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第2章:ネットのオモチャと、効かない物理兵器(前編)

1:大炎上の朝

 翌朝。日本のインターネット空間は、たった一人の男の話題で完全に持ちきりになっていた。

 前日の夕方、純喫茶『紫苑』で起きた事件の映像である。迷惑系配信者『ショウ』のスマートフォンは雷蔵の平手打ちの衝撃で粉砕されたが、皮肉なことに生配信のデータはすでにクラウド上のサーバーへと送られ、数万人の視聴者の手によって録画されていたのだ。

 画面には、作業着姿の初老の男が、何の予備動作もなくショウの顔面を張り飛ばし、一撃で失神させる一部始終が鮮明に映っていた。さらには駆けつけた警察官が男の肩を警棒で叩き、あろうことか特殊合金の警棒の方がグニャリとひん曲がるという信じがたい光景までが、電波に乗ってネットの海へと放流されたのである。


 SNSのトレンド一位は

『#凶悪暴力ジジイ』

「いきなり殴るとか完全に殺人未遂」

「警察も手を出せないヤバい奴」

「早くこいつ逮捕しろ」

といった、正義感を振りかざすコメントが滝のように流れる。


顔にモザイクすらかかっていない雷蔵の無表情な静止画は、瞬く間にネット民の格好の「オモチャ」として爆発的な勢いで拡散され続けていた。


 だが、当の雷蔵本人はというと――そんな電子世界の狂騒など、文字通り知る由もなかった。


「シュッ、シュッ、シュッ」


 午前六時。まだ冷え込みの厳しい木造平屋の庭先で、雷蔵は上半身裸になり、乾いた手ぬぐいで自分の背中や腕を力強く摩擦していた。昔から欠かしたことのない日課、乾布摩擦である。


 ゴシゴシと皮膚を擦るたびに、中肉中背の身体の下に隠された、岩盤のように高密度な筋肉が脈動する。どんなにネット上で「社会の敵」として炎上していようが、雷蔵の生活サイクルは1ミリも狂っていなかった。そもそも彼の手元にあるのは通話しかできない使い古されたガラケーであり、SNSはおろかネットニュースを見る習慣すらないのだ。


「ふう……」


 一通り身体を擦り終えてうっすらと汗をかいた雷蔵は、洗いざらしの綿のシャツを羽織ると、縁側にどっかりと腰を下ろした。


 手には、熱い緑茶が入った分厚い湯呑み。ズズッと音を立てて啜り、ほほうと深く息を吐き出す。庭の木に止まったスズメがチュンチュンと鳴く音だけが、心地よく耳に届いていた。


「今日もいい天気だ」

 雷蔵は誰もいない庭に向かってぽつりと呟き、また美味そうに茶を啜った。


 見えない画面の向こう側で、顔も知らない何百万という群衆が自分に石を投げつけ、狂ったように騒ぎ立てていることなど微塵も気にかける様子はない。ただのどかに、そして平和に、タガの外れた男の新しい朝が始まっていた。


2:特定班の暗躍と「正義」

 雷蔵が縁側でのどかに茶を啜っていたその頃。

 画面の向こう側の広大な電子空間では、名もなき群衆たちによる狂気じみた「祭り」が最高潮に達しようとしていた。


 発端となった迷惑系配信者『ショウ』の動画は、一夜にして数百万回という異常な再生数を叩き出していた。ショウ自身は普段から嫌われ者の炎上系YouTuberであったが、今回ばかりは事情が違った。


「無抵抗の若者に対し、突然理不尽な暴力を振るう狂った老人」「警察の警棒をへし折る危険人物」という極端なコントラストが、ネット民たちの正義感と野次馬根性に火をつけたのだ。

『これ絶対許しちゃダメだろ』

『警察の目の前で殴るとか、完全に社会の敵じゃん』

『こういう老害がいるから日本はダメになる』

 無数のコメントが滝のように流れ、SNSのタイムラインを埋め尽くしていく。


彼らにとって、事件の前後関係や、ショウがどれほど陰湿な挑発を繰り返していたかなど、どうでもよかった。必要なのは、自分たちが安全な観客席から石を投げつけるための「完璧な悪役ターゲット」だけである。

