『断罪した瞬間、王子は全てを間違えた ――本物の悪役令嬢は、玉座の前に残っている』
「悪役令嬢の断罪」は、分かりやすくて気持ちのいい物語です。
悪が裁かれ、正義が勝ち、拍手が起こる。
けれど、その裁きは本当に「確認」されたものなのでしょうか。
誰かが泣いたから、誰かが怒ったから、悪役が決められていないでしょうか。
この物語は、ざまぁではありません。
断罪という行為そのものを、制度と責任の側から見直す話です。
誰かを裁くなら、証拠が要る。
権力を持つなら、感情より手続きを優先しなければならない。
それを怠った瞬間、王子は英雄ではなくなり、国は危うくなります。
本物の悪役令嬢は騒がず、玉座の前に残ります。
追放された少女は、文字と記録の側に立ちます。
二人とも復讐はせず、同じ間違いが繰り返されない形を作ります。
これは、拍手の物語ではありません。
確認と責任の物語です。
その日、王都の空は妙に明るかった。冬の薄日が白い石畳を磨き、学院の尖塔を淡く照らし、広場に集まった見物人の頬を冷やしていった。
人は、裁きが始まる前から勝敗を知っているつもりになる。正義の旗が掲げられ、王子が壇上に立てば、物語は完成する。あとは台詞を当てはめるだけだ、と。
王立セレスタ学院の中庭、薔薇の回廊の中央に、臨時の「断罪席」が設けられていた。椅子は三つ。中央は王太子レオナルト。左右には同学年の貴族子弟が座り、名目だけの「陪審」を務める。
その前に立たされているのは、一人の少女だった。
エリス・ライナー。
地方の小伯爵家の次女で、奨学金を得て学院に通っている。金髪は薄い麦の色、瞳は灰青。白い襟の制服は丁寧に繕われ、背筋は真っ直ぐだが、指先は冷えでわずかに震えていた。
向かい側には、聖女候補として囁かれる平民上がりの少女がいる。名はクララ。清らかな銀髪、見上げるような大きな瞳、頬に涙が一粒落ちれば、世界が味方につく顔だった。
そして、王太子の背後。薔薇の回廊の陰から、もう一人の女性が静かに見守っていた。
深い黒髪を一つにまとめ、装飾を抑えた礼服を着る。立ち姿だけで「格」がわかる。周囲の空気が、彼女の呼吸に合わせて整う。
エリス・フォン・グラシアン。公爵家令嬢。学院の上級生であり、王都社交界の中心にいる存在。
世間が「悪役令嬢」と呼ぶなら、彼女こそがその型に最も似合う女だった。
王太子が声を張った。
「エリス・ライナー。貴様はクララに対する数々の嫌がらせ、虚偽の噂の流布、実験棟での事故誘発、そして王家の宝珠を盗もうとした嫌疑により、ここに断罪する」
ざわめきが走る。
エリス・ライナーは、最初の一文で自分が死刑宣告を受けたような気分になった。嫌がらせ。噂。事故。宝珠。
どれも身に覚えがない。だが、身に覚えがないという言葉は、いつだって弱い。証拠のない否定は、見物人の退屈を誘うだけだ。
「その罪は重い。よって貴様を学院から追放し、爵位に相当する名誉を剥奪。王都より遠ざけ、辺境の修道院へ送る」
剥奪。追放。修道院。
言葉が石のように落ちた瞬間、エリス・ライナーの周囲から音が消えた。
誰かが笑い、誰かが「悪役の末路だ」と囁く。
クララは涙を拭いながら、しかし確かな勝者の顔で頷いた。
エリス・ライナーは、喉の奥が乾きすぎて声が出ない。それでも絞り出した。
「殿下……私は、宝珠を見たことすら……」
「黙れ」
王太子は話を終わらせるように手を振った。
「言い訳は聞き飽きた。クララが傷ついた。それが真実だ」
真実、という言葉が最も乱暴に使われる場面がある。
誰かが泣けば、真実が確定する。誰かが怒れば、正義が成立する。
王太子は、その仕組みに酔っていた。英雄のように見える自分に、そして拍手に。
そのとき、回廊の影の女――エリス・フォン・グラシアンが、ほんのわずかに目を細めた。
視線は、断罪される少女へではなく、王太子の横顔へ向いている。
まるで、何かを測っているように。
エリス・ライナーは、その視線に気づいた。
氷の上を歩くような気配。怒りでも哀れみでもない。
ただ、静かな観察。
数刻後、追放の手続きが始まる。護衛騎士が来て、エリス・ライナーの荷物は最低限にまとめられ、学院の門から出される。
