第3章:国家権力との知恵比べ(前編)
1:カツ丼への期待
ジュラルミンの盾が紙クズのように握り潰された凄惨な音響が、夕闇の住宅街に木霊した。
「ひ、ひぃぃっ……!」
最前列で盾を構えていた機動隊員が、ついに恐怖に耐えきれず尻餅をついた。後方に控えていた特殊部隊(SIT)の隊員たちも、構えていたライフルの銃口を下ろし、無意識のうちにジリジリと後ずさりしていく。
ゴム弾もテーザー銃も全く通じず、暴徒鎮圧用の絶対的な盾すら素手で粉砕する男。もはや現代の治安維持機構が持ちうる「制圧手段」は、すべて底を突いていた。指揮官すら声が出せず、ただ顔面を蒼白にして震えている。
数十人の完全武装した部隊が、サンダル履きで空腹に苛立つ一人の老人の前に、完全に戦意を喪失していた。
「……チッ」
雷蔵は舌打ちをし、クシャクシャになった盾の残骸を無造作に放り捨てた。
すっかり冷え切ってしまった晩飯への情熱。今から家に戻ってフライパンを熱し、豚肉を焼く気力すら、この無駄な騒ぎのせいで削がれてしまっていた。腹の虫が「グゥゥ……」と低く、しかし自己主張の強い音を鳴らす。
(飯を作るのも面倒になっちまったな……。どっかで食うか……ん?)
ふと、雷蔵の脳裏に、昔母と一緒によく見ていた昭和の刑事ドラマのワンシーンが閃いた。
薄暗い取調室。裸電球。そして、人情味あふれる刑事が容疑者の前にそっと差し出す、湯気を立てる出前の一品――。
(そうだ。警察の世話になれば、タダで『カツ丼』が食えるんだったな)
昭和のフィクションと現実の区別など、タガが外れ、かつ空腹で思考が単純化している今の雷蔵にはどうでもよかった。「タダで美味い飯が食える」というその一点だけで十分だ。
雷蔵はふうと息を吐き出すと、怯えきっている指揮官に向かって、ズイッと両手首を突き出した。
「……え?」
「腹が減って動けねえ。署に行けば、飯を食わせてくれるんだろ?」
「は……?」
「だから、連れて行けって言ってんだよ。タダでカツ丼食わせるなら、大人しく同行してやる」
唖然とする機動隊員たち。
凶悪な武装テロリストとして大掛かりな包囲網を敷いた相手が、自ら「カツ丼目当て」で両手を差し出しているのだ。あまりにもシュールで緊張感のない要求に、現場の空気は完全にフリーズした。
「な、何をしている! 相手が両手を出しているんだ、早く手錠をかけろ!!」
指揮官の裏返った怒声に弾かれ、若い隊員がビクビクと近づき、雷蔵の手首に震える手でガチャリと手錠をかけた。
「おら、早くパトカーに乗せろ。特上のカツ丼じゃねえと暴れるからな」
機動隊員たちは、互いに顔を見合わせ、完全に困惑しながらも、自らパトカーの後部座席へと乗り込んでいく「規格外の老人」を、ただ呆然と見送るしかなかった。かくして、前代未聞の「凶悪テロリスト逮捕劇」は、あっけないほど平和的に幕を閉じたのである。
2:取調室の攻防とメダカの餌
〇〇警察署の取調室。
窓のない殺風景な部屋の中央には、分厚いスチール製の机が置かれ、その上を天井の無機質な蛍光灯が白々と照らし出している。
「……おい、聞いてるのか。お前がやったことは、国家に対する重大なテロ行為として処理されるんだぞ」
机を挟んで雷蔵の向かいに座るベテラン刑事が、低いドスを効かせた声で威圧的に尋問を始めていた。彼は上層部――すなわち大物政治家からの強烈な圧力を受けており、なんとしても目の前の男から「政治家の御子息を狙った計画的犯行」という自白を引き出さねばならなかった。
しかし、パイプ椅子にどっかりと腰を下ろし、両手に手錠をかけられたままの雷蔵は、刑事の言葉など右から左へと聞き流していた。彼の意識は、ただひたすらに自分の空腹へと向かっている。
「……で、カツ丼はまだか」
「は……?」
「俺はタダでカツ丼が食えると思ったから、わざわざ大人しくパトカーに乗ってやったんだ。出前が来るまで、御託は聞かねえぞ」
雷蔵は苛立たしげに腹を鳴らした。
政治家の思惑や国家規模のテロリスト扱いなど、雷蔵にとっては「腹の足しにもならない無駄話」でしかない。そのあまりにもマイペースで緊張感の欠片もない態度に、ベテラン刑事の堪忍袋の緒が切れた。
「ふざけるな!! ここは食堂じゃないんだ!!」
バンッ!!
