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第2章:ネットのオモチャと、効かない物理兵器(後編)

7:大物政治家のドラ息子


 午後三時。

 最初の刺客である底辺配信者が地面にめり込んでから数時間が経過した頃、雷蔵の自宅前に一台の黒塗りの高級ミニバンが乱暴に横付けされた。


 スライドドアが開き、ハイブランドの服で全身を固め、サングラスをかけた二十代の青年が降りてくる。その後ろから、プロ仕様の大型カメラや照明機材を持った五、六人のスタッフがゾロゾロと降りてきた。


 青年の名は『ハルキ』。登録者数百万人を超える、日本トップクラスの超大物YouTuberである。

 だが、彼が他の炎上系配信者と決定的に違うのは、その圧倒的な「背景」だった。


ハルキの父親は、現役の与党大物政治家であり、警察機構にすら絶大な影響力を持つ権力者なのだ。ハルキはこれまでも、親の権力を笠に着て幾人もの一般人や店舗をネット上で袋叩きにし、社会的に破滅させてきた。彼にとって法律や警察は自分を守るための都合のいい道具であり、他人の人生を壊すことは、金と承認欲求を満たす極上のエンターテインメントに過ぎなかった。


「うわ、昭和のセットかよ。ウケる」

 ハルキはサングラスをずらし、雷蔵の家を鼻で笑った。

「さーて、回して回して。同接(同時接続者数)三十万人は固いっしょ」

 ハルキの合図で、スタッフたちが雷蔵の家の門扉を囲むように複数のカメラを構える。


ネットで「凶悪暴力ジジイ」として炎上している雷蔵は、彼にとって再生数を稼ぐための「極上のオモチャ」だった。

 その騒々しさに気づいたのか、玄関の引き戸がガラリと開き、小銭入れを手にした雷蔵が姿を現した。近所のスーパーへ夕飯の買い出しに出ようとしていたのだ。


ごく普通の草臥れた初老の男。だが、その足取りには一切の隙がなく、周囲の空気をじっとりと重くさせる異様なプレッシャーが漂っている。


「おっ! 出た出た! 主役の登場でーす!」


 ハルキは雷蔵の前に立ち塞がると、マイクを突きつけた。

「おいジジイ、自分が何したか分かってんの? 警察がビビって逮捕できねーみたいだから、俺が代わりに社会のルールってやつを教えてやりに来たわけ。感謝しろよ?」


 雷蔵は立ち止まり、目の前で薄ら笑いを浮かべるハルキと、自分を取り囲む複数のカメラを無表情で見回した。


「……どけ。買い出しの邪魔だ」

「あ? どけじゃねーよ犯罪者が。お前、俺が誰か分かってねーだろ?」


 ハルキは雷蔵の胸をドンと指先で小突いた。

「俺の親父、誰だか知ってるか? 与党の〇〇先生だぞ。お前みたいな底辺、親父に電話一本入れりゃ、一瞬で刑務所送りにできるんだ。俺に触っただけでお前、国から消されるぞ?」


 絶対的な権力。そして数百万人の視聴者という数の暴力。

 しかし、雷蔵の表情は1ミリも動かない。相手が誰の息子であろうと、雷蔵にとっては「道端の邪魔な石ころ」以下の存在だったからだ。


雷蔵が相手にせず、ただ横を通り抜けようとしたその時、ハルキの口が最悪の言葉を紡いだ。

「調べさせてもらったぜ、お前のこと。数日前に、お袋さんが死んだらしいじゃん?」

 ピタリ、と。

 雷蔵の足が止まった。

 ハルキはスタッフから受け取ったタブレットを見ながら、芝居がかった大声で同情するフリをした。


「いやー、悲惨だよな。こんなボロ屋で一生貧乏暮らしさせられて。なあ、ジジイ。お袋さん、死んでよかったな! 生きてたら絶対にお前のせいでショック死してたぜ? いや、息子がこんな社会のゴミだって知ったら、恥ずかしくて自分で首吊ってたかもな! あっはははは!」


 周囲のスタッフたちが、下品な作り笑いを漏らす。


 静寂……。


 カメラのシャッター音と、ハルキたちの嘲笑だけが、閑静な住宅街に嫌な反響を繰り返す。

 雷蔵はゆっくりと、本当にゆっくりと、ハルキの方へと振り返った。


 その目には、怒りすら浮かんでいなかった。ただひたすらに冷たく、暗く、底知れぬ殺意だけがドス黒く渦巻いている。周囲の温度が、一瞬にして数度下がったかのように錯覚するほどの、本物の死の匂い。