門の外で、冬の風が彼女の制服の裾を煽った。
王都の石造りの街並みが、急に遠い異国に見えた。
馬車に乗せられる直前、エリス・ライナーは最後に振り返った。
学院の高い壁の上、薔薇の回廊の向こうに、黒髪の女が立っている。
彼女は、微笑まない。手も振らない。
ただ、玉座の前に立つ人間が持つ、あの「揺るがなさ」だけをまとっている。
その時点では、エリス・ライナーはまだ知らなかった。
自分の追放が、ただの冤罪では終わらないことを。
そして、王太子が「断罪した瞬間」に失ったものが、恋でも名誉でもなく、王国そのものだということを。
――――――
馬車は王都を離れ、雪の残る街道を北へ進んだ。
護衛は二人。言葉少なに、必要最低限の指示だけを出す。彼らの態度には、露骨な憎しみはなかった。ただ、仕事として運んでいるだけだ。
冤罪で追放された者にとって、無関心ほど冷たいものはない。
夜、簡素な宿に泊まった。エリス・ライナーはベッドに横たわり、天井の染みに目を向ける。
頭の中で、王太子の言葉が反響していた。
クララが傷ついた。それが真実だ。
それは、論理ではなかった。
統治者の言葉として、最悪の種類の断定だった。
誰かが傷ついたという事実と、誰が傷つけたかという判断は、別のはずなのに。
だが、この国の空気は長いあいだそれを混ぜて生きてきた。
王太子がそれを口にしたのは、彼個人の幼さだけではない。周囲が、その言葉を許す土壌を作ってきたのだ。
翌日、馬車の途中で老紳士が同乗した。道中の護衛が、何かの都合で馬車を替えたらしい。
老紳士は小さな鞄を抱え、身なりは質素だが、目の奥が鋭い。
エリス・ライナーを見て、静かに会釈した。
「修道院へ?」
「はい」
それだけの会話のあと、沈黙が続いた。
しかし数刻後、老紳士はぽつりと呟いた。
「断罪とは、便利な言葉だ。便利すぎて、王族ほどそれに酔いやすい」
エリス・ライナーは思わず顔を上げた。
「……ご存じなのですか」
「王都では、噂が先に到着する」
老紳士は窓の外の雪原に視線を落とした。
「君の名も、王太子の演説も、すでに酒の肴になっている。だが私は、噂ではなく仕組みのほうが気になる」
「仕組み?」
「裁きの仕組みだ。確認の仕組みだ。証拠の仕組みだ。王太子は、それを踏み越えていないか」
その言葉だけで、エリス・ライナーは胸が詰まった。
初めて、自分の中の冷えた怒りが「形」になった気がした。
彼女は震える声で、学院で起きたことを話した。嫌がらせの内容、噂、事故、宝珠。どれも身に覚えがないこと。王太子が言い訳を許さなかったこと。
老紳士は黙って聞き、最後に短く息を吐いた。
「君は、罪を否定したいのではない。手続きの不備を訴えたいのだな」
エリス・ライナーは、しばらく考えてから頷いた。
「……はい。私が罰を受けるべきなら、証拠を示してほしい。示されれば、受け入れます。でも、ただ涙で決められるのは……」
「その感覚は正しい」
老紳士は鞄から薄い冊子を取り出し、彼女に渡した。
「王国法の要点だ。修道院に行けば、君は黙らされる。だが文字は、黙らない」
「あなたは……」
「名乗るほどの者ではない」
老紳士は微笑を薄く浮かべた。
「昔、王都で判事をしていた。それだけだ」
馬車が揺れた。雪の道を進む音の中で、エリス・ライナーは冊子の表紙を撫でた。
生き延びるために必要なのは、感情ではなく記録だ。
彼女は、初めて自分にできる戦い方を見つけた。
――――――
一方、王都では「英雄劇」の続きが上演されていた。
王立セレスタ学院の断罪は、王太子の人気を一時的に押し上げた。
見物人は、悪役が転げ落ちる瞬間が好きだ。
クララは可憐な被害者として讃えられ、王太子は彼女を守った正義の騎士として語られた。
だが、政治は拍手だけで回らない。
王城の奥、執務棟では王が病床に伏し、政務は重臣たちと王太子が分担していた。
分担、と言えば聞こえはいいが、実態は重臣が回し、王太子は「重要な場面だけ」顔を出して署名する――その程度だ。
その会議室に、静かに入ってくる影がある。
エリス・フォン・グラシアンだった。
