第3章:国家権力との知恵比べ(後編)
5:標的にされた商店街
永田町の執務室で、大物政治家は忌々しげに爪を噛んでいた。
機動隊のゴム弾もスタンガンも通用せず、あまつさえ留置所の鉄格子を素手で曲げて帰宅した規格外の老人。これ以上、警察の物理的な武力で彼を屈服させることは不可能だと悟った権力者は、極めて陰湿で現代的な次の一手を打った。
「あの老いぼれ本人が頑丈なら、周囲の人間を徹底的に痛めつけろ。奴に『自分のせいで他人が不幸になっている』と思い知らせてやるんだ」
政治家が新たな標的として選んだのは、雷蔵が日頃から世話になっている大衆食堂『まるや』と、純喫茶『紫苑』が軒を連ねる古い商店街だった。
翌朝。
商店街へと続く片側二車線の大通りは、耳をつんざくようなクラクションの音と排気ガスの熱気、そして怒号が飛び交う地獄のような有様と化していた。朝の通勤・搬入ラッシュの時間帯だというのに、車列は完全にストップし、数キロにわたる大渋滞を引き起こしている。
原因は、道路のど真ん中に横一列になって座り込んでいる、数十人の集団だった。
彼らは大物政治家が裏金で雇い入れた、プロの「活動家」たちである。
彼らの手には
『暴力ジジイを匿う悪徳商店街を許すな!』
『私たちは非暴力を貫きます!』
と書かれたプラカードが掲げられていた。
「非暴力」という現代社会において最も強固な大義名分を盾にした、極めて悪質な業務妨害である。駆けつけた所轄の警察官たちも「平和的な抗議活動」という建前と、上層部からの見えない圧力の板挟みになり、手出しができずにただ遠巻きに見守るしかなかった。
商店街への物流は完全に麻痺した。
座り込んでいる活動家たちは、怒り狂って車から降りてきたドライバーたちに向かって、ヘラヘラと笑いながら一斉にスマートフォンのカメラを向けた。
「暴力反対! 私たちに指一本でも触れたら傷害罪で訴えますよ!」
「ネットで顔を晒されたくなかったら、大人しく車に戻りなさーい!」
自分たちは絶対に安全な場所にいるという驕り。法と権利を悪用し、相手が手を出せないと分かった上で殴りつける、反吐が出るような「態度と言葉の暴力」だった。
善良な市民たちの平穏な日常が、権力者の姑息な嫌がらせによって、なす術もなくじわじわと真綿で首を絞めるように破壊されていく。
だが、彼らは致命的な計算違いをしていた。
自分たちが嫌がらせの標的にしている男が、「他人に迷惑をかける輩」をこの世で最も毛嫌いしている、タガの外れた化け物であるということに。
6:警告
日課である乾布摩擦とメダカへの餌やりを終え、いつものように朝の散歩へと出かけた雷蔵は、商店街へ続く大通りの異様な光景に眉をひそめた。
プァァァァァンッ!!
ビーーーッ!!
