第1章:雷おやじ、推参④⑤⑥⑦
4:招かれざる客
定食屋『まるや』を出た雷蔵は、胃袋の重さと反比例するように軽くなった心を持て余しながら、少し歩いた先にある行きつけの純喫茶『紫苑』の重い木製ドアを押し開けた。
カランコロンと、年季の入った真鍮のベルがくぐもった音を立てる。
外の息苦しい喧騒が嘘のように、薄暗い店内には静寂と、芳醇な焙煎珈琲の香りが満ちていた。真空管アンプから流れる微かなクラシック音楽。ベルベットの赤いソファは所々擦り切れているが、手入れは行き届いている。カウンターの奥では、蝶ネクタイを締めた白髪のマスターと、小柄で上品な老妻が、サイフォンで丁寧に珈琲を淹れていた。
「いらっしゃいませ。あら、雷蔵さん」
「邪魔するぜ。いつものブレンドをブラックで頼む」
雷蔵は一番奥のボックス席にどっかりと腰を下ろした。ここは定食屋と同じく、雷蔵にとって数少ない憩いの場だ。長年連れ添った老夫婦がひっそりと営むこの空間には、現代社会が忘れてしまった「血の通った時間」が流れていた。運ばれてきた湯気を立てる珈琲を一口啜り、雷蔵は深く息を吐き出す。
だが、その安らぎは長くは続かなかった。
ガァン!と、乱暴にドアが開け放たれる音が響き、真鍮のベルが悲鳴のように鳴り響いた。
「はいどうもー! 裏路地探索チャンネルのショウでーす! 今日はね、この駅裏にある超絶ド底辺のレトロ喫茶、じゃなかった、『エモい純喫茶』に突撃してみたいと思いまーす!」
静寂を切り裂くような甲高い声とともに、二十代前半の若者三人組がドヤドヤと土足で踏み込んできた。
先頭を歩く金髪の若者——リーダー格の『ショウ』は、ジンバルと呼ばれる手ブレ補正機材に最新型のスマートフォンを取り付け、レンズを自分の顔と店内に向けてぐるぐると回している。その後ろには、ヘラヘラと笑いながら取り巻きのように付き従う二人の若者。一人はタブレットを手にして、リアルタイムで流れる配信のコメント欄を読み上げている。
「うわ、店内カビ臭っ! これ昭和から換気してないっしょ」
「コメント欄『お化け屋敷じゃん』って草。確かにこれ、食品衛生法的にアウトな匂いするわー」
彼らは今、社会問題化している「迷惑系配信者」だった。
わざと店や一般人に迷惑をかけ、その反応を面白おかしく編集、あるいは生配信することで再生数を稼ぐ。物理的な暴力はすぐに逮捕されるため、彼らは決して「自分からは」手を出さない。代わりに、言葉の暴力とカメラという名の絶対的な盾を構え、相手が怒って手を出してくるのを待っているのだ。
「い、いらっしゃいませ……あの、店内での撮影は他のお客様のご迷惑に……」
マスターが困惑した表情で声をかけるが、ショウはカメラをマスターの顔スレスレまで突きつけた。
「おっとぉ? 撮影禁止の張り紙、どこにもありませんでしたけど? 法的な根拠あって言ってます? 俺ら客なんすけど。客を追い出すってことは、それなりの理由があるんすよね?」
早口で捲し立て、相手の言葉を遮る。マスターが「いえ、そういうわけでは……」と口ごもると、三人は勝ち誇ったようにニヤリと笑い、店の中央の席に陣取った。
「じゃ、ここの看板メニュー? 『自家製・昔ながらの焼きプリン』とやらを三つ。あと水。早くしてね、俺ら時給高いんで」
静かだった喫茶店は、一瞬にして彼らの無法地帯と化した。
大声で下品な笑い声を上げ、無遠慮にカメラを回し続ける若者たち。マスターの妻が震える手で水を持っていくと、「うわ、おばあちゃん手ぇ震えてる! 水こぼさないでよ、この服ハイブランドなんだからさ」と嘲笑した。雷蔵は奥の席で、冷めゆく珈琲を見つめたまま、微動だにせずその光景を眺めていた。以前の雷蔵であれば、母親との約束を守るため、見ざる聞かざるを決め込んで早々に店を出ていただろう。だが今の彼は、ただじっと、獲物を観察する猛禽類のような冷たい目をしていた。
やがて、マスターが丹精込めて作った三つのプリンが運ばれてきた。
