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ぽっかりと胸の真ん中に風穴が空いたような感覚を引きずったまま、懐かしいなと思う。
石の壁に囲まれた地下牢はひんやりとしていて肌寒い。息をするだけで喉の奥が冷たくなる。壁に飾られた灯火が影をつくって揺れており、暗闇を照らしている。
この地下牢は、授業をサボったり、教員に反抗的な態度を取った生徒が処罰として閉じ込められる場所だ。幼い頃は、よく入れられて反省を促された。
いつもなら数名の教員が見張り番をしているのだが、今は人手不足だからだろう、牢番は誰もいない。昨夜の騒動のせいで、こんなところに教員を割いておける余裕はないようだ。それほど学院が受けた被害は甚大ということだ。
表面がざらついている石壁に背中をもたれさせる。呆然と座ったまま朝まで過ごそうかと思ったが、そうもいかないようだ。
足音が聞こえる。誰かが地下牢に降りてきた。
鉄格子の向こう側に目をやると、人影が立っていた。
「……姉さん」
灯火に照らされたアシェル姉さんの顔は陰影がついており、笑い方を忘れてしまったように静謐な空気をまとっていた。
「あの壁の向こう側に、自由はあったの?」
姉さんの顔を見た瞬間、口が動いて問いかけていた。
それを聞かないといけない。外の世界に行った姉さんが何を見て、何を体験したのかを、知らなければいけない。
姉さんは右手をあげると、鉄格子を握り込むようにつかんだ。
「そんなもの、どこにもありはしない」
冷え込んだ地下牢に反響する姉さんの声は、色がついていないように静かだった。俺の知っている姉さんの声じゃない。
「この世界に、本当の自由なんてものはない。みんな何かしらのしがらみに縛られている。どんな高い地位にいるヤツだって、それは同じだ」
姉さんは唇の片端を持ちあげる。学院のなかで見てきた晴れやかな笑顔とは打って変わって、その笑みには、たっぷりと皮肉が込められている。
「とりわけ、わたしたち勇者候補なんてのは、自由とは無縁だよ」
姉さんの右腕がかすかに震える。鉄格子を握る手に力がこもる。
「学院を卒業したところで、待っているのは殺しの仕事だ。学院のなかよりも最悪なのは、殺す相手が魔物だけじゃなくて、人間まで始末しなきゃいけないってことだ」
薄い笑みを浮かべながら喋ってくる姉さんの話を聞いて、息が詰まった。
俺たちは、魔物と戦うためにつくられたとシスティナは言っていた。でも外の世界に行けば、敵は魔物だけではなくなる。
「ただ魔物を殺すだけなら、わたしは何も感じなかっただろうな。だけど王国に弓を引く者たちがいれば、わたしたち勇者候補は制圧に駆り出される。そんなことも、わたしたちの役目なんだ」
姉さんは少しだけ顔を伏せると、自嘲するように笑った。
「あれは、わたしが外の世界に行ってすぐのことだったよ。潜り込んでいたネズミどもに真実を知らされて、うまいこと煽動されたんだろうな。第二勇者学院の生徒たちが、こぞって蜂起した。反乱を鎮圧するという名のもとに、勇者候補であるわたしたちが赴くことになったよ」
学院にいる生徒たちによる反乱。大規模な戦禍がひろがったのは想像に難くない。
そんな場所に足を踏み込んだ姉さんは、悲惨な光景を目にしたはずだ。
「殺したくもない年下の生徒たちを、殺さないといけなかった。だって仕方ないだろ? 殺さないと、わたしが殺されるんだ。殺せずに戸惑っていた他の勇者候補たちは死んでいったよ。だからわたしは殺した。生き延びるために」
姉さんの声に熱がこもる。そこには自分の胸に刃物を突き刺しているような、沈痛な響きがあった。
「まるで自分を殺しているみたいだったよ。子供たちが、かつての自分と重なって見えた。それでも殺した。そのうち、この学院にいる生徒たちとも重なって見えるようになった。それでも殺した。殺して殺して殺して殺して殺しまくった。途中から奪った命の数を数えるのをやめて殺した」
鉄格子がうるさい音を立てる。姉さんが激しく揺さぶっている。
そして顔をあげてきた姉さんは、泣いているような、笑っているような、見ているだけで、こっちの胸が締めつけられる空っぽな表情をしていた。
「リオン。わたしはね、おまえを殺している錯覚にとらわれても、真っ赤に染まった手を止めることはしなかったんだ」
儚げな笑みを浮かべて、愛の告白でもするような、やさしい声で告げてくる。
そのときに、姉さんの心は壊れてしまったんだ。あまりの辛さに耐えきれずに、正常ではいられなくなった。
「そこで昨晩のおまえたちと同じように、退学処分となった実験中の子供たちを見つけた。王国の高官から既に魔王がいないことや、勇者候補の正体を教えられたよ」
昨晩見かけた子供たちがなんなのか、姉さんはおおよその察しがついていた。この学院の生徒だと知りながら、心を凍らせて、その手で葬ったんだ。
「外の世界にいる勇者候補たちのなかにも、真実にたどり着く者はいる。そのまま従順でいるなら王国に飼われ続けるが、そうでないなら処分される」
姉さんは……生き残るために前者を選んだ。真実を知った上で、王国に従い続けている。真っ赤に染まった手で、誰かの命を奪い続けている。
「姉さんは、今でも夢を見つづけているのか?」
知っておきたかった。あの夜に、校舎の屋上で大切なものをくれたアシェル姉さんは、まだそこにいるのかどうかを。
姉さんは握りしめていた鉄格子から指をほどいていくと、口元の笑みを消した。
「……わたしはもう、夢なんて見ない」
生気が感じられない暗い瞳をして、姉さんは言った。
「リオン。おまえも夢なんて見ないことだ。なんにも期待しなければ、こんな最低の世界でも生きていける」
それが、壁の外に行った姉さんの答えだった。
胸の奥にある芯を爪で引っかかれたような痛みが走る。どれだけ肉体を傷つけられても、これほどの痛みを感じることはない。
……受け入れなきゃいけない。
目の前にいるこの人は、かつて俺が憧れた姉さんではないことを。
俺が憧れた人は、夢を見ることを教えてくれた人は、もうどこにもいないことを。
「おまえが卒業できることを、願っているよ」
鉄格子の向こう側から声援をくれる。永遠の別れでも伝えるように寂しげな声だった。
姉さんはおもむろに歩き出すと、俺の前からいなくなった。
憧れていた人と再会することができて、喜んでいた。
また会えたことがうれしくて、なかなか実感を持てなかった。
それでもまた姉さんと話せて、その笑顔を見れて、そこにいてくれて、また会えたんだとわかって、幸せだった。
アシェル姉さんは、どうだったんだろう?
もしかしたら、再会を喜んでいたのは、俺だけだったのかもしれない。