 何十年も守り続けてきた、最愛の母との「手を出さない」という約束。

 その母の死を、顔も知らない若造が、安全な場所からニヤニヤと笑いながら踏みにじり、唾を吐きかけたのだ。


「……おい」


 雷蔵の声は、地鳴りのように深く、静かだった。

「お前らみたいな腐ったガキが、どれだけ俺をコケにしようが、それは勝手だ」

 雷蔵は小銭入れをポケットにしまい、両腕をだらりと下げたまま、ハルキの目の前まで歩み寄った。

「だがな……お袋を嗤うことだけは、神仏が許しても、俺のこの両手が絶対に許さねえ」


 その瞬間、ハルキの背筋に、今まで感じたことのない強烈な悪寒が走った。だが、彼は引き下がれない。カメラが回っているし、何より自分は「絶対に殴られない特権階級」のはずなのだ。

「はっ、やれるもんならやってみろよ! 」

 バッッギィィィィィィィンッ!!!

 ハルキの言葉は、頭蓋骨が軋むような恐ろしい破裂音によって途切れた。

 雷蔵の特大の平手打ちが、一切の忖度も、躊躇もなく、ハルキの左頬を完璧に打ち抜いたのだ。


 それは単なるビンタではない。長年、母親との約束を守り抜くために縛り付けてきた雷蔵の純粋な「怒り」と、凄まじい質量を持った破壊の奔流であった。

「あ、ぶッ……!?」

 物理法則の限界ギリギリ。首がへし折れんばかりの勢いで弾き飛ばされたハルキの体は、アスファルトの上を横回転しながら宙を舞った。そして、すぐ後ろでニヤニヤと笑いながらカメラを構えていた取り巻き三人を、まるでボウリングのピンのように巻き込んで激しく吹き飛ばした。

 ガシャァン!と、数百万円の機材が砕け散り、人間が折り重なって倒れる鈍い音が響く。


「……え?」


 巻き添えを食らわなかった残りのスタッフが、自分たちの身に何が起きたのか理解できず、息を呑んで固まった。


 数秒前まで「自分を触れば国から消されるぞ」と勝ち誇っていた絶対的な権力者の息子が、文字通り一撃で、ゴミくずのように路上に転がっている。


 ハルキは白目を剥き、口からだらしなく泡を吹いて完全に気絶していた。

 それだけではない。彼の穿いていたハイブランドのズボンの股間部分には、恐怖と物理的な衝撃で失禁した生温かい染みが、どす黒く、そして無惨に広がっていた。


国を動かす政治家のドラ息子が、数十万という視聴者の見ている生配信のカメラの前で、失禁しながら気絶するという、この上ない社会的屈辱と敗北の姿を晒したのだ。


「ひ、ひぃぃっ……!!」


 取り巻きのスタッフたちは、泡を吹いて失禁するハルキの姿と、無表情のままゆっくりと手を下ろす雷蔵の姿を交互に見比べ、ついに悲鳴を上げて蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。気絶した雇い主を助け起こそうとする者など、ただの一人もいなかった。


 雷蔵は、足元に広がる惨状を冷たい目で見下ろした。

 相手の肩書きなど関係ない。国から消されようが、警察が来ようが、今の雷蔵には知ったことではない。筋の通らない悪意には、ただ等しく、そして圧倒的な暴力で応えるだけだ。


「……ションベン臭くて敵わねえな」


 雷蔵は鼻をつまむと、無惨に転がっているハルキたちを跨ぎ、当初の目的通り、夕飯の生姜焼きの豚肉を買うためにスーパーへとゆっくり歩き出した。


 電子の向こう側で数十万人の視聴者が恐怖に沈黙する中、タガの外れた男の日常は、誰の権力にも屈することなく淡々と続いていくのだった。


8:報道という名の暴力と、沈黙の粉砕

 近所のスーパーで生姜焼き用の豚肉と玉ねぎを買い、雷蔵が自宅の前に戻ってきた時、そこは異様な光景に包まれていた。


 黒山の人だかり。並んだ中継車。今度はスマホを片手にした底辺配信者たちではない。腕章をつけ、プロ用の大型機材を担いだテレビ局や週刊誌のマスコミ関係者たちだ。大物政治家の息子が路上で失禁して倒れているという前代未聞のスキャンダルは、瞬く間にハイエナのような報道陣を呼び寄せていた。