カラメルソースがかかった、固めで昔ながらの美しいプリンだ。しかし、ショウは一口も食べる前に、カメラをプリンに極限まで近づけ、顔をしかめて見せた。
「え、ちょ、待って。視聴者のミンナ、これ見て。なんか……臭くない?」
「うわマジだ。てかこれ、表面になんか浮いてね? ホコリ? 虫?」
「キッッショ! これ絶対腐ってるって! あーあ、腹痛くなってきたわー!」
当然、ホコリも虫も入っていないし、腐ってもいない。完全な言いがかりである。しかし、タブレットを見ている若者が「コメント欄『保健所通報しろ』『絶対食うな』って言ってるよ!」と囃し立てる。
たまらず、カウンターの中からマスターが駆け寄ってきた。
「お、お客様! それは今日の朝作ったばかりで、決して腐ってなど……!」
「はあ? じゃあ俺たちが嘘ついてるって言うわけ?」
ショウは立ち上がり、怯えるマスターを見下ろしてニヤリと笑った。
「俺らが臭いって感じたんだから、それは俺らにとって腐ってるのと同じなんだわ。それとも何、あんた成分分析でもして『客観的な証拠』出せるわけ? 出せないなら、俺らが腹痛くなった責任、どう取ってくれんの?」
「証拠! 証拠!」と後ろの二人が手を叩いて笑う。
論理の飛躍と、相手の弱みにつけ込んだ悪意の塊。
「あのさぁ、俺らこれでもインフルエンサーなわけ。この配信、今何万人見てると思う? 『紫苑のプリンは腐ってる』って拡散されたら、この店、明日から誰も来なくなるよ?」
ショウはスマホのレンズをマスターの顔にピタリと押し当てた。
「ほら、謝罪してよ。土下座して『腐ったゴミを出して申し訳ありませんでした』って言えば、許してやんよ。ほら、早く!」
カメラという凶器。ネットという群衆。自分たちは絶対に傷つかないという安全圏からの、陰湿で執拗なリンチ。老妻が奥で「あなた……」と泣きそうな声を出した。マスターは青ざめ、屈辱に唇を噛み締めながら、ゆっくりと頭を下げようとした。
その時。
カチャン、と。
奥のボックス席で、珈琲カップがソーサーに置かれる小さな、だがひどく重々しい音が響いた。
5:問答無用
その異質な音に、ショウたち三人組がピタリと嘲笑を止め、一斉に奥の席へと視線を向けた。
薄暗い照明の中、ぬらりと立ち上がったのは、どこにでもいる、少し草臥れた初老の男だ。
だが、男――雷蔵が無言のままゆっくりと歩み寄ってくるその姿には、周囲の空気をじっとりと重くさせるような、得体の知れない迫力がまとわりついていた。
「なんだァ、じいさん。文句あんの?」
ショウは一瞬その空気に気圧されたものの、相手が普通の老人だと分かると、すぐに鼻で笑ってスマホのレンズを雷蔵に向けた。自分たちの武器はカメラだ。相手がどんな雰囲気をまとっていようが、手を出してきた瞬間に自分たちの「勝ち」が確定する。その絶対的な安全圏に対する奢りが、ショウの口角を吊り上げさせていた。
「おい視聴者、やばい老害がエンカウントしてきたわ! いきなり睨んできてマジ怖ぇー。昭和の化石っすか? あっはは!」
「おいじいさん、カメラ回ってっからな!」
取り巻きの二人も、ヘラヘラと笑いながら囃し立てる。
雷蔵はマスターと若者たちの間に割って入るように立つと、冷めきった瞳でショウを見下ろした。以前の彼であれば、母親との約束を守るため、ここでただ睨みつけるだけで我慢していただろう。だが、今の雷蔵にもうその鎖はない。
「……マスターが、腐ってねえって言ってんだろ」
地鳴りのような、低い声だった。
「はぁ? 俺らが臭いって言ってんの! 客の意見に文句つけんのかよ? それとも何、あんた俺に暴力振るう気? やれるもんならやってみろよ!」
ショウは挑発するように顔を突き出し、スマホを雷蔵の鼻先にまで近づけた。
「殴ってみろよ! ほら、手ェ出してみろって! 傷害罪で一発実刑だぞ! この店ごとネットで炎上させて……」
ショウが言い終わるより先だった。
バァンッ!
