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杏色の校庭と、ふりこ細工の心  作者: 舞夢宜人


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後編:遠くで見つめた、たったひとつの浅い夢。

あらすじ:

生徒会長の早乙女真直は、恩人である陸上部の蒼井結季への初恋を、カメラ越しに遠くから見つめる観測者。その傍らで、真直を慕う右腕の篠原栞は、彼の揺れる初恋の終焉を静かに待つ。結季が幼馴染の海老名拓海と愛を成就させた卒業式の日、真直の「浅い夢」は終わりを告げる。


登場人物:

早乙女さおとめ 真直まなお:生徒会長の鎧で初恋を隠す、孤独な観測者。

蒼井あおい 結季ゆうき:陸上部のエース。真直の恩人だが拓海と愛を貫く。

篠原しのはら しおり:真直の右腕。彼の孤独を知る、計画的な初恋の相手。

海老名えびな 拓海たくみ:結季の幼馴染で恋人。揺るぎない愛で彼女を支える。


第13話 最後の取材班


 終業式を終えたばかりの校舎には、数百人の生徒たちが吐き出した解放感の残滓と、急速に訪れた静寂とが奇妙に混ざり合った空気が澱んでいた。窓の外では油蝉の大合唱が鼓膜を震わせるほどの音量で降り注ぎ、アスファルトからの照り返しが視界を白く歪めている。僕は冷房の効いた生徒会室の長机に広げられた機材リストと、地方大会の取材許可証、そして陸上部の競技日程表を無言で見下ろしていた。いよいよ始まるのだ。高校三年間の集大成であり、蒼井結季という少女が駆け抜けた青春の、そして僕という男が抱き続けた「浅い夢」の、最後の季節が。僕は生徒会長としての職権と卒業アルバム編集部チーフという立場を最大限に行使し、異例とも言える「生徒会特別取材班」を編成して大会への同行を決定した。周囲からは生徒会の私物化ではないかという批判の声も上がったが、それらはすべて「全校生徒の活動記録を等しく残すため」という大義名分と、副会長である篠原栞の完璧な根回しによって封殺されていた。


「機材の最終チェック、完了しました。予備のバッテリーとフィルムも、想定の倍は用意してあります」


 栞がチェックリストに流麗な文字でレ点を打ちながら、事務的な口調で報告してくる。彼女は今日のために、僕の個人的な感傷に付き合う共犯者として、あるいは僕の暴走を制御する監視役として、膨大な事務処理を完璧にこなしてくれた。彼女の額には汗一つなく、涼しげな表情の裏にどれほどの労力が隠されているのかを想像すると、感謝よりも先に罪悪感が胸を刺す。


「ありがとう。……篠原、君には本当に感謝している。こんな我儘に付き合わせてしまってすまない」


 僕は心からの言葉を紡いだが、彼女は手元のリストから目を離さずに首を横に振った。


「感謝の言葉は、最高の結果を出してからにしてください。それに、これは会長個人の我儘ではなく、卒業アルバムのクオリティを担保するための公務です。……そうでしょう?」


 彼女は顔を上げ、眼鏡の奥から射抜くような視線を僕に向けた。その瞳は「言い訳は許さない」と告げているようでもあり、「最後まで覚悟を決めろ」と叱咤しているようでもあった。彼女の言う通りだ。僕は公務という鎧を纏い、その内側にドロドロとした私情を隠し持っている。ならばせめて、その成果物である写真は、誰が見ても恥ずかしくない一級品でなければならない。それが、僕の欺瞞に加担してくれた彼女への唯一の報いなのだから。


「ああ、分かっている。これが最後だ。……僕の『浅い夢』の、終わりの始まりだ」


 僕は重厚な一眼レフカメラを手に取り、その冷たく硬質な感触を掌で確かめた。ファインダーを覗き込み、ピントリングを回す。暗い室内から眩い窓の外へと焦点を合わせると、世界は一瞬で切り取られ、僕の支配下に入ったかのような錯覚を覚える。このカメラで、結季の最後の輝きを切り取る。彼女が拓海と共に未来へと駆け抜けていく姿を、僕の瞳とフィルムに焼き付ける。それが、好きだよと言えずに終わる僕にできる、唯一の、そして最後の「愛」の形なのだと自分に言い聞かせた。


 翌朝、僕たちは学校が手配したマイクロバスに乗り込み、地方大会の会場である県営陸上競技場へと向かった。陸上部の選手たちは早朝に専用バスで出発しており、このバスに乗っているのは生徒会の取材班数名と、応援団の代表者たちだけだ。車内は静まり返り、適度な振動とエンジンの低音だけが響いている。僕は最後尾の座席に陣取り、膝の上に置いたカメラバッグを赤子のように抱きしめながら、窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めていた。高速道路の防音壁が一定のリズムで視界を遮り、その隙間から見える空は、残酷なほどに青く澄み渡っている。


 脳裏に浮かぶのは、この一年半の間に僕が見てきた結季の姿だ。雨の体育祭で流した悔し涙、リハビリ中の孤独な横顔、そして桜の下で見せた穏やかな微笑み。三年間、遠くから見つめ続けてきた彼女の断片が、走馬灯のように駆け巡る。遠くで僕はいつでも君を探してた。村下孝蔵の歌詞が、バスのタイヤがアスファルトを刻む音と重なって、頭の中でリフレインする。僕はずっと「観測者」だった。彼女の人生という舞台の、客席の最前列ではなく、劇場の外にある窓から覗き見るだけの存在。その距離感こそが僕の恋の本質であり、それを壊さないことだけが、僕の矜持だった。


 会場に到着すると、そこは熱気と興奮の渦だった。色とりどりのユニフォームを着た他校の選手たちが行き交い、ブラスバンドのチューニング音や応援の声が不協和音となって響き渡っている。夏の日差しが容赦なくトラックのタータンを焼き、陽炎が揺らめく向こう側で、選手たちがアップを始めている姿が見えた。ムッとするような草の匂いと、制汗スプレーの人工的な香り、そして湿った土の匂いが混じり合い、独特の緊張感を醸し出している。僕は取材許可証を首から下げ、腕章を巻き、カメラを構えてグラウンドレベルへと足を踏み入れた。


 陸上部の待機場所を探すのに、時間はかからなかった。トラックの第4コーナー付近、芝生の上に葵陵高校のジャージの塊がある。その中心には、やはり彼がいた。海老名拓海。キャプテンマークを巻いた彼は、部員たちを集めて円陣を組もうとしているところだった。そのすぐ隣に、結季がいる。彼女は髪を短く束ね、真剣な表情で拓海の言葉に耳を傾けていた。


「……いいか、俺たちがやってきたことは間違っていない。このトラックで、全てを出し切れ」


 拓海の声は力強く、よく通った。彼は決して感情的にならず、しかし部員たちの士気を最高潮まで高める言葉を選んで紡いでいる。結季が大きく頷き、拓海の顔を見上げた。その瞳には、全幅の信頼と、戦場に赴く同志としての絆が宿っていた。二人の視線が絡み合い、言葉以上の何かが交換される瞬間を、僕は数十メートル離れた場所から目撃していた。


 僕は望遠レンズを構え、その光景を切り取った。


 カシャリ。


 シャッター音が、僕の決意の合図となる。ファインダーの中の二人は、あまりにもお似合いで、そして完成された世界の中にいた。僕が入り込む余地など、最初から1ミリも存在しなかったのだという事実が、乾いた痛みとなって胸を打つ。しかし、不思議と涙は出なかった。ただ、美しいものを美しいまま記録しなければならないという使命感だけが、震える指先を鎮めていた。


「会長、準備はいいですか?」


 栞が背後から静かに声をかけてきた。彼女もまた、記録係としてノートとペンを手にし、僕と同じ方向を見つめている。彼女の視線が何を見ているのか、今の僕には問う余裕がなかった。


「ああ。……行こう」


 僕は短く答え、取材エリアの指定位置へと向かった。結季が出場する女子100メートル予選は、もうすぐ始まる。僕はカメラのISO感度を調整し、シャッタースピードを確認した。世界が、狭く、鋭く、彼女一人に焦点フォーカスされていく。僕の最後の夏が、今、幕を開けた。


---


第14話 結季の不安と恩人


 真夏の太陽が容赦なく照りつける県営陸上競技場は、すり鉢状の構造が熱気を逃さず、底に溜まった空気は陽炎となって揺らめいていた。スタンドを埋め尽くす各校の応援団が上げる歓声や、ブラスバンドの演奏が入り混じって巨大な唸り声のように響き渡り、フィールドに立つ選手たちの鼓膜を絶え間なく振動させている。僕は生徒会特別取材班としての腕章を巻き、首から重たい一眼レフカメラを下げて、トラックの内側に設けられた選手待機エリアの端に立っていた。ここからなら、ウォーミングアップをする選手の表情や筋肉の動きまで鮮明に見渡せる。しかし、僕の視界とレンズが捉えようとしている対象は、無数にいる選手の中でただ一人、蒼井結季だけだった。


 彼女は一人、芝生の上に座り込み、念入りにストレッチを行っていた。周囲には他校の選手やチームメイトもいるはずだが、彼女の周りだけ真空地帯のように静まり返っているように見える。その表情は硬く強張り、視線は足元の一点に固定されたままで、時折唇を噛み締めるような仕草を見せている。それは予選前の適度な緊張感というよりは、もっと根本的な、得体の知れない恐怖に押しつぶされそうになっている姿だった。怪我をしてからのブランク、積み上げてきたものが通用しなかったらどうしようという疑念、そして何よりこれが高校最後の夏だという逃げ場のない重圧が、彼女の小さな背中にのしかかっているのだと容易に想像できた。僕はカメラを構えることさえ忘れ、ただ呆然と彼女を見つめていた。ファインダー越しではなく肉眼で見る彼女の弱さはあまりにも生々しく、僕の胸を締め付ける。


 僕は一歩、前に踏み出した。取材班としての立場を利用すれば、彼女に近づくことは容易い。「調子はどうだ」と声をかけ、生徒会長として、あるいはあの日彼女を救った恩人として、励ましの言葉をかける権利が僕にはあるはずだ。そう自分に言い聞かせ、僕は芝生の上を歩き出そうとした。しかし、その足は数歩で止まった。僕よりも先に、迷いのない足取りで彼女の元へ向かう人影があったからだ。海老名拓海。陸上部キャプテンであり、彼女の幼馴染である彼は、結季の隣に自然な動作で膝をついた。結季が弾かれたように顔を上げる。その瞬間、彼女の強張っていた表情がふわりと解け、安堵の色が広がるのを僕は見た。