彼女は重臣たちに一礼し、王の寝室へ向かう前に、必要な書類を整える。税制の改定案、辺境の兵站、疫病対策、港湾の利権整理。
机上の数字に強く、言葉に余計な飾りがない。
誰かが感情で揉め始めると、彼女は淡々と論点を整理し、決裁ラインを引き直す。
重臣たちは最初、警戒した。
公爵令嬢が政治の場に口を挟むなど前例が薄い。しかも彼女には「悪役令嬢」という不名誉な呼称がつきまとっている。
しかし、政務において最も評価されるのは名声ではなく結果だ。
王は病床で、彼女の提出する要約に目を通し、短く言う。
「……よく見えている。お前がいなければ、会議は泥になる」
その言葉が、王宮に静かに広がった。
王は孤独だった。重臣は利害の塊で、王太子は舞台の上の人間だった。
王の隣に立ち、現実を扱える者が必要だった。
そして、ある夜。王の侍医が重臣を呼び、こう告げた。
「陛下の容体は、回復は難しい。ただし、精神は明晰です。政務の継続には、補佐の常設が必要でしょう」
重臣たちは互いの顔を見た。
王太子が補佐を常設する? 無理だ。
王太子は、自分が演出できない裏方の仕事を嫌った。書類の山、数字の細部、地方領主の苦情。そうしたものに耐えられない。
では誰が王の隣に立つのか。
そのとき、誰もが同じ名前を思い浮かべた。
エリス・フォン・グラシアン。
翌日、王は正式に彼女を病床付の補佐官として任命した。
名目は「臨時の政務補佐」。だが実態は、王妃が担う役割に近かった。
王妃はすでに亡く、王は長く独り身だった。
だからこそ、余計に自然に、彼女は「玉座の前」に残り続けることになる。
王太子レオナルトは、その動きを軽く見た。
彼にとって政治は、王になってから自分の好きなように整えればいいものだった。
いま大事なのは、学院のクララを守り、民衆の喝采を得ること。
そう信じていた。
だが、城の空気は変わり始める。
重臣が王太子に進言しても、王太子は苛立つだけになった。
「どうしてそんな細かいことを私に言う。父上はまだ生きている。私は、国の顔として振る舞えばいい」
重臣は表情を崩さず、内心で結論を固めていく。
この王太子は、統治の器ではない。
そして、王はそれを理解している。
――――――
北の修道院は、石造りで風が強かった。
エリス・ライナーは、そこで「静かに悔い改める」役を演じさせられた。
毎朝の祈り、炊事、洗濯。労働は厳しいが、暴力はない。
しかし、手紙は検閲され、外の情報は遮断される。
彼女は社会から切り離されることで、存在そのものを薄められていった。
老判事の冊子は、唯一の武器だった。
夜、灯りを落とした寝室で、彼女は法の条文を読み、手続きの要件を紙に書き写した。
断罪には告知と弁明の機会が必要であること。証拠の提示が必要であること。証言は複数の一致が求められること。
王太子の断罪は、どれも満たしていない。
そして、彼女は「名前」に注目した。
王太子は確かに言った。「エリス・ライナー」と。
彼は彼女を直接指名した。
だが、噂の中で語られるのは「エリス」という名前ばかりで、苗字は曖昧だった。
悪役令嬢と呼ばれる公爵令嬢もまた、エリス。
王都の人々は、二人を混ぜて飲み込んでいる。
ある晩、修道院に届いた食材の荷から、こっそりと王都の新聞が紛れ込んだ。
修道女の一人が、同情から彼女に渡してくれたのだろう。
そこには、信じられない見出しが踊っていた。
「陛下、臨時政務補佐に公爵令嬢エリス・フォン・グラシアンを任命」
「王太子、学院改革を宣言」
「聖女候補クララ、王城での祈祷に参加」
エリス・ライナーは、紙を握りしめた。
自分を追放した騒ぎの裏で、本物の「悪役令嬢」は王城に入り、王の隣に立っている。
断罪の場に現れなかったのではない。
現れる必要がなかったのだ。
彼女は、舞台ではなく玉座の前で勝負している。
その構図が見えた瞬間、エリス・ライナーは奇妙な確信を抱いた。
自分が追放されたこと自体が、誰かにとって都合が良い。
そして都合が良い者は、舞台の外にいる。
彼女は書いた。
王都の法務庁宛に、請願書を。
自分の断罪手続きの不備、証拠の提示要求、関係者の聴取要請。