苛立ったドライバーたちが鳴らす無数のクラクションが、朝の空気をけたたましく震わせている。排気ガスの熱気が立ち込め、何十台ものトラックや乗用車が数キロにわたって数珠繋ぎになり、完全に立ち往生していた。
その先頭、大通りの横断歩道のど真ん中で、数十人の男女が横一列に座り込み、道路を完全に封鎖しているのだ。彼らは『暴力ジジイを匿う商店街を許すな!』『私たちは非暴力を貫きます!』と書かれたプラカードを掲げ、拡声器でシュプレヒコールを上げていた。
定食屋『まるや』の大将や、喫茶店『紫苑』のマスターも、遠巻きに困惑した顔でその惨状を見つめている。商店街への搬入トラックが止められ、彼らの生活と仕事が人質に取られていた。
雷蔵はため息をつき、首の骨をボキリと鳴らして、座り込む活動家たちの列へと真っ直ぐに歩み寄った。
「……おい、お前ら」
地を這うような低い声に、拡声器の音がピタリと止んだ。
活動家たちが一斉に雷蔵へと顔を向ける。ネットで「凶悪テロリスト」として顔写真が拡散されている男本人の登場に、彼らは一瞬息を呑んだが、すぐにニヤァと歪んだ笑みを浮かべた。彼らの背後には「非暴力」という絶対的な大義名分と、自分たちを守るスマートフォンのカメラがあるからだ。
「出たわね、社会のゴミ! 暴力ジジイ!」
集団の中心にいた、派手な色のジャンパーを着たリーダー格の女が、雷蔵を指差して金切り声を上げた。
「私たちは平和的な抗議活動をしているの! あなたみたいな野蛮な老害に、この商店街を歩く資格なんてないわ!」
「そうだそうだ! さっさと警察に出頭しろテロリスト!」
「ジジイ!俺たちに触ったら傷害罪だぞ! 」
口々に罵声を浴びせながら、活動家たちは一斉にスマホを掲げる。非暴力を謳いながら、その口から飛び出すのは相手の人格を徹底的に否定する鋭利な「言葉の暴力」ばかりだ。自分たちは絶対に殴られないという安全圏からの、陰湿な石投げ。
だが、雷蔵の目は一切の感情を排したように冷え切っていた。
彼が何よりも嫌うのは、弱い者いじめと「筋の通らないこと」。そして――「人様に迷惑をかけること」だ。
「……御託はどうでもいい。人様に迷惑かけんじゃねえ」
雷蔵は、大渋滞を引き起こしているトラックの列を指差した。
「朝から働いてる運転手たちや、商店街の連中が困ってんだろ。抗議だか何だか知らねえが、道を開けろ」
一応の警告だった。しかし、活動家たちは鼻で笑うだけだ。
「知るか! これも社会を良くするための痛みなのよ!」
「暴力ジジイは黙ってろ!」
「……そうか。なら、手伝ってやるよ」
雷蔵はふうと息を吐くと、一番近くでプラカードを掲げていた男の首根っことベルトを、軍手をはめたままの両手で無造作にガシッと掴んだ。
「えっ……? うおわぁぁっ!?」
次の瞬間、体重七十キロはあろうかという成人男性の体が、まるで空っぽの段ボール箱か、大根でも引っこ抜くかのように軽々と宙に浮いた。
「よっこいしょ」
ドサァッ!!
雷蔵は男を道路の端の歩道めがけて、放り投げた。
続けて二人目、三人目。雷蔵は次々と活動家たちの襟首やベルトを掴み上げると、まるで工場のベルトコンベアの仕分け作業でもするように、リズミカルに、そして圧倒的な腕力で次々と彼らを歩道へと放り投げていく。
「きゃあああっ!?」
「な、何すんだっ!」
雷蔵の規格外のパワーの前に、活動家たちは抵抗する間も無く、ただの荷物のように次々と排除されていく。数分もしないうちに、道路を塞いでいた横列は完全に崩壊し、トラックの運転手たちが歓声を上げてエンジンを吹かした。
だが、その状況に激昂した者が一人いた。
一度歩道に放り投げられた、リーダー格の女だ。彼女は顔を真っ赤にして怒り狂い、再び道路のど真ん中へと駆け戻ってきた。
「ふざけんじゃないわよ!このクソジジイ!!」
女は雷蔵の足元に、ペッ! と汚い唾を吐き捨てた。
そして、ふんぞり返るようにして再びアスファルトの上にどっかりと座り込み、両腕を組んで雷蔵をキッと睨みつけた。
「退かないわよ! 私は絶対に退かない! ええ、やれるもんならやってみなさいよ!」
女は自分の「性別」という最強の盾をこれ見よがしに掲げ、カメラを回す仲間たちに向かってアピールした。
「私は非武装の『女』よ! 女の私に暴力を振るう気!? いいわよ、殴りなさい! 女を殴った最低のクズとして、全国のフェミニストと人権団体があなたを社会的に抹殺してくれるわ!!」
絶対的な安全圏からの、最悪の挑発。
男である以上、そして相手が女である以上、絶対に手を出せないはずだという確信が、女の顔に歪んだ優越感を浮かび上がらせていた。
雷蔵は、足元に吐き捨てられた唾を無言で見つめ、それから女の顔を見下ろした。
「……二度目の警告だ。そこを退け」
「退かないって言ってるでしょ! ほら、手を出してみなさいよ弱虫ジジイ!」
次の瞬間。
雷蔵は無言のまま片手を伸ばし、座り込んでいる女の襟首を掴むと、ひょいっと片手で持ち上げた。
「きゃっ!?」
そして、女の体を横向きにすると、そのまま自分の左脇の下に、まるで丸めた絨毯でも抱えるようにしてガッチリと挟み込んだのだ。
「な、ななな、何すんのよ! セクハラ! 痴漢! 」
両手両足をバタバタとさせて暴れる女。だが、雷蔵の機械のような腕力にホールドされ、1ミリも抜け出すことはできない。
雷蔵は右手を振り上げた。
「女だろうが何だろうが、人様に迷惑をかけて唾を吐くようなガキには……『躾』が必要だな」
パァァァァンッ!!