 拓海は何も言わず、ただ結季の肩に力強く手を置いた。そして、静かに、しかし確信に満ちた表情で何かを語りかけ始めた。距離があるため言葉の内容までは聞き取れないが、その声のトーンや眼差し、そして掌から伝わる温もりが、結季の凍りついた心を氷解させていくのが痛いほどに伝わってくる。僕は動けなかった。近づくことも離れることもできず、ただその光景を立ち尽くして見ていることしかできない。二人の間には、僕のような部外者が入り込む隙間など1ミリも存在しない絶対的な領域が形成されていた。それは長い時間をかけて積み重ねられた信頼と、共に苦難を乗り越えてきた者同士だけが共有できる不可侵の絆であり、僕がどれだけ望遠レンズで距離を縮めようとも決して触れることのできない「現実」だった。


 しばらくして拓海が立ち上がり、結季に向かって力強く頷いてから踵を返した。その時、彼と目が合った。拓海は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに人懐っこい笑みを浮かべて僕の方へと歩いてきた。


「会長! わざわざ取材、ありがとうございます」


 彼は屈託のない声で言った。その態度には、僕に対する警戒心や敵意といった負の感情は微塵も感じられない。ただ純粋に、生徒会長としての僕に感謝し敬意を払っているその真っ直ぐさが、逆に僕の心に棘となって深く刺さった。


「……ああ。調子はどうだ、キャプテン」


 僕は精一杯の平静を装い、生徒会長としての仮面が剥がれ落ちないように必死で表情を取り繕って返した。


「まあまあですね。みんな緊張してますけど、やるべきことはやってきましたから」


 拓海は自信ありげに言い、視線を結季の方へと向けた。


「あいつも、大丈夫です。ちょっとビビってましたけど、もう吹っ切れましたよ」


「……そうか。君が励ましたからかな」


 僕が問うと、拓海は「いやいや」と首を振った。


「俺なんて大したことしてませんよ。ただ、事実を確認しただけです」


「事実?」


「ええ。『お前がどれだけリハビリ頑張ってきたか、俺が一番知ってる。だから大丈夫だ』って」


 拓海はさらりと言ってのけた。その言葉の重みに僕は息を呑み、言葉を失った。彼は知っているのだ。僕が盗み撮った写真の中でしか知らない、彼女の苦しみや努力の過程をすべて。毎日のリハビリに付き合い、弱音を聞き、涙を拭い、そうして彼女をここまで支えてきたという自負が、彼の言葉には込められている。それは「恩人」という一過性の関係ではなく、「パートナー」としての日々の積み重ねによる継続的な献身だ。


「あいつ、怪我した直後は本当に酷かったんですよ。毎日泣いてて、『もう走れないかも』って。でも、俺は絶対諦めさせなかった。あいつの足なら治るって信じてたし、何より、あいつが走る姿を一番近くで見たいのは俺ですから」


 拓海は悪気なく、しかし確信に満ちた口調で語った。それは僕に対する牽制やマウントなどではなく、彼にとって結季を支え愛することは呼吸をするのと同じくらい当たり前の「責任」であり「日常」なのだという事実を突きつけられた瞬間だった。僕は完敗した。心の底から、完膚なきまでに叩きのめされた。僕が「恩人」としての優越感に浸り、暗室の中で彼女の幻影を弄んでいる間に、彼は現実の世界で彼女の手を取り、泥臭く共に歩んできたのだ。その圧倒的な熱量の差と、積み上げてきた時間の重みの前に、僕の「浅い夢」など消し飛んでしまいそうだった。


「……そうか。君がいてくれて、良かったな」


 絞り出すように言ったその言葉は、半分は本心であり、半分は自分自身への弔辞のようなものだった。


「ありがとうございます。……あ、そうだ。会長にもお礼言わなきゃ」


 拓海は思い出したように言った。


「去年の体育祭、あいつを助けてくれて本当にありがとうございました。あいつ、ずっと言ってるんですよ。『早乙女先輩は命の恩人だ』って。俺からも、改めて感謝させてください」


 彼は深々と頭を下げた。その誠実さが、僕の胸をさらに抉る。やめてくれ。そんな風に感謝しないでくれ。僕は君が思っているような立派な人間じゃない。ただの、卑屈で嫉妬深い、覗き見野郎なんだ。叫び出したい衝動を必死で抑え込み、僕は逃げるように視線を逸らした。


「……顔を上げてくれ。僕は、当たり前のことをしただけだ」


 その時、グラウンドのアナウンスが女子100メートル予選の招集を告げた。


「おっと、時間だ。じゃあ会長、応援よろしくお願いします! いい写真、撮ってくださいね!」


 拓海は爽やかに手を振り、結季の元へと駆けていった。結季が立ち上がり、拓海とハイタッチを交わす。パァン、という乾いた音が、周囲の喧騒を切り裂いて僕の耳にはっきりと届いた気がした。僕は一人、取り残された。周囲の熱気が急に色を失ったように感じられ、カメラを握る手が震える。僕は観測者だ。遠くから見つめることしかできない、無力な観測者だ。その事実をこれほどまでに残酷な形で突きつけられるとは思わなかった。それでも、僕は撮らなければならない。彼女の走りを。彼女の輝きを。そして、彼女と拓海の絆を。それが僕に課せられた最後の役割であり、この「浅い夢」に対するせめてもの償いなのだから。僕はファインダーを覗いた。涙で視界が滲みそうになるのを必死でこらえ、ピントを合わせる。そこに映る結季の背中は、以前よりもずっと大きく、そして遠く見えた。


---


第15話 栞の最後の願い


 大会当日の朝、世界は暴力的なまでの青色に塗り潰されていた。梅雨明けと共に訪れた盛夏の陽光がアスファルトを焦がし、立ち上る陽炎が視界の端を揺らめかせている。僕は蝉時雨が洪水のように押し寄せる生徒会室の窓際で、愛機である一眼レフカメラのメンテナンスを行っていた。レンズの表面に付着した微細な埃をブロアーで吹き飛ばし、専用のクロスで磨き上げるという単調な作業は、決戦を前に高ぶる神経を鎮めるための儀式のようなものだ。机の上には予備のバッテリーと数本の交換レンズ、そして今日という一日を記録するために用意した大量のフィルムが整然と並べられている。これらは単なる機材ではなく、僕が「観測者」としての役割を全うするための武器であり、同時に結季との距離を保つための防具でもあった。今日が終われば、僕の初恋は物理的な終わりを迎える。彼女の高校生活最後の夏、その一瞬の輝きと儚さを永遠に封じ込めることこそが、僕に許された唯一の贖罪なのだと自らに言い聞かせていた。


「……忘れ物はありませんか、会長」


 背後から唐突に声をかけられ、僕は作業の手を止めて振り返った。そこにはいつもの制服姿ではなく、動きやすい白のポロシャツとベージュのチノパンを身に纏った篠原栞が立っていた。彼女の手には表面に水滴を浮かべた冷たいスポーツドリンクのボトルと、僕が愛用している銘柄のモノクロフィルムが数本握られている。普段の完璧に整えられた副会長としての装いとは異なる、どこか無防備で活動的な彼女の姿に、僕は一瞬だけ言葉を失った。


「ああ、完璧だ。予備のバッテリーもレンズのクリーニングも済ませた。機材に抜かりはないよ」


 僕は努めて明るく答えたが、声が少し上擦っているのを自覚せずにはいられなかった。今日という日が僕にとってどのような意味を持つのか、そして僕が何を覚悟してこの場にいるのか、栞はすべてを知っている。だからこそ彼女の視線はいつも以上に静かで、深淵を覗き込むように僕の内心を見透かしていた。


「……そうですか。では、これを持って行ってください」


 彼女は手に持っていたスポーツドリンクとフィルムを、僕の目の前に置いた。ボトルの冷気が机の上に小さな水溜まりを作る。


「今日は長丁場になります。水分補給はこまめに。それと、フィルムは足りなくなるかもしれませんから」


「ありがとう。助かるよ。……でも、予算は大丈夫なのか?」


 僕が礼を言って受け取ろうとすると、栞の手は離れなかった。彼女は僕の手首を軽く、しかし拒絶を許さない強さで掴み、真っ直ぐに僕の目を見つめてきた。その瞳には、いつもの冷静沈着な事務処理能力の裏に隠された、熱く激しい感情の揺らぎが見え隠れしている。


「会長。……いえ、早乙女さん」


 彼女が僕を役職名ではなく名前で呼ぶのは、極めて稀なことだった。その響きに含まれた切実さに、僕は動揺して息を呑んだ。彼女の細い指が僕の手首の脈動に触れ、そこから彼女の体温と鼓動が直接伝わってくるような錯覚に陥る。


「一つだけ、お願いがあります」


「……何だい? 改まって」


「今日の取材、結季さんのためだけに撮らないでください」


 彼女の言葉は、予期せぬ方向から飛んできた矢のように僕の最も柔らかい部分を射抜いた。僕は目を見開き、彼女の真意を測りかねて問い返そうとしたが、声が出なかった。


「え……?」


「貴方は、結季さんを『記録』するために行くのではありません。貴方自身の『青春』を、その目に焼き付けるために行くのです。だから……結季さんだけでなく、貴方が心を動かされたもの全てを、撮ってきてください」


 栞の瞳には、懇願にも似た切実な色が宿っていた。彼女は知っているのだ。僕が今日、結季の姿を最後に初恋という名の「浅い夢」に終止符を打とうとしていることを。そして、その行為が結季という対象に固執するあまり、僕自身の心を深く傷つけ、空っぽにしてしまう可能性があることを。だからこそ彼女は、僕の視点を「結季」という一点から、「世界」という広がりへと引き戻そうとしている。それは僕が自ら課した「観測者」という呪縛を解こうとする祈りであり、彼女なりの不器用で深い愛の形だった。


「貴方が撮る写真は、とても美しいです。それは、貴方が世界を愛おしんでいる証拠です。……その愛を、一人の人間に限定しないでください」


 彼女の手が僕の手首をさらに強く握りしめる。その痛みは、僕が現実に引き戻されるための錨のようだった。僕は彼女の言葉を反芻する。世界を愛おしむこと。それは僕が結季への執着の中で忘れかけていた、写真を撮ることの原点だった。ファインダーを通して見る光と影、一瞬の美しさ、それらすべてが僕の世界だったはずだ。彼女は僕に、結季を失っても世界は続くのだと、そしてその世界は依然として美しいのだと伝えようとしている。


「……分かった。約束するよ」


 僕は彼女の手を握り返した。その手は小さく、少し震えていた。彼女の冷たい指先を僕の掌で包み込むと、彼女の緊張がふっと緩むのが分かった。


「最高の写真を、撮ってくる。……僕自身のために」


 僕の答えを聞いて、栞はようやく安心したように微笑んだ。その笑顔は夏の朝の強烈な日差しの中で一際眩しく、そしてどこか儚げに映った。彼女は自分の想いを押し殺し、僕を結季の元へと送り出そうとしている。その健気さと強さに、僕は胸が締め付けられる思いがした。