 そして、獲物を見つけたネットの群衆の中には、必ずと言っていいほど「特定班」と呼ばれる者たちが暗躍し始める。


 彼らは警察の捜査機関でも何でもない、ただの一般人だ。しかし、承認欲求と異常な執念に突き動かされた彼らの情報収集能力は、時として公権力すら凌駕する。


 匿名掲示板の専用スレッドでは、徹夜組の特定班たちが、動画のわずかな手がかりを血眼になって解析していた。


『喫茶店の窓ガラスに一瞬だけ映った看板、あれ駅裏の〇〇通りにある不動産屋じゃね?』

『パトカーの管轄が第〇方面本部になってる。〇〇警察署の車両だぞ』

『ジジイの作業着の胸元、薄れてるけど「〇〇工務店」って書いてある。この地域にある同名の工務店は三つ』

『歩き方とか靴の汚れからして、職人上がりだな。年齢は六十代後半ってとこか』

 ジグソーパズルのピースが、恐るべきスピードで埋められていく。


 数千、数万という無数の「目」が、一つの獲物を追い詰めるためだけにリンクし、集合知という名の暴力を形成していくのだ。そこには罪悪感など微塵もない。彼らを突き動かしているのは「社会のゴミを掃除する」という、無自覚で薄っぺらい正義感だけだった。


 そして、午前八時。

 ついに一人のユーザーが、決定的な情報を掲示板に投下した。

『ビンゴ。〇〇工務店(現在は廃業)の元社長、〇〇雷蔵。〇〇市〇〇町〇丁目〇ー〇。ストリートビューで確認したら、表札の苗字も一致した。間違いない』

 その書き込みと共に、雷蔵の自宅である古い木造平屋の画像と、詳細な住所がネットの海へと放たれた。


『特定キタァァァァ!』

『特定班有能すぎワロタ』

『よっしゃ、これでこの老害も終わりだな』


 祭りは一気に沸騰した。

 住所という個人情報が晒された瞬間、ネット民たちの言葉の暴力は歯止めを失い、さらに過激にエスカレートしていく。


『誰か近所の奴、突撃してこいよ!』

『家に石投げても無罪だろこんな奴』

『社会の敵に正義の鉄槌を下してやれ!』


 誰もが顔を隠し、安全な部屋の中からスマートフォン越しに殺意を振り撒いている。自分が直接手を下すわけではない。他人がやってくれるのを期待し、煽り、高みの見物を決め込んでいるのだ。


「自分は絶対に殴られない安全圏にいる」という確信が、人間の奥底に眠るもっとも醜く陰湿な加害欲求を引き出していた。物理的な暴力が徹底的に排除された現代社会において、この「匿名による集団リンチ」こそが、最も合法的で破壊力のある娯楽となっていた。


『今から凸(突撃)しまーす! 生配信するんで登録よろしく!』

 そんな中、SNSの片隅で、再生数稼ぎを目論む底辺YouTuberたちのいくつかのアカウントが、雷蔵の住所へと向かう宣言を投稿し始めた。

 ネット空間で膨れ上がった悪意と狂信的な正義感が、電子の壁を越え、ついに現実リアルの世界へと溢れ出そうとしている。


 だが、彼らはまだ気づいていなかった。


 自分たちが石を投げようとしている相手が、現代社会のルールなど一切通用しない、理不尽なまでに頑丈で、圧倒的な暴力の結晶体であるということに。

 画面の向こう側の群衆が「社会の敵を追い詰めた」と勝利の美酒に酔いしれているその頃。

 当の雷蔵は、自宅の縁側で二杯目の緑茶を啜り終え、「さて、庭の草むしりでもするか」と呑気に首をボキボキと鳴らしていた。


3:最初の刺客と平等な鉄拳


 のどかな休日の朝。


 閑静な住宅街に建つ雷蔵の家の庭先では、縁側で茶を啜り終えた雷蔵が、軍手をはめて雑草の処理に取り掛かろうとしていた。ぽかぽかとした陽気に包まれ、土の匂いがふわりと漂う。長年封印してきた闘争本能を解放したことで、雷蔵の心はかつてないほどに穏やかだった。