「あ、帰ってきました! 雷蔵容疑者です!」

 誰かが叫んだ瞬間、一斉に無数のフラッシュが焚かれ、何本もの長いマイクが雷蔵の顔面スレスレに突きつけられた。


「無抵抗の若者に暴行を加えたというのは本当ですか!」

「反社会勢力との繋がりが噂されていますが、暴力団関係者ですか!」

「政治家の御子息を狙ったテロ行為という認識はありますか!」

「被害者に対して、何か謝罪の言葉はないんですか! 国民に向かって説明を!」


 事実無根のデマ、憶測、そして正義感を振りかざした過剰な「言葉の暴力」の嵐。彼らもまた、YouTuberたちと同じだった。『報道の自由』と『国民の知る権利』という絶対的な安全圏の盾に隠れ、相手が反撃してこないことを前提に石を投げる同類に過ぎない。

 フラッシュの瞬きの中、スーパーのレジ袋を提げた雷蔵は、うんざりしたように深くため息をついた。


「……どけ」


「国民には知る権利があります! 逃げるんですか、答えてください!」


 血走った目のリポーターが、さらにマイクを雷蔵の口元へ強く押し当てる。

 その時だった。

 雷蔵は、顔の前に突きつけられたそのマイクの先端を、空いている左手でゆっくりと掴んだ。


 メキッ……メキャァァァッ!

 打撃ではない。ただ、ゆっくりと「握り込んだ」だけだ。


 それだけで、頑丈な金属製のマイクの集音部が無惨にひしゃげ、内部の配線が引きちぎられて完全に沈黙した。

「え……?」

 リポーターが呆然とする中、雷蔵はそのまま隣のカメラマンが担いでいた数百万円は下らない大型テレビカメラのレンズ部分へと手を伸ばした。

 そして、分厚い万力のような指の力だけで、強化ガラスのレンズと金属の鏡筒を、バキバキバキッ! と、まるで空き缶を潰すようにゆっくりと握り潰した。


 悲鳴すら上がらない。


 雷蔵は無表情のまま、一歩前に出るごとに、群がるマスコミたちのマイクをへし折り、カメラのレンズを素手で次々と粉砕していく。怒鳴るわけでも、殴りかかるわけでもない。ただの草臥れた初老の男が、圧倒的で理不尽な握力だけで、彼らの「武器」であり「盾」である機材を、静かに、そして確実にゴミ屑へと変えていくのだ。


「報道の自由だか何だか知らねえが……俺の敷地で騒ぐな。邪魔だ」


 雷蔵が低く呟き、ひしゃげたカメラの残骸を地面に放り捨てる。


 その常軌を逸した物理的な破壊力を前にして、マスコミたちはついに恐怖で顔を引きつらせ、一斉に道を空けた。

 誰も何も言えなかった。雷蔵は潰れたマイクの残骸を無頓着に踏み越え、「豚肉が傷むだろうが」とぼやきながら、今日の夕飯の支度をするために自宅の引き戸を開けて中へと消えていった。


9:親バカ政治家と警察の暴走

 大物YouTuberことハルキが、顔面を無惨に腫れ上がらせ、失禁したズボンのまま救急車で運び込まれたという一報は、瞬く間に永田町へと達していた。

 都内の一等地にある豪奢な事務所で、現役の与党大物政治家であるハルキの父親は、デスクを激しく叩き割らんばかりに激怒していた。


「たかが一介の薄汚い老いぼれが……私の息子を、この私をコケにしたというのか!」


 彼にとって、息子がネットで他人の人生をいくら壊そうが知ったことではない。だが、自分の「権力」という絶対的な威光に泥を塗られたことだけは、万死に値する大罪だった。

 政治家は即座に、警察機構のトップへと直接電話を入れた。

「おい、管轄の署は何をやっている! なぜあんな危険人物をいまだに野放しにしているんだ!」

「は、しかし先生。現状では単なる傷害事件であり、所轄の人間が慎重に対応中でして……」

「馬鹿者! あの男は単なる暴漢ではない! 我が国の未来を担う若者を狙った、凶悪な反政府の武装テロリストだ! 今すぐ制圧しろ! 手段は問わん、社会のゴミを完全にすり潰せ!」


 それは明らかな権力の私物化であり、完全なるでっち上げだった。しかし、警察トップにとって、次期大臣とも目される大物政治家の命令は絶対である。黒い鶴の一声により、警察の巨大な歯車は、たった一人の初老の男を排除するためだけに異常な速度で回転し始めた。


