第1章:雷おやじ、推参①
1:規格外の老人
剛田雷蔵、御年七十歳。
年金暮らしの彼が、九十九歳で大往生を遂げた母を天国へ見送ってから、まだ一週間も経っていなかった。
「雷蔵……これからは、自由に生きてね」
それが、病床で雷蔵のゴツゴツとした手を握りながら残した、母の最期の言葉だった。
生前、母は雷蔵に対してたった一つだけ、耳にタコができるほど厳しく言い聞かせていたことがあった。それは「絶対に、いかなる理由があっても他人に暴力を振るってはいけない」という掟である。
それは、決して高尚な平和主義や倫理観からくる言葉ではない。純粋な「恐怖」と「危惧」からだった。
雷蔵の肉体は、生まれつき異常なほど頑強にできていた。幼稚園の頃、友達とふざけて軽く肩を小突いただけで、相手の子供を砂場の向こうまで吹き飛ばしてしまったことがある。思春期になれば、不良に鉄パイプで殴られても「蚊に刺されたみたいだ」と首を傾げ、逆に鉄パイプの方がひん曲がった。
彼がもしその気になって暴力を振るえば、人間など簡単に壊れてしまう。母はその規格外の力に怯え、同時に息子が「人殺しの化け物」にならないよう、必死に「暴力絶対禁止」という呪縛をかけ続けたのだ。雷蔵もまた、女手一つで育ててくれた母を深く愛し、尊敬していたため、その言いつけを七十年間、馬鹿正直に守り抜いてきた。
しかし、その母はもういない。
「自由に生きてね」という最期の言葉は、奇しくも雷蔵という巨大な猛獣を縛り付けていた、唯一にして最強の「鎖」が解き放たれたことを意味していた。
――しかし当の雷蔵本人は、そんな自らの危うさなど露知らず、今日も平和に日課の散歩へと出かけていた。
ある晴れた日の午後。
七十歳という年齢を感じさせない、背筋のピンと伸びた足取り。着古したジャージ姿の彼は、同年代の老人と比べれば少し肩幅が広く、がっしりとした骨格をしているものの、一見すればどこにでもいる「元気な近所のお爺ちゃん」にすぎない。しかしその内側には、物理法則を無視したような異常な密度の筋肉と骨が隠されている。
雷蔵はズンズンと大股で、見慣れた街を歩いていた。
大通りに面した横断歩道。歩行者用信号が青に変わる。
雷蔵が横断歩道に足を踏み入れた、その時だった。
「キキキキキキィィィィッ!!」
鼓膜を劈くような、遅すぎる急ブレーキの音。
雷蔵が横を向くと、二トントラックが猛スピードでこちらへ突っ込んでくるのが見えた。運転席の若い男は、片手にスマートフォンを握りしめ、完全に前方不注意だった。赤信号に気づくのが遅れ、もはや停止は間に合わない。
(あ、ぶつかるな)
雷蔵がそう思った瞬間。
ドゴォォォォォォン!!! という爆発のような轟音が大通りに響き渡った。
周囲を歩いていた人々は悲鳴を上げ、目を覆った。誰もが、哀れな老人が宙を舞い、アスファルトに叩きつけられて即死したと確信した。
シューシューと、トラックのラジエーターから白い蒸気が吹き上がる。
しかし、土煙が晴れたあとに周囲の野次馬が見た光景は、常軌を逸していた。
「……痛ぇな。どこ見て運転してんだ、このすっとこどっこいが!!」
怒鳴り声と共に立っていたのは、一歩たりとも後ずさりすることなく、仁王立ちしている雷蔵の姿だった。
そして信じられないことに、トラックのフロントバンパーは、まるで巨大な岩盤にでも激突したかのように見事なV字型にひしゃげ、ひどく陥没していたのである。トラックのボンネットは雷蔵の体の形に合わせてベコッと凹み、完全に走行不能になっていた。
「え……あ、あれ? じいさん、生きて……いや、トラックが……!?」
エアバッグ越しに青ざめた顔を見せた運転手は、ガクガクと震えながら腰を抜かしていた。ただの老爺を轢いたと思ったら、なぜか自分のトラックの方が大破しているのだ。脳の処理が追いつかないのも無理はない。
雷蔵はジャージについたホコリをパンパンと払い、首をポキポキと鳴らした。骨に異常は全くない。かすり傷一つ、打撲の青あざ一つできていなかった。ただ、お気に入りのジャージが少し汚れたことだけが腹立たしかった。
「スマホなんぞ見ながら運転してっからそうなるんだ! まったく、最近の若いもんは前もまともに見れねぇのか!」
「ひっ……! す、すいません! 今、救急車と警察を……!」
「馬鹿野郎、車はベコベコだが自業自得だ! 俺は無傷だから救急車も警察も呼ばんでいい! 調書とるのなんか面倒くさくて敵わん。ほれ、邪魔だ邪魔だ、どきな!」
雷蔵は唖然とする運転手に対し、シッシッと犬を追い払うように手を振ると、きびすを返した。
周囲の歩行者たちが「えっ、あのトラックとぶつかって無傷?」「やば、動画撮っとこ」とスマートフォンを向け始める中、雷蔵は何事もなかったかのように、再びズンズンと散歩の続きへと歩き出してしまった。
残されたのは、フロントがぐちゃぐちゃになったトラックと、呆然と立ち尽くす運転手、そしてざわめく野次馬たちだけだった。
これが、のちに日本中を揺るがす「触らぬ神」こと、剛田雷蔵の伝説の始まりである。




