第1章:雷おやじ、推参②③
2:息苦しい現代社会
現代の日本は、史上最も「安全」で、最も「息苦しい」国となっていた。
街頭の防犯カメラや行き交う車のドライブレコーダー、そして誰もが持つスマートフォン。街の死角は無数の「目」によって完全に潰されている。法改正で物理的な暴力に対する罰則は劇的に引き上げられ、路上での暴力沙汰は瞬く間に通報され、デジタルな証拠とともに社会的な死を意味するようになった。「他者に直接触れて傷つける」行為は、表の社会からほぼ完全に排除された。
だが、それは平和の訪れを意味しない。人間の闘争本能や悪意は消え去らず、行き場を失った暴力はより陰湿な「言葉」に姿を変え、社会に蔓延している。血が流れない代わりに心が砕かれる世界。人々は常にカメラのレンズに怯え、巨大な圧力鍋の中で限界までストレスを溜め込んでいる。
例えば、駅前のカフェでの一幕だ。
スーツ姿の初老の男が、レジ越しに若い女性店員を執拗に責め立てている。「コーヒーがぬるい」という些細な理由だが、本当の目的は絶対に反撃してこない相手への八つ当たりだ。
「『お持ちします』じゃないだろ。自分が間違えたくせになんで上から目線なんだ?言葉の使い方も知らないのか」
わずかな言葉尻を冷酷に切り取り、悪意を持って曲解する。店員の尊厳を削り取るカスタマーハラスメント。周囲の客は見て見ぬふりをしてスマホに目を落とす。関われば今度は自分が「言葉の刃」の標的になり、撮影されてネットに晒されるリスクがあるからだ。誰もが自己防衛という無関心を装っていた。
別の場所――駅のホームでも、新たな暴力が繰り広げられていた。
歩きスマホをしてわざと肩をぶつけてきた若い男に、疲れ切ったサラリーマンが「前を見て歩け」と声を荒げた時のことだ。若者は謝るどころかニヤリと笑い、スマホのカメラをサラリーマンの顔に向けた。
「前を見て歩けって、どの法律に違反してます?あなたが先に動線に入ってきた客観的証拠ありますか?なぜ一方的に被害者ヅラして大声出してるんですか?」
早口で論点をすり替えながら捲し立てる。動画サイトで覚えたような薄っぺらい論理を振りかざし、言葉を遮って「論破」した気になっている若者特有の冷笑的な態度。怒りで顔を紅潮させ、サラリーマンが思わず拳を握りしめると、若者は狩人のように目を輝かせ、声高に叫んだ。
「おっ、暴力ですか?殴ってみろよ。ほら、手を出してみろって!傷害罪で一発アウトですよ。今バッチリ録画回ってますからね。ほら、殴れよ!」
拳を振り上げた時点で、すでに相手の罠に落ちている。サラリーマンは震えながら逃げるように立ち去るしかなかった。若者は「はい論破」と吐き捨て、その動画をタップ一つでSNSへ放り込んだ。
動画が投稿されれば、顔を持たない群衆のターンだ。
前後の文脈など誰も気にしない。「駅でキレる老害」というキャプションと共に瞬く間に拡散され、怒りに震える顔が切り抜かれ、言葉尻だけが悪意を持って抽出される。安全な観客席から石を投げる快楽に酔いしれたネットユーザーたちは、正義という名の暴力を無制限に振るい始める。
「特定班よろしく」「社会のゴミ」
滝のように流れる誹謗中傷。そこに血は流れないが、確実にひとりの人間の社会的尊厳がデジタル空間で殺されていく。
暴力が消えたわけではない。物理的な痛みよりも遥かに陰湿で逃げ場のない「言葉」と「監視」の暴力が、絶え間なく人々を責め立てているのだ。誰もが自分が次のターゲットになる恐怖に縛られ、薄氷の上を歩いている。深く息を吸い込むことすらためらわれるほど、現代社会の空気は絶望的なまでに息苦しかった。
3:馴染みの定食屋
息の詰まるような街の喧騒から逃れるように、雷蔵は路地裏にひっそりと佇む古い定食屋の暖簾をくぐった。
色褪せた紺色の暖簾には、白抜きで『大衆食堂 まるや』と染め抜かれている。引き戸を開けると、醤油と出汁の甘辛い匂いが鼻をくすぐり、換気扇の低く唸る音が心地よく耳に届く。ここは雷蔵にとって数少ない「息継ぎ」ができる場所だった。
「おっ、いらっしゃい。雷蔵ちゃん、今日は少し遅かったね」
厨房の奥から、白い割烹着姿の女将さんが顔を出して目を細めた。七十をとうに超えているが声には張りがある。その横では、同じく白髪交じりの大将が、無言で中華鍋を振るいながら短く顎をしゃくって挨拶に代えた。
「ああ、ちょっと野暮用が立て込んでな」
雷蔵は短く答えながら、いつものカウンターの隅、テレビが一番よく見える席にどっかりと腰を下ろした。注文を取る必要はない。大将はすでに、雷蔵がいつも頼む『豚の生姜焼き定食・ご飯大盛り』の準備に取り掛かっている。
この店に通い始めて十数年、雷蔵とこの老夫婦の間に余計な言葉はいらなかった。
壁掛けの小さなブラウン管テレビからは、昼のワイドショーが流れていた。画面の中では、駅のホームで若者がわざと中年男性を怒らせ、スマホで撮影してネットに晒したという「炎上トラブル」のニュースを報じている。コメンテーターたちがもっともらしい顔で議論を交わしていた。
