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杏色の校庭と、ふりこ細工の心  作者: 舞夢宜人


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前編:遠くで見つめた、たったひとつの浅い夢。

あらすじ:

生徒会長の早乙女真直は、恩人である陸上部の蒼井結季への初恋を、カメラ越しに遠くから見つめる観測者。その傍らで、真直を慕う右腕の篠原栞は、彼の揺れる初恋の終焉を静かに待つ。結季が幼馴染の海老名拓海と愛を成就させた卒業式の日、真直の「浅い夢」は終わりを告げる。


登場人物:

早乙女さおとめ 真直まなお:生徒会長の鎧で初恋を隠す、孤独な観測者。

蒼井あおい 結季ゆうき:陸上部のエース。真直の恩人だが拓海と愛を貫く。

篠原しのはら しおり:真直の右腕。彼の孤独を知る、計画的な初恋の相手。

海老名えびな 拓海たくみ:結季の幼馴染で恋人。揺るぎない愛で彼女を支える。


第1話 五月雨の後の君


 騒々しい歓声が湿った大気に吸収されていき、グラウンドを覆う熱気は生徒たちの若さそのもののように無遠慮で、どこか暴力的な響きを帯びていた。私立葵陵高等学校、第80回体育祭。本部テントのパイプ椅子に腰を下ろした僕は、手元の進行表に視線を落としつつ、無線機のイヤホンから流れるノイズに耳を傾けている。生徒会長という役職は祭りの中心にいるようでいて、その実は最も遠い場所から熱狂を監視する孤独な観測者に過ぎない。トラックでは男子100メートル走の決勝が行われており、スタートの号砲とともに爆発した歓声が僕の鼓膜を無作法に叩いた。空を見上げると分厚い雲が垂れ込めており、予報では午後から崩れると言っていたが、大気は既に水分をたっぷりと含んでいて、アスファルトから立ち昇る埃っぽい匂いと混ざり合い、鼻腔の奥に重苦しく張り付く。この湿度は写真のフィルムを劣化させる嫌な類のものであり、僕は無意識に制服のポケットに入れた愛機の感触を確かめていた。


 その時、突風が吹いて砂埃が舞い上がり、本部テントの天幕が激しくバタついた。視界が茶色く霞む中、トラックの向こう側にある用具置き場の近くで何かが軋む音が聞こえ、嫌な予感が背筋を駆け上がる。僕は反射的に椅子を蹴ってテントを飛び出した。視線の先で高さのある得点掲示板が風に煽られ、ゆっくりと、しかし抗いようのない質量を持って傾いでいくのが見えた。その真下にはゼッケンをつけた小柄な女子生徒が立ち尽くしており、思考よりも先に足が動いていた。


「危ない!」


 喉が裂けんばかりに叫びながら、僕は全速力で駆けた。革靴が土を蹴り、足裏に硬い衝撃が走るのと同時に周囲の景色が流れる色彩の帯となり、傾倒する掲示板と、その下の少女の姿だけがスローモーションのように鮮明に切り取られる。彼女が顔を上げ、恐怖に見開かれた瞳が僕を捉えた。間に合うか否か、論理的な計算など吹き飛び、僕は最後の数メートルを跳躍して彼女の身体を強引に抱き込み、コンクリートの地面へと転がり込んだ。直後、轟音とともに掲示板が地面を叩きつけ、ベニヤ板の破片が飛び散り、砂煙が視界を白く染めた。静寂が一瞬だけ訪れ、すぐに悲鳴と怒号が遠くから押し寄せてくる。僕は荒い呼吸を整えながら腕の中を確認すると、華奢な身体が小刻みに震えていた。ショートカットの髪から覗く白い項、土に汚れた体操服、それは陸上部のエースである蒼井結季だった。


「……会長?」


 彼女が顔を上げ、怯えた声で僕を呼び、その瞳は潤んでいて焦点が定まっていないようだった。僕の腕は彼女の背中と膝裏をしっかりと支えていたが、いわゆる「お姫様抱っこ」の形になっていることに気づき、僕は慌てて体勢を直そうとしたものの、彼女が苦痛に顔を歪めたため動きを止めた。


「足、痛むか」


 僕の問いに彼女は唇を噛んで小さく頷き、右足首が不自然に腫れ上がっているのが見て取れた。掲示板の直撃は避けたものの、僕が突き飛ばした拍子に捻ったのかもしれないし、あるいは避ける動作の中で痛めたのかもしれないが、いずれにせよ歩かせるわけにはいかない。


「じっとしていてくれ。救護室まで運ぶ」


「でも、次のリレーが……」


「この足で走れるわけがないだろう。大人しくするんだ」


 僕は努めて冷静な生徒会長としての声音を作り、彼女の抵抗を封じるように強く言い聞かせると、再び彼女を抱き上げた。陸上選手として鍛え上げられた身体は無駄な脂肪が削ぎ落とされ、鋼のような芯を感じさせるが、その重量は驚くほどに少なかった。僕の首筋に彼女の熱い吐息がかかり、汗と制汗スプレーの混じった微かな甘い匂いが鼻先を掠めた瞬間、僕の心臓が早鐘を打ったのは、全力疾走の直後だからだけではないような気がした。


 救護室は旧校舎の一階にあり、黴臭さと消毒液の匂いが混在する薄暗い部屋に彼女を運び込んだ。ベッドに下ろすと彼女はほっとしたように息を吐き、すぐにまた顔を曇らせたが、保健医は不在だった。机上の書き置きによればグラウンドでの怪我人対応に出ているらしく、部屋には僕と彼女の二人きりだ。窓の外で雨が降り始め、ポツリポツリと窓ガラスを叩く音が次第にザーッという連続音へと変わっていく。五月雨だ。緑が濃くなり始めた校庭の樹木を冷たい雨が容赦なく濡らしていき、遠くから聞こえていた歓声は雨音に遮断され、まるで別の世界の出来事のように遠のいていった。


「……ごめんなさい、早乙女先輩」


 沈黙を破ったのは結季で、彼女はベッドの縁に座り、腫れ上がった右足首を睨みつけるように見つめていた。


「僕が勝手に助けただけだ。君が謝る必要はない」


 僕は救急箱から湿布と包帯を取り出しながら素っ気なく答えたが、感情を込めすぎないよう言葉を選ぶのに苦労した。生徒会長としての仮面を外してしまえば、目の前の少女にどう接していいのか分からなくなる気がしたからだ。


「でも、先輩に怪我させちゃったかもしれないし……それに」


 言葉が途切れ、彼女の手がシーツを強く握りしめたことで拳が白くなり、震えが大きくなる。


「……地方大会、だったんです」


 絞り出すような声だった。


「この足じゃ、もう……」


 彼女の視線はまだ自分の足首に釘付けで、そこにあるのは痛みへの恐怖ではなく、積み上げてきたものが崩れ去る音を聞いた者の絶望だった。僕は言葉を失い、かけるべき言葉が見つからなかった。「大丈夫だ」などという無責任な慰めは彼女の努力を侮辱することになるし、「次はきっとある」という言葉も、今この瞬間の喪失を埋めるにはあまりに空虚だ。僕は黙って彼女の前に片膝をつき、右足に触れると熱を持っており、湿布を貼るために足首を持ち上げると彼女がビクリと反応した。


「冷たい……」


「すまない。湿布だ」


 僕の手の冷たさと彼女の肌の熱、その温度差が僕たちの立場の違いを明確に示しているようであり、当事者である彼女と傍観者である僕の境界線を感じさせた。湿布を貼り終え、包帯を巻き始めると、頭上から啜り泣く声が聞こえてきた。顔を上げると結季が両手で顔を覆い、肩を震わせていた。


「走りたかった……みんなと、走りたかったぁ……」


 指の隙間から透明な雫が溢れ落ち、それは彼女の頬を伝い、顎先で一度留まり、やがて重力に従って僕の手の甲へと落ちた。熱い、と思った。雨音だけが支配する薄暗い部屋で少女の嗚咽が響き、それはグラウンドで見せる凛としたエースの姿からは想像もできないほど幼く、脆く、無防備なものだった。僕は包帯を巻く手を止め、その涙を見つめた。見てはいけないものを見てしまったような背徳感と、どうしようもなく惹きつけられる引力が同時に胸の奥で渦巻く。彼女は強いと思っていた。太陽の下、風を切って走る彼女は僕とは違う世界の住人だと認識していたが、今目の前にいるのは夢を断たれ、ただ泣きじゃくる一人の女の子だ。胸の奥で何かが静かに、けれど決定的に音を立てて動き出した気がした。それは時計の振り子のように、一度動き出せば止めることのできない、規則的で重苦しい鼓動だった。


「……少し、休んでいるといい」


 僕は包帯を巻き終えて立ち上がり、これ以上ここにいては僕の仮面が剥がれ落ちてしまいそうだったため、逃げるように背を向けて扉へと向かった。


「先輩」


 濡れた声に呼び止められ、僕はノブに手をかけたまま立ち止まった。


「……助けてくれて、ありがとうございました。本当に」


 振り返ると彼女は赤く腫らした目をこすりながら、無理に作った歪な笑顔を向けており、その痛々しいほどの健気さが僕の胸を鋭く刺した。


「……ああ」


 短く答え、僕は部屋を出た。廊下は薄暗く、雨の湿気で満ちていた。壁に背を預け、僕は長く息を吐き出すと、心臓の音がまだ耳の奥で鳴り響いていた。手の甲に残った涙の感触を確かめるように親指でそっと撫でると、熱はもう消えていたが、その痕跡は火傷のようにヒリヒリと痛んだ。窓の外では五月雨が緑を濡らし続けている。僕は知ってしまった。彼女の弱さを、彼女の涙の温度を、そしてその涙を拭う権利が自分にはないことを。届かぬ想いを暖めるように、僕はポケットの中のカメラを握りしめた。冷たい金属の感触だけが、今の僕に許された唯一の現実だった。雨音が世界を閉じ込めていき、僕の初恋はこの灰色の雨の中で、静かに、誰にも気づかれることなく始まったのだ。


---


第2話 恩人の距離と、校庭の残像


 タクシーの窓ガラスを叩く雨粒は、街灯の滲んだ光を乱反射させながら無数に滑り落ちていく。車内には独特の革の匂いと湿った制服の匂いが充満しており、タイヤが水を跳ね上げるシャーッという音が、沈黙を強いるように低く響き続けていた。僕は後部座席の右側に深く身を沈め、隣に座る蒼井結季の様子を盗み見るような真似はせず、流れる景色をただ無感動に眺めるふりをしている。彼女は左側のドアに寄りかかるようにして身体を小さく丸め、時折、痛みに耐えるように微かに息を呑む気配を漂わせていた。救護室での処置を終えた後、僕は教師の指示を仰ぎ、そのまま彼女を近隣の総合病院へと搬送する役割を負ったのである。これはあくまで生徒会長としての危機管理業務の一環であり、個人的な感情が介入する余地など一ミリたりとも存在しないはずだった。しかし、僕の太腿の上で固く握りしめられた掌は、未だに彼女の涙の熱さを記憶しているかのように火照っており、その熱が全身の血液を巡って思考を鈍らせていた。


 病院の待合室は、午後からの雨のせいか薄暗く、消毒液と病院特有の無機質な清浄さが漂っていた。診察室へと消えた結季を待つ間、僕は固いベンチに腰を下ろし、手元の生徒手帳に挟んだ進行表を何度も確認するふりを繰り返す。体育祭は今頃、副会長の指揮の下で閉会式へと向かっているだろうが、無線機を持たない今の僕にとって、そこはあまりにも遠い世界だった。診察室のドアが開き、車椅子に乗せられた結季と医師が出てくる。診断結果は右足首の重度の捻挫と靭帯の一部損傷であり、骨に異常はないものの、全治三週間という宣告は、彼女にとっての地方大会の終わりを意味していた。医師の説明を聞く彼女の背中は小さく、今にも崩れ落ちそうなほど華奢に見えたが、彼女は気丈にも「わかりました」と短く答え、それ以上涙を見せることはなかった。その痛々しいほどの強がりが、僕の胸の奥にある不可解な振り子を揺らす。


 帰りのタクシーを手配し、彼女を自宅まで送り届ける道中も、会話はほとんどなかった。雨は小降りになっていたが、空は依然として重い鉛色をしており、世界全体が水槽の中に沈んだかのように色彩を失っている。彼女の家の前にタクシーが停まり、僕は先に降りて手を貸そうとしたが、彼女はそれをやんわりと拒否し、松葉杖をついて自力で立ち上がった。その頑なさは、陸上選手としてのプライドなのか、あるいは僕に対する遠慮なのかは判別がつかない。彼女は門扉の前で振り返り、深く頭を下げた。