刑事が立ち上がり、怒りと共に両手で力任せにスチール机を叩きつけた。部屋全体に大きな金属音が響き渡り、ドアの向こうで待機していた若い警官がビクッと肩を震わせるほどの剣幕だった。並の容疑者であれば、この一喝で完全に萎縮してしまうだろう。
だが、雷蔵は眉一つ動かさなかった。
むしろ、空腹で苛立っている時に耳元で大きな音を立てられたことで、不機嫌さがさらに一段階引き上げられた。
「……うるせえな。飯の前に、デカい音立てんじゃねえよ」
雷蔵は手錠で繋がれた両手を軽く持ち上げ、刑事への「注意」として、ポン、と無造作にスチール机の天板を叩き返した。
本当に、ただ軽く叩いただけだ。
ドゴォォォォンッ……!!
その瞬間、刑事の目の前で信じがたい現象が起きた。
雷蔵の手が触れた天板の中心部から、分厚い鋼鉄がまるで柔らかい粘土のようにメキャリとひしゃげたかと思うと、頑丈なはずのスチール机が中央から「く」の字に折れ曲がり、真っ二つにへし折れて床に崩れ落ちたのだ。
書類やペンがバラバラと散乱し、真っ二つになった机の残骸が、くぐもった重い音を立てて沈黙した。
「え……?」
振り上げた両手を宙に浮かせたまま、ベテラン刑事は声を出せずに固まった。
ただ軽く叩いただけで、数十キロの重量があるスチール机が粉砕された。もしあの手が、机ではなく自分の頭に向かっていたら……。人間の形をした規格外のバケモノと、自分は密室に二人きりで閉じ込められている。その圧倒的な事実を細胞レベルで理解した瞬間、刑事の背筋を冷や水のような悪寒が駆け下りた。
威圧的な態度は一瞬にして霧散した。
刑事はゆっくりと、震える手で内線電話の受話器を取り上げ、顔面を蒼白にしながらポツリと部下に命じた。
「……特上のカツ丼。大至急、出前で頼む。……いや、自腹でいいから、一番美味いやつだ」
* * *
それから三十分後。
出前で届いた特上カツ丼を、文字通り「瞬殺」で平らげた雷蔵は、満足げに腹をさすりながら、署の地下にある留置所の檻へと入れられていた。
本来ならば厳しい取り調べが続くはずだが、机を粉砕された刑事たちが恐れをなして誰も近づけず、とりあえず「腹一杯になって大人しくしているうちに」と檻へ押し込んだのである。
鉄格子に囲まれた冷たいコンクリートの部屋。
雷蔵は備え付けの毛布の上にゴロリと横になり、天井のシミを眺めていた。腹が満たされたことで苛立ちも治まり、このままここで一晩寝ていくのも悪くないと考え始めていた。
だが、ふと廊下の壁掛け時計を見た雷蔵は、ガバッと上体を起こした。
時刻は午後八時を回ろうとしている。
「あ、いけねえ。もうこんな時間じゃねえか」
雷蔵は毛布を放り出し、立ち上がった。
「家の庭のメダカに、晩飯の餌やらなきゃならん」
雷蔵にとって、日課であるメダカの餌やりは、警察に捕まっていることよりも遥かに重要な「絶対のルーティン」だった。タガが外れたとはいえ、彼のアナログで平和な生活リズムを崩すことだけは、何人たりとも許されないのだ。
雷蔵が真っ直ぐに鉄格子へと歩み寄るのを見て、見張りに立っていた若い看守が慌てて警棒に手をかけた。
「お、おい! どこへ行く気だ! ここは留置所だぞ、大人しく寝ていろ!」
「悪いな、ちょっとメダカの世話してくるわ」
雷蔵は全く悪びれる様子もなくそう言うと、看守の制止も聞かず、目の前にある分厚い鉄格子を両手でガシッと掴んだ。
太さ数センチの純鋼鉄製の丸棒。象が体当たりしても決して曲がらない、国家権力の「檻」そのもの。
「ふんっ」
雷蔵が短く息を吐き、両腕にグッと力を込める。
ギリリリリッ……!!
