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逃げろ!

作者: 雉白書屋

「逃げろ!」


 その声は、昼下がりの街に突如として響き渡った。

 銃声のように鋭く響いたその一言が空気を震わせ、道を行き交っていた人々は思わず足を止め、反射的に声のしたほうへと振り返った。

 だが、誰もが違う方向を向いている。確かに背後から聞こえたはずなのに、方向が定まらない。互いに目が合うと苦笑いし、小さく首を傾げた。

 不安げな表情で上空を見上げたり、背伸びをして通りの向こうに目をやったが、上から何かが落ちてくる気配もなければ、通り魔が暴れている様子もない。爆発音も火の手もない。

 誰かのいたずらだろう――そう納得する者が一人、また一人と歩き出し、静寂は降り始めた雨のように次第に崩れ、人々は再び日常へと戻っていった。

 しかし、それが終わりではなかった。


「逃げろ!」


 翌日も、その次の日も、さらにその次の日も――。その声は一定の間隔で街に響き渡り続けたのだ。

 地域の顔役や心配性な市民からの通報を受け、警察も動き出した。だが、どれだけ調査しても、スピーカーのような装置は見つからず、現場周辺を歩き回る不審者もいなかった。

 やがて、この不可解な現象にマスコミが飛びつき、話題は瞬く間に全国に広がった。


『毎日何度も「逃げろ!」ですか。避難訓練にしてはちょっと多すぎますねえ。これじゃまるで、オオカミ少年じゃないですか! はははは!』


 昼のワイドショーで、司会者が自らのジョークに満足げに笑った。コメンテーターたちも愛想笑いを浮かべる。そして、その中の一人が、やや興奮気味に語り始めた。


『いやあ、私ね、実際に現場に行ってきたんですよ。閑静な商店街でしたよ。あ、閑静って言っちゃ悪いかな。ははは、シャッターが下りてる店が多かったですけど、まあ、普通の商店街ですね。でね……待ってたら本当に聞こえたんですよ。「逃げろ!」って。あれは、たぶん男性の声かな? ちょっとよくわからないですけど、まあ、女性ならもう少し柔らかく「逃げて!」って言いそうだし、たぶん男性でしょうな。それでね、どこから聞こえたのか、本当にはっきりしないんですよ。上からのようでもあり、下から響いてくるようでもあり。私は後ろから聞こえたと思ったんですが、同行者は真逆の方向から聞こえたって言うんですよ。まったく、どうなっているんでしょうねえ』


『ふーん、それ、町おこしの一環なんじゃないですか?』


 別のコメンテーターが訝しげに言った。司会者は軽く手を振って否定した。


『いやいや、警察も動いているんですからね。ただ、不思議なのは他にもあって、先ほども触れましたが、現場では確かに声が聞こえたというのに、録音や映像には一切残らないんですよ。うちの取材班も現地でその声を聞いたと言ってるんですが――』


『宇宙人ですよ』


 突然、一人のコメンテーターが静かな声で言った。机に肘をつき、両手を組んで前をじっと見据えている。

 他のコメンテーターたちは戸惑ったように『は?』と漏らし、スタジオは沈黙に包まれた。


『その声は、宇宙人からの警告です』


『ちょっと、この人呼んだの誰ー? ははは』

『はははは!』

『あはは』


 司会者が冗談めかして笑うと、他の出演者たちもつられて笑い出した。だが、そのコメンテーターは微動だにせず、続けた。


『私は冗談を言っているわけではないんですよ。あの声は、明らかに普通とは違うじゃないですか。心に直接訴えかけてくる感覚……まさにテレパシーです。宇宙人が地球人類に警告を送っているんですよ』


『商店街の人たちだけに? どーですかねえ』


『いいえ。全人類に向けて、です。こうしてメディアを通じて広まっているじゃありませんか。まさに彼らの意図通りに事が運んでいるんですよ』


『「まあ、確かにカラス避けやいたずらとは違いそうですが、宇宙人というのはさすがにねえ……』

『ええ、集団ヒステリーの類でしょう。仮に警告だったとして、何が起きるというの?』

『単純に考えて、大災害。あるいは巨大隕石の衝突か。ははは、まあ、それなら我々はどこへ逃げればいいんですかね。そこまで教えてくれたらいいのに』


『地球外に逃げるしかないでしょう。人類はもういい加減、目覚めるべきときが来たということです』


『はい?』


『だから! 気づくべきなんですよ! もう限界だってことに! どうしてわからないんだよ! 悔しいよ……』


『あの、どうされたんですか……?』


『まだわかってないんですか……。今すぐ行動しなきゃいけないんです。じゃないと未来が見えない。私はこれまで何度も言ってきた。第二の太陽が現れるって。これが、その前兆なんですよ。第三も、第四もすぐよ、すぐ来る。逃げちゃ駄目』