朝の大通りに、恐ろしくいい音が鳴り響いた。
雷蔵の平手打ちが、脇に抱え込んだ女の尻に、容赦なく、そして的確に叩き込まれたのだ。
「あぎゃっ!?」
女がカエルのように無様な悲鳴を上げる。
顔面を殴るなどの危険な暴力ではない。これは純然たる、昔ながらの「雷親父のお仕置き」であった。だが、雷蔵の腕力で放たれたそれは、分厚いデニム生地越しであっても、飛び上がるほどの痛みを伴う。
「痛っ! いだだだっ! や、やめっ……」
「謝るまで続けるぞ」
パァンッ!! パァンッ!!
「ぎゃああっ! 痛い! 痛い痛い痛い!!」
「運転手さんたちに謝れ」
パァァンッ!!
「ご、ごめんなさァァァいっ!! ど、道路塞いでごめんなさァァァい!! もうしません、もうしませんから許してェェェェッ!!」
女のプライドも、非暴力の盾も、性別の壁も、容赦のない「尻叩き」の前に木端微塵に砕け散った。涙と鼻水を流し、子供のように大声で泣き叫びながら謝罪する女リーダー。周囲でスマホを構えていた活動家たちも、そのあまりにもシュールで、しかし絶対的な力の差を見せつけられ、青ざめるしかなかった。
雷蔵は「よし」と短く呟くと、泣きじゃくる女を歩道にそっと下ろした。
大渋滞を引き起こしていた悪意のバリケードは、タガの外れた老人の「お仕置き」によって、ものの数分で完全に撤去されたのである。
7:物理的「特定」作業
先ほどまで「非暴力」を声高に叫び、スマートフォンを構えて絶対的な安全圏から雷蔵を煽っていた活動家たちは、今や歩道の端っこで身を寄せ合い、ガタガタと震えている。
彼らのリーダー格である派手なジャンパーの女は、雷蔵の容赦のない「尻叩きの刑」によって完全にプライドを粉砕され、アスファルトの上にうずくまったまま、子供のようにヒックヒックとしゃくり上げていた。ジンジンと熱を持って腫れ上がった尻の痛みが、現代社会で忘れ去られていた「生身の暴力の恐ろしさ」を彼女の脳髄に深く刻み込んでいたのだ。
雷蔵は、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにした女を見下ろし、低く凄みのある声で問い詰めた。
「……さて。渋滞の片付けは終わったが、まだ聞きたいことがある」
「ひっ……! ゆ、許してッ!」
雷蔵が一歩近づいただけで、女は両手で頭を抱え、亀のように丸まって悲鳴を上げた。もはや、フェミニズムも人権も、彼女の口から飛び出すことはない。
「お前ら、この辺のモンじゃねえな。どこの誰に頼まれて、こんな嫌がらせをやりに来た」
「そ、それは……私たち、ネットの掲示板で集まった有志で……社会正義のために……」
女は震える声で建前を並べようとした。しかし、雷蔵はその言葉を最後まで聞かず、ゆっくりと右手の軍手を外し、掌を女の顔の前にかざした。
「そうか。じゃあ、もう一回『躾』のやり直しだな」
「い、言いますゥゥゥッ!!」
再びあの理不尽な痛みを味わう恐怖に耐えきれず、女は地面に額をこすりつけるようにして、あっさりと裏の事情をゲロし始めた。ネットの「特定班」が血眼になってデジタルタトゥーを掘り返すのとは対極にある、恐怖と物理による超アナログな「特定」作業である。
「う、裏の元請けから……日当五万円で雇われたんです……! この商店街の前に座り込んで、嫌がらせをしてこいって……!」
「元請けの、そのまた上は誰だ」