金属が千切れるような凄まじい軋み音が留置所に響き渡った。
「なっ……!?」
看守の目の前で、絶対に曲がるはずのない鉄格子が、まるで熱した飴細工のように、いともたやすく左右に「ぐにゃり」とひん曲がっていった。雷蔵が両手を離すと、そこには大人の男が悠々と通り抜けられるだけの、巨大な隙間がぽっかりと空いていた。
雷蔵は「よっこいしょ」とその隙間を潜り抜けて廊下へと出た。
「じゃ、そういうことだから。夜勤頑張れよ」
完全に絶句して腰を抜かしている看守の肩をポンと軽く叩き、雷蔵はマイペースな足取りで、留置所の出口へと向かって歩き始めた。
物理的な「檻」の概念すら破壊する男の、前代未聞の脱獄劇が、今まさに始まろうとしていた。
3:前代未聞の「脱獄」
ジリリリリリリッ!!!
静まり返っていた〇〇警察署の建物内に、鼓膜をつんざくような非常ベルの音が鳴り響いた。
赤色灯がけたたましく点滅し、「留置所から容疑者逃走! 各員、至急一階ロビーへ集まれ!」という緊迫した怒声が署内放送から飛び交う。
その騒動の中心にいる雷蔵は、うるさそうに小指で耳の穴をほじりながら、ペタペタとサンダルの音を鳴らして廊下を歩いていた。
彼に「逃走」や「脱獄」という大それた悲壮感は一切ない。ただ、長年欠かしたことのない「メダカへの餌やり」という日課をこなすため、当然の権利として家に帰ろうとしているだけだ。だが、警察という巨大な組織がそれを許すはずもない。
「いたぞ! 確保ォォッ!!」
階段や廊下の奥から、防刃ベストを着込んだ屈強な警官たちが数十人規模で雪崩を打って押し寄せてきた。彼らは警棒を振りかざし、さながらラグビーのタックルのような勢いで雷蔵へと殺到する。
「……チッ」
雷蔵は小さく舌打ちをした。
今の彼は、特上のカツ丼をご馳走になり、完全に腹が満たされて機嫌が良い状態だ。無闇に暴れて彼らを怪我させるのは、飯を食わせてくれた義理に反する。
「悪いが、急いでるんだ。道を開けてくれや」
雷蔵はそう言うと、自分にタックルしてこようとする先頭の警官二人の胸ぐらを、軍手をはめるような軽い手つきでガシッと掴んだ。
「よっこいしょ、っと」
それは殴り飛ばすでも、投げ飛ばすでもない。ただ、道端に落ちている邪魔な丸太を「脇へ退かす」だけの、極めて優しく無造作な動作だった。
しかし、雷蔵のその「優しい動作」には、常識外れの筋肉密度が生み出す規格外の運動エネルギーが込められていた。
「うおわぁぁっ!?」
両足を完全に床から浮かせられた二人の警官は、まるで重力が消失したかのように、磨き上げられたリノリウムの廊下を猛スピードで滑っていく。
ズサァァァァッ!! と凄まじい勢いで背中から滑走した二人は、後ろから殺到してきていた警官たちの群れに激突。さながらプロボウラーが放ったストライクボールのように、数十人の警官たちを次々と巻き込んでドミノ倒しにしていった。
ガシャァン! ドゴォッ!
「ぐああっ!」
廊下は一瞬にして、ひっくり返ってうめき声を上げる警官たちの山と化した。雷蔵は彼らを一切傷つけないよう「優しく」退かしたつもりだったが、圧倒的な力の差は、結果として大惨事を引き起こしてしまったのだ。
「……なんだ、やけによく滑る床だな。ワックスの塗りすぎじゃねえか?」
雷蔵は首を傾げながら、山積みになった警官たちを跨いでズカズカと先へ進む。
一階の正面ロビーへと繋がる自動ドアが見えてきた。そこには、数名の私服刑事たちが拳銃を引き抜き、銃口をガタガタと震わせながら雷蔵に向けていた。
「と、止まれ! 動くな! これ以上近づけば本当に撃つぞ!」
威嚇ではない。彼らの目は完全に恐怖に呑まれており、いつ引き金を引いてもおかしくない極限状態だった。
だが、雷蔵の歩みは1ミリも乱れない。
拳銃の銃口など、彼にとっては「ちょっと先が尖った棒」程度の脅威でしかなかった。彼は顔色一つ変えずに歩き続け、銃を構える刑事の鼻先まで平然と距離を詰めた。
「ひぃっ……!」
刑事が恐怖で目を閉じ、引き金にかけた指に力を込めようとした瞬間。
「おもちゃ振り回すな。暴発するぞ」
雷蔵は左手で、刑事の構える拳銃の銃身をポンと軽く下へ叩き落とした。