 だが、その静寂は、無骨に空気を切り裂くけたたましい電子音によって無惨に打ち砕かれた。

『ウゥゥゥゥーーーッ!! カンカンカンカン!!』

 拡声器のサイレン機能を使った、鼓膜をつんざくような爆音。


 雷蔵がピタリと手を止め、眉間にシワを寄せて立ち上がると、家の前の道路から拡声器を通した甲高い声が響き渡ってきた。

『あー、あー! マイクテス、マイクテス! えー、近隣の皆さま、お騒がせしております! こちらは正義の告発チャンネル、突撃ハイパーのケントでーす!』


 雷蔵が錆びた鉄の門扉を開けて外に目をやると、そこには金髪に派手なジャージを着た二十代半ばの若者が立っていた。片手には拡声器、もう片方の手には最新型のスマートフォンを取り付けた自撮り棒を高く掲げている。その後ろには、カメラマン役らしきもう一人の若者が、ニヤニヤと笑いながら別アングルで撮影をしていた。


 彼らは、ネットの「特定班」が割り出した住所を頼りに、真っ先に再生数を稼ごうと群がってきたハイエナ——迷惑系底辺YouTuberだった。

『さあ視聴者のミンナ、着きましたよ! ここが昨日、何の罪もない若者と警察官に暴力を振るった、凶悪暴力ジジイの隠れ家でーす! うわ、家ボロっ! 昭和の廃墟かよ!』


 ケントはカメラに向かって大げさなリアクションを取りながら、再び拡声器を雷蔵の家へと向けた。

『おい、出てこいよ犯罪者! 逃げ隠れしてんじゃねーぞ! お前が昨日やったこと、日本中が知ってんだからな! さっさと出てきて土下座で謝罪しろや!』

 閑静な住宅街に、下品な怒声が響き渡る。


 周囲の家々では、休日の朝を台無しにされた住人たちが、不安そうにカーテンの隙間から外を覗き込んでいた。しかし、誰も注意しに出ようとはしない。関われば自分たちもカメラで撮影され、ネットという公開処刑の場に引きずり出されるからだ。ケントはそんな住民たちの怯えを「自分への畏怖」だと勘違いし、ますます図に乗って声を張り上げる。


『おら! 聞こえてねーのか耳遠いんかジジイ! 出てこねえなら不法侵入してでも……』

 ギィィ……と。

 拡声器の音を遮るように、錆びた門扉がゆっくりと開き、軍手姿の雷蔵が姿を現した。


『おっ! 出た出た出たぁ! 視聴者ミンナ、本物だよ! 暴力ジジイの登場でーす!』

 ケントは水を得た魚のように目を輝かせ、スマホのレンズを雷蔵の顔面スレスレまで突きつけた。

「おいジジイ、昨日のお前の暴行、全部ネットに上がってっからな。社会の敵として成敗されっから! なんか言い残すことある?」


 ケントの口角は、いやらしく吊り上がっていた。

 目の前に立つ男は、威圧感のあるオーラこそまとっているものの、見た目はただの中肉中背の草臥れた初老の男だ。そして何より、自分は今「生配信中」である。何万人という視聴者が見ている前で、この老人が自分に手を出せるはずがない。もし手を出してくれば、それこそ傷害罪の決定的証拠となり、自分の動画は歴史的な再生数を叩き出す。