狭い喫茶店内に、肉と骨が激しくぶつかり合う、生々しくひどく重たい破裂音が響き渡った。
雷蔵の右腕が、無造作に振られたのだ。大ぶりなスイングでもない。雷蔵本人の感覚からすれば、目の前を飛ぶうるさい羽虫を『軽く払った』程度の動きでしかなかった。だが、その掌には、長年封印してきた闘争本能と全身の重みが、無意識のうちに高密度に圧縮されていた。
雷蔵の平手打ちをモロに食らったショウは、首がカクンと不自然な角度に跳ねたかと思うと、一瞬にして白目を剥き、両膝からガクンと力が抜けた。糸が切れた操り人形のように、その場へドサリと崩れ落ちる。ゴンッ、と頭から木の床に落ちたショウは、ピクリとも動かなくなった。手からこぼれ落ちた最新型のスマホが、床で乾いた音を立てて転がる。
「……え?」
隣にいた取り巻きの一人が、顔面を蒼白にさせて悲鳴を上げた。目の前で起きた現実を処理しきれていない。絶対的な安全圏にいたはずの自分たちのリーダーが、ただの一撃で意識を刈り取られ、足元でゴミのように転がっているのだ。
「うわあああっ! な、殴った! このじいさん、マジで殴りやがっ――」
パァンッ!
その言葉の途中で、今度は雷蔵の左の裏拳が間髪入れずに男の顔面を捉えていた。悲鳴はカエルのように潰れ、二人目もまた、あっけなく白目を剥いてショウの上に重なるように崩れ落ちた。
静寂。三人組のうち二人までが、ものの数秒で床に沈んでしまった。
雷蔵は、ゆっくりと自分の手のひらを見つめ、微かに眉をひそめた。
(……なんだ、こいつら。口ではあんなに偉そうに喚いてたってのに……軽く小突いただけでこれか)
拍子抜けするほどの脆さだった。
安全な場所から屁理屈をこねて人を叩き潰してきた彼らは、本当の「暴力」というものにさらされた経験が一切なかったのだ。ただの張り手一発で意識を飛ばすほど、彼らの肉体も精神もひ弱なものだった。
「ヒッ……!! ひぃぃっ!!」
残された最後の一人――タブレットを持っていた若者が、腰を抜かして床にへたり込んだ。ガチガチと歯の根を鳴らし、後ずさりしながら震える手でスマートフォンを取り出す。
「ぼ、暴力だ! 警察っ、警察呼んでやるからな!!」
自分たちから「殴ってみろ」と煽っておきながら、いざ本当に殴られると途端に警察という権力にすがりつく。その滑稽な姿に、雷蔵はただ呆れたように鼻を鳴らした。
「ら、雷蔵さん……」
カウンターの奥で青ざめるマスターと女将さんに向かって、雷蔵は安心させるように短く片手を挙げた。逃げる素振りは一切ない。
彼は近くにあった丸椅子を引き寄せると、どっかりと腰を下ろし、懐から煙草を取り出して火をつけた。
「構わねえよ。呼べ。俺は逃げも隠れもしねえから」
紫色の煙を深く吸い込み、天井に向かってゆっくりと吐き出す。
「ただな、小僧。警察が来るまで、俺とお前はここで二人きりだ。……せいぜい、静かに待ってるんだな」
雷蔵の冷たく見下ろす視線に射抜かれ、最後の若者は小さな悲鳴を上げてスマホを握りしめたまま、完全に固まってしまった。
6:効かない物理兵器
遠くから聞こえていたパトカーのサイレンが、近づいてくる。やがてけたたましい音が店の真ん前で止まり、赤と青のパトランプの光が、薄暗い純喫茶の窓ガラスに忙しなく反射した。
「け、警察だ……! 助かったぞ……!」
床にへたり込んでいた最後の一人が、救世主でも見るような目でドアの方へと這いずっていく。