「今日は、本当にありがとうございました。早乙女先輩がいなかったら、私、もっと酷いことになっていたと思います」


 雨に濡れたアスファルトの上で、彼女の声は湿気を帯びて震えていた。その瞳には、救護室で見せた弱さはもうなく、代わりに「恩人」に対する最大限の敬意と感謝が宿っている。その眼差しを受けた瞬間、僕の中で何かが冷たく引き締まるのを感じた。それは彼女との間に引かれた明確な境界線であり、僕が決して踏み越えてはならない一線だった。彼女にとって僕は、命を救ってくれた頼れる生徒会長であり、それ以上でもそれ以下でもない。その認識があまりにも正しく、そして残酷なほどに純粋であるがゆえに、僕は自らその枠組みを強固にする必要があった。


「礼には及ばない。生徒会長として、当然の処置をしたまでだ」


 僕の口から出た言葉は、自分でも驚くほど冷徹で、事務的な響きを持っていた。感情を一切排したその声音は、彼女の感謝を突き放すようにも聞こえたかもしれないが、そうすることでしか、僕は自分自身の揺らぐ心を繋ぎ止めることができなかったのである。彼女は一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに納得したように頷き、再び深く頭を下げた。


「それでも、感謝しています。……また、学校で」


 彼女が家の中へと消えていくのを見届けた後、僕は再びタクシーに乗り込み、逃げるようにその場を去った。シートに背中を預けると、どっと疲労が押し寄せてくる。恩人。その言葉は、甘美な響きを持ちながらも、僕を彼女の恋愛対象から最も遠い場所へと追いやる呪縛のように感じられた。命の恩人に対して、人は恋心ではなく、崇拝や感謝を抱くものだ。僕は今日、彼女の特別な存在になったのと同時に、永遠に手の届かない存在になったのだという確信が、冷たい楔となって胸に打ち込まれた。


 自宅に戻った僕は、濡れた制服を脱ぎ捨て、自室のベッドに倒れ込んだ。窓の外では雨が上がりかけていたが、部屋の中はまだ薄暗く、静寂が耳に痛い。目を閉じると、瞼の裏に鮮烈な映像が浮かび上がってくる。それは、怪我をして泣きじゃくる今日の彼女の姿ではなく、いつか見た、放課後の校庭を走る彼女の姿だった。夕暮れの光を浴びて、トラックを疾走するその姿は、風そのもののように美しく、しなやかで、圧倒的な生命力に満ちていた。筋肉の躍動、飛び散る汗、前だけを見据える強い瞳。あの日、僕はただ遠くからその姿を目で追うことしかできなかった。そして今も、僕は彼女の「恩人」という名の観測席に座らされ、遠くから見つめることしか許されていない。


 僕は身を起こし、机の引き出しから愛用のフィルムカメラを取り出した。金属の冷たい質感が、火照った手のひらに心地よい。ファインダーを覗き込み、ピントリングを回す。そこには何もない部屋の壁が映るだけだが、僕の心眼は、あの日の校庭の残像をはっきりと捉えていた。写真とは、時間を止める魔法だと言う者がいる。もし僕が、彼女のあの一瞬をフィルムに焼き付けることができたなら、この届かない想いを、永遠の記録として封じ込めることができるのだろうか。


 僕の心臓が、規則正しく、しかし重苦しい音を立てて脈打ち始める。それはまるで、古時計の振り子が左右に揺れる音のようだった。理性と感情、公務と私情、生徒会長と一人の男。二つの極点の間を行き来するその振り子は、今日という日を境に、決して止まることのない運動を始めてしまったのだ。彼女の涙を知ってしまった罪悪感と、彼女の特別になれたという優越感。矛盾する二つの感情が、振り子の動きに合わせて僕の胸を掻きむしる。


「……浅い夢、か」


 誰に聞かせるでもなく呟いたその言葉は、部屋の空気に溶けて消えた。僕はカメラを下ろし、レンズキャップを嵌める。カチリという乾いた音が、僕の決意の音のように響いた。僕は彼女を観測する。生徒会長という鎧を纏い、カメラというフィルターを通して、彼女の青春を、その喜びも悲しみも、すべてを遠くから記録し続けよう。それが、好きだよと言えずにいる僕に許された、唯一の愛の形なのだから。


 翌日、僕はいつものように早朝の生徒会室に向かった。誰もいない校舎は静まり返り、昨日の雨で洗われた校庭が、朝日に照らされて輝いている。窓際に立ち、眼下のトラックを見下ろす。そこにはまだ誰の姿もないが、僕には見える気がした。見えないはずの彼女の走る姿が、残像となって網膜に焼き付いている。僕はポケットからカメラを取り出し、無人のトラックに向けてシャッターを切った。フィルムには何も映らないだろう。だが、それでいい。僕の心の中にある「ふりこ細工」だけが、この空白の景色に込められた意味を知っていれば、それでいいのだ。遠くで僕はいつでも君を探してた。その歌詞の一節が、痛いほどに胸に染み渡っていくのを感じながら、僕は静かにファインダーから目を離した。


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第3話 写真部という名の隠れ蓑


 重厚な真鍮のボディに黒色の塗装が施された一眼レフカメラは、手に取るとずしりとした冷たい質量を掌に伝え、その感触はまるで冷めた銃器のようでもあった。デジタル信号に変換される前の、光そのものを物理的にフィルムへ焼き付けるための機械であり、そのファインダーを覗き込む行為は、漫然と広がる世界を長方形の枠で切り取り、自分にとって都合の良い真実だけを選別する儀式に似ている。レンズのガラス玉の向こう側にある景色は、ピントリングを回す指先一つで鮮明にも曖昧にもなり、僕はその全能感ごっこに浸ることで、どうしようもない現実の無力さを忘れようとしていたのかもしれない。


 放課後の生徒会室には西日が長く伸びており、僕は机の上に広げられた卒業アルバムの編集企画書に目を通しつつ、赤ペンで幾つかの修正を加えていた。隣では副会長の篠原栞が黙々と書類の仕分けを行っており、彼女が紙をめくる規則的な音だけが静寂を埋めていた。窓の外からは運動部の掛け声やブラスバンドの音色が微かに漏れ聞こえてくるが、この部屋は防音された水槽のように校内の喧騒から隔絶されており、二人だけの濃密な時間が流れている。


「今年度のアルバムですが、運動部のページ配分を増やすべきだという意見が出ています」


 栞が手元の作業を止めずに淡々とした口調で報告し、その声は常に冷静で感情の起伏を感じさせないが、指摘は的確だった。


「体育祭での事故があったからね。生徒たちの不安を払拭するためにも、運動部が活気づいている様子を記録に残すのは悪くない判断だ」


 僕は生徒会長としての尤もらしい理屈を並べ立てたが、それは嘘ではないものの真実のすべてでもなく、公的な大義名分は個人的な欲望を隠すための最も強固な鎧となることを僕は知っていた。僕はペンを置き、傍らに置いてあったカメラに視線を移すと、黒いレンズが僕の心の奥底を見透かすように光を反射しているのが見えた。


「写真部の部員だけでは手が回らないだろう。僕も撮影に出るよ。元々、写真部としての活動時間が足りていなかったから丁度いい」


「……会長が、ですか」


 栞の手が止まり、彼女は顔を上げて眼鏡の奥にある知的な瞳で僕を射抜くように見つめた。その視線には、僕の隠している下心を完全に見透かしているような静かな鋭さが宿っていたが、彼女はそれを言葉にはせず、短く息を吐くと手元のスケジュール帳を開いた。


「分かりました。では、会長の公務の空き時間を調整して、撮影時間を確保します。放課後の十六時から十八時、グラウンドの使用割り当てを中心に組みますね」


「助かるよ、篠原」


「あくまで、卒業アルバムの制作業務ですから。……無理はなさらないでください」


 彼女の言葉の端に微かな棘が含まれているように感じたのは僕の気のせいだろうかと思いつつ、彼女はすぐに視線を書類に戻して再び事務的な作業に没頭し始めたため、僕は逃げるようにカメラを掴んで生徒会室を後にした。旧校舎から渡り廊下を抜けてグラウンドへと向かうと、五月雨の季節が過ぎた空気には初夏の湿り気と熱気が混じり始めていた。放課後の校庭は部活動に励む生徒たちのエネルギーで満ちており、サッカー部の蹴るボールの音や野球部の金属バットが奏でる乾いた打球音の渦の中に身を置きながら、僕は一人、異質な存在として佇んでいた。首から下げたカメラは僕を「参加者」ではなく「記録者」として定義し、その重みだけが僕の存在をこの場所に繋ぎ止めている。


 僕はトラックのコーナー付近にある桜の木陰に位置取りをし、ここからはグラウンド全体が見渡せる一方で、向こうからはこちらの姿が木の幹に隠れて見えにくいという絶妙な死角を確保した。僕はレンズキャップを外して絞りとシャッタースピードを確認し、指先が微かに震えているのを自覚しながら深呼吸をしてそれを鎮めると、ファインダーを覗いた。世界が一瞬で暗転し、中央のスクリーンにだけ光が宿るその場所に、彼女がいた。


 蒼井結季はトラックの脇にある芝生の上で入念なストレッチを行っており、右足首にはまだ厚いテーピングが巻かれているのが見えた。三週間の安静期間は過ぎたはずだが、本格的な練習にはまだ戻れていないのだろう。彼女は慎重に足首を回して痛みの有無を確認するように眉を寄せ、そして小さく息を吐いた。その一挙手一投足が望遠レンズの圧縮効果によってすぐ目の前にあるかのように鮮明に迫ってきて、僕はピントリングを回した。背景の校舎や他の生徒たちがボケていき、結季の姿だけが世界から切り離されて浮かび上がる。汗に濡れた前髪、真剣な眼差し、ジャージ越しにも分かる脚の筋肉の躍動、肉眼で見れば数十メートル離れた他人に過ぎない彼女が、レンズ越しには僕だけの所有物となる。


 カシャリ。


 シャッター幕が下りる硬質な音が僕の鼓膜を打ち、それは時間を切断する音であり、彼女の現在を過去へと固定する音だった。彼女が走り出した。まだ全速力ではなく、ジョギング程度の速度でフォームを確かめるようにトラックを踏みしめており、怪我の恐怖と戦っているのかその表情には微かな強張りが混じっている。僕はカメラをパンさせながら彼女の動きを追い続け、ファインダーの中で彼女の視線がふと遠くを見つめる瞬間があったが、その瞳の先にあるのはゴールのテープか、それとも自身の限界か。僕はずっと、遠くで君を探していた。教室でも廊下でも、そしてこのグラウンドでも。生徒会長として声をかけることはできるし、「調子はどうだ」と気遣うこともできるはずだが、それは許されない。なぜなら僕の抱いている感情は「心配」という公的なラベルで隠しきれるほど生易しいものではなく、一度触れてしまえば、一度その名前を呼んでしまえば、僕の中の何かが決壊し、この安全な距離が崩壊してしまうからだ。だから僕は、カメラという機械を間に挟まなければ、彼女を見ることさえできない。


 カシャリ、カシャリ。


 フィルムを巻き上げるレバーの感触が指に心地よい抵抗を残し、僕は貪るようにシャッターを切り続けた。彼女が痛みに顔を歪める瞬間も、汗を拭う仕草も、風になびく髪も、すべてをフィルムという物質の中に封じ込めていく。これは「取材」だ、卒業アルバムという公的な記録のために必要な素材だと自分に言い聞かせるたびに、胸の奥で罪悪感が甘く疼いた。


 その時、ファインダーの端に別の影が入り込んだ。海老名拓海だ。陸上部のキャプテンであり、彼女の幼馴染である彼は、走るのをやめた結季に近づき、屈託のない笑顔で何かを話しかけている。そして自然な動作でタオルを差し出し、彼女の肩をポンと叩くと、結季の表情がふわりと緩んだ。リハビリ中の孤独なアスリートの顔から、年相応の少女の顔へと一瞬で変化したのを見て、僕はシャッターを切る指を止めた。二人の間にある空気はレンズ越しにも伝わるほど濃密で完結しており、そこには言葉など必要ない、長年の共有体験が積み上げた信頼と親密さが満ちている。拓海が何かを言い、結季が笑いながら彼を軽く小突くその距離感は、僕がどれだけ望遠レンズで引き寄せようとも、決して到達できない「現実の距離」だった。僕はカメラを下ろした。急に現実の世界が広がり、色彩と騒音が押し寄せてきて、自分の立ち位置がひどく惨めなものに思えた。木の陰に隠れ、機械越しに好きな女の子を覗き見ているだけの卑屈な観測者である僕のいる場所には冷たい影が落ちているのに、彼らのいるトラックの上は陽光に満ちている。


「……いい写真は撮れましたか、会長」


 背後から唐突に声をかけられ、僕は心臓が跳ね上がるのを抑えながら振り返ると、いつの間にか篠原栞が立っており、手にはスポーツドリンクのボトルを二本持っていた。彼女は僕の動揺に気づかないふりをして、校庭の方に視線を向けた。