「わ、わかりません! でも、界隈の噂じゃ、与党の『黒田先生』の事務所から金が出てるって……! あの、昨日あなたがぶっ飛ばしたYouTuberのハルキ、あいつの父親の……っ!」
黒田。現役の大物政治家。
雷蔵の脳内で、バラバラだったパズルのピースがカチリと音を立てて繋がった。
警察の機動隊やSITという国家権力を私物化して差し向けてきたのも、そして今朝、自分に世話を焼いてくれる善良な商店街の連中を標的にして嫌がらせを仕掛けてきたのも、すべては「息子の喧嘩の仕返し」という、あまりにも下劣でちっぽけな親バカの意地だったのだ。
雷蔵はため息をつき、忌々しそうに頭を掻いた。
「……安全な場所に隠れて、コソコソと裏から人を操って小細工ばかりしやがって」
雷蔵が何よりも嫌うのは、面と向かって文句を言わず、権力や群衆という「盾」の陰から石を投げてくる卑怯者だ。
「おい、その黒田って狸親父は今どこにいる。永田町か?」
雷蔵が凄むと、活動家の男の一人が、震える手で自分のスマートフォンを差し出した。
「あ、あの……黒田議員なら……今日の昼、テレビに出るみたいです……」
雷蔵がその画面を覗き込むと、そこには大手キー局のニュースアプリの速報が表示されていた。
『本日ひる12時~ 看板ニュース番組「報道LIVE」にて、黒田議員が緊急生出演! 凶悪テロリスト(雷蔵容疑者)への非難声明と、被害に遭った息子への想いを独占告白!』
雷蔵は、その見出しを見て鼻で笑った。
「……なるほどな。自分が裏で手を引いておきながら、テレビの電波を使って悲劇のヒーロー気取りか。とことん腐ってやがる」
テレビ局の生放送スタジオ。
そこは、何百万人という視聴者が見つめる密室であり、権力者にとってはこの上なく都合の良い「究極の安全圏」だ。自分に都合の良い台本を用意し、同調するコメンテーターで脇を固め、電波という最強の「言葉の暴力」を一方的に垂れ流すことができる要塞。
雷蔵はスマートフォンを男に投げ返すと、腕時計に目をやった。
時刻は午前十時。昼の生放送までは、まだたっぷりと時間がある。テレビ局のある都心の港区までは、ここから電車を乗り継いでも一時間もかからない。
「ちょうどいい」
雷蔵は軍手をポケットに突っ込み、首の骨を左右にゴキゴキと鳴らした。その瞳の奥には、警察署を抜け出した時のような穏やかさはなく、明確な「怒り」の炎が静かに、しかし激しく燃え上がっていた。
「テレビ局か。電波の向こうの安全な場所でふんぞり返ってるなら、俺が直接出向いて、そのふざけたツラにまとめて説教してやる」
国家の敵として全国指名手配され、ネットで何百万人から「凶悪テロリスト」と罵られている男。
しかし雷蔵は、逃げも隠れもしない。変装すら一切せず、いつもの草臥れた作業着にサンダルという出立ちのまま、彼は最寄り駅へと向かって真っ直ぐに歩き出した。
大渋滞から解放されたトラックの運転手たちが、畏敬の念を込めて彼に向かって短くクラクションを鳴らす。
向かう先は、日本で最も言葉の暴力に守られた強固な要塞――キー局の生放送スタジオ。
タガの外れた規格外の老人が、究極の「安全圏」を物理で粉砕するための、前代未聞のテレビ局カチコミが始まろうとしていた。
8:通過駅の指導
テレビ局を目指し、雷蔵は都心へ向かう電車に揺られていた。
昼前の車内はそこそこ混雑していたが、ある一角だけ、空白地帯ができていた。
ズン、ズン、ズン……。