修道院の検閲を抜けるために、祈祷文の間に文言を織り込み、別の修道女の助けを借りて外へ出した。
その紙片が、王都へ届いたとき――
王太子が気づかないうちに、彼の足元の床は崩れ始めていた。
――――――
王城の冬は深かった。
王は容体が悪化し、夜中の咳が増える。
その寝室の前室で、エリス・フォン・グラシアンが書類を整えていた。
彼女の筆は迷いなく走り、要点だけが美しく並ぶ。
「……王太子殿下は、今日も会議を欠席された」
重臣の一人が疲れた声で言う。
「学院で演説があるそうです」
エリスは淡々と答えた。
「民衆の拍手は、数字の欠損を埋めません。ですが、殿下は拍手のほうが好きなのでしょう」
重臣が苦笑した。
彼女は言葉を選ばないが、無駄な煽りもしない。
事実をそのまま置く。
置かれた事実は、誰にもどかせない。
王が呼んだ。
重臣とエリスが寝室に入る。
王は枕に身を起こし、荒い呼吸の合間に言った。
「……後添えを迎える」
重臣が息を呑む。
エリスは目を伏せたまま、ただ一度だけ呼吸を整えた。
王は続ける。
「国は、揺れている。王太子は未熟だ。王妃の座を空けたままでは、外も内も不安定になる。……エリス、お前が引き受けろ」
重臣の頭の中で、政治の計算が高速で回る。
王が結婚すれば、王妃が生まれ、宮廷は安定する。
公爵家の後ろ盾も強い。
王太子の暴走を抑え、政務を現実に引き戻す鎖になる。
しかし同時に――王太子の立場は弱まる。
王妃が生まれ、もし王に子ができれば、継承権の順位が揺らぐ。
王太子がそれを受け入れるとは思えない。
エリス・フォン・グラシアンは、顔を上げた。
その目は、揺れていなかった。
「承知いたしました。陛下の意思が王国の安定に資するなら、私は王妃となります」
その言葉は愛ではない。
だが、王国にとっては、愛より価値があった。
王はわずかに笑い、指先で彼女の手を叩いた。
「……お前は、玉座の前に立てる」
数日後、王宮は正式な発表を行った。
国王、後添えを迎える。相手は公爵令嬢エリス・フォン・グラシアン。
王妃となり、政務補佐を継続する。
民衆は驚き、貴族は計算し、聖職者は祈った。
そして、王太子だけが激怒した。
「ふざけるな……!」
王太子は執務棟の廊下で叫び、壁を殴った。
「父上が正気でそんな判断をするはずがない。あの女が、何か吹き込んだのだ」
彼の側にはクララがいた。泣きそうな顔で彼を見上げる。
王太子はそれを守るように肩を抱き、しかし自分の怒りの燃料にした。
「私は正義を示した。悪を裁いた。なのに、王宮は悪を迎え入れるのか」
彼が言う「悪」とは、もはや誰なのか。
追放したエリス・ライナーか。
王妃になるエリス・フォン・グラシアンか。
あるいは、自分を見て拍手しない現実そのものか。
――――――
その頃、法務庁に一通の請願書が届いていた。
担当官は最初、笑い飛ばそうとした。追放者の訴えなど、日々山ほど来る。
だが、その文面は異様に整っていた。条文引用が正確で、手続きの欠落が具体的だ。
何より、王太子の断罪が「学院内の臨時裁定」でありながら、実質的に刑罰と同等の処分を下している点が問題だった。
法務庁は、慎重に内偵を始める。
学院の記録を取り寄せ、宝珠管理の台帳を確認し、事故の報告書を照合する。
そして、すぐに異常が見つかった。
宝珠が盗まれかけたという日時、宝珠は王城の祭具庫に移されていた。学院にあるはずがない。
実験棟の事故報告書には、当日の立会人として「エリス」の署名があるが、苗字が記載されていない。
噂の出所は複数あるものの、最初に広めたのはクララの取り巻きの一人だった。
しかも、その取り巻きは、王太子の側近貴族の妹である。
法務庁が動いた時点で、これは「学院の恋愛沙汰」では済まなくなった。
王太子の権限乱用。証拠の不整合。政治的信用の毀損。
さらに、王宮が王妃を迎える直前という、最も敏感な時期だ。
重臣たちの机にも報告が上がる。
そして、その報告を受け取った王妃予定者――エリス・フォン・グラシアンは、静かに目を通した。
彼女は言った。
「……殿下は、断罪した瞬間に全てを間違えたのですね」