「陸上部の取材、順調そうですね」


「ああ……まあね。リハビリ中の風景も、復帰へのドキュメントとして価値があると思って」


 僕は言い訳がましく言葉を継ぎ足したが、栞はそれには答えず、持っていたボトルの一本を僕に差し出した。


「お疲れ様です。水分補給も忘れないでくださいね。……これ以上、熱くならないように」


 その言葉が気温のことなのか、それとも僕の情動のことなのか判断がつかなかったが、彼女の瞳は静かで深い湖のように底が見えず、僕は礼を言ってボトルを受け取った。冷たいペットボトルの結露が熱を持った掌を冷やしていくのを感じていると、栞は踵を返し、歩き出した。


「もう十分撮れました。戻りましょう、会長」


 その背中は、僕がこれ以上醜態を晒さないように導いてくれているようにも見えた。僕はもう一度だけトラックを振り返ると、結季と拓海はまだ談笑しており、夕日が彼らのシルエットを長く伸ばし、二つの影が校庭の上で一つに重なりかけていた。僕は唇を噛み締め、再びレンズキャップを嵌めた。光を遮断し、闇の中に像を閉じ込める。今日の「収穫」は、現像室の暗闇の中でだけ僕のものになる。浅い夢だから、胸を離れない。僕は逃げるように栞の背中を追い、夕暮れの校舎へと足を速めた。影だけが長く、長く、僕の後ろをついてきていた。


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第4話 揺れる振り子と右腕


 放課後の生徒会室は、規律と静寂が支配する聖域であり、その空気を醸成しているのは間違いなく副会長の篠原栞という存在だった。旧校舎の二階、西日が差し込むこの部屋で、僕は生徒会長としての決裁印を書類に押し続けている。僕の左手側には未決裁の書類が山積みにされ、右手側には決裁済みのそれが整然と積み上げられていく。この単調な作業を淀みなく進行させることができるのは、栞が事前にすべての資料に目を通し、重要度順に並べ替え、必要な補足情報を付箋で示してくれているからに他ならない。彼女は僕の正面の席に座り、パソコンのキーボードを軽やかなリズムで叩いている。黒髪を耳にかけ、銀縁の眼鏡の奥で知的な瞳を光らせる彼女は、まさに「生徒会長の右腕」と呼ぶに相応しい完璧な実務能力を有していた。彼女の指先が生み出す微かな打鍵音と、僕が印鑑を押す朱肉の湿った音だけが、古い柱時計の秒針の音と重なり合って室内に響いている。


 僕と栞の関係は、高校入学直後、生徒会室の扉を叩いた彼女が「貴方の補佐をさせてください」と申し出たあの日から始まっている。中学時代からの実績を買われて会長に就任した僕にとって、彼女の存在は不可欠な歯車となっていた。彼女は僕の思考を先読みし、僕が口を開く前に必要な資料を差し出し、僕が疲労を感じる前にコーヒーを淹れる。その完璧な献身は、あたかも僕という人間の一部が外部化されたかのような錯覚さえ抱かせるものだった。しかし、ここ数週間の僕は、その精巧な歯車に微細な砂を噛ませるような行為を繰り返している。


「会長、来週の予算委員会の資料ですが、陸上部の備品請求に関する項目を修正しておきました」


 キーボードを叩く手を止めず、栞が平坦な声で告げた。その声には、感情の色が一切混じっていないように聞こえるが、長く付き合ってきた僕には、その奥にある僅かな澱みを感じ取ることができた。


「ありがとう。……陸上部、か」


 僕がその単語に反応して顔を上げると、栞の手が一瞬だけ止まり、すぐにまた動き出した。陸上部の備品請求、それはすなわち、蒼井結季が使うスターティングブロックや、彼女が走るトラックの整備に関わる予算だ。僕は無意識のうちに、その項目に対して甘い査定を行おうとしていたのかもしれない。あるいは、逆に厳しくすることで公平性を演出しようとしていたのか。いずれにせよ、僕の私的な感情が公務に滲み出そうとしていたところを、栞は無言のうちに修正し、正当な形へと整えてくれたのだ。彼女は僕の「公的な誠実さ」を守る番人であり、同時に僕の「私的な揺らぎ」を最も近くで感知する観測装置でもあった。


「それと、写真部の暗室使用許可の申請も通しておきました。放課後の十六時三十分から一時間、会長のスケジュールを空けてあります」


 栞は顔を上げることなく、淡々と次の報告を続けた。その言葉に、僕は息を呑んだ。本来であれば、その時間は生徒会主催の球技大会に向けた打ち合わせが入っていたはずだ。それを彼女は、僕が何も言わずとも調整し、僕が「取材」という名目で現像室に籠る時間を確保してくれたのだ。


「……すまない。助かるよ」


 僕の謝罪とも感謝ともつかない言葉に、栞はようやく顔を上げ、眼鏡の位置を指先で直した。その瞳は静謐な湖面のように凪いでいたが、奥底には読み取れない感情が沈殿しているように見えた。


「謝る必要はありません。会長のクリエイティブな活動は、精神衛生上必要なものですから。それに、卒業アルバムのクオリティを上げることは、生徒会としての責務でもあります」


 彼女は完璧な論理で僕の逃げ道を塞ぎ、同時に僕の罪悪感を軽減しようとしてくれている。だが、その配慮が逆に僕の胸を締め付けた。彼女は知っているのだ。僕がその一時間を使って何をするのかを。暗室の赤い光の中で、酢酸の匂いに包まれながら、結季の肢体や表情を印画紙に焼き付けるという、倒錯した情熱の発露を。彼女はそれを「クリエイティブな活動」という綺麗な言葉でラッピングし、僕に差し出している。


 僕は決裁の手を止め、窓の外に視線を逃がした。眼下には、夕暮れの光を浴びたグラウンドが広がっている。陸上部の練習が始まっており、遠く豆粒のような生徒たちがトラックを周回していた。その中に、結季の姿を探してしまう自分がいる。リハビリメニューをこなす彼女の姿は、ここからでもはっきりと識別できた。彼女が動くたびに、僕の心臓にある「ふりこ細工」が大きく振れる。右へ、左へ。公務への責任と、届かぬ恋心の間を、重苦しい音を立てて行き来する。


「……篠原」


「何でしょうか」


「君には、いつも負担をかけてばかりだな」


 僕は窓の外を見つめたまま、独り言のように呟いた。それは生徒会長としての労いの言葉であると同時に、一人の男としての懺悔でもあった。もし僕が彼女の立場なら、上司が私的な感情で業務に支障をきたしかけている状況に、愛想を尽かしていただろう。しかし、彼女は文句一つ言わず、むしろその状況を完璧にコントロールしてみせている。


「負担だなんて、思っていません。私は、会長が目指す完璧な生徒会運営を支えることが、自分の役割だと認識していますから」


 栞の声が、僅かに震えたような気がした。振り返ると、彼女は書類の束を胸に抱き、少しだけ俯いていた。その表情は前髪に隠れて見えないが、彼女の周囲に漂う空気が、いつもの冷徹な事務員のそれとは異なり、どこか湿り気を帯びているように感じられた。


「それに……会長が何かに夢中になっている姿を見るのは、嫌いではありません。たとえそれが、遠くにある手に入らない星を見上げるような、報われない行為だとしても」


 彼女の言葉は、鋭い針となって僕の核心を突いた。「報われない行為」。彼女は僕の初恋が「浅い夢」に過ぎないことを、そしてそれがやがて終わる運命にあることを、冷静に予見しているのだ。それでもなお、その夢を見る時間を僕に与えようとする彼女の心理は、僕には計り知れないものがあった。それは単なる忠誠心なのか、それとも別の何かなのか。


 栞がふと顔を上げ、僕と視線が交差した。その瞬間、彼女の瞳の中で何かが揺れた。それは僕の心にある振り子と共鳴するように、規則正しく、しかし不安げに揺れ動く感情の波だった。彼女はすぐに視線を逸らし、いつものポーカーフェイスを取り戻すと、立ち上がってキャビネットへと歩き出した。


「お茶を、淹れ直しますね。少し濃いめがよろしいでしょうか」


 彼女の後ろ姿を見つめながら、僕は奇妙な感覚に襲われた。僕はずっと、結季という遠くの光を追いかけていた。しかし、僕の影を踏むようにして、常に傍らに存在している栞という闇の深さに、今まで気づこうとしていなかったのではないか。彼女の完璧な振る舞いの裏側にある、人間的な揺らぎ。それを直視することは、僕にとって結季への想いを否定することに繋がるような、漠然とした恐怖を覚えた。


 やがて、湯気を立てるマグカップが僕のデスクに置かれた。コーヒーの苦い香りが、部屋の空気を書き換える。


「ありがとうございます」


「いいえ。……あと三十分で、暗室の時間です。準備なさってください」


 栞は時計を確認し、僕を促した。その声にはもう、先ほどの揺らぎは微塵も感じられない。完全に「生徒会副会長」としての仮面を被り直していた。僕は頷き、引き出しからフィルムの入ったケースを取り出す。


 僕は生徒会長の席を立ち、暗室へと向かう。その背中を、栞がどのような表情で見送っているのか、僕は振り返ることができなかった。ただ、背中に突き刺さる静かな視線の重みだけが、僕の右腕としての彼女の存在を痛いほどに主張していた。僕の心は結季へと向かい、身体は栞によって支えられている。この歪な均衡が、いつまで保たれるのか。廊下を歩く足音が、振り子のリズムのように一定の間隔で響き、校舎の壁に虚しく吸い込まれていった。


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第5話 リハビリの痕跡


 暗室の赤いセーフライトの下で、現像液に浸された印画紙がゆっくりと像を結んでいく時間は、僕にとって世界で最も純粋な祈りの瞬間に近かった。外界から遮断され、鼻をつく酢酸の匂いだけが充満するこの狭い空間こそが、僕の歪んだ心が唯一安息を得られる場所だった。トレイの中で揺蕩う液体をピンセットで揺らすと、白い紙の上に薄墨のような影が浮かび上がり、やがてそれは明確な輪郭を持った「彼女」へと変貌する。


 今日焼き付けているのは、先日グラウンドで盗み撮った結季の写真だ。まだ走ることのできない彼女が、トラックの脇でストレッチをしている姿。望遠レンズで切り取られたその光景は、肉眼で見るよりも遥かに多くの情報を僕に語りかけてくる。モノクロームの階調の中に封じ込められた彼女の肌は陶磁器のように滑らかに見えるが、目を凝らせば、そこには確かな生身の肉体が存在していた。


 僕はルーペを覗き込み、現像されたばかりの写真の細部を確認する。

 ピントは完璧だ。彼女の真剣な横顔、微かに開かれた唇、そして――。

 僕の視線は、彼女の太腿の内側にある一点に釘付けになった。ジャージの裾がめくれ上がり、露わになった白い肌の上に、一本の細い線が走っている。それは恐らく、以前の怪我の手術痕だ。あるいは、厳しい練習の中で負った古傷か。これまで彼女の「走る姿」という完成された美しさばかりを追っていた僕は、その傷の存在に気づいていなかった。いや、気づこうとしていなかったのかもしれない。


 その傷跡は、彼女がただの美しい偶像ではなく、痛みを知る一人の人間であることを生々しく主張していた。そして同時に、その傷を目撃してしまったという事実が、僕の中に背徳的な興奮を呼び覚ます。誰も知らない彼女の秘密。拓海でさえ、練習中の彼女の脚をここまで詳細に見つめることはないだろう。このレンズを通した視点だけが、彼女の肉体に刻まれた歴史を、誰よりも深く「所有」しているのだ。


「……綺麗だ」


 思わず漏れた吐息のような言葉は、自分でも驚くほど熱を帯びていた。それは単なる美的感動ではない。傷ついたものへの憐憫と、それに触れたいという倒錯した欲求が入り混じった、名状しがたい感情だった。僕は震える指で、濡れた印画紙の上の彼女の脚をなぞった。冷たい薬液の感触が指先に伝わるが、僕の脳内では、それは彼女の温かい肌の感触へと変換されていた。


 その時、暗室のドアがノックされた。

 現実に引き戻された僕は、心臓が早鐘を打つのを感じながら、慌てて写真を定着液のトレイへと移した。


「……誰だ」


「篠原です。時間ですよ、会長」


 ドア越しに聞こえた栞の声は、いつも通り冷静で、事務的だった。僕は大きく息を吐き、動揺を鎮めてからドアを開けた。

 廊下の明るい光が目に痛い。栞は腕組みをして立っており、僕の顔を見るなり、呆れたように眉をひそめた。


「随分と熱心ですね。予定時間を十分もオーバーしています」


「すまない。現像のタイミングが難しくてね」


 僕は平静を装って答えたが、栞の視線は僕の背後、暗室の中に吊るされた写真たちに向けられていた。赤いライトに照らされた無数の結季の姿。走る姿、笑う姿、そして苦悶の表情。それらはまるで、僕のストーカー的な執着を暴露する証拠品のようだった。