腹に響くような重低音。その空白の中心に、座席を三つ分占領してふんぞり返る一人の男がいた。タンクトップからは和彫りの入れ墨が覗き、足元の巨大なポータブルスピーカーから大音量の音楽を撒き散らしている。元格闘家崩れといった風貌の威圧感に、誰も注意できない。
だが、雷蔵はそんな空気などお構いなしに歩み寄った。
「……おい。うるせえ、音を止めろ」
「あァ? なんだテメェ。殺すぞジジイ」
男が獰猛に笑い、立ち上がりざまにプロの踏み込みで右フックを放つ。一般人なら昏倒する一撃。だが、雷蔵はそれを避ける素振りすら見せず、男の拳が届くより早く、右の平手を顔面に叩き込んだ。
バァァンッ!という破裂音と共に、男の巨体が紙屑のように吹き飛び、連結部のドアに激突して白目を剥いた。雷蔵は足元のスピーカーを踏み砕き、何事もなかったように吊革に掴まった。
やがて電車がターミナル駅に到着する。
乗り換え先の電車に乗り込もうとした雷蔵だったが、開いたドアの真正面に、スマートフォンから目を離さず、微動だにしない若い男が陣取っていた。降りようとする乗客たちが舌打ちしながら横をすり抜けているが、男は全く意に介していない。
「邪魔だ」
雷蔵は短く吐き捨てると、男の胸ぐらをつかみ容赦なく後ろのホームに投げ飛ばした。「あべッ」と無様な悲鳴を上げ、男はホームの床を派手に転がっていく。
さらに駅の構内を歩いていると、コンコースのど真ん中に三脚を立てて、通行人の邪魔になりながら踊ってライブ配信をしている迷惑な若者がいた。雷蔵は無言で歩み寄ると、三脚ごとスマートフォンをむんずと掴み、万力のような握力でバキバキと粉砕して近くのゴミ箱へ放り投げた。若者が「俺の携帯が!」と泣き叫ぶのを背に、雷蔵は改札を抜ける。
腹ごしらえに入った駅前の牛丼屋でも、雷蔵の「指導」は止まらなかった。
カウンターの奥で、提供が遅いと理不尽なクレームをつけ、店員を大声で怒鳴り散らしている中年男がいた。典型的なカスタマーハラスメントだ。雷蔵は注文した牛丼大盛りを片手に男の背後に立つと、「飯が不味くなるだろ!」と一喝し、頭頂部に強烈なゲンコツを落とした。男はカエルのように潰れてカウンターに突っ伏し、店内に平和な静寂が戻った。
牛丼を平らげ、テレビ局へ向かう大通りを歩いていた時のことだ。
人気の飲食店の前で、大行列に堂々と横入りをした中国人女性が、並んでいた客に注意されて猛烈な勢いで逆ギレしていた。自分がルールを破ったにも関わらず「差別だ! 日本人の差別だ!」と大声を上げて騒ぎ立て、周囲を威圧している。
雷蔵は一切の問答を挟まなかった。親猫が子猫を運ぶように、女性の首根っこを片手で摘み上げると、ジタバタと暴れてわめく彼女を提げたまま歩き出し、列の最後尾まで運んでポイと下ろした。唖然とする女性を放置し、雷蔵は再び歩き出す。
極め付けは、テレビ局のすぐ近くで立ち寄ったコンビニでの出来事だった。
店内では、高校生の集団が売り物の商品を投げ合ってふざけ、我が物顔で迷惑行為を繰り広げていた。
「ガキ共、他所でやれ」
雷蔵が注意すると、彼らは「あ? 老害が調子乗ってんじゃねえぞ」と一斉に凄んできた。雷蔵はため息をつき、無造作に腕を振るって次々とゲンコツを落とし、一人残らず床に沈めていく。
「死ねジジイ!!」
仲間がやられたことに逆上した最後の一人が、ポケットから折りたたみナイフを取り出し、雷蔵の脇腹めがけて全力で突き刺した。
ガツッ、と鈍い音が響く。
ナイフの刃先は雷蔵の着古した作業着を突き破った。しかし、その下にある、長年の非暴力の誓いによって極限まで圧縮・硬質化した『筋肉の鎧』にはミリ単位すら食い込まず、雷蔵の皮膚には傷一つついていなかった。