「行ってらっしゃいませ。……良い結果を、期待しています」


 彼女は僕の手を離し、一歩下がって深々と頭を下げた。その所作は完璧な副会長のそれに戻っていたが、伏せられた睫毛の影に隠された感情までは消し去れていなかった。僕はカメラバッグを肩にかけ、逃げるように生徒会室を後にした。廊下を歩きながら、僕は栞の言葉を何度も反芻していた。「貴方自身の青春を焼き付けるために」。その言葉が、重く、そして温かく僕の背中を押し続けている。


 校門を出ると、既にエンジンをかけたマイクロバスが待機しており、ディーゼルエンジンの低い唸り声が響いていた。僕は乗り込む前に、一度だけ校舎を振り返った。三階の生徒会室の窓、そこには誰もいないはずだが、カーテンが微かに揺れ、小さく手を振る栞の姿が見えた気がした。それは僕の願望が見せた幻影かもしれない。それでも僕は小さく手を振り返し、バスのステップを上がった。プシューという音と共にドアが閉まり、バスが動き出す。車窓を流れる見慣れた通学路の景色を見つめながら、僕は心の中で呟いた。見ていてくれ、栞。僕が今日、何を見つけ、何を切り取るのかを。そしてこの長い「浅い夢」の果てに、僕がどんな顔をして帰ってくるのかを。カメラのグリップを握る手に力がこもる。僕の、そして僕たちの夏が、今始まろうとしていた。


---


第16話 届かぬ想いを積んだバス


 マイクロバスの狭い座席に深く身を沈め、僕は額を冷房で過剰に冷やされた窓ガラスに押し当てていた。床下から伝わる大型ディーゼルエンジンの低い唸り声が身体の芯を小刻みに震わせ続け、タイヤがアスファルトを叩く単調なリズムだけが車内を支配している。僕たちが乗り込んだ生徒会手配のバスは、先ほど出発した陸上部の専用バスを追うようにして、夏の陽炎が立ち上る国道を淡々と走り続けていた。車内は肌寒く、同乗している生徒会役員たちの間に会話らしい会話は生まれない。僕は流れる景色を眺めるともなく眺めながら、前を行くはずの彼らのバスの姿を心のどこかで追っていた。もちろん、そんなものはとうに見えなくなっている。彼らは物理的にも、そして精神的にも、僕より遥か先を走っているのだから。


 陸上部のバスが出発する際、僕は校舎の影からその様子を見ていた。窓から溢れ出るような笑い声、高揚した掛け声、そしてガラス越しに見えた結季の横顔が脳裏に焼き付いている。彼女は隣に座る拓海と何かを話し、弾けるような笑顔を見せていた。その空間は、同じ目標を共有し、汗と涙を分かち合ってきた者たちだけが入ることを許される不可侵の聖域だった。僕はそこに含まれていない。どれだけ望遠レンズで彼らを切り取ろうとも、どれだけ「取材」という名目で近づこうとも、僕は決してあのバスに乗ることはできないのだという事実が、冷たい楔となって胸に深く打ち込まれていた。


「……寒くないですか?」


 隣の席から控えめな声がかかり、僕は我に返って視線を戻した。栞が自分のカーディガンを膝にかけながら、心配そうにこちらを見ていた。彼女の気遣いはいつも適切で、そして僕の孤独を見透かしているようで少しだけ痛い。


「ああ、大丈夫だ。少し考え事をしていただけだよ」


 僕は強がって見せたが、栞の瞳は誤魔化せないことを見抜いているようだった。彼女は何も言わず、持っていたペットボトルのお茶を僕の方に少しだけ寄せた。


「会場まではまだ時間があります。少し休まれた方がいいかもしれません」


「そうだな。……ありがとう」


 彼女の言葉に従い、僕は目を閉じた。しかし、瞼の裏には先ほどの光景が焼き付いて離れない。結季の笑顔、拓海の頼もしい背中、そして二人の間に流れる濃密な空気。それらは僕の「浅い夢」を否定する現実として容赦なく突きつけられてくる。僕は自分自身に問いかけた。なぜ僕は、こんなにも彼女に執着しているのか。ただの憧れなのか、それとも本当に愛しているのか。答えは出ないまま、バスの揺れに身を任せていると、意識は次第に微睡みの中へと沈んでいった。夢を見た。それは、まだ何も知らなかった頃の夢だ。体育祭のあの日、雨の中で結季を抱き上げた瞬間の感触、彼女の体温、匂い、そして僕を見上げた潤んだ瞳が鮮明に蘇る。あの時、僕は確かに彼女のヒーローだった。彼女の弱さを知る唯一の存在だった。しかし、場面は唐突に切り替わり、場所は夕焼けが全てを赤く染めるグラウンドになる。結季が走っている。僕は必死に彼女を追いかけるが、足が重くて動かない。どんなに手を伸ばしても彼女の背中は遠ざかっていくばかりだ。そして、その先には拓海が待っている。彼女は迷わず拓海の胸に飛び込み、二人は光の中へと消えていく。僕は一人、暗い影の中に残され、ただ立ち尽くしている。手にはカメラがあるが、シャッターを切る指は凍りついたように動かない。


「……会長。……会長」


 肩を揺すられ、僕はハッと目を覚ました。現実の世界ではバスはまだ走っていたが、窓の外の景色はのどかな田園風景から賑やかな市街地へと変わっていた。


「もうすぐ会場に到着します」


 栞の声が、夢の残滓を払拭するように現実へと引き戻してくれる。僕は額に浮いた冷や汗を拭い、乱れた呼吸を整えた。


「……悪い。寝てしまっていたようだ」


 僕が謝ると、栞は静かに首を振った。


「いえ、お疲れのようでしたから。少しは休めましたか?」


「ああ、おかげさまで」


 嘘だ。夢のせいで疲労感はむしろ増していた。しかし、そんな弱音を吐くわけにはいかない。僕は生徒会長であり、今日は取材班のリーダーなのだから。バスが大きく左折し、巨大なスタジアムの姿が視界に入ってきた。コンクリートの塊が圧倒的な存在感でそびえ立っている。あの中に結季がいる。僕の「浅い夢」の最後の舞台がそこにある。


「行きましょう、会長」


 栞が立ち上がり、僕に手を差し伸べるような仕草をした。実際には触れていないが、その意志は明確に伝わってきた。彼女は僕を支え、導こうとしている。この残酷な現実に向き合うために。僕は頷き、カメラバッグを肩にかけた。その重みだけが、今の僕にとっての確かな現実だった。バスを降りると、熱気が一気に押し寄せてくる。アスファルトからの照り返し、蝉時雨、そして人々の喧騒。夏そのものが僕たちを飲み込もうとしていた。僕は深呼吸をし、スタジアムを見上げた。届かぬ想いを積んだバスは目的地に到着した。ここから先は、僕自身の足で歩かなければならない。観測者としての最後の務めを果たすために。


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第17話 夕映えはあんず色


 大型スタジアムを覆う巨大な屋根の隙間から西に傾き始めた太陽の光が鋭角に差し込み、フィールド全体を鮮烈なオレンジ色で染め上げていた。観客席の影は黒々とした帯となって長く伸び、トラックの赤茶色と芝生の緑色が夕暮れ特有の深いコントラストを描き出している。スタンドの歓声は午後のピークを過ぎてどこか気怠さを帯びた熱気となり、スタジアム全体を微温湯のように包み込んでいた。僕はカメラのファインダーを覗きながら露出計の数値を確認し、絞りを調整する。空の色はまさに「あんず色」と呼ぶに相応しい、淡い橙色と紫が混ざり合った複雑で妖艶なグラデーションを描いており、この光景は高校生活という時間の終わりを告げる荘厳なカーテンコールのようにも見えた。女子100メートル決勝。結季の高校生活最後のレースが、刻一刻と迫っている。予選を危なげなく通過した彼女は、今、スタートラインの少し後方で最後の集中を高めているはずだ。僕は望遠レンズを装着して彼女の姿を探し、トラックの第4レーン付近で他の選手たちと並んで準備をしているその姿を捉えた。


 ファインダーの中の彼女は、驚くほど静かだった。予選の時のような強張りはなく、かといって過度なリラックスも見られない。ただ凪いだ海のように静謐な表情で、遥か遠くにあるゴールラインだけを見据えている。その姿は、これから始まる激闘を前にして、既に自分の中にある「何か」と決着をつけた人間の顔をしていた。僕はシャッターを切るのを一瞬だけ躊躇った。この完成された静けさを、機械的なシャッター音で乱してはいけないような気がしたからだ。しかし、僕は記録者であり、観測者だ。彼女のすべてを記録すると決めたのだという覚悟が、指先に力を込める。カシャリ、という乾いた音が僕の鼓膜を打ち、時間を切り取る。ファインダーの中の彼女は微動だにせず、その瞳は燃えるような夕陽を反射して強く輝いていた。


「……綺麗な色ですね」


 隣で栞が呟いた。彼女もまた、手元のノートから顔を上げ、空を見上げている。その瞳には夕焼けの色が映り込み、どこか寂しげに揺れていた。


「あんず色。……村下孝蔵の歌に出てくるような、切ない色です」


 彼女の言葉に、僕はハッとして息を呑んだ。脳裏にあのメロディが流れ出し、歌詞の一節一節が、今の僕の心境と痛いほどに重なり合っていく。


 夕映えはあんず色

 帰り道一人口笛吹いて

 名前さえ呼べなくて

 とらわれた心見つめていたよ


 僕は結季の名前を呼べない。好きだと言えない。ただ、こうしてファインダー越しに見つめることしかできない。そして、その時間はもうすぐ終わる。


「……そうだね。終わりの色だ」


 僕は絞り出すように言った。栞は僕の方を向き、静かに微笑んだ。その笑顔は夕陽の赤を受けて、泣いているようにも見えた。


「終わりは、始まりでもありますよ、会長。……このレースが終われば、新しい時間が動き出します」


 彼女の言葉は予言のようだった。結季の高校陸上が終わり、僕の「浅い夢」が終わり、そして何かが始まる。それが何なのか今の僕にはまだ分からないが、ただこの夕暮れが過ぎ去った後に訪れる夜の闇を予感することしかできなかった。場内アナウンスが決勝進出者の紹介を始め、観客席から拍手と歓声が湧き上がる。


「第4レーン、葵陵高校、蒼井結季さん」


 名前が呼ばれると、彼女は右手を高く上げ、観客席に向かって一礼した。その堂々とした振る舞いは、葵陵高校のエースとして、そして一人のアスリートとして完全に完成されていた。僕は再びファインダーを覗く。レンズ越しに見る彼女は神々しいまでに輝いており、夕陽が彼女の輪郭を金色に縁取り、白いユニフォームが光を反射してハレーションを起こしそうになる。これが最後だ。僕は心の中で繰り返した。この輝きを、一瞬たりとも逃してはならない。


 選手たちがスターティングブロックに足をかけ、スタジアム全体が水を打ったように静まり返る。数万人の視線が一点に集中し、緊張感が空気を震わせて肌にピリピリとした刺激を与える。


「On your marks」


 スターターの声が響く。結季が腰を上げ、前傾姿勢をとる。その筋肉の一本一本が極限まで張り詰め、バネのように凝縮されるのが見えた。


「Set」


 一瞬の静寂が訪れ、世界が止まる。僕の心臓だけが早鐘を打っている。ドクン、ドクンという音は振り子の音だ。僕の心の中にある、ふりこ細工の心。右へ、左へ。好きだ、言えない。撮りたい、撮りたくない。終わらせたい、終わらせたくない。矛盾する感情が極限まで振れ幅を広げ、今にも千切れそうになっている。


 パンッ!


