災害』として指定し、不可侵の存在として扱うべきです」

 かくして、一人の老人が国家権力を完全に屈服させ、日本政府が公式に「白旗」を揚げるという、歴史上類を見ない不可侵条約が密かに結ばれたのである。


4:特措法『触らぬ神に祟り無し』


 剛田雷蔵が日本政府によって極秘裏に「歩く自然災害」として認定されてから、一ヶ月後。

 国会議事堂では、日本の法制史を根本から覆す、前代未聞の法案が異例のスピードで審議・可決されようとしていた。

 発端は、警察機構の完全なる敗北である。

ミサイルすら効くか分からない雷蔵という絶対的な物理力を前に、現行の法律は完全に破綻していた。もし今後、再生数稼ぎの迷惑系配信者や、頭のネジの飛んだクレーマーが雷蔵を煽り、結果として彼が「物理的なお仕置き」に出た場合、警察は彼を逮捕できないし、止めることもできない。


 国家が法を執行できないという矛盾を解決するためには、政府にはたった一つの手段しか残されていなかった。すなわち、「雷蔵の暴力を合法化(免責)する」ことである。

 かくして成立したのが、正式名称『悪質な言葉の暴力およびハラスメントに対する物理的対抗措置の免責に関する特別措置法』。

 マスコミやネット民からは、通称『触らぬ神に祟り無し』法と呼ばれることになる、極めて特殊な法律であった。


 この特措法の第一項は、実質的な「剛田雷蔵・専用条項」である。

 雷蔵(およびそれに準ずる特例対象者)に対して、不当な煽り、嫌がらせ、言葉の暴力を振るい、その結果として物理的制裁(平手打ち、ゲンコツ、およびそれに伴う器物破損など)を受けた場合。

 新法はこれを「手を出させた側に百パーセントの責任がある(完全なる自己責任)」と定め、雷蔵側の傷害罪や器物損壊罪の成立を完全に免責したのだ。

 つまり、「自ら進んで化け物の尻尾を踏み、結果として顔面をぶん殴られても、国は一切守ってくれないし、殴られたお前が悪い」という、国家による公式な見捨て宣言である。

 もはや「手を出した方が負け」というルールは、雷蔵の前では通用しなくなった。


 だが、この法律の真の革命は、第二項にあった。

生放送で雷蔵が叩きつけた『言葉なら、どれだけ人を傷つけても暴力じゃねえってのか?』という悲痛で真っ直ぐな怒りは、世論を爆発的に動かし、法案の適用範囲を「一般市民」にまで広げさせたのだ。

 それが、「言葉の暴力に対する正当防衛の拡張(通称:自業自得条項)」である。

 ネットでの執拗な匿名誹謗中傷。店員に土下座を強要し、理不尽な要求を突きつける悪質なカスタマーハラスメント。職場での度を越した陰湿なパワーハラスメント。


 これら「非暴力という安全圏からの極めて悪質な加害行為」に対して、被害者が精神的に追い詰められ、耐えかねて物理的な反撃(殴打など)に及んだ場合。監視カメラや録音などの客観的証拠が揃っていれば、それを「正当な防衛行動」として情状酌量、あるいは完全に無罪とするケースが明記されたのである。

「言葉で人を殺そうとする奴は、殴られても文句は言えない」

 雷蔵が体現した昭和の雷親父の当たり前の理屈が、屁理屈と詭弁にまみれた令和の日本で、まさかの「法律」として成立してしまったのだ。

 この特措法が施行された日の朝。日本の景色は劇的に変わった。


 これまで「お客様は神様だろ!」とコンビニや飲食店で怒鳴り散らしていた悪質クレーマーたちは、「ここで店員を限界まで怒らせてぶん殴られても、警察は自分を助けてくれない」という恐怖を思い出し、不自然なほどの笑顔で「ありがとう」と言って足早に立ち去るようになった。


 ネットの匿名掲示板やSNSからも、他人の粗探しをして集団で袋叩きにする「炎上」がピタリと止んだ。画面の向こうにいる見ず知らずの相手を言葉で刺し続ければ、いつか自分の家に被害者がドアを蹴破って現れ、合法的に物理で顔面を殴られるかもしれない。