「……あぶねえなぁ」
雷蔵はチッと舌打ちをした。
そして、恐怖で顔を引きつらせている高校生の手からナイフを奪い取ると、親指と人差し指の力だけで、鋼鉄の刃をグニャリ、グニャリと丸め、まるでロールケーキのような不格好な金属の塊に変えてしまった。
「刃物は危ねえから、没収だ」
丸まったナイフの残骸を足元に落とし、腰を抜かして失禁する高校生を放置して、雷蔵はミネラルウォーターの代金をレジに置いて店を出た。
警察も法律も手が出せない、日常に蔓延る悪意や迷惑行為たち。雷蔵はそれらを、歩くついでにゴミでも拾うかのように物理で「指導」しながら、港区の巨大なテレビ局社屋の前へと到着した。
時刻は午前十一時半。
ガラス張りの巨大なビルのエントランス周辺は、雷蔵の襲来を警戒して、数十人の警備員と警察官が配備され、物々しい雰囲気に包まれていた。
だが、雷蔵は足取りを一切緩めない。彼の視線の先にあるのは、この巨大なビルのどこかにある、安全な場所から嘘を垂れ流している元凶の政治家がいるスタジオだけだ。
「……さて、親玉の説教といくか」
雷蔵は首をゴキリと鳴らし、厳重な警備網が敷かれた正面玄関へと、堂々と足を踏み入れていった。
9:究極の「安全圏」と、生放送ジャック(物理)
正午。
日本全国のお茶の間に電波を届けるキー局の看板ニュース番組『報道LIVE』が、物々しいテロップと共にスタートした。
『緊急生出演! 黒田議員が語る、凶悪テロリストの脅威と被害への悲痛な想い』
眩い照明に照らされた生放送のスタジオ。その中央に鎮座する与党の大物政治家・黒田は、カメラの向こう側にいる数千万人の国民に向かって、ハンカチで目頭を押さえながら芝居がかった声を震わせていた。
「……私の息子も、あの凶悪なテロリストの被害に遭いました。今は病院のベッドで、恐怖に震えながら治療を受けております」
真っ赤な嘘だった。ドラ息子のハルキは単に雷蔵のビンタ一発で気絶し、己の失禁の恥ずかしさから自宅に引きこもっているだけだ。だが、黒田にとって真実などどうでもいい。大切なのは「自分が被害者の父である」という同情を引き、敵対者を社会から完全に抹殺することだ。
「皆様、聞いてください。あの老人は、単なる暴漢ではありません。平和な法治国家を根底から破壊しようとする、明確な『社会の敵』なのです! 警察の制止を振り切り、善良な市民を無差別に襲っているとの報告も受けております!」
黒田の熱弁に、スタジオのコメンテーターたちも深く頷き、神妙な顔つきで同調する。
「許せませんね。厳罰に処すべきです」
「法治国家への挑戦ですよ。黒田先生、どうか負けないでください」
テレビカメラのレンズの向こう側には、誰も自分に直接反論できない、顔のない群衆だけがいる。自分に都合の良い台本を用意し、権威ある有識者たちで周りを固め、一方的に相手を悪魔化する電波を垂れ流す。これこそが、現代社会において最も強固で、最も陰湿な「言葉の暴力」に守られた『究極の安全圏』であった。
黒田はカメラを真っ直ぐに見据え、悲劇のヒーローとしてのクライマックスのセリフを口にした。
「私は、いかなる暴力にも屈しない! 国民の皆様の安全を守るため、我が身を挺してこのテロリズムと戦い抜く覚悟です!」
――だが、その「究極の安全圏」の足元は、すでに物理的に崩壊し始めていた。
* * *
数分前。テレビ局のエントランス。
