その一枚を間違えれば、永遠に閉じ込められる
雨に濡れた古い石畳を踏みしめながら、俺は朽ちた屋敷の前に立っていた。
空は鉛色に染まり、遠雷が鈍く響く。
風に乗って運ばれる腐臭が、俺の胃を締め付けた。
遺産相続の手紙が届いたのは、三週間前のことだった。
差出人は聞いたこともない遠い親戚の弁護士。
その手紙の文面は簡潔で、それゆえに不気味な威圧感を放っていた。
『貴殿は故・黒沢源蔵氏の血縁として、遺産相続の権利を有します。ただし、氏の遺言により、特別な儀式を完了する必要があります。指定の日時に屋敷へお越しください。さもなくば、貴殿の未来は永遠に閉ざされるでしょう』
俺には選択の余地がなかった。
借金に追われ、仕事も失い、もう後がなかったのだ。どんな儀式でも構わない。
金さえ手に入るなら、魂を売ってでも手に入れたい、そう思っていた。
それが、この悪夢の始まりだった。
屋敷の扉は黒ずんだ樫の木でできており、触れると冷たい感触がした。
重く、まるでこの世の終わりの重みを宿しているかのように、開けるたびに不快な軋み音が魂に響いた。
中は薄暗く、カビと埃が混じり合った古い匂いが鼻腔を突き刺す。
まるで巨大な死体が横たわっているかのような静寂が、俺の心臓を締め付けた。
足音だけが不気味に響く廊下を進むと、その先に光が漏れる部屋があった。
そこだけが、まるで生きているかのように微かな光を放っていた。吸い寄せられるように部屋の戸口に立つと、心臓が大きく脈打つのを感じた。
部屋の中央には、年代物の木製天秤が置かれていた。その黒ずんだ木肌は滑らかで、幾百年の時を刻んできたかのような重厚な雰囲気を纏っている。
天秤の隣には、羊皮紙に書かれた古文書が無造作に広げられ、そしてその隣には、漆黒の木箱が静かに置かれていた。
箱を開けると中には、九枚の金貨がきれいに並んでいた。
どれも全く同じに見える。
鈍い光を反射し、まるで何かの生命を宿しているかのように見えた。
だが、その輝きはどこか冷たく、見る者の心を凍えさせるようだった。
古文書に目を落とす。
羊皮紙は黄ばみ、インクは薄れかけていたが、その文字は恐ろしいほど鮮明に俺の網膜に焼き付いた。
『あなたの目の前に、天秤と九枚の金貨がある。どれも見た目はまったく同じ。しかし、一枚だけ、軽い――。あなたに許されているのは、天秤を二度だけ使うこと。それで偽りの金貨を見つけなさい。間違えれば、"おまえ"が代わりになる』
この最後の文が、俺の背筋に氷の槍を突き立てた。
部屋の扉が勢いよく閉まった。
振り返ると、ごとり、と重い音を立てて鍵がかかる音がした。
逃げ場は、ない。
まるで巨大な墓石の中に閉じ込められたような、絶望的な閉塞感が俺を襲う。
「逃げ道はない、か」
乾いた声が喉から漏れた。
俺は金貨を手に取った。冷たく、ずっしりとした重み。
どれも確かに同じに見える。金貨の表面は滑らかで、触れるたびに体温を奪われるような錯覚に陥った。
天秤を見つめながら、頭の中で論理を組み立てた。
九枚を三つのグループに分ける。
3枚ずつだ。まず3対3で量る。
これが最善手。迷いはない。完璧な論理だ。
この屋敷の主は、俺の知能を試している。そんな安易な思考が、恐怖を覆い隠そうとしていた。
最初のグループ(1、2、3番)と二番目のグループ(4、5、6番)を天秤に乗せた。
天秤の皿は黒ずんだ鉄製で、金貨が触れるたびにちりん、と小さく澄んだ音がした。
天秤が、ゆっくりと、しかし確実に傾いた。
左側が下がる。つまり、右側の4、5、6番のどれかが軽い。
その瞬間、天井の奥から低い、うめき声が響いた。それは、まるで地の底から湧き上がるような、深く、苦痛に満ちた呻きだった。
「うああああ……」
俺は思わず上を見上げた。天井の梁の影が、まるでうごめく巨人のように見えた。
錯覚だ。きっと、この屋敷の古い木材が鳴っているだけだ。そう自分に言い聞かせたが、心の奥底では、何かが俺の魂を鷲掴みにしているような感覚があった。
二回目の測定。
残った4、5、6番から、4番と5番を選んで天秤に乗せた。息を呑み、天秤の動きを見守る。
ゆっくりと、天秤は動いた。いや、動かなかった。平衡を保っている。ということは、軽いのは6番だ。
「よし、6番が偽りの金貨だ」
俺は6番の金貨を高く掲げた。
その表面に、微かに人の顔のようなものが浮かび上がっているように見えた。
幻覚か。
しかし、その瞬間、部屋の温度が急激に下がった。
凍てつくような冷気が俺の肌を粟立たせる。
背筋を這い上がる悪寒は、俺がこれまで感じたことのない種類の恐怖だった。
同時に、俺の脳裏に、一つのイメージが閃いた。