 数十分後。警視庁本部から、所轄署に対して信じがたい命令が下された。


『対象は極めて危険な武装テロリストの疑いあり。数十名規模の機動隊、および特殊部隊(SIT)を出動させ、対象の身柄を強制的に確保せよ』


 その指令を受けた現場の警察官たちは、誰もが耳を疑った。


「機動隊にSITだと!? 相手はただの老人一人だぞ! 銃器を持っている確認すら取れていないのに、いくらなんでも過剰配備すぎる!」

「上層部は何を考えているんだ。これじゃまるで、戦争じゃないか……」


 現場の指揮官たちから「やりすぎだ」と困惑と不満の声が噴出する。朝の事件で「警棒をへし折った」という報告は上がっているものの、装甲車やジュラルミンの大盾、さらにはテロ対策の特殊部隊まで投入するなど、日本の警察史においても前代未聞の暴挙だった。

 だが、上からの圧力は現場の疑問や良心を一切許さなかった。

「つべこべ言わずに出動しろ! これは上層部からの『特命』だ!」


 かくして、夕暮れ時。

 のどかな住宅街の狭い路地に、赤色灯を回した黒塗りの警察車両と大型の特型警備車(装甲車)が次々と滑り込んでいく。重装備の防弾ベストに身を包み、身の丈ほどもあるジュラルミンの盾とテーザースタンガン、さらにはゴム弾を装填したライフルを構えた完全武装の精鋭部隊が、古い木造平屋を取り囲む。


 権力者の親バカという、あまりにもちっぽけで個人的な理由によって引き起こされた、国家権力の異常な暴走。


 何十人もの銃口と分厚い盾の壁が、台所から生姜焼きのいい匂いが漂い始めた雷蔵の自宅を、完全に包囲したのである。


10:盾の壁と晩飯の邪魔、そして効かない物理兵器

 夕闇が迫る閑静な住宅街は、まるで紛争地帯のような物々しい空気に支配されていた。


 雷蔵の住む古い木造平屋を取り囲むように、何台もの警察車両と、黒塗りの特型警備車(装甲車)が重々しいエンジン音を響かせている。赤と青のパトランプが住宅の壁をせわしなく照らし出し、上空には報道のヘリコプターまでが旋回し始めていた。


 家の周囲を完全に封鎖しているのは、防刃・防弾機能のついた重装備に身を包んだ数十名の機動隊員たちだ。彼らは身の丈ほどもある分厚いジュラルミン製のライオットシールド(暴動鎮圧用盾)を隙間なく並べ、鉄壁の陣形を敷いている。


さらにその後方には、テロ対策を専門とする特殊部隊(SIT)の隊員たちが、ゴム弾を装填したライフルやテーザースタンガンを構え、銃口を玄関の引き戸へと向けていた。

 たった一人の初老の男を捕らえるためだけに敷かれた、前代未聞の過剰な包囲網。上層部から「極めて危険な武装テロリスト」と聞かされている前線の隊員たちの顔には、極度の緊張と疲労が滲んでいた。


『対象者に告ぐ! こちらは警視庁だ! すでに完全に包囲している! 武器を捨て、両手を上げてゆっくりと出てきなさい! 無駄な抵抗はやめろ!』

 指揮官が拡声器を使って、鼓膜を震わせるような大音量で投降を呼びかける。


 その直後だった。

 ガラガラッ……と、錆びた玄関の引き戸が鬱陶しそうに力任せに開け放たれた。

 盾の壁越しに銃口を構えていた隊員たちが、一斉に息を呑み、引き金にかけた指に力を込める。どんな重武装のテロリストが飛び出してくるのか。


 しかし、薄暗い土間から姿を現したのは、顔に傷ひとつない、中肉中背のごくありふれた初老の男だった。手には武器どころか何も持っていない。

 だが、その男の顔には、明確な「強烈な苛立ち」がドス黒く刻み込まれていた。


 先ほどスーパーで買ってきた特売の豚肉。それを特製の生姜ダレに漬け込み、熱したフライパンで焼き始めていた矢先に、けたたましいサイレンと拡声器の騒音で台無しにされたのだ。極限まで空きっ腹を抱えた雷蔵にとって、メシの時間を邪魔されることほど不愉快なことはない。


「……あぁ? なんだ、お前ら。ゾロゾロと集まりやがって」

 雷蔵は眩しそうにサーチライトの光を細い目で睨みつけると、深い深いため息をついた。


「拡声器でピーピー喚きやがって……うるせえんだよ。せっかくいい匂いがしてきたってのに、晩飯の邪魔だ。こっちは腹が減ってイライラしてんだよ、とっとと帰れ」


 そう吐き捨てるなり、雷蔵はサンダル突っかけた足で、何十枚ものジュラルミンの盾が並ぶ機動隊の壁に向かって、ズカズカと無防備に歩み寄っていった。

「と、止まれ! それ以上近づくな!」

 指揮官の声が裏返る。


 見た目はただの老人だ。しかし、隊員たちの生存本能はけたたましい警鐘を鳴らしていた。目の前に迫ってくる男からは、人間のルールや常識が一切通用しない、底知れぬ暴力の気配が怒気と共に立ち昇っていたのだ。