大物政治家の生放送警備のために配備されていた数十人の精鋭SP(要人警護班)と屈強な警備員たちは、正面から堂々と歩いてきた草臥れた作業着の老人を前に、完全に戦意を喪失していた。
「と、止まれ! ここから先は関係者以外……ッ!」
立ち塞がろうとしたSPたちの列に向かって、雷蔵は歩みを一切緩めずに言い放った。
「どいてろ」
雷蔵は、エントランスを塞ぐようにロックされていた分厚い防犯用強化ガラスの自動ドアに、無造作に右手を押し当てた。
ガンッ!! という鈍い衝撃音と共に、ハンマーで叩いても割れないはずの分厚い強化ガラスが、蜘蛛の巣状にひび割れ、次の瞬間、バシャァァァンッ!! と粉々に砕け散ったのだ。
「ひぃぃっ!?」
降り注ぐガラスの雨の中を、雷蔵は顔色一つ変えずに突破していく。
要人警護のプロであるSPが慌てて飛びかかり、特殊警棒で雷蔵の肩を全力で叩くが、ゴツンと鈍い音を立てて弾き返されるだけ。スタンガンを押し当てられても「チッ、鬱陶しいな」と舌打ちをして相手の襟首を掴んでポイと壁際へ放り投げる。
武術の達人であるSPたちの壁も、このタガの外れた化け物の前では、文字通り「風に舞う木の葉」程度の障害にしかならなかった。
雷蔵は、テレビ局の案内板をチラリと一瞥し、目的のスタジオがあるフロアへと一直線に進んでいく。警報ベルが鳴り響く局内を、サンダルの音を響かせながら、ただひたすらに「説教」のターゲットの元へと歩を進めていた。
* * *
再び、生放送中のスタジオ。
黒田議員の感動的なスピーチは、まさに大団円を迎えようとしていた。
「……どうか国民の皆様、私に力を貸してください。社会の敵であるあの老人を許してはな——」
ドゴォォォォォンッ!!!!!
スタジオ内に、爆弾が直撃したかのような凄まじい轟音が響き渡った。
生放送のカメラが激しく揺れ、コメンテーターたちが悲鳴を上げて椅子から転げ落ちる。黒田が驚愕して目を向けると、絶対に外部の音を通さないはずの分厚い鋼鉄製の防音扉が、蝶番ごと完全にへし折られ、スタジオの内側へと数メートルも吹き飛んできて、機材の山に激突していた。
「な、なんだ!? テロか!?」
黒田が腰を抜かして叫ぶ。赤い『ON AIR』のランプはまだ点灯したままだ。全国数千万人の視聴者が、この異常事態をリアルタイムで目撃している。
吹き飛んだ扉の向こう側。もうもうと舞い上がる白い砂埃の中から、一人の男がゆっくりと姿を現した。
顔に傷もない、中肉中背のごく普通の初老の男。着古した作業着に、サンダル履き。しかし、その全身から立ち昇る怒気と暴力の気配は、画面越しにすら日本中の視聴者を震え上がらせるほどの圧倒的なプレッシャーを放っていた。
「ひっ……お、お前は……雷蔵……ッ!?」
黒田の顔面から、一瞬にして血の気が引いた。なぜここにいる。どうやって、あれほど厳重に配備した精鋭のSPと警備員の壁を抜けてきたというのか。
全国ネットのカメラが、砂埃の中から現れた雷蔵の姿を真正面から捉える。
雷蔵は、テレビカメラの存在など一切気にする素振りも見せず、腰を抜かして床に這いつくばる大物政治家・黒田を見下ろしながら、ゆっくりと首の骨をゴキリと鳴らした。
「……御託は済んだか、クソガキ」
地を這うような、恐ろしく冷たい声。
電波という究極の安全圏に隠れ、他人に迷惑をかけ続けてきた悪辣な権力者の前に、一切のルールも忖度も通用しない『純度百パーセントの物理』が、ついにその牙を剥いたのだった。