まるで長い間閉じ込められていた記憶の蓋が、無理やりこじ開けられたかのように。
それは、幼い頃の俺だ。雨が降る夜、俺は一人で、古い天秤の前に立っていた。
手には、あの金貨と同じように鈍く光る何かを持っていた。そして、それは天秤の皿に、静かに乗せられていた。
「そんな…俺はそんなことを…」
その記憶は、あまりにも唐突で、あまりにも鮮明だった。
「間違いです」
声が聞こえた。
それは、どこか物悲しく、それでいて静かに怒りを宿しているような、女性の声だった。
振り返ったが、誰もいない。部屋には、俺と、天秤と、金貨があるだけだ。
「あなたは約束を守りませんでした」
「何の約束だ?」
俺は震える声で尋ねた。喉がからからに乾いていた。
「天秤を二度だけ使うこと。あなたは三度使いました」
「三度?馬鹿言うな、俺は—」
その時、俺の記憶に鮮明な映像が蘇った。部屋に入った瞬間、俺は確かに一度、天秤を使っていたのだ。
あの古文書を読む前、九枚の金貨を手に取るよりも前に。なぜか、既に手の中にあった一枚の金貨を、天秤の皿に静かに乗せていた。
それは、何の躊躇いもなく、まるで必然のように行われた行為だった。
そして、その時の記憶は、まるで意図的に塗り潰されたかのように、これまで俺の意識から消え去っていた。
「そんな…俺はそんなことを…」
記憶が激しく混乱している。何が現実で、何が幻なのか。俺の意識は、底なし沼に沈んでいくかのように曖昧になっていく。
俺は改めて金貨を見た。6番だと思っていた金貨の表面に、かすかに文字が刻まれているのに気づいた。それは、彫刻刀で刻まれたような、深く、それでいて繊細な文字だった。
『源蔵』
「源蔵…黒沢源蔵?」
俺は呟いた。
それは、遺産相続の手紙に書かれていた、この屋敷の故人の名だった。
他の金貨も見た。どれもこれも、同じように微かに、しかし確かに、名前が刻まれている。
『太郎』『花子』『一郎』『美代』『健二』『良子』『昭夫』『千代』
そして最後の一枚。
まだ何も刻まれていない、真っ新な金貨。鈍い光を放ち、まるで空虚な何かを宿しているかのように見える。
「これが…第九の金貨」
俺はその金貨を握りしめた。
その瞬間、手のひらから、冷たい何かが俺の身体に流れ込んできたような気がした。それは、魂を直接凍らせるような感覚だった。
「あなたもここに来たのですね」
今度ははっきりと声が聞こえた。まるですぐ隣で囁かれているかのように。
俺はゆっくりと振り返った。
そこには、薄汚れた着物を着た老婆が立っていた。彼女の顔は深い皺に刻まれ、目は虚ろで、まるで生きていないかのような表情をしていた。
その瞳の奥には、しかし、限りない悲しみと、そして諦めが宿っているようにも見えた。
「私は美代。この屋敷の最初の犠牲者です」
彼女の声は、どこか遠くから響くような、現実感のない響きを持っていた。
「犠牲者?」俺は喉の奥から絞り出すような声で尋ねた。
「この部屋で間違いを犯した者は、金貨の中に封じ込められるのです。魂を抜かれ、軽やかな金属の中に。そしてそれが『偽りの金貨』となって、次の挑戦者を待つのです」
美代の言葉が、ゆっくりと俺の意識に浸透していく。それは、あまりにも恐ろしく、あまりにも現実離れした話だった。
だが、俺の身体を支配する異常な冷気と、断片的に蘇る記憶が、その言葉の恐ろしい真実を裏付けていた。
俺は震える手で、握りしめていた金貨を見つめた。それが、あの真新しい第九の金貨だ。
そして、そこに刻まれていないはずの名前が、微かに浮かび上がっているような錯覚に陥った。
「つまり、俺が選ぶべきだったのは…」
「その通り。軽い金貨こそが、前の挑戦者の魂です。あなたは正しく見つけなければならなかった。しかし、あなたは天秤を三度使った。それは反則です」
美代の言葉に合わせて、俺の記憶が次々と鮮明に蘇っていく。
それは、恐ろしいほどの速度で、俺の脳裏を駆け巡った。
俺はここに来たのではない。ずっと前から、ここにいたのだ。
何度も何度も、この部屋で同じことを繰り返していた。
天秤を使い、金貨を選び、間違え、そして記憶を失い、また繰り返す。
まるで終わりのない悪夢のように。俺は、この屋敷の檻の中に、永遠に閉じ込められていたのだ。
記憶の奔流の中で、俺は自分自身の姿を見た。
初めてこの屋敷の扉を開けた時の俺。借金に苦しみ、金のために魂を売ろうとしていた俺。
そして、あの瞬間、古文書のルールを読んだとき、俺は確かに一度、手にしていた金貨を天秤に乗せていたのだ。
その時の記憶は、あまりにも軽率な行動であったがゆえに、この屋敷の「呪い」によって塗り潰されていたのだ。
「今度こそ…今度こそは正しい答えを」