それだけで、刑事の手首は強烈な痺れに襲われ、拳銃はカランと情けない音を立てて床に転がり落ちた。他の刑事たちも、そのあまりにも理不尽なまでの「強者の余裕」を前に、完全に戦意を喪失してその場にへたり込んでしまう。
誰も、もう雷蔵を止めることはできなかった。
ゴム弾も、スタンガンも、分厚い鉄格子も、そして実弾の入った拳銃すらも、このタガの外れた初老の男を縛り付けることはできないのだ。
ウィィン、と。
警察署の正面玄関の自動ドアが開き、心地よい夜風がロビーに吹き込んできた。
雷蔵は外に出る直前で一度立ち止まり、背後の惨状――床を転げ回る警官たちや、腰を抜かした刑事たちの方へとゆっくり振り返った。
そして、まるで近所の寄り合いから帰るような、至極あっさりとした口調でポツリと言った。
「カツ丼、ごちそうさん」
それだけ言い残し、雷蔵は夜の闇の中へとペタペタとサンダルを鳴らして歩き去っていった。
警察署の玄関口には、けたたましい非常ベルの音と、国家権力がたった一人の老人に完全に屈服したという、絶望的な沈黙だけが残されていた。
数十分後、雷蔵は自宅の庭で「ほら、食えよ」と、腹を空かせたメダカたちにのんびりと餌を撒いていた。
前代未聞の脱獄劇の直後だというのに、彼の心は、春の小川のようにどこまでも穏やかで平穏だった。
4:政治家の暗躍とメディア統制
深夜の永田町。与党の大物政治家の執務室には、怒声と物が砕ける音が響き渡っていた。
「逃げられただと!? たかが一人の老いぼれを取り逃がしたと言うのか!」
政治家は高級なクリスタル灰皿を床に叩きつけ、電話の向こうの警察トップを怒鳴りつけた。
「……は、はい。恥を忍んで申し上げますが、留置所の鉄格子を素手でひん曲げ、数十人の警官を次々と……まるで子供をあしらうように薙ぎ倒して、正面玄関から堂々と歩いて帰宅したと……」
「馬鹿なことを言うな! 映画の話をしているのではないぞ!」
あまりにも非現実的な報告に、政治家は頭を抱えた。だが、事実として雷蔵は今、野に放たれている。もし「国家権力が総力を挙げても、サンダル履きの老人に手も足も出なかった」などと世間に知れ渡れば、警察機構の権威は完全に失墜し、強引に出動を命じた自分の政治生命も終わる。
「……いいか、この一件は絶対に外部へ漏らすな。『容疑者は署への移送中、凶器を用いてパトカーから逃走した』と発表しろ。鉄格子を曲げただのというふざけた報告書はすべてシュレッダーにかけろ!」
警察の無能と異常事態を隠蔽した政治家は、怒りに震えながらすぐさま次の一手を打った。彼の持つ最大の武器――「メディアへの圧力」である。
翌朝。日本のすべてのテレビ局、大手新聞、ネットニュースのトップ画面は、一人の男の顔写真で埋め尽くされていた。
『凶悪テロリスト、逃走中!』
『警察官数名を負傷させ、現在も逃亡を続ける異常犯罪者!』
大物政治家の息のかかったメディアは、雷蔵を「国家の敵」として徹底的に書き立てた。前日に雷蔵がマスコミの機材を素手で握り潰した映像も巧妙に編集され、「報道の自由を弾圧し、社会を恐怖に陥れるテロ行為」として繰り返し放送された。
朝の情報番組では、コメンテーターたちが深刻な顔を作ってテレビカメラを見据えている。
「これは単なる傷害事件ではありません。法治国家に対するテロです。国民の安全を守るためにも、一刻も早い逮捕が望まれます。相手は極めて凶暴です、市民の皆様は戸締まりを厳重に……」
もっともらしい顔で語られる言葉の数々は、すべて権力者によって用意された台本だった。
そして、テレビという巨大な権威が「こいつは絶対的な悪であり、何を言ってもいい」と保証したことで、ネット空間はかつてないほどの熱狂と狂気に包まれた。
『早く射殺しろよこんなジジイ』
『見つけたら石投げてやろうぜ』
『社会のゴミ。生きてる価値なし』
誰もが顔を隠し、安全な部屋の中からスマートフォン越しに殺意を振り撒く。国家規模にまで膨れ上がった「言葉の暴力」の嵐が、一斉に雷蔵へと浴びせかけられ始めたのだ。
日本中の悪意が、たった一つの木造平屋へと収束していく。だが、その濁流のような悪意の渦中で、当の雷蔵はといえば。
「……今日のスーパーの特売、卵か。悪くねえな」
縁側で茶を啜りながら、朝刊に挟まっていたチラシを呑気に眺めているのだった。