 号砲が鳴り、弾かれたように8人の選手が飛び出した。結季のスタートは完璧だった。低い姿勢から爆発的な加速でトップスピードに乗り、地面を蹴るたびに加速していく。僕は夢中でシャッターを切り続けた。連写音が僕の鼓動と重なり、カシャカシャカシャカシャという音が途切れることなく響く。ファインダーの中を結季が疾走する。髪がなびき、表情が歪み、腕が空気を切り裂く。その姿は僕が知っているどの瞬間よりも速く、そして美しかった。あんず色の光の中を、彼女は駆け抜けていく。僕の「浅い夢」を置き去りにして、僕の手の届かない場所へと、遠く、遠く。僕は撮り続けた。涙でファインダーが滲んでも、指が震えても、絶対に離さなかった。これが僕の、最後の抵抗だ。彼女を愛した証だ。さようなら、結季。僕の初恋。僕の、たったひとつの浅い夢。彼女がゴールラインを駆け抜けた瞬間、夕陽が山の端に沈み、スタジアムは一瞬の蒼い闇に包まれた。僕の夏が、終わった。


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第18話 決勝のファインダーと鼓動


 ゴールラインを駆け抜けた瞬間の残像が、強烈なフラッシュのように瞼の裏に焼き付いて離れない。結季の身体がフィニッシュテープを切った刹那、スタジアムを包んでいた張り詰めた静寂は一瞬にして破られ、地響きのような歓声が爆発した。僕はシャッターを切り終えた人差し指をボタンから離すことができず、硬直したままファインダーを覗き続けていた。視界の中では、勢いを殺しきれなかった選手たちがトラックの上に倒れ込み、あるいは膝に手をついて荒い息を吐いている。結季もまた、第4レーンの先で天を仰ぎ、肩を激しく上下させていた。その姿は、全力を出し尽くした者だけが纏うことのできる、神々しいまでの疲労感と達成感に満ちていた。僕はゆっくりとカメラを下ろし、肉眼で電光掲示板を確認する。橙色のLEDが点滅し、確定した順位とタイムを冷酷なまでに客観的に表示していた。


『1着 第5レーン……』

『2着 第4レーン 蒼井結季(葵陵)』


 準優勝。インターハイへの切符は手にしたが、頂点にはあと一歩届かなかった。隣のレーンの選手がガッツポーズをして歓喜の声を上げているのとは対照的に、結季は静かにトラックを見つめている。悔しいはずだ。誰よりも負けず嫌いな彼女のことだ、唇を噛み締めて泣き出しそうになっているかもしれない。僕は再びカメラを構え、望遠レンズで彼女の表情を探った。しかし、ファインダーの中に映し出された彼女の顔は、僕の予想を裏切るものだった。泣いてはいなかった。それどころか、彼女は晴れ晴れとした、憑き物が落ちたような清々しい笑顔を浮かべていたのだ。自己ベストを更新した充足感か、それとも怪我を乗り越えてこの場所に立てたことへの感謝か。彼女は隣のレーンの勝者に歩み寄り、握手を求めた。互いの健闘を称え合うその姿は、勝敗を超えたスポーツマンシップの体現であり、僕が知っている「守られるべき少女」の枠を遥かに超えていた。彼女はもう、僕が心配するような弱い存在ではない。自らの足で立ち、自らの力で運命を切り開く、一人の自立したアスリートだった。


 安堵と共に、強烈な喪失感が胸を襲う。僕の役目は終わったのだ。彼女の「復活」を見届け、その姿を記録する。その目的は達成された。これ以上、僕が彼女を観測し続ける理由はどこにもない。カメラを下ろし、このまま静かに立ち去るべきだという理性が囁く。しかし、身体が動かなかった。まるで金縛りにあったように、視線が彼女から離れない。心臓の鼓動が、早鐘のように激しく打ち続けている。ドクン、ドクン。それはレースの興奮の余韻ではなく、これから起こるであろう「何か」に対する、本能的な警鐘のようだった。


「……会長?」


 隣にいた栞が、不審そうに僕の顔を覗き込んだ。


「撮影は、もう終わりではないのですか? 表彰式までは時間がありますし、一度休憩を……」


 彼女の声は遠くから聞こえるようだった。僕は栞に答えることもできず、ただトラックの一点を見つめ続けていた。結季の視線が、観客席ではなく、フィールドの入り口付近に向けられていることに気づいたからだ。そこには、一人の男が立っていた。海老名拓海。陸上部のユニフォームを着た彼は、係員の制止を振り切るような勢いで、トラックの中へと足を踏み入れていた。その表情は、歓喜と興奮、そして抑えきれない情熱で紅潮している。彼は結季の名前を叫びながら、一直線に彼女の元へと駆け寄っていく。結季もまた、彼に気づくと、今日一番の輝くような笑顔を見せ、彼の方へと歩み出した。僕は反射的にカメラを構え直した。撮るな。見るな。内なる声が警告を発する。これを見てしまえば、もう後戻りはできない。僕の「浅い夢」は粉々に砕け散り、修復不可能な現実が突きつけられることになる。分かっている。分かっているのに、指は勝手にピントリングを回し、二人の距離が縮まっていく様子を鮮明に捉えようとしていた。


 拓海が両手を広げる。結季がスピードを上げる。二人の間にある空気の層が、急速に薄くなっていく。そこには、チームメイトとしての労いや、幼馴染としての祝福といった生温い感情の枠組みを超えた、もっと熱く、もっと直接的な引力が働いていた。僕の心臓が、痛いほどに脈打つ。フィルムの残数はあと数枚。この数枚に、僕の絶望が焼き付けられることになる。僕は息を止め、その瞬間を待った。逃げることは許されない。観測者として、最後の最後まで現実を見据えること。それが、勝手に恋をして、勝手に夢を見て、そして勝手に失恋する僕自身への、せめてもの落とし前なのだから。レンズの中で、二人の影が重なり合う。世界から音が消え、僕の鼓動の音だけが、耳元でうるさいほどに響いていた。


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第19話 嘘の決定的瞬間


 夏の夕暮れが作り出す影は長く、そして濃い。西の空に残るあんず色の残照がスタジアムの照明灯によって白く上書きされていく中、僕は望遠レンズの筒を通してトラックの中央に立つ二人を見つめていた。周囲の歓声や拍手は水槽のガラス越しに聞く音のようにぼんやりと遠く、僕の鼓膜はただ一点、自らの心臓が刻む不吉なリズムだけを捉えている。海老名拓海が係員の制止を振り切ってフィールドに飛び込み、蒼井結季の元へと一直線に駆けていくその距離が縮まるにつれ、僕の指先は凍りついたようにシャッターボタンの上で硬直した。撮らなければならない。記録者としてこの物語の結末を最後まで見届けると誓ったのだから。しかし本能が警鐘を鳴らしている。これを見てはいけない、これを記録してはいけない。それは僕が自分自身につき続けてきた「嘘」を暴き、硝子細工のように脆い均衡を保っていた心を粉々に砕く光景になるだろうという予感があった。結季が拓海に気づき、今日一番の、いや、僕が見てきた三年間の中で最も無防備で美しい笑顔を綻ばせると、彼女はトラックを踏みしめ、広げられた拓海の腕の中へと飛び込んだ。


 理性を超えた反射神経がその瞬間を切り取り、乾いたシャッター音が僕の頭の中で断頭台の刃が落ちる音のように響き渡る。ファインダーの中、拡大された世界で二つの身体が一つに重なり合った。拓海の太い腕が結季の背中を力強く抱き締め、結季の華奢な腕が拓海の首に回される。汗に濡れたユニフォーム同士が密着し、互いの体温と鼓動を確かめ合うように彼らは強く抱擁した。それは単なるチームメイトへの労いではなく、幼馴染という言葉で誤魔化せるような生温い友情の延長線上の行為でもなかった。そこには明確な「愛」が存在していた。互いを求め合い、互いを支え合い、互いだけを必要とする排他的で濃厚な男女の情愛。僕がレンズ越しに追い求め、焦がれ、そして決して触れることのできなかった結季の全てが、今、拓海の腕の中に収まっている。


 僕はファインダーから目を離すことができず、見たくないのに目が離せないという矛盾に引き裂かれそうだった。レンズの中で拓海が結季の耳元で何かを囁き、結季が肩を震わせて拓海の胸に顔を埋める。彼女は泣いているのだろうか。それは悔し涙なのか、それとも安堵の涙なのか僕には分からない。その涙を拭う権利を持っているのは僕ではなく彼なのだから。彼らの周りには誰も踏み込むことのできない透明な結界が張られているようで、スタジアムの数万人の観衆も、他の選手たちも、そして僕という観測者さえも、彼らにとっては背景の一部に過ぎない。世界には今、彼ら二人しか存在していないのだ。僕の胸の中で一年半の間揺れ続けていた「ふりこ細工」が、軋んだ音を立てて停止した。右へ揺れる希望も左へ揺れる絶望ももうない。あるのは、重力に従って垂れ下がった鉛の塊のような、動かし難い「真実」だけだった。僕の恋は最初から存在していなかったのだ。僕が勝手に彼女を見つめ、勝手に物語を紡ぎ、勝手に運命を感じていただけ。それはまさしく「浅い夢」だった。目が覚めれば跡形もなく消えてしまう、泡沫の幻影。拓海が結季の背中をポンポンと優しく叩いて体を離すと、二人は見つめ合い、照れくさそうに、しかし幸福そうに笑い合った。その距離感、その空気感、その視線の交わし方、すべてが彼らが既に恋人同士であることを雄弁に物語っていた。僕が「恩人」という立場にすがりつき、公務という鎧を着込んで距離を測りかねている間に、彼らはとっくに愛を育み、互いの魂を分かち合っていたのだ。


「……撮りましたか、会長」


 隣から感情の抜け落ちた声が聞こえ、僕は我に返った。栞だった。彼女は手元のノートを閉じ、冷徹な視線でグラウンドの二人を見下ろしている。その横顔は夕闇に溶け込んで青白く見えた。