「止まれと言っているのが聞こえないのか! 撃てっ! 威嚇射撃だ!!」


 恐怖に耐えきれなくなった指揮官の命令が下る。

 ダァンッ!ダァンッ!と、乾いた銃声が連続して鳴り響いた。SITの隊員が放った暴動鎮圧用の硬質ゴム弾が、容赦なく雷蔵の胴体や肩めがけて飛んでいく。人間の骨を容易くへし折り、内臓に深刻なダメージを与える威力の非致死性兵器だ。


 しかし。


 ボフッ、ドスッという鈍い音と共に雷蔵の作業着に命中したゴム弾は、まるでおもちゃのボールのように勢いよく弾き返され、地面を空しく転がった。

「……は?」

 撃った隊員が、信じられないものを見るように目を見開いた。


 雷蔵は足を止めるどころか、撃たれた衝撃で上体を揺らすことすらしていない。彼の着古した作業着の下にある肉体は、長年の封印によって極限まで高密度に圧縮され、硬質化した岩盤のような筋肉の鎧と化していたのだ。ゴム弾の運動エネルギーなど、怒りで全身の筋肉を強張らせた彼の肉体の前ではただの「マッサージ」以下の代物でしかなかった。


「ゴム弾が効かない!? 馬鹿な、防弾チョッキも着ていないのに!」


「テーザーだ! 電撃で動きを止めろ!」


 パシュッ!という発射音と共に、今度は別の隊員がテーザー銃のワイヤー付きの針を放った。二本の針が雷蔵の作業着に突き刺さり、即座に五万ボルトという強力な電流が彼の全身に流し込まれる。人間の筋肉を強制的に収縮させ、どんな大男でも一瞬で地面に這いつくばらせる制圧兵器だ。

 ジジジジッ!という青白い火花が散り、雷蔵の足がようやくピタリと止まった。

「やったか……!」

 隊員たちが安堵の息を吐きかけた、次の瞬間。

「……なんだこれ」


 雷蔵は首を傾げると、自分の胸に刺さったテーザー銃のワイヤーを無造作に掴み、ブチッ!と素手で引きちぎってしまった。

 そのまま、少しだけ眉間にシワを寄せ、面倒くさそうに首の筋肉をボキボキと鳴らす。


 機動隊員たちの間に、絶望的な沈黙が落ちた。

 ゴム弾は弾き返され、五万ボルトの電流すら「ちょっとピリッとする」で済まされる。目の前にいるのは、人間の形をした何か別のバケモノだ。現代の治安維持機構が持つ「物理兵器」のすべてが、ただ一人の空腹の老人の前で完全に無力化された瞬間だった。


 雷蔵は「早くしねえと肉が傷んじまうだろうが……」と忌々しそうに呟くと、ついに機動隊が構えるジュラルミンの盾の壁の目の前まで到達した。

 隊員たちは恐怖でガチガチと歯を鳴らしながらも、必死で両手と全身の体重を盾にかけ、突進を食い止めようと身構える。


「邪魔だっつってんだよ」


 雷蔵は無造作に右手を伸ばし、目の前で震える隊員が構えていた分厚いジュラルミンの盾の上部を、指先でガシッと掴んだ。

 暴徒の鉄パイプや火炎瓶すら防ぐ、特殊合金製の堅牢な盾。

 メキャァァァァァッ……!!

 金属が悲鳴を上げる、おぞましい音が住宅街に響き渡った。


 雷蔵がただ片手で「握り込んだ」だけで、絶対の強度を誇るはずのジュラルミンの盾が、まるで薄っぺらい画用紙かアルミホイルのようにクシャクシャにひん曲がり、原型を留めないゴミ屑へと変貌してしまったのだ。


「ヒッ……!!」

「あ、あああ……っ!」


 盾を構えていた隊員が腰を抜かし、後方の隊員たちも一斉に青ざめて後ずさりする。

 どんな銃器を向けられるよりも恐ろしい、絶対的で理不尽な「暴力」そのものが、目の前で苛立っている。

 権力と兵器で固められた分厚い包囲網が、たった一人の老人の力によって、音を立てて崩壊し始めていた。

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