木製ドアを押し退けるようにして、防刃ベストに身を包んだ二人の若い警察官が血相を変えて飛び込んできた。
「警察です! 通報があったのはここですか!?」
「怪我人は……ッ!?」
警察官たちは店内の惨状を見て息を呑んだ。
倒れたテーブル、割れたカップ。そして床には、白目を剥いてピクリとも動かない二人の若者が転がっている。
その奥の丸椅子には、中肉中背の初老の男――雷蔵が、一人静かにタバコの煙を燻らせていた。その男から発せられる空気が、凄惨な現場とひどく不釣り合いなほどに落ち着き払っていた。
「う、うう……あ……?」
その時、サイレンのけたたましい音と騒ぎに反応したのか、最初に雷蔵の平手打ちを食らって気絶していたリーダー格のショウが、うめき声を上げて薄く目を開けた。
「ショウくん! 大丈夫!」
取り巻きの若者が駆け寄って揺さぶると、ショウは顔の左半分をどす黒く腫れ上がらせたまま、焦点の合わない目を瞬かせた。しかし、目の前に立つ制服姿の警察官を認識した瞬間、彼の脳内で「自分は絶対的な安全圏にいる」という思いが再燃した。
「あ、いッテー……! け、警察……! そいつです! そいつがいきなり殴ってきたんです!」
ショウはふらつきながら立ち上がり、雷蔵を指差して喚き始めた。先ほどの恐怖などすっかり忘れ、権力という後ろ盾を得て完全に被害者ヅラを取り戻している。
「俺ら何もしてないのに、いきなり手を出してきたんすよ! 殺人未遂っすよ! ほら、早く現行犯で逮捕しろよ! おいクソジジイ! 慰謝料ふんだくって人生終わらせてやるからな!」
ヘラヘラと歪んだ笑いを浮かべ、唾を飛ばしながら警察官の背後から雷蔵を煽り立てるショウ。安全な場所から石を投げる、その反吐が出るような卑劣な習性。
雷蔵はゆっくりと立ち上がると、灰皿にタバコを押し付けた。
「……うるせえ」
低い、地の底から響くような一言だった。
雷蔵が半歩踏み出した瞬間、警察官が制止の声を上げる暇すらなかった。
パァンッ!
再び、乾いた破裂音が店内に響き渡った。
雷蔵の右の手の甲が、まるでうるさいハエを払うかのような無造作な軌道を描き、わめき散らしていたショウの右頬を的確に張り飛ばしたのだ。
「あべッ」という間の抜けた短い声を残し、ショウは再び白目を剥いて、今度はカウンターの土台に向かってドサリと崩れ落ちた。ピクピクと痙攣したのち、完全に沈黙する。
静寂が戻った。
しかし、警察官たちの顔色は完全に変わっていた。
自分たち警察の目の前で、まったく躊躇うことなく暴力を振るったのだ。相手がどれだけ挑発したとはいえ、明らかな傷害の現行犯である。
「貴様、何をしている!それ以上動くな!!」
若い警察官が声を荒げ、腰のホルダーから黒い特殊合金製の警棒を引き抜いた。
相手はただの初老の男だ。しかし、警察官は本能的なアラートを鳴らしていた。目の前の男が放つ異常なプレッシャー。普通ではない。刃物を持っているかもしれないし、何か武術の達人かもしれない。
「両手を上げて、床に伏せろ! 抵抗するな!」
警察官は威嚇しながら距離を詰め、言うことを聞かずに無言で見下ろしてくる雷蔵を「危険人物」と完全に認定した。制圧しなければならない。
警官はシャキッ!と警棒を振り伸ばすと、雷蔵を屈服させるため、その分厚い右肩の筋肉(僧帽筋)をめがけて、容赦なく警棒を振り下ろした。
的確で、鋭い一撃。人間の骨など容易くヒビを入れる威力の打撃だ。
――ガキィィィンッ!!