「……傑作は、撮れましたか」


 栞の問いかけには、探るような響きがあった。彼女は僕が何を撮っているのかを知っている。その上で、あえて「傑作」という言葉を使うことで、僕の行為を芸術の枠組みの中に留めようとしてくれているのだ。


「ああ。悪くない」


 僕は短く答え、ドアを閉めて彼女の視線を遮った。あの太腿の傷跡が写った一枚だけは、誰にも見せたくなかった。それは僕だけの秘密であり、僕と結季を繋ぐ、見えない糸のようなものだと思ったからだ。


 翌日、僕は昼休みに陸上部の部室を訪れた。表向きの理由は、生徒会誌のインタビュー記事の打ち合わせだ。しかし真の目的は、昨日の写真で見た「傷」の実像を確認することだった。

 部室の前で声をかけると、中から結季が出てきた。彼女は制服姿で、怪我をした右足を引きずりながらも、明るい笑顔を向けてくれた。


「あ、会長! わざわざすみません」


「いや、構わない。足の具合はどうだ?」


「だいぶ良くなりました。まだ走れませんけど、軽い筋トレなら来週から始められそうです」


 彼女はそう言って、自分の右足をポンと叩いた。その仕草には悲壮感はなく、前向きな強さが感じられた。しかし僕は、彼女のスカートの裾から覗く太腿に視線を走らせずにはいられなかった。黒いハイソックスとスカートの間の、ほんの僅かな領域。そこにあの傷があるはずだ。


「……無理は禁物だぞ。焦って悪化させたら元も子もない」


 僕は努めて生徒会長らしい口調で諭したが、内心では自分の視線が不自然になっていないか不安でたまらなかった。彼女の肉体を「観測」したいという欲求と、それを悟られてはならないという理性が激しく対立する。


「はい、分かってます。拓海……あ、海老名にも、口うるさく言われてるんで」


 彼女が何気なく口にした「拓海」という名前に、僕の心臓が嫌な音を立てた。彼女の口から出るその名前は、あまりにも自然で、親密な響きを持っていた。


「海老名は、キャプテンとして責任感が強いからな」


「ふふ、そうですね。でも、ちょっと過保護すぎるくらいで……」


 結季は困ったように笑ったが、その表情には拓海への全幅の信頼と、ある種の甘えが見て取れた。彼らは共有しているのだ。怪我の痛みも、リハビリの苦しみも、そして未来への希望も。僕が暗室の中で一人、写真を通して想像することしかできない「彼女のリアル」を、拓海は隣で肌で感じている。


 その圧倒的な敗北感に打ちのめされそうになった時、結季がふと真顔になって僕を見つめた。


「あの、会長。写真、撮ってくれてますよね?」


「え……?」


「この前、グラウンドで。会長がカメラ構えてるの、見えたんで」


 心臓が止まるかと思った。気づかれていたのか。僕の隠れ蓑は、完全に機能していなかったのだ。


「あ、ああ……卒業アルバムの取材だ。君のリハビリの様子も、記録しておこうと思って」


「ありがとうございます。……私、嬉しいんです」


「え?」


「怪我して、走れなくなって……自分が置いていかれるような気がして、すごく怖かったんです。でも、会長が見ててくれるって思ったら、なんか安心できて。記録に残してもらえるなら、恥ずかしい姿は見せられないなって、頑張れるんです」


 彼女は真っ直ぐな瞳で僕を見た。そこには一点の曇りもない、純粋な感謝と信頼があった。彼女は僕の盗撮に近い行為を、「応援」として好意的に解釈してくれているのだ。その無邪気さが、僕の胸を鋭く抉った。僕は彼女を性的な対象として、あるいは所有物として見ようとしていたのに、彼女は僕を「見守ってくれる恩人」として信頼している。この認識のズレは、あまりにも残酷で、そして滑稽だった。


「……そう言ってもらえると、撮りがいがあるよ」


 僕は引きつった笑顔で答えるしかなかった。彼女の信頼を裏切っているという罪悪感が、胃の腑に重くのしかかる。しかし同時に、彼女が僕の視線を必要としてくれているという事実が、歪んだ喜びとなって全身を駆け巡った。彼女は僕に見られることで強くなれる。ならば、僕は見続けよう。たとえそれが、どれほど不純な動機に基づいていたとしても。


「楽しみにしてますね、アルバム」


 結季はそう言って部室に戻っていった。彼女の後ろ姿を見送りながら、僕はポケットの中の拳を強く握りしめた。

 放課後、僕は再び暗室に籠った。昨日現像した写真をトレイに並べ、あの太腿の傷跡を見つめる。

 彼女の言葉が蘇る。「会長が見ててくれるって思ったら、安心できて」。

 その言葉は、僕に「観測者」としての免罪符を与えたようでもあり、同時に呪いをかけたようでもあった。僕は彼女を見続けなければならない。彼女が走り出し、やがて僕の視界から飛び去っていくその瞬間まで。


 僕は新しい印画紙をセットし、露光機のスイッチを入れた。赤い光の中で、僕は再び祈るように作業を始めた。今度は、彼女の笑顔ではなく、リハビリに耐える苦痛の表情を選んで焼き付けた。その歪んだ顔こそが、今の僕にとって最も美しいと感じられたからだ。彼女の弱さを知っているのは、拓海と僕だけだ。その優越感だけを頼りに、僕は暗闇の中で浅い夢を紡ぎ続けた。


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第6話 生徒会長の鎧


 生徒会室の中央に鎮座する長方形の会議テーブルは、黒檀のような深い色合いをしており、対峙する者同士の距離を物理的にも心理的にも隔てる分厚い壁として機能していた。窓の外では梅雨入り前の湿った風が吹き荒れ、硝子窓をガタガタと揺らしているが、室内は空調によって人工的に冷やされ、張り詰めた静寂が支配している。僕は上座に位置する会長席に座り、手元に用意された「部活動予算および施設利用調整会議」の資料に視線を落としていた。そこには、各部活からの要望と、それに対する生徒会執行部の査定案が、栞の完璧な手腕によって無機質な数字とグラフに変換されて並んでいる。


 今日、このテーブルの向こう側に座るのは陸上部だ。

 僕はネクタイの結び目を指で確かめ、背筋を伸ばす。これより僕は、ただの早乙女真直ではなく、私立葵陵高等学校生徒会長という「機能」にならなければならない。個人的な感情、特に甘い感傷や劣情といったノイズは、この冷房の効いた空気に触れた瞬間に凍結され、粉砕されるべきだ。僕は心の中で、自分自身に分厚い鉄の鎧を着せていく。感情を遮断し、論理だけで構成された鎧を。


 ノックの音が響き、栞が「どうぞ」と凛とした声で応じた。

 ドアが開き、陸上部キャプテンの海老名拓海と、副キャプテン代理として蒼井結季が入室してくる。


「失礼します」


 拓海のハキハキとした声と、それに続く結季の少し緊張した面持ち。二人は制服姿だが、その身のこなしからはアスリート特有のバネとしなやかさが滲み出ている。特に結季は、先日部室前で見せた無邪気な笑顔を封印し、真剣な眼差しをこちらに向けていた。彼女の中で、僕は「写真を撮ってくれる優しい先輩」であり、今日の会議でも何らかの好意的な配慮を期待しているのかもしれない。その無意識の甘えを、僕は今から完膚なきまでに打ち砕くことになる。


「忙しい中、集まってもらって感謝する。座ってくれ」


 僕の声は低く、抑揚を欠いていた。二人が対面の席に座るのを待ち、僕は手元の資料を開くことなく、真っ直ぐに彼らを見据えた。


「単刀直入に言おう。陸上部から提出された、雨天時の体育館使用枠の拡大、およびタータントラックの部分補修に関する追加予算申請だが……生徒会としては、現状のままでは承認できない」


 空気が凍りついたのが分かった。結季が驚いたように目を見開き、拓海が眉をひそめる。


「承認できない、というのは……全額却下ということですか?」


 拓海が身を乗り出して問う。彼の口調は丁寧だが、そこにはキャプテンとしての譲れないプライドと、納得のいく説明を求める強さが込められていた。


「全額ではない。トラックの補修に関しては、安全管理上の観点から最低限の維持費は認める。しかし、全面的な改修や高機能材への変更は却下だ。また、体育館の使用枠については、バスケットボール部やバレーボール部との兼ね合いもあり、これ以上の譲歩は不可能という判断だ」


 僕は淡々と、用意された論理の弾丸を撃ち込んでいく。


「ですが会長! これからの梅雨の時期、グラウンドが使えないと練習量が極端に落ちてしまいます。特に今年は地方大会で結果を残すために、部員全員が必死なんです。少しの時間でもいいので、体育館のギャラリーを使わせてもらえませんか?」


 沈黙を破って声を上げたのは結季だった。彼女は身を乗り出し、訴えかけるような瞳で僕を見ている。その瞳には、数日前に「会長が見ててくれると安心する」と言った時と同じ、個人的な信頼の色が宿っていた。彼女は信じているのだ。僕が彼女の努力を知っているから、彼女の足の怪我を知っているから、特別に理解してくれるはずだと。


 その甘い期待が、僕の胸の奥でどす黒い優越感と自己嫌悪を同時に巻き上げる。だが、僕の表情筋は微動だにしなかった。


「蒼井さん」


 僕は冷たく彼女の名を呼んだ。「結季」でも「君」でもなく、他人の名字として。


「ここは生徒会の公式な会議の場だ。感情論でルールを曲げることはできない。君たちが必死なのは理解しているが、それは他の部活も同じだ。陸上部だけを優遇する合理的根拠エビデンスがない限り、特例は認められない」


 結季が息を呑むのが分かった。彼女の顔から血の気が引き、動揺が広がる。まるで、信頼していた人間に突然平手打ちをされたような表情だった。


「……でも、会長は……」


「僕が何だと言うんだ? 個人的な親交と、組織としての決定は別問題だ。公私混同は、組織の規律を最も乱す要因になる」


 僕は彼女の言葉を遮り、冷徹に言い放った。その言葉は、彼女に向けているようでいて、実は自分自身の心の柔らかな部分を切り刻むための刃物だった。彼女を傷つけたくはない。応援したい。予算を通してやりたい。そんな甘い私情を、自らの手で処刑する。それが「生徒会長の鎧」を着るということの代償だった。


「……分かりました」


 拓海が静かに、しかし重みのある声で割って入った。彼は結季を片手で制し、僕を真っ直ぐに見返す。その目には、僕に対する敵意ではなく、リーダーとしての覚悟を決めた男の光が宿っていた。


「会長の言う通りです。感情で特別扱いを求めるのは筋違いでした。……では、代替案として、朝練の時間帯の校庭使用権を、野球部と交渉して調整してもらうことは可能でしょうか? それならば予算もかかりませんし、他の屋内競技部にも迷惑はかけません」


 拓海の提案は理にかなっていた。感情に流されず、即座に現実的な打開策を見出す判断力。そして、動揺する結季をさりげなく庇い、場を収める統率力。これが、彼女の隣に立つ男の器量なのだと見せつけられているようだった。


「……いいだろう。野球部との調整は生徒会が仲介する。ただし、騒音対策については近隣住民への配慮を徹底すること」


「ありがとうございます。約束します」


 拓海が頭を下げ、隣で結季も慌てて頭を下げる。しかし、彼女はもう僕の目を見ようとはしなかった。彼女の中で、僕という存在の定義が書き換わった瞬間だった。「優しい恩人」から、「冷徹で遠い生徒会長」へ。それは僕が望んだ通りの結果でありながら、心臓を素手で握り潰されるような喪失感を伴っていた。


「議題は以上だ。解散」


 僕が終了を告げると、二人は席を立ち、一礼して部屋を出て行った。

 ドアが閉まる瞬間、結季が一度だけ振り返った気がしたが、僕は手元の資料に目を落としたまま、決して顔を上げなかった。


 重いドアが閉まり、再び静寂が訪れる。空調の音だけが、耳鳴りのように響いていた。

 僕は大きく息を吐き出し、椅子の背もたれに深く体を預けた。鉄の鎧が、鉛のように重くのしかかってくる。指先が冷たくなり、軽い眩暈がした。


「……お疲れ様でした、会長」


 隣で記録を取っていた栞が、静かに口を開いた。彼女は立ち上がり、いつものように手際よく僕の前に新しいお茶を置く。


「随分と、厳しく当たられましたね」


「公平性を保つためには、必要なことだ」


「ええ。論理的には完璧でした。……ただ、彼女は少しショックを受けていたようですが」


 栞の言葉には、非難の色はなかった。ただ事実を淡々と述べるその声音が、逆に僕の痛点を刺激する。


「それでいい。変に期待を持たせるより、線引きを明確にした方が彼女のためだ」


「彼女のため、ですか。それとも、ご自分のためですか?」


 栞が眼鏡の奥から、僕の心を見透かすような視線を投げてきた。僕は何も言い返せなかった。彼女の言う通りだ。僕は結季を守るためではなく、これ以上彼女に深入りして、自分が傷つくのを恐れただけなのだ。公務という鎧の中に逃げ込み、安全な場所から彼女を突き放すことで、自分の心の平穏を保とうとした卑怯者だ。