 彼にとって、カメラという盾は「絶対無敵のバリア」だった。その安全圏から一方的に相手をサンドバッグにする快感に、ケントの脳内麻薬はドバドバと溢れ出していた。

 雷蔵は突きつけられたカメラを一瞥し、そして拡声器を持ってわめき散らすケントの顔を、ただ無表情で見下ろした。


「……朝からうるせえな」

 地を這うような低い声。


「はぁ? うるせえじゃねえよ! うるせえのはお前の存在なんだわ!」

 ケントは勝ち誇ったように鼻で笑い、さらに一歩踏み込んで雷蔵の鼻先で挑発を繰り返した。

「なんか言ってみろよ! 反省してまーすってか? それとも昨日みたいに俺のことも殴る? お? 殴れるもんなら殴ってみろよ! 手を出したらその瞬間、お前の人生完全に終わりだからな! ほら、手ェ出してみろよ老害!」


 ケントがニヤリと笑い、「絶対に安全な場所」からの至高の挑発を終えようとした、その瞬間だった。

 スッ、と。

 雷蔵の右腕が、滑らかに頭上へと持ち上がった。

 軍手をはめたその手は、ジャンケンでいうところの「グー」。昔ながらの、絵に描いたような「ゲンコツ」の形に握られていた。

「へっ……?」

 ケントがその奇妙な構えに間抜けな声を漏らした直後。


 ゴッガァァァァァンッ!!


 住宅街に、まるでボウリングの球を全力で叩きつけたかのような、鈍く、そして恐ろしい破壊音が轟いた。

 雷蔵の振り下ろしたゲンコツが、ケントの脳天に寸分の狂いもなく直撃したのだ。

 手加減など、一切ない。

 相手が若者であろうが、配信者であろうが、カメラが回っていようが、雷蔵にとっては「朝から他人の家の前で騒音を撒き散らす不作法なガキ」でしかなかった。


長年封印されて熟成された雷蔵の筋肉は、ただ真っ直ぐに、その拳を鉄槌へと変えていた。

「あ、ぁ……っ」

 ケントの脳は、自分が殴られたことすら認識できなかった。


 絶対の安全圏という幻想は、物理的な質量を伴った暴力の前に一瞬で打ち砕かれた。ゲンコツの凄まじい下方への圧力に耐えきれず、ケントの膝がガクンと折れる。そのまま彼の体は、糸の切れた操り人形のように垂直に崩れ落ち――ズシャァッ!と、家の前の砂利道に顔面から「めり込ん」だ。

 ピクピクと手足を痙攣させたのち、ケントは白目を剥いて完全に沈黙した。彼の手からこぼれ落ちた拡声器が、ハウリングの不快なピーーッという音を立てて転がっている。

「……え?」

 少し離れた場所で撮影していたカメラマン役の若者が、スマホを構えたまま石像のように固まっていた。

 生配信のコメント欄も、その瞬間、滝のような勢いがピタリと止まっていた。

『え?』『は?』『今何が起きた?』『え、死んだ?』

 画面の向こう側の数万人の視聴者たちも、あまりにも躊躇のない、そしてあまりにも理不尽なまでの暴力の行使に、理解が追いついていなかった。現代社会の「手を出した方が負け」というルールが、この男には1ミリも存在していないのだと、電子越しに本能で悟らされたのである。


 雷蔵はゆっくりと拳を下ろすと、足元で顔の半分を砂利に埋め込んでいるケントを、まるでゴミでも見るような冷ややかな目で見下ろした。

「手を出したら終わり、だぁ?」

 雷蔵は軍手についた埃をパンパンと払いながら、呆れたように鼻を鳴らした。

「勘違いすんな。手を出さなきゃ、お前らみたいなガキは調子に乗るだろうが。……人の家の前で騒ぐな。そこで寝てろ」

 それだけ言い捨てると、雷蔵はカメラマン役の若者に目もくれず、クルリと背を向けて再び門扉の中へと戻っていった。


 残されたのは、静寂を取り戻した住宅街と、地面にめり込んだままピクリとも動かない配信者、そして、絶対的な恐怖を刻み込まれて沈黙する数万人のネット視聴者たちだけだった。


 雷蔵は再び庭の縁側に座り直し、何事もなかったかのように雑草を引き抜き始めた。タガの外れた男の日常は、誰にも邪魔されることなく、ごく自然に続いていく。

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