重臣の一人が問う。
「王妃殿下、どうされますか。追放者の訴えを握り潰すことも可能です」
「不可能です」
エリスはきっぱり言った。
「握り潰せば、王家の裁きが“感情で決まる”と証明されます。それは王国を腐らせる。腐った王国は、私の王妃としての価値も下げる。……私は、玉座の前に立つ者として、腐敗を選びません」
彼女は、法務庁に正式な調査を命じる文書に署名した。
それは、王太子の足元に最後の亀裂を入れる署名だった。
――――――
修道院から王都へ、エリス・ライナーが呼び戻されたのは、雪解けが始まる頃だった。
馬車に乗るとき、修道女たちは彼女を見送った。誰も声を上げない。
彼女が「罪人」だったのか「冤罪」だったのか、彼女たちもまだ判断できないのだ。
王都に戻った彼女を待っていたのは、拍手ではなく静かな会議室だった。
法務庁の官吏、重臣の代理、学院の関係者。
そして、王妃となる前の黒髪の女。
エリス・ライナーは、その場で初めて彼女と真正面から目を合わせた。
エリス・フォン・グラシアンは、相手を威圧するような視線を使わない。
ただ、逃げ道のない「正面」を置く。
「エリス・ライナー」
彼女は静かに呼んだ。
「あなたの請願は、王国の法に照らして正当です。手続きに欠落があり、証拠は不整合でした。よって、追放処分は無効となります」
会議室に小さなどよめきが走った。
エリス・ライナーは、肩の力が抜けそうになるのを必死で堪えた。涙を見せれば、また物語の餌になる。
彼女はただ、深く一礼した。
「……ありがとうございます」
「礼は不要です」
エリス・フォン・グラシアンは淡々と続けた。
「これはあなた個人の救済ではありません。王国の手続きの修復です」
その言葉は冷たいようでいて、どこか誠実だった。
王国という仕組みの中で、人が生き延びるためには、誰かが仕組みを守らねばならない。
王太子はそれを壊した。
この女は、それを直す。
法務官が報告を読み上げた。宝珠の所在、事故報告の矛盾、噂の出所。
そして結論が落ちる。
「王太子殿下の断罪は、証拠の提示と弁明の機会を欠いた。よって、王家の名誉を損ね、法を軽んじた」
王太子は当然、反発した。
会議室の扉が開かれ、怒りに燃えた彼が入ってくる。
「これは謀略だ。あの女が……!」
彼の視線は王妃予定者へ突き刺さる。
エリス・フォン・グラシアンは、微動だにしなかった。
彼女は、王太子を見上げるのではなく、同じ高さの現実を置くように見た。
「殿下」
彼女は静かに言う。
「あなたは、確認をしませんでした。証拠の所在も、報告書の署名も、宝珠の管理台帳も。あなたは“物語”だけで裁きを下した。統治者がそれをした瞬間、王国は崩れます」
「私は正義を示した!」
王太子の声は震えていた。
「クララが傷ついた。それで十分だ!」
「十分ではありません」
エリスの声は低く、しかし明確だった。
「傷ついた者を守るには、正しい犯人を裁かねばならない。あなたが裁いたのは無関係の少女でした。守ったのはクララではなく、あなたの英雄像です」
王太子は言葉を失った。
彼の背後で、クララが顔を青くする。
彼女の取り巻きの一人が、ついに崩れ落ちるように告白した。
噂を広めたのは自分だ。王太子に気に入られたかった。クララを勝たせたかった。
宝珠の件は、そもそも「王城の宝珠」だと知らなかった。学院にあると思い込んで、話を膨らませた。
事実は、拍手より冷たい。
だが、冷たい事実こそが、国家を支える。
数日後、王宮から正式な処分が発表された。
王太子レオナルトは、王位継承順位の停止。王太子位を剥奪され、王族としての権限を制限される。
理由は「法の軽視と王家の信用毀損」。
彼は「追放」ではなく「隔離」に近い形で、王都近郊の修道施設へ送られた。
皮肉なことに、エリス・ライナーが送られたのと同じ種類の場所へ。
クララは聖女候補の地位を失った。
泣いても、もう物語は彼女を救わない。
涙が真実を作る時代は、ここで終わらせる――王宮はそう宣言した。
――――――
そして、王の結婚式が執り行われた。
王は病床から出られず、儀式は簡略化されたが、それでも王妃の冠は重い。
