40
不鮮明な意識がたゆたっている。
水の上に浮かんでいるような、不思議な感じがする。
周りにある景色は霞んでいて、よく見えない。
カナタノシロガネと一体化しすぎたことで、境界線がわからなくなる。
鎧に呑み込まれて、自分というものが希薄になっていた。
……消えていく。体も、心も。自分という存在が薄まっていく。
このまま、暗くて大きな穴のなかに引きずり込まれていき、いなくなってしまう。
リオンという存在は、この世界のどこにも残らなくなる。
眠りにつくように、意識が途絶えていった。
『…………ちゃん』
……声。
声が聞こえた。
知っている声だ。
『……リオンお兄ちゃん』
その声のおかげて、消えかけていた意識が辛うじてつなぎとめられる。
自分というものを取り戻していく。
不確かだった目を凝らす。徐々に視界が定まっていく。見えなかったものが、見えるようになっていく。
そしてボヤけた景色のなかに、彼女がいた。
もう会うことはできない女の子が。
「……ノエル」
名前を呼ぶ。
ぼんやりとだが、ノエルの姿が形を持って、そこにいてくれた。
……ノエルが、ノエルが目の前にいる。いなくなったはずのノエルが、また会いにきてくれた。
今はただ、そのことが、この上なくうれしい。これ以上はないというほどに、胸の奥が歓喜で震える。
『お兄ちゃん。まだダメだよ。ルリアお姉ちゃんやダイン先輩が待っているんだから』
眠りにつこうとする俺を、そっと起こすようにノエルはやさしい声で語りかけきた。
『自由の翼でどこまでも、どこまでも羽ばたいて。わたしたちの夢を、ちゃんと叶えてくれなきゃやだよ』
淡い光につつまれたノエルは、穏やかに微笑んでくる。ここにいてはダメだと教えてくれる。
……そうだった。俺は帰らないといけないんだ。まだやらないといけないことがあるんだ。
『それから、伝えなきゃいけないこともあるんだ。前はごめんって、謝ってばかりだったから』
ノエルは悪戯っぽく笑うと、穏やかな眼差しで見つめてくる。
『ありがとう、お兄ちゃん。お兄ちゃんたちがいてくれたから、わたしは学院のなかにいても、毎日が楽しかったよ。生まれてきてよかったって、心からそう思えた。だから、ありがとう。それがわたしの、本当に伝えたかったこと』
小さな手を伸ばしてくる。やわらかな指先が、頬に添えられるのを感じる。
『わたしと出会わなければよかったなんて、自分のせいだなんて、そんなことは思わないでね。わたしはお兄ちゃんたちと出会えて、幸せだったんだから』
それだけは本当なんだと、やさしい笑顔で教えてくれる。
……そうか。こんな俺でも、誰かの助けになれていたんだ。
誰かの心を支える翼に、なれていたんだ。
『好きだよ、お兄ちゃん。わたしもずっと、お兄ちゃんのことが大好き」
はにかみながら笑うと、頬に添えられていた手が離れていく。その小さな手が、俺の胸に触れてくる。
『ちゃんと帰って、ルリアお姉ちゃんとダイン先輩のことを安心させてあげて』
ルリアの手が、俺を押してくる。
暗くて大きな穴から引き離されていく。
同化していた鎧と切り離されて、曖昧になっていた境界線が明確に違うものになる。
リオンという自分を、取り戻していく。
光のなかをさまよっていた意識が目覚めようとしている。
現実に帰ろうとしている。
その前に、最後に一言だけ。
……ありがとう。
もう会うことができない女の子に伝えるために、その言葉をつぶやいた。