 僕は湯呑みを手に取ったが、震える手が茶を波立たせたため、口をつけることなくテーブルに戻した。


「……僕は、最低だな」


 自嘲気味に漏れた言葉に、栞は何も答えず、ただ僕の散らかった資料を黙々と片付け始めた。その背中は、僕の弱さも醜さもすべて受け入れ、それでもなお傍に居続けるという、無言の意志を示しているようだった。


 窓の外では、風が強まっている。黒い雲が空を覆い、今にも雨が降り出しそうだった。

 あの冷たい会議室での数十分間が、僕と結季の間に決定的な断絶をもたらした。もう、彼女が無邪気に笑いかけてくることはないだろう。部室の前での会話は、幻だったかのように遠い過去へと押し流されていく。

 それでも、僕はこれで良かったのだと自分に言い聞かせた。観測者は、対象に干渉してはならない。冷たいガラスの向こう側から、ただ記録し続けることだけが、僕に許された役割なのだから。

 僕は再び「生徒会長」の顔を作り、残りの書類仕事に向き直った。心の奥で揺れる振り子を、鉄の鎧で無理やり押さえつけながら。


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第7話 冬の白息と遠い君の影


 冬の早朝、世界は凍てつくような静寂に包まれ、吐く息は白く濁って視界を曇らせていた。まだ陽も昇りきらぬ薄暗い校庭には、霜柱が降りた地面を踏みしめる規則的な足音だけが響いており、僕は正門の陰にある校舎の壁に身を寄せるようにして立ち、ポケットの中のカイロを握りしめて指先の感覚を取り戻そうとしていた。寒さが肌を刺し、コート越しに冷気が染み込んでくるが、それすらも今の僕には心地よい痛みとして感じられる。視線の先、グラウンドのトラックには一人の少女の姿があった。蒼井結季だ。彼女はジャージ姿で黙々とランニングを続けており、怪我からの復帰を果たして数ヶ月、彼女の走りは以前のような軽やかさを取り戻しつつあったが、まだどこか慎重さが残っているようにも見えた。しかし、誰も見ていないはずのこの時間帯に一人でグラウンドに立つ彼女の姿は神々しいまでの美しさを放っており、僕はカメラを構えることもなく、ただその光景を見つめていた。レンズを通さずに彼女を見るのは久しぶりで、肉眼で捉える彼女は写真の中の静止した像とは異なり、生々しい生命力に溢れている。白い息を吐き、頬を赤らめ、寒さに負けじと手足を動かすその一挙手一投足が、僕の網膜に直接焼き付けられていく。


「……寒いな」と独り言が白い霧となって消えたが、僕は何をしているのだろうか。生徒会長としての見回りという名目はあるものの、こんな時間に校門に立っているのは明らかに異常であり、ストーカー紛いの行為だと自嘲する声が頭の中で響くが、足はここを離れようとしなかった。彼女が足を止め、膝に手をついて荒い息を整えているその背中は小さく、しかし強さを秘めていた。彼女は孤独だ。エースとしての重圧、怪我への恐怖、そして誰にも言えない不安を一人で抱え込み、こうして早朝のグラウンドで消化しているのだ。その孤独が僕の孤独と共鳴する。僕もまた、生徒会長という鎧の中で誰にも理解されない孤独を抱えており、彼女への想いを「浅い夢」として封じ込め、遠くから見守ることしかできない自分と彼女を重ね合わせ、僕たちは似ているのかもしれない、いや、そう思いたいだけなのかもしれないと自問自答を繰り返していた。


 その時、結季がふと顔を上げ、こちらを見た気がして僕は反射的に身を隠そうとしたが、体が強張って動かなかった。彼女の視線が校門の陰にいる僕を捉えたのだろうか、距離があるため表情までは読み取れないが、彼女はしばらくこちらを見つめた後、軽く会釈をするような動作を見せた。心臓が跳ね上がる。気づかれていた。いや、あるいは人影が見えたから礼儀として頭を下げただけかもしれないが、どちらにせよ僕の存在は彼女の意識の端に引っかかったのだ。それだけで凍りついていた身体に熱が走り、指先の震えが止まらなくなる。彼女は再び走り出し、今度はペースを上げてトラックを力強く蹴っていく。その姿は僕に「見られている」ことを意識しているようにも見え、僕の視線が彼女の走りの原動力になっているのだとしたらという妄想めいた考えが僕の胸を甘く締め付けた。しばらくして部活動の朝練に来た他の生徒たちの声が聞こえ始め、静寂が破られて日常が動き出すと、僕は魔法が解けたような感覚を覚えて深く息を吐き出した。これ以上ここにいるわけにはいかない。他の生徒に見つかれば、生徒会長が早朝から校門で立ち尽くしているという奇妙な噂が立ちかねないため、僕はコートの襟を立てて逃げるようにその場を離れた。


 校舎へと向かう渡り廊下で、栞とすれ違った。彼女はいつものように早く登校しており、手には温かい缶コーヒーを持っていた。「……おはようございます、会長。早いのですね」と栞は少し驚いたように目を丸くしたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。「ああ、ちょっと目が覚めてしまってね。見回りついでに散歩していたんだ」と僕は平静を装って答えたが、声が僅かに上擦っているのが自分でも分かった。栞は何も言わず、ただ僕の顔をじっと見つめた後、持っていた缶コーヒーを差し出し、「どうぞ。冷えたでしょう」と言った。「……ありがとう」と受け取った缶コーヒーは温かく、冷え切った掌に熱を伝えてくる。その温もりが栞の無言の優しさのように感じられ、僕は胸が詰まる思いがした。彼女は気づいているのだろうか、僕がどこにいて、何を見ていたのかを。「今日も一日、忙しくなりそうですね。予算委員会の準備、手伝いますよ」と栞は何事もなかったかのように事務的な話題へと切り替え、先に歩き出した。その背中は頼もしく、そしてどこか寂しげに見え、僕は缶コーヒーのプルタブを開け、苦い液体を喉に流し込んだ。熱さと苦さが胃に落ち、現実へと意識を引き戻していく。


 教室の窓から見える空は白く濁った冬の色をしていた。あの早朝のグラウンドで見せた結季の強さと、それを遠くから見つめることしかできない僕の弱さ、そしてそんな僕を支え続ける栞の静かな想い。それぞれの感情が交錯し、冬の寒空の下で凍りついたまま、時間は残酷なまでに淡々と過ぎていく。僕は机の上の教科書を開き、文字を目で追うふりをしながら、心の中で何度も呟いた。浅い夢だから、胸を離れない。その言葉だけが、今の僕を支える唯一の真実だった。


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第8話 栞の現像室


 放課後の旧校舎は、生徒たちの気配が潮が引くように遠ざかり、古い木造建築特有の軋みと冷気が支配する空間へと変貌する。その一角、階段の裏手にある写真部の暗室は、世界から切り離された深海のような場所だった。重い遮光カーテンと二重扉によって外光は完全に遮断され、セーフライトの放つ赤黒い光だけが、狭い室内の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。鼻をつく酢酸の刺激臭と、現像液がトレイの中で揺れる水音。僕はパイプ椅子に深く腰掛け、目の前に吊るされた無数の「彼女」と対峙していた。


 洗濯バサミで吊るされた印画紙の一枚一枚に、蒼井結季がいる。

 トラックを走る姿、屈託のない笑顔、そして、リハビリに耐える苦悶の表情。ここ数ヶ月、僕が「取材」という名目で盗み撮り続けてきた記録の集積だ。赤い光の下で見るモノクロームの写真は、彼女の生身の色彩を奪い去り、代わりに僕の主観的な感情だけを色濃く反映した異様な像として存在していた。特に、先日こっそりと撮影した、寒空の下で白い息を吐く彼女の姿は、神聖さと背徳感が同居する奇妙な迫力を放っている。


 僕は震える指で、一枚の写真をトレイから引き上げた。まだ濡れている印画紙の上で、結季が僕を見ている。あの日、早朝の校門で目が合った瞬間の表情だ。驚きとも、困惑ともつかない、曖昧な視線。それが僕の心臓を鷲掴みにし、締め上げる。


「……こんなものを集めて、何になるんだ」


 乾いた笑いが喉の奥から漏れた。

 生徒会長としての公務を完璧にこなし、周囲からは誠実なリーダーとして信頼されている早乙女真直。しかし、その皮を一枚剥げば、そこには好きな女子の写真を暗室に並べて悦に入る、救いようのないストーカーがいるだけだ。彼女の夢を応援するふりをして、その実、彼女の弱みや苦しみを収集し、自分だけのコレクションとして消費している。


 自己嫌悪という黒い泥が、胸の底から溢れ出してくる。

 あの日、会議室で彼女を突き放した時の、絶望に染まった顔。それでもなお、早朝のグラウンドで走り続ける彼女の強さ。それらが僕の卑小さを際立たせ、耐え難い苦痛となって襲いかかってくる。僕は衝動的に、手元の写真を握りしめた。濡れた印画紙がくしゃりと音を立てて歪む。彼女の顔が、僕の指によって醜く潰される。


「ああ……くそッ!」


 僕は立ち上がり、握りつぶした写真を床に叩きつけた。それだけでは収まらず、吊るされていた他の写真にも手を伸ばし、乱暴に引きちぎる。ピンチが弾け飛び、結季の笑顔が、走る姿が、次々と暗い床へと落下していく。破壊衝動は止まらなかった。この「浅い夢」を終わらせなければならない。こんな歪んだ記録など、すべて消し去ってしまえばいい。僕はトレイの中の現像液をぶち撒けようと、プラスチックの容器に手をかけた。


「……そこまでです、会長」


 静止の声は、背後から響いた。

 驚くほど冷静で、しかし決して聞き流すことのできない重みを含んだ声。

 僕は動きを止め、弾かれたように振り返った。いつの間にか、二重扉の内側が開いていた。赤い薄明かりの中に、篠原栞が立っていた。彼女は制服のスカートを整え、腕組みをして、惨状と化した暗室と、息を切らして立ち尽くす僕を、眼鏡の奥から静かに見つめていた。


「……篠原」


 僕は掠れた声で彼女の名を呼んだ。見られた。僕の最も醜い部分を、最も知られたくない相手に。羞恥心で顔が熱くなり、言葉が出てこない。しかし、栞は軽蔑の色を見せることもなく、ゆっくりと僕に近づいてきた。彼女の靴が、床に散らばった写真を避けるように慎重に音を立てる。


「随分と、派手にやりましたね」


 彼女は僕の手から、握りしめられたままだった写真の残骸を優しく抜き取った。そして、それを丁寧に広げようとする。修復不可能なほどに皺くちゃになった結季の顔を見て、彼女は小さく溜息をついた。


「大切な記録でしょうに」


「……ゴミだ。全部、ただのゴミだよ」


 僕は吐き捨てるように言った。


「こんなことをして、何の意味がある? 僕は彼女を見ていただけだ。何もできず、ただ遠くから見て、こうして写真を撮って……自分を慰めていただけだ。気持ち悪いだろう? 軽蔑するならしろよ」


 僕の自暴自棄な言葉に対し、栞は何も答えなかった。彼女は黙ってしゃがみ込み、床に落ちた写真を一枚ずつ拾い上げ始めた。現像液で濡れた床に膝をつくことも厭わず、まるで壊れ物を扱うような手つきで、僕が引きちぎった結季の破片を集めていく。


「篠原、よせ。汚れる」


「汚れてなどいません」


 彼女は顔を上げずに言った。


「会長が撮った写真です。会長が、心血を注いで見つめてきた時間の結晶です。……たとえそれが、誰にも理解されない感情だったとしても、そこに込められた熱量は本物です」


 彼女は立ち上がり、拾い集めた写真の束を整理して、乾いたタオルの上に並べた。そして、僕の方を向いて、哀しげに微笑んだ。


「私は、知っていますよ。会長がどれだけ苦しんでいるか。生徒会長という鎧を着て、正しいことだけを行いながら、その内側でどれだけ叫んでいるか。……この写真たちが、それを証明しています」