大将が鍋を振りながら、ふうとため息をつく。
「嫌な世の中になったもんだな。ああやって人を小馬鹿にして煽って、動画に撮って喜ぶ。手を出さなきゃ何をやってもいいってのかね」
雷蔵はお冷を一気に飲み干し、ドンとグラスを置いてテレビを睨んだ。
「筋が通ってねなぁ」
低く、地を這うような声だった。
「気に食わねえなら、面と向かって文句を言えばいい。相手が手を出せないと分かってる安全圏から石を投げて、勝った気になってる。あんなふざけた真似、本来ならその場で張り飛ばされて痛い目を見て、他人にやっちゃいけねえ限度ってモンを学ぶんだろうが」
雷蔵は昔から、曲がったことや筋の通らないことが大嫌いだった。
しかし、その威圧感のある風貌とは裏腹に、彼はこれまでただの一度も他人に暴力を振るったことがない。喧嘩はもちろん、警察の世話になったことなど皆無だった。
理由はただ一つ、たった一人の肉親である母親の強い言いつけだった。
『どんなに理不尽なことがあっても、絶対に手を出してはいけない。暴力で何かを解決するような人間にはならないでちょうだい』
物心ついた頃からそう言い聞かされて育った雷蔵は、その教えを「絶対の掟」として今日まで生きてきたのだ。血の気が多く、理不尽に対して怒りを感じやすい性質でありながら、彼はその強靭な自制心で己を縛り付けてきた。
「お待ちどおさま。生姜焼き、マヨネーズ多めにしておいたわよ」
女将さんがお盆をことりとカウンターに置いた。
「おお、相変わらず美味そうだ」
雷蔵は割り箸をパチンと割り、大きな口を開けて肉と白飯を掻き込んだ。その豪快な食べっぷりを見つめながら、女将さんはふと目を伏せ、少しだけ言い淀むように口を開いた。
「……雷蔵ちゃん。お母さんのこと、本当に残念だったねえ」
その言葉に、雷蔵の箸がピタリと止まった。
数日前、雷蔵の母親が病院のベッドで息を引き取ったのだ。葬儀は身内だけで静かに済ませていた。
「お母さん、よくこの店にも顔を出してくれてね。雷蔵ちゃんが子供の頃から約束を破らず、一度も警察のお世話になるようなこともなく、立派に育ってくれたこと……いつも嬉しそうに自慢してたわよ」
女将さんの声が微かに震えている。大将も手を止め、静かに雷蔵の方を向いていた。
雷蔵はゆっくりと味噌汁をすすり、お椀を置いてから、天井をぼんやりと見上げた。
「……まあ、大往生だよ」
無理に作ったような笑顔ではなく、どこか憑き物が落ちたような、静かな表情だった。
「ずっと病気で苦しんでたからな。最後は眠るみたいだったよ」
雷蔵は目を伏せ、両手で自分の膝をゆっくりと撫でた。
「……ただな、大将。俺は薄情な息子だよ」
絞り出すような声に、老夫婦は黙って耳を傾けた。
「お袋が死んで、葬式が終わって、骨を拾って……悲しいはずなのに、心のどこかでホッとしてる自分がいたんだ」
「雷蔵ちゃん……」
「俺はガキの頃からずっと、お袋との約束を守ってきた。世の中の理不尽な連中が、安全圏から人を嘲笑ってふんぞり返ってるのを見ても、ひたすら歯を食いしばって我慢してきた。殴り飛ばしてやりたい衝動を、ずっと鎖で縛り付けてきたんだ」
雷蔵は自分の拳を握りしめ、じっと見つめた。
「でも、もう我慢しなくていい。もうこれ以上、俺が何かをしでかして、お袋を悲しませる心配はない。あのクソみたいに息苦しい世の中で、ふんぞり返ってる連中に対して、愛想笑いを浮かべてやり過ごす必要はなくなったんだってな」
雷蔵の目が、静かに、しかし確かな熱を帯びて光った。その拳は、長年封印されてきた己の本当の力と、抑圧からの解放を実感するように、微かに震えていた。
「そう思ったら、なんだか少し気が楽になったよ。何十年も縛られてた鎖が、やっと解けたみたいにな。……まあ、家に帰って『おかえり』って言ってくれる相手がいなくなったのは、寂しいがな」
定食屋の中に、重い沈黙が落ちた。テレビの騒がしい音声だけが、場違いに響き続けている。雷蔵の纏う空気が、今までの「耐え忍ぶ男」から、底知れぬ凄みを秘めたものへと変わりつつあるのを、老夫婦は肌で感じ取っていた。
雷蔵は照れ隠しのように笑うと、再び猛烈な勢いで生姜焼き定食を平らげ始めた。あっという間に茶碗を空にし、お茶で流し込むと、ポケットから小銭を出してカウンターに置いた。
「ごちそうさん。美味かったよ」
「あ、ああ……ありがとう。雷蔵ちゃん、無茶だけはするなよ」
大将の心配そうな声に、雷蔵は背を向けたままヒラヒラと右手を振った。
「心配すんな。俺は俺のやり方で、少しばかり息継ぎさせてもらうだけだ」
引き戸を開けると、再び街の喧騒と、まとわりつくような重い空気が彼を包み込んだ。
だが、雷蔵の足取りは、店に入る前よりもずっと力強く、迷いがなかった。生涯彼を縛り付けていた「非暴力」というタガは、静かに、そして完全に外れ去っていた。