純喫茶の中に、およそ人間の肉体を叩いたとは思えない、甲高い金属音が鳴り響いた。
「……え?」
叩いた警察官本人が、素っ頓狂な声を漏らした。
両手に、ハンマーで巨大な岩盤をフルスイングで叩きつけたような、強烈でビリビリとした痺れが走る。激痛のあまり、思わず警棒を取り落としそうになる。
警察官が信じられない思いで自分の手元を見ると、特殊合金でできているはずの頑丈な警棒が、雷蔵の肩のラインに沿って無残にも「く」の字にひん曲がっていた。
「な……ば、馬鹿な……っ」
防刃チョッキでも着込んでいるのか。いや、ただの薄汚れた作業着だ。服の下に鉄板を仕込んでいたとしても、こんなふうに警棒が折れ曲がるはずがない。物理的におかしい。
肩を力一杯叩かれたはずの雷蔵は、姿勢を崩すどころか、ミリ単位すら動いていなかった。表情ひとつ変えていない。彼は自分の右肩に落ちたホコリでも払うかのように左手で軽くポンポンと叩くと、呆然と立ち尽くす警察官へゆっくりと顔を向けた。
「……何してんだ」
咎めるでも、怒るでもない。本気で「お前は急に人の肩を棒で叩いて、一体何をしているんだ?」と不思議がっているような、あまりにも平坦な一瞥だった。
その視線に射抜かれた瞬間、警察官は心臓を鷲掴みにされたような強烈な悪寒を感じ、思わず数歩後ずさりした。折れ曲がった警棒を持つ手が、ガタガタと情けなく震えていた。
目の前にいるのは、ただの老人ではない。人間の形をした、何か別の「規格外の怪物」だ。
監視カメラも、法律も、警察の武器すらも通じない。現代社会のルールが一切通用しない絶対的な暴力の結晶が、ただそこにごく自然に、突っ立っていた。
7:前代未聞の帰宅
カラン、と。
警察官の手から滑り落ちた特殊合金製の警棒が、無残に「く」の字に曲がったまま床に転がり、間の抜けた音を立てた。
純喫茶『紫苑』の店内は、文字通り凍りついていた。
意識を飛ばして床に転がる迷惑系配信者の若者たち。腰を抜かして震え上がる最後の一人。青ざめた顔でカウンターの奥に縮こまるマスター夫婦。そして、目の前で「人間の肩をフルスイングで叩いた警棒がへし折れる」という物理法則を無視した現実を突きつけられ、完全に戦意を喪失した二人の警察官。
すべての視線が、中心に立つ初老の男――雷蔵に注がれている。
当の雷蔵本人は、警棒で叩かれた右肩を気にする素振りすら見せなかった。常識外れの頑丈さを前にして、誰もが本能で理解していた。
(こいつは、ヤバイ……)
若い警察官は、腰の拳銃に手をかけることすら忘れていた。下手に刺激すれば、次はこの警棒のように自分の腕や首がへし折られる。頭ではなく、細胞がそう警鐘を鳴らし、両足が床に縫い付けられたように動かなくなっていた。
張り詰めた沈黙の中、雷蔵はふうと短くため息をついた。
「……なんだってんだ、全く」
雷蔵が作業着の胸ポケットにゆっくりと手を入れた瞬間、警察官たちはビクッと肩を震わせ、顔を引きつらせた。凶器を取り出すのか。しかし、雷蔵が取り出したのは、使い古された革の財布だった。
雷蔵は財布から無造作に一万円札を引き抜くと、それを丸テーブルの上にバサリと置いた。
「マスター、コーヒー代と、奴らが倒れた時に割っちまった食器の代金だ。足りなきゃまた明日持ってくる」
「ら、雷蔵さん……」