「……ああ。撮ったよ」


 僕の声は自分でも驚くほど掠れており、喉が渇き、言葉が砂のように崩れていく。


「決定的な、瞬間を」


 僕はカメラを下ろした。ずしりとした重みが首に食い込む。このカメラの中に僕の敗北の証拠が収められている。現像液に浸せば、あの抱擁の瞬間が残酷なまでに鮮明な像となって浮かび上がってくるだろう。それは僕への死刑宣告であり、同時に、長く苦しい片思いからの解放宣言でもあった。


「行きましょう。これ以上ここにいても、撮るべきものはありません」


 栞は淡々と言い放ち、僕の腕を取った。その指先が食い込むほどの強さで僕を現実へと引き戻そうとする。彼女は僕に見せたくなかったのかもしれないし、あるいはこれ以上僕が傷つく姿を見たくなかったのかもしれない。いや、違う。彼女は僕が「夢」から覚める瞬間を待っていたのだ。僕の心が結季という呪縛から解き放たれ、空っぽになるその時を。僕は無抵抗のまま栞に引かれて歩き出した。背後ではまだ歓声が続いているが、僕の耳にはもう何も届かなかった。スタジアムの出口へと向かう通路は薄暗く、コンクリートの壁が冷気を放っている。一歩進むごとに結季のいる光の世界が遠ざかっていく。さようなら。心の中で僕は呟いた。届かぬ想いを暖めていた日々、遠くで君を探していた放課後、あんず色の夕暮れ。すべてが過去へと変わっていく。僕はもう彼女を撮ることはないだろう。観測者としての僕は、あの抱擁を見た瞬間に死んだのだ。


 出口のゲートを抜けると夜の闇が広がっており、蒸し暑い夏の夜風が火照った頬を撫でた。僕は立ち止まり、夜空を見上げた。星は見えず、ただ街の灯りが雲を鈍く照らしているだけだった。


「……終わったんですね」


 栞が僕の隣でポツリと呟いた。


「ああ、終わったよ。全部」


 僕は力なく答えた。心にぽっかりと穴が開いたような虚無感が全身を支配しており、涙すら出なかった。あまりにも決定的な敗北は感情さえも麻痺させてしまうらしい。


「お疲れ様でした、早乙女さん」


 栞はいつものように「会長」ではなく僕の名前を呼び、躊躇うように、しかし確かな意思を持って僕の手を握りしめた。彼女の掌は熱く、汗ばんでいた。その生々しい温度が、僕にまだ生きていることを教えてくれる唯一の感覚だった。僕は握り返すことも振り払うこともできず、ただその温もりを感じていた。浅い夢は覚めた。しかし現実は続いていく。僕の隣には、空っぽになった僕を見つめるもう一人の少女がいる。彼女の瞳に宿る光の意味を、僕はまだ直視することができなかった。


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## 第20話 永遠に秘める一枚


 スタジアムの喧騒と熱気から逃れるようにして、僕はタクシーに乗り込み、そのまま旧校舎の裏手へと辿り着いた。時刻は深夜を回ろうとしており、葵陵高校の敷地全体が深い闇の中に沈んでいたが、写真部の暗室の扉を開けることだけが、虚ろになった僕の身体を動かす唯一の原動力だった。栞は、僕をバス停まで送り届けた後、「始末かたづけは私がしておきます」と静かに告げて去っていったが、彼女の温もりがまだ手のひらに残っているにもかかわらず、僕は今、この密室で、自分一人で最後の儀式を終える必要があった。暗室の分厚い二重扉を閉めると、外界の音は完全に遮断され、耳鳴りのような静寂が鼓膜を打つ。


 僕は疲労で重い身体を引きずりながら、セーフライトのスイッチを入れた。赤黒い光が狭い室内を不気味に照らし出し、鼻腔の奥には酢酸と古いカビの匂いが混ざり合った、暗室特有の湿った空気が張り付く。現像液、停止液、定着液が並べられたトレイの前で、僕はコートを脱ぎ、ポケットから地方大会で撮り終えたフィルムを取り出した。ずしりと重い金属のパトローネを手のひらに載せ、僕はその中に「浅い夢」の終焉を告げる決定的な嘘が封じ込められていることを確信していた。そのフィルムの最終コマには、結季と拓海が抱き合う、僕の敗北の証が焼き付けられている。


 フィルムをリールに巻き付ける作業は、静寂の中で集中力を要するが、僕の指先は驚くほど冷静に、まるで他人のものであるかのように正確に動いた。カチカチという機械的な音だけが、僕の心を現実に繋ぎ止める錨となる。現像タンクの中に薬液が流れ込む。トレイに注がれた液体の温度、その微細な揺らぎ、それら五感で感じられるすべてが、僕の心の空虚さを埋めようとする。僕は砂時計をひっくり返し、待った。この時間の経過だけが、僕の初恋が過去へと移行していることを証明してくれる。


 現像が終わると、僕はフィルムを引き出し、壁に吊るされたロープに洗濯バサミで挟んで吊るした。まだ液で濡れたフィルムは光を反射し、赤いセーフライトの下で、コマ一つ一つが微かに浮かび上がってくる。僕はルーペを手に取り、一つずつ像を確認していった。前半に写っていたのは、予選や他の部員の躍動する姿だ。そして後半、あんず色の夕焼けの中で疾走する結季の姿が現れる。彼女の筋肉の躍動、ゴールラインを切る一瞬の表情、それらは栞に約束した通り、僕が撮りうる最高の芸術作品だった。このフィルムこそが、卒業アルバムに掲載されるべき「公的な記録」であると、僕は生徒会長としての誠実さをもって判断した。この完璧な美しさこそが、僕の公的な自己を最後まで支え、私的な感情を隠蔽するための強固な盾になる。


 そして、最後の数コマ。僕は息を呑んだ。ルーペを通して拡大されたその像は、僕の予想よりも遥かに鮮明で、そして残酷だった。汗と夕闇の中で、結季と拓海の身体が密着し、互いの存在を貪るように抱き合っている。拓海の首筋に回された結季の指先が、彼のジャージを強く握りしめているのが見て取れた。これは単なる感情の爆発ではない。長年の愛と信頼、そして試練を乗り越えた者同士の、揺るぎない魂の交歓だ。僕が写真として愛し、憧れの偶像として崇拝してきた蒼井結季という少女は、既に僕の観測圏の外で、一人の男の恋人として完成していたのである。


 僕の全身から、冷たい汗が噴き出した。暗室の中は湿気と熱気で満ちているはずなのに、奥歯がカチカチと鳴るほどの悪寒に襲われる。心臓は振り子の運動を止め、鉛のように重く静止したまま、二度と鼓動を打つことはないかのように沈黙した。僕はそのフィルムを直視し続けた。目を逸らしてはならない。目を逸らせば、この敗北を認めないことになり、僕の「誠実さ」という名の鎧が崩壊してしまう。この抱擁こそが、僕が一年半にわたって築き上げてきた「浅い夢」の終焉であり、僕の人生における最も真実の瞬間だった。


 僕はルーペを外し、作業台に置かれたハサミを手に取った。カチリ、という金属音が静寂に響く。僕は躊躇することなく、結季の走りの最後のコマと、あの抱擁の最初のコマの間で、フィルムを断ち切った。それは、公的な記録と私的な遺物を分離する、境界線の切断だった。抱擁のコマを含むフィルムの断片を、僕はそっと定着液のトレイへと沈めた。それは永遠に消えることのない、僕の個人的な敗北の記録となる。一方、結季の美しい走りが写ったフィルムは、公的な記録として乾燥させるために丁寧にロープに吊るされた。


 僕は抱擁の写真だけを現像した。印画紙が薬液の中でゆっくりと像を結び、赤黒い光の中で拓海の腕の中にある結季の姿が、鮮明なモノクロームとなって浮かび上がる。その写真には、僕の嫉妬も、怒りも、悲しみも、すべてが凝縮されていた。僕はそれをタオルで水気を拭き取り、他の写真から切り離し、一枚の孤独な印画紙として、乾燥用のピンチに挟んだ。


「……永遠に、秘める」


 乾いた唇から漏れた言葉は、僕の初恋への弔辞だった。僕はその写真を、これまで現像してきた結季のモノクロ写真群と共に、古い木箱の中に収めた。箱の蓋を閉める。カチリ、という小さな音が、僕の青春が終わった音のように響いた。この箱こそが、誰にも見せることのない、僕の「浅い夢」の遺物となる。


 作業を終えた僕は、乱れた呼吸を整え、生徒会長としての顔に戻った。冷徹で、感情のない、完璧な生徒会長の顔だ。公的な記録は完璧に処理された。私的な感情は、誰にも触れられない暗室の闇の中に封じ込められた。僕は暗室のライトを消し、重い扉を開けて夜の校舎へと足を踏み出した。夜風が火照った頬を冷やしていく。僕はもう、観測者ではない。ただの、虚無を抱えた受験生だ。ポケットに手を突っ込むと、そこには栞が持たせてくれた缶コーヒーの温もりが残っていた。その温かさが、僕を現実へと引き戻してくれる。孤独な夜の校舎を、僕は一人、重い足取りで歩き始めた。


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## 第21話 誰にも言えずに


 夏を置き去りにしたかのような急激な気温の低下が、校舎を覆う空気の色彩までも変え、窓の外の風景は緑の鮮やかさを失い、くすんだ灰色と土色が混じり合っていた。生徒会長の任期を終えた僕にとって、生徒会室という空間はもはや「公的な鎧」を掛けておく場所でしかなく、机の上には引継ぎを終えた後の書類の束だけが、山脈のように静かにそびえている。僕は窓際に立ち、眼下のグラウンドを見下ろした。タータントラックは以前と変わらず、陸上部の生徒たちが練習に励んでいるが、その中に蒼井結季の姿はない。彼女は地方大会を終え、既に進学先の大学の練習に参加するため、高校での活動を終えていると聞いていた。彼女の「走る姿」が僕の視界から完全に消え去ったという事実が、心臓のあった場所にぽっかりと穴を開けたような、埋めがたい虚無感を残していった。


 胸の中で規則的なリズムを刻み続けていたふりこ細工の心は、あの日、スタジアムの夕闇の中で拓海と結季の抱擁を見た瞬間から、ぴたりと動きを止めている。それは解放ではなく、完全な麻痺だった。熱い情熱も、苦しい嫉妬も、すべてが冷たい鉛の塊となって胸の奥底に沈殿しており、僕は感情を揺り動かそうとする気力さえ失っていた。僕は、生徒会長という役割を失った後、その空虚さを埋めるために、受験勉強という新たな鎧を身に纏った。それは僕の倫理的な性分に最も適した逃避の方法だった。膨大な知識と論理的な思考を必要とする法学のテキストを開き、一行一行文字を目で追う。その行為は、感情という非合理的な領域から意識を隔離し、すべてを論理と秩序で埋め尽くすという、僕自身の精神的な危機管理システムだった。