 彼女の視線が、壁に残った数枚の写真を射抜く。そこには、結季の美しい瞬間だけでなく、怪我の痕跡や、疲労に歪む顔も写っていた。それは確かに、単なる好意を超えた、執着と渇望の記録だった。しかし栞は、それを「愛」の一形態として肯定しようとしている。


「……君は、怖くないのか。こんな僕が」


「怖くはありません。ただ、少しだけ……寂しいです」


 栞の声が微かに震えた。彼女は一歩踏み出し、僕の目の前に立った。薄暗い赤色灯の下で、彼女の瞳だけが黒く濡れて光っている。


「会長のその激しい感情が、すべて彼女だけに向けられていることが。私には、その欠片さえも向けてもらえないことが」


 その言葉は、告白に近い響きを持っていた。しかし、彼女はすぐに表情を引き締め、いつもの副会長の顔に戻った。


「ですが、今はそれで構いません。会長が壊れてしまわないように、私が支えます。この写真も、会長の感情も、すべてこの部屋に閉じ込めておけばいい。外の世界では、完璧な生徒会長でいてください。そのために必要な処理は、私がすべて行います」


 彼女は僕の手を取り、ハンカチで汚れた指先を拭った。その手つきは母親のように献身的で、同時に共犯者のように背徳的だった。僕は抵抗する気力を失い、彼女にされるがままになっていた。彼女の掌の温かさが、凍りついた僕の心を少しずつ溶かしていく。


「……帰ってください、会長。ここは私が片付けておきます」


 栞は僕を優しくドアの方へと促した。僕は力なく頷き、逃げるように暗室を出た。

 廊下の冷たい空気が、火照った頬を冷やす。背後のドアが閉まる直前、僕はもう一度だけ振り返った。赤い闇の中で、栞が一人、僕が残した結季の写真を見下ろして立ち尽くしている姿が見えた。その横顔は、能面のようになんの感情も読み取れなかったが、漂う孤独の色だけは、痛いほどに伝わってきた。


 扉が閉まり、僕は一人廊下に取り残された。

 僕は知ってしまった。僕の初恋が、ただの美しい思い出ではなく、周囲を巻き込み、傷つけながら進行する病のようなものであることを。そして、その病を共有し、共に堕ちてくれる人間が、すぐ傍にいることを。


 暗室の中に残った栞は、真直が出て行ったことを確認すると、ふぅと長く息を吐き出した。張り詰めていた緊張が解け、肩の力が抜ける。

 彼女は作業台の上に並べられた写真たちに視線を落とした。そこには、真直の魂が焼き付けられていると言っても過言ではないほど、鮮烈な結季の姿がある。

 栞は、その中から一枚のネガフィルムを手に取った。それは、真直が一番大切にしていたであろう、早朝のグラウンドで結季がこちらに気づいて微笑んでいるカットのネガだった。


「……ごめんなさい、会長」


 彼女は小さな声で謝罪し、そのネガを現像液の廃液タンクではなく、あえて床に落とした。そして、革靴のヒールで、無慈悲に踏みつけた。グリグリと回される踵の下で、フィルムが悲鳴を上げて傷つき、像が削り取られていく。

 これは事故だ。片付けの最中に、うっかり落として踏んでしまった。そう報告すれば、彼は信じるだろう。彼は私を信頼しているから。


 栞は踏み潰されたネガを拾い上げ、ゴミ箱の底へと沈めた。

 この一枚だけは、残してはおけない。真直と結季の心が通じ合ったかもしれない瞬間の証拠など、この世に存在してはならないのだ。

 彼女は再び顔を上げ、残された写真たちを見つめた。その瞳には、先ほどまでの慈愛に満ちた光はなく、冷徹な計算と、昏い独占欲の炎が揺らめいていた。


 彼の孤独を埋めるのは、この写真の中の女ではない。

 私だ。

 栞は赤い光の中で、静かに、しかし確信を持って微笑んだ。


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第8話 栞の現像室


 放課後の旧校舎は、生徒たちの気配が潮が引くように遠ざかり、古い木造建築特有の軋みと冷気が支配する空間へと変貌していた。その一角、階段の裏手にある写真部の暗室は、世界から切り離された深海のような場所だった。重い遮光カーテンと二重扉によって外光は完全に遮断され、セーフライトの放つ赤黒い光だけが、狭い室内の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。鼻をつく酢酸の刺激臭と、現像液がトレイの中で揺れる水音だけが響く中、僕はパイプ椅子に深く腰掛け、目の前に吊るされた無数の「彼女」と対峙していた。洗濯バサミで吊るされた印画紙の一枚一枚に、蒼井結季がいる。トラックを走る姿、屈託のない笑顔、そして、リハビリに耐える苦悶の表情。ここ数ヶ月、僕が「取材」という名目で盗み撮り続けてきた記録の集積だ。赤い光の下で見るモノクロームの写真は、彼女の生身の色彩を奪い去り、代わりに僕の主観的な感情だけを色濃く反映した異様な像として存在していた。特に、先日こっそりと撮影した、寒空の下で白い息を吐く彼女の姿は、神聖さと背徳感が同居する奇妙な迫力を放っている。


 僕は震える指で、一枚の写真をトレイから引き上げた。まだ濡れている印画紙の上で、結季が僕を見ている。あの日、早朝の校門で目が合った瞬間の表情だ。驚きとも、困惑ともつかない、曖昧な視線。それが僕の心臓を鷲掴みにし、締め上げる。「……こんなものを集めて、何になるんだ」と、乾いた笑いが喉の奥から漏れた。生徒会長としての公務を完璧にこなし、周囲からは誠実なリーダーとして信頼されている早乙女真直。しかし、その皮を一枚剥げば、そこには好きな女子の写真を暗室に並べて悦に入る、救いようのないストーカーがいるだけだ。彼女の夢を応援するふりをして、その実、彼女の弱みや苦しみを収集し、自分だけのコレクションとして消費している。自己嫌悪という黒い泥が胸の底から溢れ出してくるのを感じた。あの日、会議室で彼女を突き放した時の、絶望に染まった顔。それでもなお、早朝のグラウンドで走り続ける彼女の強さ。それらが僕の卑小さを際立たせ、耐え難い苦痛となって襲いかかってくる。僕は衝動的に手元の写真を握りしめた。濡れた印画紙がくしゃりと音を立てて歪み、彼女の顔が僕の指によって醜く潰される。


「ああ……くそッ!」


 僕は立ち上がり、握りつぶした写真を床に叩きつけた。それだけでは収まらず、吊るされていた他の写真にも手を伸ばし、乱暴に引きちぎる。ピンチが弾け飛び、結季の笑顔が、走る姿が、次々と暗い床へと落下していく。破壊衝動は止まらなかった。この「浅い夢」を終わらせなければならない。こんな歪んだ記録など、すべて消し去ってしまえばいい。僕はトレイの中の現像液をぶち撒けようと、プラスチックの容器に手をかけた。


「……そこまでです、会長」


 静止の声は、背後から響いた。驚くほど冷静で、しかし決して聞き流すことのできない重みを含んだ声に、僕は動きを止めて弾かれたように振り返った。いつの間にか二重扉の内側が開いており、赤い薄明かりの中に篠原栞が立っていた。彼女は制服のスカートを整え、腕組みをして、惨状と化した暗室と、息を切らして立ち尽くす僕を眼鏡の奥から静かに見つめている。「……篠原」と僕は掠れた声で彼女の名を呼んだ。見られた。僕の最も醜い部分を、最も知られたくない相手に。羞恥心で顔が熱くなり、言葉が出てこない。しかし、栞は軽蔑の色を見せることもなく、ゆっくりと僕に近づいてきた。彼女の靴が、床に散らばった写真を避けるように慎重に音を立てる。


「随分と、派手にやりましたね」


 彼女は僕の手から、握りしめられたままだった写真の残骸を優しく抜き取ると、それを丁寧に広げようとした。修復不可能なほどに皺くちゃになった結季の顔を見て、彼女は小さく溜息をつく。「大切な記録でしょうに」と言う彼女に対し、僕は「……ゴミだ。全部、ただのゴミだよ」と吐き捨てるように言った。「こんなことをして、何の意味がある? 僕は彼女を見ていただけだ。何もできず、ただ遠くから見て、こうして写真を撮って……自分を慰めていただけだ。気持ち悪いだろう? 軽蔑するならしろよ」。僕の自暴自棄な言葉に対し、栞は何も答えず、黙ってしゃがみ込み、床に落ちた写真を一枚ずつ拾い上げ始めた。現像液で濡れた床に膝をつくことも厭わず、まるで壊れ物を扱うような手つきで、僕が引きちぎった結季の破片を集めていく。「篠原、よせ。汚れる」と言う僕に、彼女は顔を上げずに「汚れてなどいません」と答えた。「会長が撮った写真です。会長が、心血を注いで見つめてきた時間の結晶です。……たとえそれが、誰にも理解されない感情だったとしても、そこに込められた熱量は本物です」。


 彼女は立ち上がり、拾い集めた写真の束を整理して乾いたタオルの上に並べると、僕の方を向いて哀しげに微笑んだ。「私は、知っていますよ。会長がどれだけ苦しんでいるか。生徒会長という鎧を着て、正しいことだけを行いながら、その内側でどれだけ叫んでいるか。……この写真たちが、それを証明しています」。彼女の視線が、壁に残った数枚の写真を射抜く。そこには、結季の美しい瞬間だけでなく、怪我の痕跡や、疲労に歪む顔も写っていた。それは確かに、単なる好意を超えた、執着と渇望の記録だった。しかし栞は、それを「愛」の一形態として肯定しようとしている。「……君は、怖くないのか。こんな僕が」と問う僕に、栞の声が微かに震えた。「怖くはありません。ただ、少しだけ……寂しいです」。彼女は一歩踏み出し、僕の目の前に立った。薄暗い赤色灯の下で、彼女の瞳だけが黒く濡れて光っている。「会長のその激しい感情が、すべて彼女だけに向けられていることが。私には、その欠片さえも向けてもらえないことが」。その言葉は告白に近い響きを持っていたが、彼女はすぐに表情を引き締め、いつもの副会長の顔に戻った。「ですが、今はそれで構いません。会長が壊れてしまわないように、私が支えます。この写真も、会長の感情も、すべてこの部屋に閉じ込めておけばいい。外の世界では、完璧な生徒会長でいてください。そのために必要な処理は、私がすべて行います」。


 彼女は僕の手を取り、ハンカチで汚れた指先を拭った。その手つきは母親のように献身的で、同時に共犯者のように背徳的だった。僕は抵抗する気力を失い、彼女にされるがままになっていた。彼女の掌の温かさが、凍りついた僕の心を少しずつ溶かしていく。「……帰ってください、会長。ここは私が片付けておきます」。栞は僕を優しくドアの方へと促し、僕は力なく頷いて逃げるように暗室を出た。廊下の冷たい空気が火照った頬を冷やす。背後のドアが閉まる直前、僕はもう一度だけ振り返った。赤い闇の中で、栞が一人、僕が残した結季の写真を見下ろして立ち尽くしている姿が見えた。その横顔は能面のようになんの感情も読み取れなかったが、漂う孤独の色だけは痛いほどに伝わってきた。扉が閉まり、僕は一人廊下に取り残された。僕は知ってしまった。僕の初恋が、ただの美しい思い出ではなく、周囲を巻き込み、傷つけながら進行する病のようなものであることを。そして、その病を共有し、共に堕ちてくれる人間が、すぐ傍にいることを。


          ***


 暗室の中に残った栞は、真直の足音が遠ざかり、完全に聞こえなくなったことを確認すると、ふぅと長く息を吐き出した。張り詰めていた緊張が解け、肩の力が抜ける。彼女は作業台の上に並べられた写真たちに視線を落とした。そこには、真直の魂が焼き付けられていると言っても過言ではないほど、鮮烈な結季の姿がある。栞は、その中から一枚のネガフィルムを手に取った。それは、真直が一番大切にしていたであろう、早朝のグラウンドで結季がこちらに気づいて微笑んでいるカットのネガだった。「……ごめんなさい、会長」。彼女は小さな声で謝罪し、そのネガを現像液の廃液タンクではなく、あえて床に落とした。そして、革靴のヒールで、無慈悲に踏みつけた。グリグリと回される踵の下で、フィルムが悲鳴を上げて傷つき、像が削り取られていく。これは事故だ。片付けの最中に、うっかり落として踏んでしまった。そう報告すれば、彼は信じるだろう。彼は私を信頼しているから。


 栞は踏み潰されたネガを拾い上げ、ゴミ箱の底へと沈めた。この一枚だけは、残してはおけない。真直と結季の心が通じ合ったかもしれない瞬間の証拠など、この世に存在してはならないのだ。彼女は再び顔を上げ、残された写真たちを見つめた。その瞳には、先ほどまでの慈愛に満ちた光はなく、冷徹な計算と、昏い独占欲の炎が揺らめいている。彼の孤独を埋めるのは、この写真の中の女ではない。私だ。栞は赤い光の中で、静かに、しかし確信を持って微笑んだ。