『いや、「逃げろ」って話だったんじゃ……?』


『違う、違う。今と向き合おうって言ってるの。魂を世界に見せつけないと、本当にこの国、終わっちゃうよ……』


『はい、ありがとうございました。さて、次は芸能人の不倫問題です』


 やがて、この不可解な現象の解明に向け、科学者たちも本格的な調査を開始した。だが、物理的な証拠は何一つ見つからず、発生の条件も不明なまま、憶測ばかりが飛び交った。

 宗教家は「あれは、神の声だ」とのたまい、現地で熱心に祈りを捧げた。ある野党の政治家は「この国を現政権に任せていては、終わりだ! 逃げろ!」と街頭演説を繰り返した。小学校では「逃げろゲーム」なる遊びが流行。子供たちは笑いながら校内を駆け回った。

 誰も答えを見つけられなかったが、社会はじわじわとこの異常を受け入れ始めた。やがてテレビのバラエティ番組などでも茶化すようになり、人々はこの奇妙な現象を娯楽の一つとして消費し始めたのである。

 だが、ある日変化が訪れた。


「逃げろ!」「逃げろ!」「逃げろ!」「逃げろ!」

「逃げろ!」「逃げろ!」「逃げろ!」「逃げろ!」

「逃げろ!」「逃げろ!」「逃げろ!」「逃げろ!」



 その声が、全国に響き渡った。これまでは一地域で起きた現象だったのが、ついに国全体を覆ったのである。

 録音や映像には依然として残らなかったが、報告の数は増え続け、さらに拡大していった。

 ついには、世界的な現象として認識され、各国のニュース番組でも連日取り上げられるようになった。そして――


『えー、記念すべきこの日を迎え、ここでスピーチを務められることを大変光栄に思います。私の祖父が司会をしていたワイドショーで、世界で初めて“あの声”を報じたことは、皆さんご存じかと思います。祖父は当時から、何かが起きると危惧していました……。そして同時に、希望も抱いていたのです。いつか人類が一つになる日が来ると……。私たちは本日、この宇宙船《エヴァーヤミーネ号》に乗り、地球を旅立ちます。ワームホールを通じ、別の星系に存在する新たな居住可能惑星、つまり、第二の地球へと向かうのです。太陽よ、月よ、そして地球よ。今まで本当にありがとう……。それでは、カウントを開始します。離陸まで、テン、ナイン――』


 目指すのは、宇宙の常闇の先、口を開けるワームホールの向こう側――新たな世界。眩い光とともに、巨大な宇宙船は多くの乗客を乗せ、地上を離れたのだった。


 ――逃げろ。


 その声が意味していたのは、何だったのか。巨大地震か津波か、それとも隕石の衝突か。どれほど時を費やしても正体は掴めず、ただ警告を浴び続けた人々の不安は膨れ上がり、ついに世界中で暴動が勃発した。秩序は崩壊し、都市は混乱に包まれた。

 この星に何かが起こる――明確な根拠はなかったが、自分自身が生み出したストレスと、逃げ場のない不安が社会を、そしてその心をじわじわと蝕んでいった。疲弊しきった人類は、地球の外へ希望を見出すほかなかった。

 そうして各国の協力によって建造された巨大な宇宙船は、限られた者――富裕層、特権階級、選ばれた者たちだけを乗せ、宇宙へと飛び立った。「逃げろ」の声が蛙の合唱のように鳴り響く地球と、そして多くの置き去りにされた人々を背にして。


 その人々の中に、自ら鼓膜を潰した老人がいた。彼は今、永遠の静寂の中で空を仰ぎ、宇宙船が放つ白煙と空を焦がしていく光をただ見つめていた。

 だが――。


「……あ」


 やがて、ゆっくりと彼の頭上に影が覆いかぶさる。それは徐々に大きく……。

 恐怖はなかった。立ち上がろうともしなかった。ただただエンジンから胴体へ燃え広がる炎に目を奪われていた。


 ――逃げろ。


 それは、宇宙船の中の人々の強烈な思念、警告――ではなく、自分自身の奥底から響く声。

 けれど、もう間に合わない。

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