「会長、こちらの過去問ですが、刑法の論点整理は終わりましたか?」


 生徒会室の机を並べて、篠原栞が静かに声をかけてきた。彼女もまた、僕と同じ大学の経済学部を目指し、その傍らで生徒会の引継ぎ業務を完璧にこなしている。


「ああ、終わった。論理矛盾はない。君の方こそ、少しペースが速すぎるのではないか。休むことも必要だ」


「ご心配ありがとうございます。ですが、会長がこれほど集中してくださっているのですから、私も手を抜くわけにはいきません」


 栞はそう言いながら、僕の顔色を窺うことなく、視線を手元のテキストに落とした。彼女は知っている。僕がなぜこれほどまでに勉強に没頭しているのかを。僕がなぜ、写真部という唯一の逃げ場すらも辞めて、この冷たい論理の世界に籠ろうとしているのかを。それでも彼女は、結季との初恋の結末について、地方大会で何があったのかについて、一切の言葉を尋ねてこなかった。彼女の沈黙と、その裏にある静かな理解は、僕の孤独を共有してくれる唯一の窓だった。


 僕は、あの抱擁の写真について、誰にも話すことができなかった。それは僕が結季を観測し続けたという、公的な誠実さの裏側に隠された私的な欲望の結晶であり、それを言葉にしてしまえば、僕の生徒会長としての三年間、そして僕の誠実な人間としてのアイデンティティすべてが、自らついた嘘によって崩壊してしまう気がしたからだ。拓海と結季の揺るぎない愛の真実を、僕が最も卑劣な形で盗み撮り、それを遺物として封印しているという事実は、僕が一人で背負い続けるべき、最も重い秘密だった。


 ある日の放課後、僕は写真部の暗室で、卒業アルバムに掲載する写真の最終選定作業をしていた。公的な業務であるため、栞も立ち会っている。照明は白色灯が煌々と灯り、現像液の刺激臭は薄れているが、この部屋の持つ独特の重苦しさは消えていなかった。結季の走りの写真が、白い印画紙の上で輝いている。躍動感あふれる最高のカットだ。


「この写真で決定ですね、会長。やはり、早乙女会長が撮った走りの写真は、他の誰にも真似できない力強さがあります」


 栞がその写真を指差し、褒めた。彼女の目は偽りなく、僕の写真家としての才能を心から評価しているようだった。


「ああ。これなら、彼女の高校生活の集大成として相応しい」


 僕は頷きながら、内心では別の写真のことを考えていた。あの抱擁の写真だ。僕の個人的な遺物として木箱に封印した、あの決定的な一枚。僕は、公的なアルバムに載せる写真を選ぶという行為を通して、私的な悲しみを公的な誠実さで塗りつぶそうとしていた。


 作業が終わり、栞がキャビネットから卒業アルバムの編集部員リストを取り出した。僕の任期が終わり、次期チーフへと引き継がれる最終確認だ。栞はリストをめくりながら、ふと僕に尋ねた。


「会長、大学でも写真部に入られるんですか?」


「いや。もう、いい」


 僕は即答した。写真部は、結季を観測するための僕の唯一の隠れ蓑だった。その対象が消滅した今、カメラという道具は、僕に過去の傷を想起させるだけの凶器でしかない。


「そうですか……。少し、寂しいですね」


 栞はそう言って、僕を真っ直ぐに見つめた。その瞳は僕の隠した悲しみを知りながらも、それを言葉で掘り起こそうとはしない。彼女の沈黙と、そこに潜む温かい理解が、僕の心を静かに撫でる。


「大学では、法学に没頭する。僕には、それが一番性に合っている」


「はい。会長の誠実さ、論理的思考、そして責任感は、きっと法学の分野でこそ最大限に発揮されます」


 彼女は僕の選択を全面的に肯定してくれた。それは僕が選んだ「現実」の道であり、彼女もまたその道を共に歩もうとしている。僕の周りに漂う虚無感は、結季という「夢」が消えたことによるものだが、栞という「現実」の存在だけが、僕を崩壊から守り続けていた。


 冬が深まるにつれ、校舎の暖房が効き始める。熱源に近づくように僕たちは机を並べ、受験勉強に没頭した。僕は法学のテキストの難解な条文の中に、心の安息を見つけようと努めた。「とらわれた心見つめていたよ」——僕の心は、結季への届かぬ想いと、誰にも言えない敗北の秘密に囚われたまま、孤独な受験の季節を迎えていた。しかし、その囚われた心を、栞の静かな献身だけが、そっと傍で見つめ続けている。彼女の視線は、僕の孤独を共有する、暗闇の中の小さな光だった。僕はその光に頼ることを、もはや拒否できなかった。


 ある日の夕方、生徒会室で最後の荷物整理をしていたとき、栞が鍵の束を僕の机に置いた。銀色の鍵の束は、生徒会長という僕の三年間を象徴する重みを持っていた。


「生徒会室の鍵と、部室の鍵の予備です。次期執行部に渡す最終確認を済ませました。これで、会長の公務は完全に終了です」


 彼女の声は事務的ながら、どこか解放されたような響きを持っていた。僕は鍵の束を手に取った。冷たい金属の感触が、僕の虚ろな心に、新しい責任という名の重みを与えてくれる。結季という夢は終わった。しかし、栞という現実は、僕の誠実さの欠片を集めて、僕の人生の再構築を静かに始めている。僕はその事実に、抗うことよりも、むしろ安堵を感じ始めていた。孤独な観測者は、今、誰かの献身という名の現実的な愛の中に、新しい自分の居場所を見出しつつあった。


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## 第22話 卒業アルバムの完成


 旧校舎の三階にある、卒業アルバム編集部の作業室は、大量の印画紙とページレイアウトの見本、そして分厚い台紙の匂いが混ざり合い、時間の堆積した重苦しい空気に満たされていた。壁一面には、この三年間を切り取った写真が仮止めされており、歓声や汗、そして青春の断片が、モノクロとカラーの静止画となって貼り付けられている。冬の冷え込みが一段と厳しくなった夕暮れ時、僕は作業台の隅に座り、最後の最終校正を終えるために、生徒会長としてではなく、編集部チーフとしての責任を負っていた。机上には、陸上部のページに挟まれた一枚のカラー写真が置かれている。蒼井結季が、あんず色の夕陽の中でトラックを疾走する、あの地方大会決勝の瞬間を切り取った一枚だ。


 それは僕が撮った写真の中でも、光と影、そして被写体の躍動感が完璧に調和した、文句のつけようのない傑作だった。弾丸のように地面を蹴り、未来だけを見据える彼女の姿は、まさに高校生活の光そのものだ。僕はこの写真が公的な記録として残ることに、深い安堵と、歪んだ誇りを感じていた。僕の浅い夢は終わったが、彼女の最も美しい瞬間を永遠に封じ込めたのは、他の誰でもない、僕という観測者なのだという事実に、僕の心は僅かながら救いを求めている。しかし同時に、この完璧な写真が、僕の心の奥底に封印されたあの「抱擁の決定的瞬間」という、醜い真実を隠蔽するための分厚い嘘であることも知っていた。


「こちらのレイアウトで、デザイン部に回して問題ありませんね、早乙女さん」


 僕の正面で、篠原栞が最終チェックを終えた校正刷りを静かに差し出してきた。彼女の指先が、結季の走る写真の縁を辿っている。


「ああ、問題ない。このまま進行してくれ。あとは、キャプションの確認だけだ」


 僕は視線を彼女の指先からキャプションへと移した。「女子短距離走者、蒼井結季。怪我を乗り越え、最後の夏に準優勝という輝かしい成績を収めた」—簡潔で、的確な賞賛だ。僕の胸には、彼女が怪我の苦しみを共に分かち合った拓海と結季の、あの熱い抱擁という真実が、鉛のように重く沈んでいる。だが、公的な記録においては、その私的な事実は必要ない。いや、あってはならない。僕が最後の最後まで「公的な誠実さ」を演じきること、それが僕の初恋への、そして栞への、唯一の責任の取り方だった。


「キャプションも完璧です。彼女の三年間の努力が、この一枚に凝縮されていますね」


 栞はそう言って、僕の目を見て静かに微笑んだ。その笑顔は、彼女が僕の内心のすべてを理解し、この儀式的な作業を共に進めてくれているという事実を、無言で伝えてくるようだった。彼女は、僕が暗室で泣き叫び、写真を破り捨てた醜さも、そして誰にも言えない秘密を胸に秘めている孤独も知っている唯一の人間だ。彼女の献身は、僕の虚無感に、冷たいながらも確かな温もりを与えてくれる。


 その時、栞はふと、僕のデスクの脇に置かれた一箱の古い木箱に視線を向けた。それは僕が、結季のモノクロ写真群と、あの「抱擁の写真」を封印した箱だ。彼女はそれを指差すことも、その内容について言及することもしなかったが、その視線には、「すべてここに閉じ込めておけばいい」という、暗黙の共犯関係の確認があった。僕の敗北と、その後の苦悩を静かに見守り続ける彼女の愛は、結季への憧れという、手の届かない夢とは全く異なる、地に足の着いた現実そのものだった。


「これで、高校生活の記録はすべて完了ですね、早乙女さん」


 栞は校正刷りを重ね、最後に表紙を閉じながら言った。その声は達成感に満ちていたが、同時に微かな哀愁も帯びていた。三年間、僕の傍にいて、僕の完璧な生徒会長という虚像を支え続けた彼女の努力も、これで終わりを迎える。僕の生徒会活動も、写真部での役割も、すべてがこの分厚いアルバムの中に過去として封じ込まれる。


「ああ。僕たちの青春の集大成だ」


 僕がそう答えると、栞は小さく息を吐き、静かに立ち上がった。


「お疲れ様でした。後は印刷所への入稿作業だけです。これは私の仕事ですから、もう早乙女さんはご自分の道に集中してください」


 彼女は僕の肩に、そっと手を置いた。その手の温もりが、僕の心の凍りついた部分に、ゆっくりと熱を伝えてくる。結季の走りが僕に与えたのは、手の届かない憧れと、それゆえの孤独だった。しかし、栞が僕に与えてくれるのは、傍にいるという確固たる現実と、未来への責任だ。僕の孤独な観測は終わった。これからは、彼女の献身という名の現実的な愛の中に身を置き、新たな人生を歩み始めるべきなのだ。