エリス・フォン・グラシアンは、冠を受け、玉座の前に立った。
その姿を見て、貴族たちは理解した。
彼女は勝ったのではない。最初から勝ち筋にしか立っていない。
舞台の拍手ではなく、制度の中心で。
式の後、王妃はエリス・ライナーを呼んだ。
王城の回廊は長く、窓から射す光が石床に白い帯を作る。
エリス・ライナーは、かつて追放された少女ではなくなっていた。視線が落ち着き、言葉の順序が整っている。修道院で学んだのは祈りだけではない。
黙らされる場所で、彼女は「文字」を手にした。
「あなたを学院に戻すことはできます」
王妃は言った。
「ですが、学院はあなたを守れません。民衆は簡単に物語へ戻る。私は、あなたに別の道を提示します」
「別の道……」
「法務庁で働きなさい」
王妃の声は、提案というより配置だった。
「あなたは手続きを見た。欠落を指摘し、言葉で戦った。その経験は、王国に必要です。王太子が壊したものを、二度と壊させないために」
エリス・ライナーは一瞬、躊躇した。
自分は貴族の次女で、政治の中枢など遠いと思っていた。
だが、遠いと思っていた場所から、理不尽はやって来た。
ならば、遠い場所に戻っても、同じことが繰り返されるだけだ。
彼女は深く頭を下げた。
「……お受けします。私にできることがあるなら」
王妃は、ほんのわずかに口元を緩めた。
それは微笑というより、評価だった。
「あなたが追放されたのは不幸でした」
王妃は言う。
「ですが、その不幸が王国の欠陥を露出させた。あなたが請願しなければ、王太子の“裁きごっこ”は続き、いずれ本当に国が壊れていたでしょう」
エリス・ライナーは言葉を探した。
目の前の女が、どこまで計算し、どこまで偶然に乗ったのか。
それでも一つだけ確かなことがある。
彼女は、断罪の場から逃げたのではない。
断罪の場を必要としない場所にいた。
「王妃殿下」
エリス・ライナーは、恐る恐る問うた。
「あなたは……あの日、私が間違われていると、気づいていましたか」
王妃は、答えるまで少しだけ間を置いた。
「気づいていました」
胸の奥が、冷たくなる。
怒りが湧きかけ、しかし同時に理解も湧く。
王妃は続けた。
「ですが、あの場で私が口を挟めば、殿下は引き返したでしょうか」
王妃の声には、感情の揺れがない。
「殿下は“物語”を欲していた。私が止めれば、私が悪役になり、クララが悲劇のヒロインになり、あなたは別の形で潰された。……止めるべきは、殿下の行為ではなく、殿下がそれを許される仕組みでした」
王妃は回廊の窓を見た。
外に、王都が広がる。石と人と税と祈りと噂。
「統治とは、感情を否定することではありません。感情を、手続きの枠に入れることです。枠がなければ、涙が法律になります」
エリス・ライナーは、ゆっくり息を吐いた。
恨みは消えない。だが、その恨みを燃料にする先が見えた。
復讐ではない。再発防止だ。
それは地味で、拍手がなく、しかし確実に国を変える仕事だ。
「あなたは、玉座の前に残った」
エリス・ライナーが呟く。
「残るべき場所に残りました」
王妃は淡々と返した。
「殿下は、舞台に立つべきではなかったのです。玉座の前に立てない者が、玉座を欲しがると国は壊れる。……だから私は、玉座の前に立ち続けます」
――――――
春が来た。
雪解け水が街道を流れ、王都の市場には新しい野菜が並ぶ。
民衆はすぐに次の噂を探し、次の物語を欲しがる。
だが、王城の奥では静かに制度が締め直されていた。
学院の「断罪劇」を禁じる通達。学生間の紛争処理は法務官立会いのもとで行うこと。王族の権限行使に証拠提示を義務づける補則。
地味だが、確かな変更。
エリス・ライナーは法務庁の一室で、紙の束と向き合っていた。
誰かが泣いて訴える。誰かが怒って罰を求める。
そのたびに彼女は思い出す。
「クララが傷ついた。それが真実だ」
あの言葉の暴力を。
だから彼女は、淡々と確認する。
事実は何か。証拠はどこか。手続きは守られたか。
感情を否定しない。だが、感情に支配させない。
王妃は、相変わらず玉座の前にいた。