震える声で名前を呼ぶマスターを一瞥し、ぐるりと店内を見渡す。床に転がる若者たちにも、顔面蒼白の警察官たちにも、彼の目には一切の興味や恐れの色は浮かんでいなかった。ただひたすらに「面倒くさい」という、心底呆れたような表情だった。
「騒がしくなっちまったな。……俺はもう帰って寝る」
そう言い放つと、雷蔵はくるりと背を向け、入り口の木製ドアの方へと歩き出した。
明らかな傷害の現行犯だ。本来ならば、絶対に取り押さえなければならない。応援を呼び、手錠をかけ、署へ連行するのが警察官の義務だ。
だが、雷蔵が真っ直ぐに歩いてくるその動線から、ドアの前に立っていたもう一人の警察官は、まるでモーゼの海割れのように、無意識のうちにサッと道を空けてしまっていた。
誰一人として、彼に「待て」と声をかけることすらできなかった。
圧倒的な強者の前では、法律も、権力も、ネットの監視の目も、一切の効力を失うのだ。
カランコロン、と。
入店時と同じようにのどかなベルの音を鳴らし、雷蔵は夜風の吹き込む路地へと何の未練もなく歩み出ていった。その後ろ姿が路地の闇に完全に溶け込んで見えなくなるまで、店内の人間は誰一人として、ピクリとも動くことができなかった。
* * *
息苦しいほどに張り巡らされた防犯カメラのレンズの下を、雷蔵は悠々と歩いていた。
自分が先ほど、警察官の目の前で傷害事件を起こし、さらに公務執行中の警官を振り切って帰ってきたことなど、彼の頭からはすでに半分ほど抜け落ちていた。
やがて、古い木造の平屋にたどり着く。
ガラガラと引き戸を開け、うす暗い土間で靴を脱ぐ。「ただいま」と出迎えてくれる声は、もうない。
雷蔵は電気もつけず、居間の中央に歩み寄った。そこには、数日前に真新しくなったばかりの小さな仏壇が置かれている。ほんのりと線香の匂いが残るその前にどっかりとあぐらをかき、雷蔵は遺影に向かって手を合わせた。
「お袋、悪いな。さっそく約束、破っちまったよ」
ぽつりと呟いたその声に、後悔や懺悔の響きは一切なかった。むしろ、何十年も背負い続けてきた重い荷物をようやく下ろしたような、晴れやかな響きすら混じっていた。
もし外の社会が、息苦しいルールと監視で自分を縛り付け、理不尽な悪意を押し付けてくるというのなら。これからは己の拳と、この体だけで、筋の通らない事ごとくを叩き潰して生きていく。それが、タガの外れた雷蔵が選んだ新しい生き方だった。
「……まあ、警察の世話になるようなら、その時はあの世でいくらでも説教してくれや」
雷蔵はにかっと笑うと、仏壇の横に敷きっぱなしになっていた万年床に、作業着のままドサリと仰向けに倒れ込んだ。
すぐに、図太いイビキが部屋中に響き始めた。
外の世界では今頃、喫茶店に残された警察官たちがパニックに陥りながら応援を呼び、防犯カメラの映像を血眼になって解析し、前代未聞の「警棒を肩でへし折った初老の男」の行方を追って大騒ぎしていることだろう。
だが、そんな現代社会のちっぽけな狂騒など、今の雷蔵には知ったことではなかった。
かつて母親との約束のためだけに「非暴力」を貫き通した男は、すべての鎖から解き放たれ、ただひたすらに、赤ん坊のように深く豪快な眠りについていた。
グォォォォ……、ゴォォォォ……。
その地鳴りのようなイビキだけが、息苦しい夜の街の底で、どこまでも力強く響き続けていた。