 僕たちは作業室の電気を消し、静かに廊下を歩いた。窓の外は完全に夜の闇に包まれ、校庭は暗い影の中に沈んでいる。「遠くで僕はいつでも君を探してた」という僕の初恋の季節は、このアルバムの完成と共に、永遠に過去となった。僕の隣には、僕の真実の愛の終焉を最も近くで見届け、その上でなお、僕の未来を計画し続けている篠原栞がいる。僕は、彼女の誠実さに報いなければならない。それが、僕が公的な誠実さを貫いた男として、自分自身に課す最後の責任だった。


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## 第23話 卒業式の朝


 三月の卒業式の朝は、冬の残滓を断ち切るように鋭く冷え込んだ澄んだ空気と、春の訪れを告げる柔らかな光に満ちていた。僕は制服のネクタイを締めながら、自室の机の上に置かれた古い木箱を静かに見下ろしていた。深みのある茶色の木箱は、この一年半の僕の初恋のすべてが詰まった、重苦しい遺物だ。中には、僕がフィルムカメラで撮り続けた蒼井結季のモノクロ写真が数十枚と、地方大会で切り取られたあの抱擁の決定的瞬間が、ひっそりと封じ込められている。この箱を開けることは、僕が観測者という役割を演じ、公的な誠実さの裏で私的な欲望を抱き続けたという、僕自身の最大の嘘と向き合うことを意味していた。


 僕はゆっくりと蓋を開け、その中身を最後に確認した。白黒の印画紙の上に広がる結季の姿。走る姿、怪我の痕、苦悶の表情、そして拓海の腕の中にある安堵の顔。すべてがモノクロームの階調の中で、感情を剥ぎ取られた静止画として僕の網膜に焼き付いている。特に、あの抱擁の一枚は、見るたびに胸を抉るような痛みをもたらしたが、同時に、僕の心を支配していた浅い夢の終焉を、冷徹な論理でもって証明してくれる唯一の証拠でもあった。彼女の幸福は僕の視界の外、拓海の隣にある。この真実を、僕は一年間の受験勉強と論理的な思考に没頭することで、ようやく頭では受け入れることができていた。彼女への倒錯した渇望は、この箱の中に封印することで、ようやくその熱を失いつつある。


 僕は箱の蓋を閉め、それを部屋の最も奥まった棚へと押し込んだ。埃を被り、やがて忘れ去られるであろうその場所こそが、僕の初恋の墓場だ。カタリという木と木が触れ合う微かな音が、僕の青春の季節が完全に終わったことを告げていた。僕はもう、彼女を観測する必要はない。僕の心は虚無に満ちているが、それは僕が彼女への執着という名の呪縛から、ついに解放されたことを意味していた。生徒会長の鎧を脱ぎ、ただの卒業生として校門を潜った僕は、冷たい空気が身を引き締めるのを感じながら、体育館へと向かう廊下を歩いた。


 式典が始まり、厳粛な空気の中で卒業証書授与が行われる。壇上に上がる卒業生たちの顔を、僕は一人静かに見つめた。そして、蒼井結季の名が呼ばれた。凛とした足取りで壇上へ向かう彼女は、以前よりも一層大人びて見えた。彼女の未来は、大学の強豪陸上部という新たな目標と、拓海という揺るぎない伴走者と共に、開かれている。僕の視界の中に、もう彼女の居場所はない。彼女を見つめる僕の心には、かつてのような熱い情熱は微塵もなく、ただ清々しいまでの諦念と、彼女の幸福を純粋に願う、遠い親愛の情だけが残されていた。


 彼女の隣には、卒業生代表として式に臨む海老名拓海がいる。彼は頼もしい笑顔で結季と目を合わせ、二人の間には、誰にも邪魔されない確固たる絆が流れている。彼らの幸福な姿は、僕の初恋が届かぬ想いであったことを最後の最後まで証明し続けているが、その証明は、もはや僕の心を傷つける凶器ではない。彼らは、僕が目を覚ますことを可能にした、僕の人生の教師だったのだ。


 式典が終わり、校舎の廊下は、卒業生と保護者、在校生たちの歓声と、別れを惜しむ熱気に包まれた。僕は人混みから離れ、旧校舎の隅にある生徒会室の窓際に一人立っていた。ここからなら、校庭の桜並木の下で、友人たちに囲まれて笑う結季と拓海の姿が見える。二人はもう、僕の観測の対象ではない。彼らは僕の人生の過去であり、美しい思い出の一部なのだ。


「早乙女さん」


 静かな声が、僕の傍で聞こえた。篠原栞だ。彼女は卒業生を送る在校生代表としての務めを終え、いつものように僕の隣に立っている。その制服姿は今日が最後だが、彼女の表情は常に冷静で、そして計画的だ。


「お疲れ様でした。これで、貴方の高校生活は本当に終わりですね」


「ああ。君も、ご苦労だった」


 僕は窓の外の結季と拓海の姿から目を離し、栞の方を見た。彼女の瞳は、僕の虚無感を知りながらも、僕の未来だけを真っ直ぐに見据えている。


「彼らの未来は、輝かしいですね」


 僕が言うと、栞は静かに頷いた。


「ええ。ですが、貴方の未来も、劣らず輝かしいものになります。私という、最も現実的な計画が傍にいますから」


 彼女の言葉は、単なる慰めではない。彼女が僕と同じ大学を選び、僕の傍にいるという、揺るぎない未来への責任を込めた宣言だった。結季への初恋は、僕にとって甘い夢であり、孤独な観測だった。しかし、栞が僕に差し出している愛は、献身と責任に裏打ちされた、温かく重みのある現実だ。


 僕はポケットの中で、固く握りしめた拳をゆっくりと開いた。そこにはもう、フィルムカメラの冷たい感触はない。あるのは、彼女の存在がもたらす、確かな体温のような安堵だけだ。僕は、孤独な観測者という鎧を脱ぎ捨て、栞が提示する愛される当事者という、新たな役割を受け入れる準備が、今、整ったことを知った。


 僕の初恋は、今日、この卒業式の朝に完全に終わった。そして、僕の人生の新たな物語が、最も誠実で計画的な、僕の右腕の告白によって、始まろうとしている。


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## 第24話 生涯あなたの傍に


 卒業式の終焉を告げる微かな鐘の音が、旧校舎の窓ガラスを震わせ、春の夕暮れが近づく空気に静かに溶けていった。生徒会室の窓際に立ち、僕は眼下の校庭を見下ろしている。桜の蕾はまだ硬いが、光は既にやわらかさを増しており、春特有の哀愁と希望が混ざり合った、複雑な色合いを大地に投げかけていた。校庭の中央、友人たちの輪から離れた場所で、蒼井結季と海老名拓海が二人並んで立っている。彼女は卒業証書を抱え、拓海は少し照れたような、誇らしげな笑顔を浮かべていた。二人は互いの視線から一瞬たりとも目を離さず、言葉を交わす代わりに、その揺るぎない絆と未来への確信を分かち合っているようだった。僕の視線は、彼らから離れようとしなかった。それは嫉妬でも、未練でもない。それは僕という観測者が、被写体の物語が完全に完結する瞬間を見届ける、最後の義務だった。


 拓海が結季の肩に手を置き、そのまま二人は並んで校門へと歩き出した。その背中には、迷いも、僕の存在すらも意識していない清々しさがあり、彼らの未来が、僕の知らない遥か遠い場所へと続いていることを雄弁に物語っていた。僕の胸にあった虚無感は、その光景を見届けた瞬間、ついに底の抜けた穴となった。これで本当に終わりだ。僕の届かぬ初恋、僕の浅い夢、僕の高校生活は、彼らが校門の向こうに消え去ったという事実によって、完全に過去へと封印された。僕は観測者としての役割を完全に終え、公的な鎧を脱ぎ捨て、心の中にはもう、誰を追いかければいいのかも分からない、深い孤独と喪失感だけが残されていた。


「もう、よろしいでしょう」


 僕の傍らに立っていた篠原栞が、静かに言った。彼女の視線は結季たちの背中ではなく、僕の横顔に向けられている。僕は力なく頷き、窓枠から手を離した。僕の身体は鉛のように重く、動くことさえ億劫だった。孤独と虚無が僕を支配し、僕は今、人生という舞台の上で、次に何をすべきかを知らない迷子になっていた。


「早乙女さん、あなたの誠実さは、あなたを孤独な道へと導きました」


 栞はそう言って、一歩踏み出し、僕の正面に立った。窓の外の光が彼女の眼鏡を反射し、その表情は読み取れないが、声にはかつてないほどの確固たる意志が込められていた。


「あなたは、公的な責任を貫くために、個人的な感情をフィルムの中に閉じ込め、観測者という安全な檻の中に逃げ込みました。それは、結季さんのような『夢』を、『責任』を持って愛することができなかったからです」


 彼女の指摘は正確で、僕の最も弱い部分を鋭く抉った。僕は、彼女の言葉を否定することができなかった。


「しかし、その最後まで貫いた公私の区別と責任感こそが、あなたの最も強い核です。あなたは、夢を追う人ではなく、現実を守る人なのです」


 栞はそこで一呼吸置き、その場に留まっていた僕の手を、両手でしっかりと握りしめた。彼女の掌は冷たかったが、その圧力には揺るぎない強さが宿っていた。


「私は、あなたという人間を、三年間にわたって最も近くで観測してきました。あなたの孤独も、暗室での破壊衝動も、すべて知っています。そして、あなたが本当に必要としている愛は、手の届かない憧れ(夢)ではなく、隣にいて、一緒に計画を立て、責任を分かち合う、具体的で揺るぎない現実です」


 彼女の指が僕の脈打つ手首に触れ、その熱が僕の身体に流れ込んでくる。


「早乙女さん。私は、あなたの孤独を終わらせるために、ここにいます。生涯あなたの傍にいますから、結婚を前提に正式に付き合ってください」


 それは告白というよりも、僕の人生の再構築計画であり、論理的かつ感情的な、逃げ場のないプロポーズだった。彼女の愛は、僕の誠実さという名の弱みを逆手に取り、僕に「生涯の責任」を求めている。僕は、彼女の誠実さと、その計画の持つ揺るぎない安定感の中に、僕の虚無を埋める唯一の答えを見出していた。僕は彼女を抱きしめた。その抱擁は、激情ではなく、確固たる責任と、孤独からの解放の安堵に満ちていた。僕の愛は、情熱ではなく、継続と責任にある。その真実を、僕は今、この暗室の中で、彼女の温もりの中で、ついに知ったのだ。暗室の湿った冷気と、二人の肌が触れ合う場所から立ち昇る熱気が混ざり合い、僕の心臓は再び、重く規則的なリズムを刻み続けている。それは、ふりこ細工の心ではなく、現実の責任を刻む、新しい時間の音だった。


 しばらくの間、僕たちは言葉もなく抱き合っていたが、やがて栞がゆっくりと身体を離した。その瞳は、涙で潤んだ跡がありながらも、強い光を宿している。僕は、彼女の濡れた頬に触れ、親指でその雫をそっと拭った。僕の指先が、彼女の肌の冷たさと、その奥にある温かな情熱を感じ取っている。