俺は震える声で呟いた。まるで、自分自身を鼓舞するかのように。しかし、美代は首を横に振った。
「無駄です」
美代は言った。
「あなたの魂は既に抜かれているのです。その証拠に」
俺は美代に促されるまま、自分の体を見下ろした。足が、透けて見える。床の木目が、俺の足を通してはっきりと見えた。
そして、手のひらも、腕も、次第に半透明になっていく。まるで霧のように、俺の存在が希薄になっていく。
「俺は…もう死んでるのか」
その言葉は、もはや喉から出た声ではなく、意識の奥底から湧き上がる思念のようだった。
「ええ。でも安心なさい。すぐに次の方がいらっしゃいます。その方があなたを見つけてくれるでしょう」
美代の言葉は、慈悲深い響きを持っていたが、その中に潜む絶望は、俺の心を深く抉った。
俺は、もはやこの屋敷の住人。
あの九枚の金貨の一つ。魂を抜かれ、軽い金貨となって、次の犠牲者を待ち続ける存在。
扉が開く音がした。
軋んだ音は、まるで新たな獲物を迎え入れるかのような響きを持っていた。
足音。若い男の足音だ。希望に満ちた、それでいてどこか焦燥感を帯びた、そんな足音だった。
「こんにちは」
新しい挑戦者が部屋に入ってきた。
彼の顔には、微かな不安と、そしてそれ以上の期待が入り混じっていた。
「遺産相続の件で来ました」
俺は彼を見ることができる。彼の顔、彼の表情、彼の全身。しかし、彼には俺が見えない。俺はもう、金貨の中の魂でしかないから。
この透明な存在が、どれほどの苦痛を伴うか、彼はまだ知らない。
「さあ、始めましょう」
美代の声。
しかし、その声は新しい男には聞こえていないようだった。彼の顔は、古文書に集中している。
男は古文書を読み上げた。その声は、かつての俺のそれと酷似していた。
「あなたの目の前に、天秤と九枚の金貨がある…」
俺は気づいた。
九枚の金貨の中で、一枚だけ軽いもの。それは俺の魂が入った金貨だ。
あの真新しい金貨。そこに刻まれた「俺」という、まだ見ぬ名前。
もし彼が正しく俺を見つけてくれれば、俺は解放される。俺の魂は、この屋敷の呪縛から解き放たれる。もし間違えば、彼が新しい金貨となり、俺はここに留まり続ける。永遠に、この部屋に。この無限のループに。
「頼む…正しく見つけてくれ」
俺は心の中で、必死に願った。それは、もはや声にはならない、ただの思念だった。
男は論理的に考え始めた。九枚を三つに分けて、まず3対3で天秤にかける。彼の額には、薄っすらと汗がにじんでいる。
天秤が傾いた。俺のいるグループが軽い。
「いいぞ…その調子だ」
俺は、彼が無意識のうちに正しい道を選んでいることに安堵した。
次に、俺を含む軽い三枚から二枚を選んで天秤にかけた。俺ではない二枚を。彼の手つきは慎重で、完璧な論理に基づいている。
天秤は平衡を保った。
「残った一枚…それが軽い金貨だ」
男は、震える手で俺の金貨を手に取った。その金貨の表面には、俺の顔が、微かに浮かび上がっているような気がした。彼の指先が触れると、金貨から、俺の体から、温かい光が差し込んだ。
「ありがとう…」
俺は呟いた。
「やっと…やっと自由になれる」
俺の存在は、光の中に溶けていく。身体の透明度が増し、やがて完全に消滅した。解放感。それは、死にも似た、しかし圧倒的な安堵だった。
しかし、光の中で俺は気づいた。
男の背後に、新しい古文書が現れている。
それは、これまでよりもさらに古く、重々しい雰囲気を持っていた。
そこには、新しいルールが、血のようなインクで書かれていた。
『おめでとうございます。しかし、真の試練はこれからです。今度は十枚の金貨があります。その中の二枚が軽い。天秤を三度だけ使って、両方を見つけなさい。間違えれば—貴殿の魂は、永遠にこの金貨に囚われるだろう』
男の顔が青ざめた。その瞳には、一瞬にして絶望の色が宿った。彼は、自分が陥った地獄を、ようやく理解したのだ。
俺は光の中で、全てを理解した。これは終わりではない。始まりでもない。永遠に続く循環なのだ。この屋敷は、魂を求める飢えた獣。
誰かが正解すれば、次のレベルへ。より複雑な、より絶望的な試練へと。誰かが間違えれば、金貨となって待ち続ける。
その魂は、永遠に解放されることなく、新たな挑戦者を待ち続けるのだ。
そして、この屋敷では今日も、新しい挑戦者を待っている。完璧な論理も、無慈悲な運命の前では意味をなさない。天秤は常に平衡を保とうとする。
生者と死者の、希望と絶望の、永遠の均衡を。それは、決して破られることのない、この世の真理なのだ。
「真実の重みを量れる者は、果たして存在するのだろうか」
天秤と9枚の金貨をやってみた。
暑いのでホラー書きたくなった。