王は病床で静かに息をし、王妃は政務を回し、国は何とか立っている。
王太子だった男は、修道施設で静かに過ごす。拍手のない日々の中で、自分が何を失ったかを、ようやく理解し始めるだろう。
理解しないまま終わる可能性もある。
それでも国は進む。制度が支えるからだ。
そして、ある夕暮れ。
法務庁の窓から王城の方向を見たエリス・ライナーは、ふと思った。
自分の人生を壊した断罪の瞬間は、同時に王国を救う亀裂でもあったのかもしれない、と。
断罪した瞬間、王子は全てを間違えた。
その間違いを、玉座の前に残った女が拾い上げ、制度に変えた。
そして追放された少女は、二度と同じ間違いが繰り返されないよう、文字と記録の側に立った。
拍手はない。
だが、国が壊れないということは、誰かが舞台の外で働いているということだ。
薔薇の回廊の季節が巡るころ、学院の中庭はまた人で賑わうだろう。
けれど今度は、軽々しく「断罪席」は作れない。
涙だけで真実は確定しない。
それが、あの冬の日に失われたものへの、最も現実的な弔いだった。
――――――
王妃の冠は、思っていたより重くなかった。
重いのは金属ではなく、空気のほうだ――エリス・フォン・グラシアンは、そう理解していた。
王城の執務棟は、誰かが一枚紙を置けば国が動く。逆に言えば、誰かが紙を滞らせれば国が止まる。
かつては、その滞りの大半が「会議」だった。利害がぶつかり、感情が混ざり、結論が先延ばしになり、最後に王が疲れきった顔で押し切る。
王の咳は、そのたびに増えていた。
今は違う。
エリスは会議の前に、全員の論点を紙に揃えた。
必要な数字を一枚にまとめ、代替案を二つ用意し、決裁権の所在を明確にする。
重臣たちは最初、それを「公爵家の女の仕切り」と思った。だが、二週間も経てば理解した。会議が早く終わる。結論が出る。現場が動く。
そして何より、王の顔色が戻っていく。
医師が首を傾げたのは、春の初めだった。
「……陛下の呼吸が安定しています。薬は変えていない。原因があるとすれば、生活の負荷が下がったのでしょう」
負荷が下がった。
言い換えれば、王が背負っていた“国の重さ”が分散された。
王は、夜中に咳で目を覚まさなくなった。
長い回廊を歩けるようになり、庭の温室まで足を運ぶ日が増えた。
侍従たちは最初、王が無理をしているのではと止めたが、王は笑った。
「無理ではない。……久しぶりに、呼吸が胸の奥まで入る」
エリスはその言葉を、胸に置いた。
王が回復したのは奇跡ではない。奇跡に頼らず回る仕組みを作れば、人は戻る。
彼女が望んだのは、まさにそれだった。
政務は、予定どおり進んだ。
学院には法務官立会いの規定が入り、王族の権限行使に手続きの補則が追加され、貴族子弟の「舞台」は狭められた。
涙で法律が決まる土壌は、確実に乾いていく。
ある日、王が執務室で、エリスに書類の束を差し出した。
彼の目には、以前の疲弊がない。
「お前の判断で処理してよい」
王妃の判断で。
それは、信頼というより、同じ船に乗る覚悟の確認だった。
「承りました」
エリスが答えると、王は机に背を預けて、ふっと息を吐いた。
「……私は、長いあいだ“王であること”を一人でやっていたのだな」
エリスは返す言葉を慎重に選んだ。
「陛下は、背負いすぎておられました。背負える者が増えれば、背負わなくて済む」
「お前は、背負える者だ」
王は静かに言った。
「そして――背負うだけではなく、分けることもできる」
その日、王は夕食の席で初めて、政務の話を「愚痴」ではなく「相談」として語った。
エリスは聞き、必要な部分だけ返し、不要な感情を揺らさなかった。
王の笑い声が、食卓に落ちた。侍女が目を丸くし、侍従がそっと視線を逸らす。
王宮にとって、それは革命に等しい光景だった。
――――――
季節がひとつ巡った頃。
王妃の居室で、侍医が脈を取り、慎重に言葉を選んだ。
「……おめでとうございます。懐妊されています」
静寂が一拍、置かれた。
エリスは、驚きよりも先に、胸の奥に冷たい計算が走るのを感じた。
王妃の懐妊は祝福であり、同時に政治だ。
王太子の継承順位が止まっている以上、王に子ができれば、国の未来図が書き換わる。