「栞」


 僕は彼女の名前を、初めて愛と責任を込めて呼んだ。


「本当に、ありがとう。君の献身は、僕の孤独な観測のすべてを支えてくれた。君がいなければ、僕はあの虚無の中で、きっと壊れていた。君のその計画的で、揺るぎない愛の深さに、僕は心から感謝する」


 僕の言葉に、栞は静かに首を横に振った。


「感謝されるためにしたわけではありません。これは、私の計画であり、私の初恋ですから」


「分かっている。だが、その計画を僕のために三年も温めてくれたこと、僕の醜い秘密を一人で共有し、僕が崩壊しないように道筋を整えてくれたことには、感謝しかない」


 僕は改めて、深く頭を下げた。そして、次に続く言葉は、僕が彼女に対して負っている最も重い罪への謝罪だった。この謝罪は、形式的なものではなく、僕自身の魂の救済に繋がる、不可欠な儀式なのだ。


「そして、謝罪しなければならないことがある」


 僕は顔を上げ、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。僕の視線は一切揺らがなかった。


「君は、僕が結季に囚われていた間も、ずっと傍にいてくれた。僕が君の献身を親友という安全な枠組みに留め置いたのは、君の想いを知っていたからだ。知っていながら、君の愛を利用し、君の孤独に見て見ぬふりをした。僕が虚構の愛を追いかけていた間、君の届かない想いも、僕の『浅い夢』と同じように、この三年間、苦しみに耐え続けていたことを、僕は分かっていながら、君の誠実さに甘えていた。その残酷な利用と、君の感情への無視について、本当に、すまなかった」


 僕の心からの告白に、栞の瞳が再び潤んだ。彼女は両手を僕の頬に当て、その冷たい掌で僕の顔を包んだ。


「その謝罪は、もう必要ありません。私は、あなたの誠実さの裏に隠された、その脆弱で、孤独な心に惹かれたのですから。あなたに見過ごされることも、私の計画の一部でした。あなたの誠実さという名の壁が崩れるまで、私は待つ覚悟を決めていたのです」


「だが、もう待たせることはしない。君の献身が、僕の人生のすべてを再構築してくれた。だから、僕の責任は、君の愛に応えることだ」


 僕は彼女の手に自分の手を重ね、その指先にそっと唇を寄せた。そして、大きく息を吸い込んだ。ここからは、僕が観測者ではなく、責任を持つ当事者として、彼女の愛を社会的に確立する番だ。僕の家族にも、彼女の存在を、単なる生徒会役員ではなく、僕の生涯の伴侶として、公的に認めてもらう必要がある。それは僕の「公的な責任」に対する、真実の結末なのだ。


「僕たちの交際が、未来への責任から始まったことを、僕と共に公のものにしてほしい。君の決意を、僕の家族に紹介させてくれないか」


 栞は、驚きと喜びがない交ぜになった表情で僕を見つめ、微かに震える唇で頷いた。


「はい……。喜んで。それが、私の一番得意なことですから」


 僕が彼女の頭を優しく抱き寄せると、彼女は安心しきったように僕の胸に顔を埋めた。僕の胸の中で、彼女の鼓動が熱く響いている。


「もちろん、君の両親には俺から説明するので、紹介してくれないか。」


 僕の言葉に、栞は顔を上げ、瞳を輝かせた。その表情は、三年間の努力が報われた勝利者のものだった。彼女は、僕という観測対象を、ついに自分の物語の主人公として手に入れたのだ。


「はい。喜んで、早乙女さん」


 彼女は僕のネクタイに手をかけ、ゆっくりとそれを緩めた。そして、その指先が、僕のシャツのボタンを外し始める。彼女の動作は献身的でありながら、微かな震えを伴っており、僕の内に残されていた観測者としての最後の理性さえも、静かに溶かしていく。僕は抵抗しなかった。結季への未遂の情熱、孤独な夜に写真を通して弄んでいた抑圧された欲望、そのすべてが、彼女の献身という名の現実的な愛によって、今、赦されようとしている。


 僕の制服が、一枚、また一枚と床に落ちていく。僕が三年間纏い続けた「生徒会長の鎧」が、剥がされていく音だ。僕の肌が、暗室の湿った冷気に触れ、鳥肌が立つ。彼女の指先が、僕の肌に触れ、その温もりが、僕の身体的な渇きを満たしていく。それは、僕が彼女に、そして僕自身の人生に、「責任」を持つことを受け入れた、現実の愛への移行の儀式だった。僕の孤独な観測は終わった。これからは、僕が誰かに愛され、誰かに責任を負う、当事者として生きていくのだ。


 窓の外では、夕陽が完全に山の端に沈み、最後のあんず色の光が、旧校舎の窓を僅かに染めていた。その光は、昇華編で見たあの激しい「終焉のあんず色」とは違い、穏やかで暖かな、「未来への安堵」の色をしていた。僕の視界にはもう、結季の幻影は映らない。僕の目の前には、僕を救い、僕の人生に参画することを決めた、篠原栞がいる。僕は彼女を抱きしめた。その抱擁は、確固たる責任と、孤独からの解放の安堵に満ちていた。僕の愛は、情熱ではなく、継続と責任にある。その真実を、僕は今、この暗室の中で、彼女の温もりの中で、ついに知ったのだ。


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## エピローグ:杏色の校庭は、ふたたび(最終完成版)


 私立葵陵高等学校の卒業式から二十五年の歳月が流れた。早乙女真直は、妻となった篠原栞と共に、都心の一等地に瀟洒な弁護士事務所を構えていた。かつて生徒会長として自らに課した公私の線引きは、今や責任という名の堅固な基盤となり、彼らの人生を支えている。事務所の大きな窓からは、彼らの計画的な人生の成果である、秩序だった都市の景色が一望できた。真直の視界には、もはや届かぬ夢の残像はない。隣には、常に献身的で論理的、そして彼を孤独から救い出した栞が、共同経営者として完璧に座っている。二人の愛は、熱狂的な情熱ではなく、日々積み重ねられる信頼と、未来への計画によって構築された、冷徹なまでの現実だった。


 その日の午後、事務所の応接室には、真直と栞の息子、早乙女理人さとひとが、緊張した面持ちで立っていた。理人は、真直の論理的な思考と端正な顔立ちをそのまま受け継いでいたが、高校時代は父の所属した写真部とは異なり、自らの意思で陸上部に所属し、短距離走で身体能力を極めていた。今春、彼は父と同じく名門大学の法学部に合格したばかりだ。彼の隣には、理人の将来の伴侶となる少女が静かに控えている。彼女の顔を見た瞬間、真直の心臓は、二十五年ぶりに奇妙な鼓動を刻んだ。その少女は、柔らかな輪郭、凛とした眼差し、そしてしなやかな体躯を持つ、まるで蒼井結季の青春の姿をそのまま時を超えて写し取ったかのような面影を宿していたからだ。


「父さん、母さん。紹介します。彼女は、理沙りさです」


 理人が少し上擦った声で、しかし強い意志を持って告げた。真直は無意識に、グラスの中の水を口に含み、冷たい液体が喉を滑り落ちるのを感じた。隣の栞も、一瞬だけ眼鏡の奥の瞳を大きく見開いたが、すぐにいつもの副会長の顔に戻り、静かに微笑んだ。


「理沙さんは、高校では僕と同じく陸上部で、短距離走のエースとして活躍していました。そして、彼女も僕と同じ、父さんたちの母校である大学の法学部に進学します」


 理人はそう続けると、真直と栞が築き上げてきた堅固な城壁を、率直な言葉で攻め立て始めた。理人は、自分たちの未来を、愛という曖昧な言葉ではなく、明確な事業計画と共同責任として提示した。その力強い宣言は、真直と栞の人生哲学そのものを受け継いだ、彼ら二人の子供らしい結末だった。


「きっと成し遂げて見せますので、彼女とのことを認めてください」


 真直は、二十五年前に自分には決して持つことのできなかった、愛する者を隣に立たせて公的な場で宣言する当事者の強さを、息子の中に見出した。その時、理沙が微笑んだ。その笑顔は、かつて桜の下で結季が真直に向けた、無垢で純粋な慈愛に満ちた笑顔と酷似していた。


「ご両親の名前は、拓海さんと結季さんだったかな?」


 真直の問いは、二十五年間の平静を破る、かすかな揺らぎを伴っていた。理沙の持つ結季の面影が、問いの言葉を導き出させたのだ。


「両親をご存じなのですか?」


 理沙の目が驚きに見開かれる。真直は静かに頷き、遠い目をした。


「はい、そうです。父が海老名拓海、母が海老名結季です」


 理沙の答えを聞いた瞬間、真直の世界は再び色彩を帯びた。拓海と結季は結婚し、そして娘を授かった。その娘は、真直の息子と結ばれ、彼の築いた「現実」と「責任」の象徴たる弁護士事務所を継ごうとしている。


「高校で一緒だったんだよ。拓海さんと結季さんも陸上部で活躍していたよ」


 真直は、そう言ってから、自分のデスクの引き出しに手を伸ばした。そこには、二十五年前に暗室の木箱から取り出し、誰にも見られぬように封印し直した、最後の個人的な遺物が収められている。理沙の持つ結季の面影と、息子が示す未来への決意が、その遺物を今、解放するべき時だと告げていた。


「理沙さんに、いいものをあげよう。これはもう私には必要ないものだからね」


 真直は引き出しから、丁寧にラミネートされた一枚のモノクロ写真を取り出し、理沙の手にそっと置いた。理沙と理人が顔を寄せ合ってその写真を見つめる。そこに写っているのは、夏の夕焼けが薄れる中、陸上部のユニフォーム姿の若き拓海と結季が、満面の笑みで強く抱き合っている瞬間だった。周囲の喧騒から切り離され、彼らの間に流れる揺るぎない愛の真実だけが、鮮烈な光を放っている。


「これは……」


 理沙は言葉を失い、写真に触れる指先が震えている。


「私の高校時代の写真の最高傑作だよ。どうかもらって欲しい」


 真直の言葉は、かつて己の敗北の証としてフィルムを断ち切った男の懺悔であり、同時に、届かぬ夢を最高の形で祝福する、静かな親愛の情に満ちていた。叶わなかった夢の結末が、別の形で、そして最も誠実な形で、次の世代の幸福として形になった瞬間だった。


 真直は深く息を吐き、隣に座る妻、篠原栞の手を強く握った。彼女の掌は暖かく、二十五年間の信頼の重みを伴っている。彼女の愛は、僕の「夢」を消し去り、僕の人生に現実を与えてくれた。そして今、彼女と共に築いた「責任」という名の未来が、彼の初恋の面影を伴って、永遠に繋がっていく。


【完】


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