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第9話 三人の視線


 冬の終わりを告げるように日差しの中に微かな春の兆しが混じり始めた頃、グラウンドの空気は張り詰めた緊張感と、来るべき季節への期待感で満たされていた。僕、早乙女真直は生徒会長としての業務の合間を縫って、今日も校舎の三階にある生徒会室の窓から眼下のトラックを見下ろしている。そこには、三人の人物が織りなす複雑な関係図が、残酷なほど鮮明に描かれていた。一人は蒼井結季。怪我からの復帰を果たし、以前のような力強い走りを取り戻しつつある彼女は、スタートラインに立って深い呼吸を繰り返している。その表情は真剣そのもので、目標を見据える瞳には一点の曇りもなく、張り詰めた弓のような緊張感が全身から漂っていた。もう一人は、海老名拓海。陸上部のキャプテンであり、結季の幼馴染である彼は、ストップウォッチを片手にスタート地点の結季に声をかけている。その距離は物理的にも心理的にも近く、二人の間には他者が入り込む隙間など存在しないように見えた。そして三人目は、僕だ。ガラスという透明な壁に隔てられた安全圏から彼らを「観測」するだけの存在であり、手にはカメラを持っているが、今日はまだ一度もシャッターを切っていない。ファインダーを覗くことすら躊躇われるほど、眼下の光景は完成されており、僕の介入を拒絶しているように感じられたからだ。


 拓海が手を振り下ろすと同時に、結季がスタートダッシュを切った。彼女の身体が弾丸のように飛び出し、トラックを疾走するそのフォームは美しく、力強く、そして何よりも楽しそうに見える。風を切る喜び、地面を蹴る感触、それらすべてを全身で味わっているような躍動感が、遠く離れた僕の網膜をも焼いた。拓海は並走するようにトラックの内側を走りながら、大声で何かを叫んでいる。「腕振れ!」「顎上げるな!」といった具体的な指示だろうか。彼の声は風に乗って微かにこちらまで届くが、内容は判別できないものの、結季がその声に反応して僅かにフォームを修正し、さらに加速する様子は見て取れた。二人の間には言葉以上のコミュニケーションが存在しており、それは長年の付き合いの中で培われた阿吽の呼吸であり、互いの身体能力や精神状態を完全に把握しているからこそ可能な連携だった。彼らは二人で一つの生き物のように機能し、目標に向かって突き進んでいる。その姿は眩しく、そして僕にとっては耐え難いほどに痛々しかった。


 僕は無意識に唇を噛み締め、口の中に広がる鉄の味に顔を顰めた。嫉妬だ。認めなければならない。僕は拓海に嫉妬している。彼の運動能力にでも、キャプテンとしてのリーダーシップにでもなく、彼が結季の「隣」にいること、彼女の「現実」を共有していること、その一点において僕は彼に決定的な敗北感を味わわされているのだ。僕が暗室の中で盗み撮った写真を通して彼女の「影」を追いかけている間、拓海は太陽の下で彼女の「光」を支えている。僕が彼女の傷跡を見て倒錯した優越感に浸っている間、拓海はその傷が癒えるまでの痛みを共に分かち合っている。どちらが彼女にとって必要な存在かなど、考えるまでもないことだった。結季がゴールラインを駆け抜け、そのまま勢いを殺しきれずに数メートル走って膝に手をつき、荒い息を吐く。拓海がすぐに駆け寄り、彼女の背中をさすりながらタイムを見せて何かを言い、二人は顔を見合わせて笑った。その笑顔は屈託のない心からのものであり、僕に向けられたことのない、そしてこれからも向けられることのないであろう、純度100パーセントの信頼と親愛の表情だった。


 その時、拓海がふと顔を上げ、こちらを見た気がした。校舎の窓際に立つ僕の姿に気づいたのだろうか。彼は一瞬だけ表情を引き締め、すぐにまた結季に向き直ったが、その直後の彼の行動が僕の心臓を凍りつかせた。彼は結季の頭にポンと手を置き、そのまま愛おしげに撫でたのだ。結季は嫌がる素振りも見せず、むしろ嬉しそうに目を細めて受け入れている。それは、明確な「所有」の宣言だった。拓海が僕の視線に気づいていたかどうかは分からないが、あの動作は無意識のうちに「彼女は俺のものだ」と周囲に、そして世界に知らしめるためのマーキングのように見えた。公的な部活動の場においてあそこまで私的な接触が許されるのかと憤る一方で、彼らにとって公私の境界線などとっくの昔に溶けてなくなっているのかもしれないという諦念が押し寄せる。僕はカメラを握りしめる手に力を込め、金属の冷たさが痛いほどに食い込むのを感じたが、撮れなかった。今のこの光景を写真に残すことはできない。それをフィルムに焼き付けてしまえば、僕の「浅い夢」は跡形もなく消し飛び、残酷な現実だけが残るだろう。二人が恋人同士であるという決定的な証拠を、自らの手で現像する勇気など僕にはなかった。


「……逃げているだけだ」


 自嘲の声が漏れ、僕は彼らから目を逸らしてカーテンを閉めた。薄暗くなった生徒会室で椅子に座り込み、天井を見上げると、とらわれた心見つめていたよ、という歌詞の一節が呪文のように頭の中をリフレインする。僕は結季に囚われている。そして、その結季は拓海との絆に囚われている。この三角関係の中で、僕だけが蚊帳の外に置かれ、ガラス越しに指をくわえて見ているだけの観客なのだ。ドアがノックされ、栞が入ってきた。彼女は僕の様子を見て一瞬だけ眉をひそめたが、すぐにいつもの冷静な表情で近づいてきた。


「会長、顔色が悪いですね。少し休憩されてはいかがですか」


 彼女の声は優しく、そしてどこか諦念を含んでおり、彼女は気づいているのだろう、僕が何を見て、何に傷ついているのかを。「……いや、大丈夫だ。次の議題の資料を見せてくれ」と僕は強がって言ったが、声には覇気がなかった。栞は無言で資料を置き、僕の隣に立つとその視線もまた、カーテンの隙間から見えるグラウンドへと向けられている気がした。三人の視線が交錯するこの場所で、それぞれの想いはどこへ向かうのか。僕は再び「生徒会長」の仮面を被り直し、心の痛みを押し殺して目の前の書類に向き合ったが、瞼の裏には、あの二人の笑顔が焼き付いて離れなかった。


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第10話 卒業後の計画


 放課後の生徒会室、時刻は午後六時を回り、西日は既に校舎の陰へと姿を消していた。蛍光灯の無機質な明かりだけが、机の上に広げられた進路調査票を白々しく照らしている。僕はペンのキャップを噛みながら、第一志望欄に書かれた「国立大学 法学部」の文字をぼんやりと眺めていた。それは、教師や両親が望む、そして生徒会長としての経歴に相応しい模範解答のような進路だった。


「……まだ、悩んでいるんですか?」


 不意に声をかけられ、僕は顔を上げた。いつの間にか、隣のデスクで作業をしていた栞が手を止め、こちらを見ていた。彼女の手元にも、同じ進路調査票がある。


「いや、悩んでいるわけじゃない。ただ、これが本当に自分の意思なのかどうか、少し考えていただけだ」


 僕は強がりを言ったが、栞にはすべてお見通しのようだった。彼女は小さく溜息をつき、自分の調査票を僕の方へと滑らせた。


「見てください」


 彼女の指先が示す先には、迷いのない筆致で書かれた大学名があった。僕が書いたのと全く同じ大学、同じ学部。


「……君も、ここを受けるのか?」


 僕は驚いて彼女を見た。栞の成績なら、もっと上のランクの大学や、彼女が得意とする理数系の学部を選ぶことも十分可能なはずだ。


「ええ。私の将来設計において、最も合理的な選択ですから」


 栞は淡々と言ったが、その瞳の奥には、揺るぎない意志の炎が宿っていた。


「合理的、か。君らしいな」


「それに、会長と同じ大学なら、また何かお手伝いできるかもしれませんし」


 彼女は冗談めかして付け加えたが、その言葉の裏にある重みを、僕は感じ取らずにはいられなかった。彼女は、高校を卒業した後も、僕の「右腕」であり続けようとしているのか。あるいは、もっと深い意味で、僕の人生に関わり続けようとしているのか。


 僕の脳裏に、先日暗室で交わした会話が蘇る。「私が支えます」。その言葉は、単なる慰めではなく、彼女なりの誓いだったのかもしれない。僕が結季という「浅い夢」を追いかけ続け、やがて傷つき倒れるその時まで、あるいはその先も、彼女は僕の傍にいるつもりなのだ。


「……篠原。君は、自分の人生を生きるべきだ。僕なんかのために、進路を狭める必要はない」


 僕は精一杯の誠実さを込めて言ったつもりだった。しかし、栞は静かに首を横に振った。


「勘違いしないでください、会長。これは、私のための選択です」


 彼女は立ち上がり、窓際へと歩み寄った。夜の帳が下りたグラウンドには、もう誰もいない。しかし、彼女の視線は、まるでそこに誰かがいるかのように遠くを見つめていた。


「私は、手に入れたいものは、時間をかけてでも確実に手に入れる主義なんです。今はまだ、種を蒔いている段階に過ぎません。……芽が出るのは、もう少し先の話です」


 その言葉の意味を、僕は深く考えようとはしなかった。いや、考えるのが怖かったのかもしれない。彼女の言う「手に入れたいもの」が、僕自身のことであるという可能性を直視することは、今の僕にはあまりにも重すぎた。


 僕は視線を机上の調査票に戻した。

 結季の進路は、スポーツ推薦で強豪大学へ進むことがほぼ決まっていると聞いている。彼女は、自分の才能を信じ、真っ直ぐに夢へと突き進んでいく。その道は、僕や栞が選ぼうとしている「堅実な道」とは、決して交わることのない平行線だ。


 卒業と同時に、僕たちの物理的な距離は決定的なものとなる。校舎という共通の枠組みが失われれば、僕が彼女を「観測」する機会すら失われてしまうだろう。

 焦燥感が胸を焼く。

 このまま、何も伝えずに、何も残せずに終わっていいのか。

 フィルムの中に閉じ込めた数々の瞬間は、現像されなければただの黒い帯に過ぎない。僕の想いもまた、言葉にされなければ、誰にも知られることなく消えていく泡沫のようなものだ。


「……会長」


 栞が振り返り、僕を見据えた。


「迷っているなら、一つだけ提案があります」


「提案?」


「来月の球技大会、写真部として正式に撮影に入りましょう。生徒会としての記録だけでなく、部活動紹介のパンフレット用という名目で。……陸上部も、例外ではありません」


 彼女の提案に、僕は息を呑んだ。それは、僕に結季を堂々と撮る機会を与えてくれると同時に、彼女との接点を再び作り出すための口実でもあった。


「……いいのか? そんなことをして」


「公私混同は、組織の規律を乱す。……以前、会長はそうおっしゃいましたね」


 栞は悪戯っぽく微笑んだ。


「ですが、時にはルールを逆手に取ることも、リーダーには必要です。それに、これはあくまで『写真部員』としての活動ですから」


 彼女は、僕の逃げ道を塞ぎつつ、同時に新たな逃げ道を用意してくれている。その手腕の見事さに、僕は改めて舌を巻いた。彼女の手のひらの上で転がされているような感覚。しかし、それは決して不快なものではなく、むしろ心地よい安堵感をもたらしてくれるものだった。


「……分かった。やろう」


 僕が答えると、栞は満足げに頷いた。


「では、スケジュールを調整しておきます。……最高の写真を、撮ってくださいね」


 その言葉には、僕への激励と、そして微かな諦念が含まれているように聞こえた。彼女は知っているのだ。僕が撮る写真が、誰のためのものなのかを。それでもなお、彼女は僕の背中を押してくれる。


 僕はペンを執り、進路調査票の第一志望欄を強く塗りつぶした。

 国立大学 法学部。

 それが僕の選ぶべき道だ。しかし、その道に進む前に、僕は高校生活という「青春」に、自分なりの決着をつけなければならない。

 カメラ越しに見つめ続けた「浅い夢」を、最後の一枚まで焼き尽くすために。


 窓ガラスに映る自分の顔は、少しだけ覚悟を決めた男の顔をしていた。そして、その背後には、静かに微笑む栞の姿があった。彼女の計画が、水面下で着々と進行していることを、僕はまだ知る由もなかった。