貴族は揺れ、派閥は動く。噂は増幅する。
だが――今の王宮には、噂で国が傾く余地がない。
エリスは侍医に頷いた。
「ありがとうございます。体調管理を最優先にします。政務の手配は私が整えます」
侍医が退室したあと、エリスは窓の外を見た。
王都の屋根が続き、遠くに学院の尖塔が見える。
あの場所で起きた断罪が、ここへ繋がっている。
扉が控えめに叩かれ、王が入ってきた。
彼は、何かを察した顔をしている。
エリスは先に言った。
「陛下。……子が、できました」
王は一瞬だけ呼吸を止め、それから、嘘のない顔で笑った。
その笑いは、拍手を求めるものではない。
ただ、命が増えるという事実に、心がほどける笑いだった。
「そうか」
王はエリスの前に膝をつくように腰を落とし、両手で彼女の手を包んだ。
「……私は、また国を背負える。いや、背負うべきものが増えたからこそ、背負い方を間違えないで済む」
エリスは、珍しく言葉に迷った。
政治ではない返答を探したからだ。
「陛下が間違えないために、私がいます」
結局、彼女はそう言った。
それは彼女らしい言葉で、そして今は、それで十分だった。
王は、手を離さずに言う。
「子には、何を教えよう」
「まず、確認を」
エリスは即答した。
「涙で真実が決まる国にしない。拍手で正義が決まる王にしない。……そのために、私たちは生き延びたのですから」
王は頷く。
「お前が王妃でよかった」
その一言は、恋ではなく統治の言葉だ。
だが、統治の言葉の中にも、確かな温度があることを、エリスはそのとき初めて知った。
――――――
法務庁の一室で、エリス・ライナーは報告書を束ねていた。
王妃懐妊の報が届くと、室内の空気がわずかに引き締まった。
祝賀の準備、儀礼の調整、治安の再点検――王宮は忙しくなる。
そして忙しさは、必ず隙を生む。隙には必ず、誰かが入り込む。
エリス・ライナーは筆を止めずに言った。
「この国は、また物語を欲しがります。……だから、手続きを固めましょう。噂が走る前に、記録を走らせる」
同僚が苦笑しながら頷いた。
かつて追放された少女は、今や“国が壊れないための歯止め”になっている。
断罪した瞬間、王子は全てを間違えた。
だが、その間違いを終わりにしたのは、拍手でも涙でもなかった。
玉座の前に残った王妃と、文字の側に立った元追放者が、冷たい現実を積み上げた結果だ。
王が回復し、王妃が懐妊した。
それは幸福であると同時に、国が「正しく回り始めた」証明でもあった。
春の光が、王城の白い壁に落ちる。
遠くで鐘が鳴り、王都はいつもの喧騒を続ける。
誰もが次の物語を探している。
だからこそ、王宮の中では静かに、確認が続けられていた。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
断罪の物語は、たいてい「裁いた瞬間」で終わります。
悪が消え、正義が勝ち、拍手が起きて幕が下りる。
けれど本当は、そこからが始まりです。
国はどうなるのか。
裁いた側は責任を取れるのか。
裁かれた側は、どう生き直すのか。
この物語では、悪役令嬢は復讐しませんでした。
追放された少女も、誰かを恨んで世界を壊そうとはしませんでした。
二人が選んだのは、「壊れない形を残すこと」です。
王の心労が減り、身体が回復し、
そして王妃が懐妊するという結末は、
単なる幸福描写ではありません。
それは、この国が
・感情ではなく
・拍手でもなく
・制度と確認によって回り始めた
という証明です。
子が生まれるということは、未来が続くということです。
続く以上、間違いは許されなくなる。
だからこそ、王妃は玉座の前に立ち、
元追放者は文字と記録の側に立ちました。
断罪した瞬間、王子は全てを間違えました。
けれどその間違いは、
「次の世代に同じことをさせない仕組み」を生む材料にもなった。
ざまぁで終わらず、
勝利でも終わらず、
子を成し、国を繋ぐところまで描いたのは、
この物語が「正しさの継承」を描きたかったからです。
これは、裁く話ではなく、
続ける話でした。