 長らく現代社会から失われていた「生身の暴力の恐怖」が、逆説的に、人々から「他者への想像力と、健全な敬意」を取り戻させたのだ。

 絶対に殴られない安全圏など、この世界のどこにもない。誰もがその当たり前の事実を思い出したことで、日本中から「言葉の暴力」が嘘のように激減していったのである。


5:エピローグ・平和な縁側


 前代未聞の特措法が成立してから、数ヶ月が経った。


 狂騒に包まれていた日本社会は、嘘のように穏やかな落ち着きを取り戻していた。

 コンビニやファミレスから、店員を大声で怒鳴りつけるクレーマーの姿は完全に消え去った。駅員に掴みかかる酔っ払いも、ネットの匿名掲示板で執拗に誰かを叩き続ける炎上騒ぎも、すっかり過去の遺物となっている。


 理由は単純だ。誰もが「目の前の相手が、あの剛田雷蔵かもしれない」あるいは「怒らせたら合法的に物理で報復されるかもしれない」という、至極真っ当な『恐怖』を思い出したからである。

 安全圏などどこにもない。言葉のナイフで相手を刺せば、本物の拳が飛んでくる。その当たり前の事実が、逆説的に人々の間に「他者への想像力」と「健全な敬意」を強制的に植え付けたのだ。結果として、日本はかつてないほど礼儀正しく、思いやりに溢れた(そして少しだけ緊張感のある)平和な社会へと変貌を遂げていた。


 初夏の陽気が心地よい昼下がり。

 活気を取り戻した古い商店街を、サンダル履きの雷蔵がペタペタと歩いていた。すれ違う人々は皆、雷蔵の姿を見るとサッと道を譲り、深く、そして敬意を込めてお辞儀をしていく。


「おう、やってるか」

 雷蔵が暖簾をくぐったのは、大衆食堂『まるや』だ。

「いらっしゃい、雷蔵ちゃん! 今日も特等席、空けてるわよ!」

 女将が満面の笑みでお茶を出しながら迎える。店内は常連客で賑わっていたが、かつてのように理不尽な文句を言う客は一人もいない。皆、出された飯を美味そうに、行儀良く食べている。


「いつものカツ丼、肉特大盛りで頼むわ」

「はいよ! お父さん、雷蔵ちゃんに特大カツ丼一丁!」

「ガッテン承知! いやぁ、しかし雷蔵ちゃんのおかげで、世の中ずいぶんと風通しが良くなったよ。変な輩もすっかりいなくなって、商売がしやすくて助かってるぜ!」


 奥の厨房から、カツを揚げる心地よい音と共に大将の威勢のいい声が響く。女将も「本当ねえ」とニコニコ笑っている。

 雷蔵は湯呑みの茶を啜りながら「ふん」と鼻を鳴らした。


「俺は別に、世直しなんて大層なことをした覚えはねえよ。ただ、筋の通らねぇことと、他人に迷惑をかけるガキの尻を叩いただけだ」

「ふふっ、雷蔵ちゃんらしいわね。はい、お待ちどうさま!」


 揚げたての分厚いトンカツを甘辛いタレと卵でとじた、特大盛りのカツ丼。

 雷蔵はそれを豪快に掻き込み、満足げに腹をさすって店を出た。


 自宅の古い木造平屋に戻ると、庭のプラスチック水槽でメダカたちが気持ちよさそうに泳いでいる。雷蔵は「ほらよ」とパラパラ餌を撒き、縁側に腰を下ろした。


 そよ風が風鈴をチリンと鳴らし、木漏れ日が庭先を優しく照らしている。

 国家権力を屈服させ、法律を変え、日本社会の歪みを物理で正した「歩く自然災害」にして「現代の英雄」。しかし、当の本人にはそんな自覚など微塵もない。


「……あぁ、気持ちいい天気だ」


 雷蔵は「よっこいしょ」と寝転がり、腕枕をして大きく欠伸をした。

 自分にちょっかいを出してくる鬱陶しい連中はいなくなり、飯の邪魔をされることもない。筋の通らない理不尽は、自分の拳一つで叩き直せる。


「……平和が一番だな」


 ポツリと呟いた言葉は、初夏の穏やかな風に溶けていった。

 タガの外れた規格外の老人は、世界で一番平和で、誰にも邪魔されない最高の昼寝へと、ゆっくりと意識を沈めていった。


(完)

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