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第11話 桜舞う校庭


 卒業式の喧騒が潮が引くように去った後の校庭は、祭りの後のような寂寥感と新たな季節への微かな期待が入り混じった独特の空気に包まれており、三月下旬の柔らかな日差しが降り注ぐ中、僕は一人、満開の桜並木の下を歩いていた。首から下げたカメラはこの季節の儚い美しさを記録するために用意されたものだが、ファインダー越しに見る世界はどこか色褪せて見え、今の僕の心には目の前の風景を切り取るだけの余白が残されていなかった。先日、進路希望調査票を提出してからというもの、僕の中で何かが変わり始めていた。国立大学法学部への進学は僕自身が望んだ道であり、同時に栞と共に歩む未来への布石でもあったが、その決断を下したことで逆に僕の心の中にある「浅い夢」への未練が、より一層色濃く浮かび上がってきたのだ。桜の花びらが風に舞い、視界を薄紅色に染める中、ファインダーを覗くと舞い散る花びらがスローモーションのように見え、それはまるで僕の青春そのものが音もなく散っていく様を表しているようでもあった。僕は無意識のうちにシャッターを切り、カシャリという乾いた音が静寂の中に吸い込まれていくのを聞いた。


「綺麗な景色ですね」


 不意に背後から声をかけられ、僕は驚いて振り返った。そこに立っていたのは、蒼井結季だった。彼女は私服姿で手には卒業証書の筒を持っており、今日が彼女たち卒業生にとって最後の登校日であることを改めて認識させられる。


「……ああ、蒼井さん。卒業おめでとう」


 僕は努めて冷静な声で言ったが、彼女と個人的に言葉を交わすのはあの冬の朝以来のことだった。


「ありがとうございます。早乙女先輩も、準備お疲れ様でした」


 彼女は屈託のない笑顔で答えたが、その笑顔にはかつて僕に向けられていたような無邪気な親愛の情はなく、どこか大人びた、一線を引いたような落ち着きがあった。彼女もまたこの一年で成長し、変化したのだ。怪我を乗り越え、拓海というパートナーと共に未来へと歩き出した彼女にとって、僕はもう「恩人」という過去の存在に過ぎないのかもしれない。


「……足の具合はどうだ? もう完全に治ったのか?」


 僕が当たり障りのない話題を選ぶと、彼女は深く頷いた。


「はい、おかげさまで。大学でも陸上を続けることになりました。……早乙女先輩のおかげです。あの時、助けてくれなかったら、私、きっと走ることを諦めていたと思います」


 その言葉に僕は胸の奥がチクリと痛んだ。「先輩のおかげ」という言葉は感謝の証でありながら、同時に僕を「過去の恩人」という枠組みに縛り付ける鎖のようでもあった。


「僕は何もしていないよ。君自身の努力の結果だ」


 僕がそう答えると、彼女は少し恥ずかしそうに視線を逸らした。


「いいえ、本当に感謝しているんです。……それに、写真も」


 彼女は言葉を続けた。


「会長が撮ってくれた写真、卒業アルバムで見ました。すごく綺麗で……私、あんな風に走れていたんだなって、自分でも驚きました」


 彼女が見たのは、僕が選んだ「公的な記録」としての写真だ。そこには彼女の美しさや力強さは写っていても、僕の昏い情熱や独占欲は巧妙に隠蔽されており、彼女はその表面だけを見て無邪気に喜んでいる。その事実が僕の罪悪感をさらに深めると同時に、歪んだ安堵感をもたらした。


「……気に入ってもらえてよかった」


 僕は短く答え、これ以上彼女と会話を続けるのは危険だと判断した。心のダムが決壊しそうになるのを必死で抑え込む。


「じゃあ、僕はこれで」


 逃げるようにその場を立ち去ろうとした僕を、彼女の声が引き止めた。


「あの、先輩!」


 振り返ると、彼女は真剣な眼差しで僕を見つめていた。


「私、先輩のこと、ずっと尊敬していました。生徒会長として、いつも冷静で、正しくて……私にはない強さを持っている人だなって」


 彼女の言葉は僕の心臓を直接撫でるように響き、「尊敬」という恋愛感情とは程遠い言葉であっても、彼女からの肯定であることに変わりはなかった。しかし、続く言葉が僕の核心を突いた。


「……でも、時々、すごく寂しそうな顔をする時がありますよね」


 ドキリとした。彼女は気づいていたのか、僕の仮面の下にある孤独を。


「気のせいだろう。僕はいつも通りだ」


 否定する僕に、彼女は優しく微笑んだ。


「そうですか……。でも、もし何かあったら、いつでも相談してくださいね。私なんかじゃ頼りにならないかもしれませんけど、話を聞くくらいならできますから」


 その笑顔は拓海に向けられるものとは違う、傷ついた小動物を見るような、あるいは迷子の子供をあやすような慈愛に満ちた温かさを持っていた。僕は言葉を失った。彼女は優しい。残酷なほどに優しい。僕が彼女を「観測」し、勝手に欲望の対象にしていた間も、彼女は僕を一人の人間として見てくれていたのだ。その事実に打ちのめされながら、僕は絞り出すように答えた。


「……ありがとう。心に留めておくよ」


 それだけ言うのが精一杯だった。風が強く吹き、桜の花びらが大量に舞い上がって視界がピンク色に染まり、彼女の姿が一瞬だけ霞む。まるで物語の幕が下りるかのような光景の中、彼女は言った。


「それじゃあ、またどこかで。元気でね、早乙女先輩」


 彼女は軽く手を振り、背を向けて歩き出した。その先には校門で待つ拓海の姿があり、彼は結季を見つけると嬉しそうに手を振り返して駆け寄ってきた。二人は何か言葉を交わし、並んで歩き始める。その背中は未来への希望に満ちていた。僕は一人、桜の木の下に取り残され、ファインダーを覗く気力も失せてただ呆然と二人の後ろ姿を見送った。風に舞った花びらが水面を乱すように僕の心に波紋を広げていく。彼女は行ってしまった。僕の手の届かない、遥か遠くの世界へと。残されたのは、カメラの中に閉じ込められた過去の幻影と、伝えられなかった言葉の残骸だけ。僕は空を見上げた。春の空はあくまで青く、残酷なほどに澄み渡っており、浅い夢だから、胸を離れないという言葉の意味を、僕は今、痛いほどに噛み締めていた。


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第12話 フィルムの言葉


 窓の外は静まり返り、夜の帳が降りた校舎は深海の底のような静寂に包まれている。写真部の暗室だけが、赤黒いセーフライトの光によって外界から切り離された異空間として存在していた。鼻をつく酢酸の刺激臭が充満するこの場所は、僕にとっての聖域であり、同時に囚人の牢獄でもあった。僕は作業台の前に立ち、現像されたばかりの印画紙を見つめている。そこに写っているのは、蒼井結季だ。だが、これまでの写真とは違う。走る姿でも、リハビリの苦悶でもない。桜並木の下で、僕に「尊敬しています」と告げた瞬間の、柔らかな微笑みを浮かべた彼女の顔だ。その笑顔はあまりにも無垢で、残酷なほどに優しい。彼女は知らないだろう。僕がこの笑顔を「浅い夢」と名付けたアルバムの最後のページに収めるために撮ったことを。そして、その夢がどれほど歪んだ欲望と独占欲にまみれているかを。


 僕はトレイの中の現像液をゆっくりと揺らした。液体の中で結季の像が揺らめく。モノクロームの世界では、彼女の肌の温もりも唇の赤さも、すべてが灰色の階調へと還元される。しかし、だからこそ、そこには「真実」が焼き付けられているようにも思えた。色が失われることで彼女の存在そのものが純化され、僕の心象風景と完全に同調するのだ。


「……綺麗だ」


 無意識に漏れた言葉は、暗闇に吸い込まれて消えた。その時、僕の中に今まで抑え込んでいた感情が、堰を切ったように溢れ出した。愛おしさ、切なさ、そしてどうしようもないほどの肉体的な渇望。写真の中の彼女に触れたい。その温もりを感じたい。レンズ越しではなく、生身の彼女をこの腕に抱きしめたい。そんな叶わぬ願いが、熱い塊となって喉元までせり上がってくる。僕は震える手で、濡れた印画紙を持ち上げた。指先が彼女の頬に触れる。冷たい薬液の感触。それが現実だ。僕は知っている。この写真は、決して結季に見せることはできない。これは「公的な記録」ではない。僕個人の、あまりにも私的で、後ろめたい情熱の結晶なのだから。


 ふと、背後で微かな物音がした。心臓が跳ね上がる。誰かいるのか。こんな時間に。僕は慌てて振り返った。


「……会長?」


 暗闇の中に立っていたのは、栞だった。彼女は二重扉の隙間から顔を覗かせ、心配そうにこちらを見ていた。手にはコンビニの袋が握られている。


「篠原……どうして、ここに」


 僕は動揺を隠そうと、背中で作業台を隠した。しかし、栞の視線はすでに、トレイの中に浮かぶ結季の写真に向けられていた。


「遅くまで電気がついていたので。……差し入れを持ってきたんです」


 彼女は静かに中に入り、ドアを閉めた。赤い光が彼女の白い肌を不気味に染める。彼女の表情は読み取れない。ただ、その瞳だけが、僕の心を射抜くように強く光っていた。


「見られたか」


 僕は観念して、作業台の前から退いた。栞はゆっくりと近づき、トレイの中の写真を見つめた。


「……素敵な笑顔ですね」


 彼女の声は平坦だった。嫉妬も、軽蔑も感じられない。ただ事実を述べるようなその口調が、逆に僕を不安にさせた。


「蒼井さんが、会長に見せる顔。……こんな風に笑うんですね」


「……ああ。卒業式の日に、偶然撮れたんだ」


 僕は言い訳がましく付け加えた。


「偶然、ですか。……会長のレンズは、いつも彼女を追っていますから」


 栞は小さく笑った。その笑みは寂しげで、しかしどこか慈愛に満ちていた。彼女は僕の隣に立ち、同じように写真を見つめた。肩が触れ合うほどの距離。彼女の体温が、制服越しに伝わってくる。


「会長は、この写真をどうするつもりですか? 卒業アルバムには載せませんよね」


「……載せない。これは、僕だけのものだ」


 僕は正直に答えた。栞に対して嘘をつくことは、もう無意味だと思ったからだ。彼女は僕の共犯者であり、唯一の理解者なのだ。


「そうですか。……それがいいと思います」


 栞は納得したように頷いた。そして、唐突に僕の方を向き、真っ直ぐに視線を合わせてきた。


「会長。……私にも、一枚だけ撮らせてもらえませんか」


「え?」


「会長の写真を。……今、ここで」


 彼女の提案に、僕は戸惑った。なぜ今、僕を撮ろうとするのか。


「被写体としての会長を、記録しておきたいんです。……貴方が、一番苦しくて、一番美しい瞬間を」


 彼女の言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。彼女は、僕が結季への想いに苦悩し、身を焦がしているこの瞬間こそが、僕の「本質」だと見抜いているのだ。そして、それを自分の手で記録したいと願っている。


「……構わないよ。好きにしろ」


 僕は自嘲気味に笑って、カメラを彼女に渡した。栞は慣れた手つきでカメラを構え、ファインダーを覗いた。暗室の赤い光の中で、シャッター音が響く。


 カシャリ。カシャリ。


 その音は、僕の心臓の鼓動と重なり、奇妙なリズムを刻んでいった。数分後、栞はカメラを下ろした。


「撮れました。……ありがとうございます」


 彼女は満足げに微笑んだ。その笑顔は、写真の中の結季とは違う、大人の女性の魅力を湛えていた。彼女は僕にカメラを返し、コンビニの袋から温かいコーヒーを取り出して渡してくれた。


「少し休憩しましょう。……これからのこと、話しませんか」


 僕たちはパイプ椅子に並んで座り、コーヒーを啜った。苦い液体が、冷えた身体に染み渡る。栞は、卒業後の大学生活のこと、将来の夢のこと、そして僕との関係について、静かに語り始めた。彼女の話は具体的で、現実的で、そして何よりも僕への深い愛情に満ちていた。


 僕は彼女の話を聞きながら、ふと思った。結季は「夢」だ。手の届かない、美しい幻影。対して、栞は「現実」だ。僕の隣にいて、僕を支え、共に歩んでくれる存在。僕は今、その狭間で揺れている。振り子のように、行ったり来たりを繰り返しながら。


 しかし、その揺れも、いつかは止まる時が来るのだろうか。愛という字書いてみては、ふるえてた、あの頃。村下孝蔵の歌詞が、ふと頭をよぎる。僕の初恋は、まだ終わっていない。浅い夢だからこそ、胸を離れないのだ。


 僕は飲み干した紙コップを握りつぶした。栞の視線を感じながら、僕は心の中で固く誓った。この夢を、最後まで見届ける。それがどんなに残酷な結末を迎えようとも、僕は観測者としての役割を全うするのだと。暗室の赤い光が、僕たちの影を長く伸ばしていた。それはまるで、僕たちの未来を暗示するかのように、複雑に絡み合い、溶け合っていた。

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